第15話 バー・マーサ
扉の鈴が、昼より低く鳴った気がした。
雑居ビルの一階。昼にカフェの看板を出している同じ扉の上に、夜は小さな灯りが一つだけ点く。中は暗く、カウンターの上だけが琥珀色に明るかった。
「あら」
カウンターの奥で、グラスを拭いていた手が止まった。
まさねぇは、昼の白いシャツではなく、黒いベストを着ていた。袖は相変わらずまくっている。
「のあじゃない。夜に来るなんて、珍しいわね」
「……通りかかったので」
「電車で二駅向こうから、通りかかったのね」
まさねぇは、それ以上は言わなかった。カウンターの真ん中の椅子を、布巾の先で示す。
「座んなさい」
のあは、背の高い椅子によじ登った。足が床に届かない。靴の先が、宙で揺れた。
*
カウンターの端に、大きな背中があった。
座っていても、のあが立ったときより頭の位置が高い。ひげ面の大男が、太い指で、薄桃色の毛糸を編んでいた。
権田剛。この店では、誰もその名前で呼ばない。Aランクの盾役で、みんなからはゴンちゃんと呼ばれている。
「……ゴンちゃん、それ何ですか」
「盾の持ち手のカバー。前のが、擦り切れちゃったのよ」
ゴンちゃんは、編み針を止めずに答えた。声はやわらかく、小さい。
「のあちゃんのも、編んであげよっか。銃の、肩にかける紐のとこ」
「紐は、闇にしまうので」
「あら。じゃあ、財布でも」
「……無地なら」
「猫の柄、かわいいのに」
「無地で」
反対側の席から、くすっと笑う声がした。
細身の男が、ワイングラスの脚を指で挟んでいた。襟足まで整えた髪に、皺ひとつないシャツ。画面を、爪の先で送っている。
「見たわよ、リス」
ミレイは、画面をこちらへ向けた。この店の常連で、Aランクの斥候。前は美容師だったらしく、人の見た目と噂話にやたら詳しい。
岩陰で、頬を膨らませて固まっている自分がいた。
「……消してください」
「私の画面から消しても、世界からは消えないわよ」
ミレイは画面を戻した。
「アーカイブを全部消さなかったのは正解ね。顔の寄りだけ切って、あとは残す。あれ、消してたら三日は燃えてたわよ。『何を隠した』って」
「……ですよね」
「分かってやったのね。やっぱり、あんたとは話が合うわ」
ミレイは満足そうにグラスを傾けた。
(この人だけは、話が早い)
数字の話も、見せ方の話も、ミレイには説明しなくて済む。前の人生の会議室で、何度も同じ説明をさせられたことを思えば、ありがたい相手だった。
「はい、お待たせしました」
カウンターの内側から、グラスが一つ滑ってきた。
オレンジ色の液体に、薄く切ったレモンが挿してある。置いたのは、黒いエプロンの青年だった。まさねぇの店でアルバイトをしている、ルカ。のあより四つ上のCランクで、店では一番の下っ端らしい。
「ノンアルコールです。オレンジとパイナップルとレモン」
「シンデレラっていうのよ、それ」
ミレイが言った。
「十二時の鐘が鳴る前に、帰んなさいね」
「十時には帰ります」
「九時半よ」
まさねぇが、フライパンを振りながら言った。
*
出てきたのは、ナポリタンだった。
頼んでいない。けれど、湯気の立った皿を見た瞬間、腹が鳴った。今日は昼に携行食を食べたきりだった。
「いただきます」
フォークに巻いて、口へ運ぶ。ケチャップの甘さと、焦がした玉ねぎ。
(……うまい。くそ、ここに来るといつもこうだ)
のあは、黙って二口目を巻いた。
右にゴンちゃん。左にミレイ。カウンターの向こうに、まさねぇとルカ。
灯り火の仕事部屋で、美人三人に囲まれているときとは、肩の力の入り方が違った。
(女の人の前だと、自分がどう見えてるか気になる。男の前だと、相手がどう受け取るか気になる)
肩を叩いただけで花束を持って待たれた日から、ずっとそうだった。
(ここは、どっちも気にしなくていい)
ゴンちゃんの肘が当たっても、ミレイに頬をつつかれても、誰もいちいち気にしない。のあが何者でも、ここの人たちは、同じ顔でナポリタンを出してくる。
「今日、協会で面談があって」
のあは、フォークを置かずに言った。
「そう」
まさねぇの返事は、それだけだった。何の面談か、聞かなかった。
代わりに、小皿がもう一枚出てきた。ポテトサラダだった。
「それも食べなさい」
「……はい」
(聞かないんだな。……助かる)
のあは、ポテトサラダを半分食べた。
*
「のあさん、最近DM大変じゃないですか」
ルカが、グラスを拭きながら言った。
「配信のコメント欄にも、変なの湧いてますよね。『会ってください』とか」
「……見てるんですか」
「店で流してるんですよ、まさねぇが。閉店後に」
まさねぇが、フライパンを洗う音を少し大きくした。
のあは端末を出して、通知の画面を開いた。
一番上の数字は、今日だけで四十を超えていた。
『弟子にしてください』
『一度だけ会ってもらえませんか』
『うちのクランの条件、見てもらえますか』
『灯り火と組むより、俺と組んだほうが稼げる』
『この前、管理区の出口で見かけました。声かけられなくてすみません』
「……鳴海の件のあとから、増えました」
のあは、ぽろっと言った。
「管理区の出口で待たれたのが、二回。家の近くの店で、知らない人に名前を呼ばれたのが、一回」
カウンターの向こうで、まさねぇの手が止まった。
握っていたグラスが、小さく軋んだ。
「……のあ。それ、なんで早く言わないの」
「言うほどのことじゃ、ないので」
「言うほどのことよ」
まさねぇの声が、少し低くなった。いつものオネエ口調のままなのに、背中のあたりがひやりとした。
ミレイが、ワイングラスを置いた。
「数の問題ね」
画面を伏せ、のあのほうへ体を向ける。
「注目が一気に増えたら、変なのも同じ割合で増えるの。一万人見てたら、そのうちの何人かは必ずおかしい。それは防げない」
「……はい」
「で、そのおかしい連中から見て、あんたはどう見えてると思う?」
のあは、少し考えた。
「一人で、小さくて。強いのは、画面の中だけ」
「正解。しかも女の子。押せばどうにかなると思われてる」
ミレイは、カウンターの向こうの大きな体と、隣の大きな背中を、順に指さした。
「なら、看板を借りなさい」
「看板」
「あんたの後ろに、誰がついてるか。見せるのよ。こういうのが後ろにいるって分かったら、変なのの九割は寄ってこない」
のあは、まさねぇを見た。ゴンちゃんを見た。
百八十を超える細マッチョと、百九十を超えるひげの巨漢。どちらも、今は穏やかな顔をしていた。
(後ろ盾の見せ方、か)
前の人生で、企画書に何度も書いた言葉だった。誰が推しているかで、商品の見え方は変わる。
(理屈は分かる。でも、それって借りだろ。でかい借りだ)
「……考えます」
「考えなさい。答えは決まってるけど」
ミレイは、グラスをもう一度持ち上げた。
*
九時半になると、まさねぇが時計を指さした。
「はい、シンデレラの時間。ルカ、今日もう上がりでしょ。送ってってあげて」
「一人で帰れます」
「今の話を聞いたあとで、一人で帰すわけないでしょ」
反論する前に、紙袋が差し出された。作り置きの、いつもの重さだった。袋の口は、まさねぇにしてはきっちり二回折ってあった。
ルカがエプロンを外して、上着を取った。
「僕、帰り道同じ方向なんで。気にしないでください」
ゴンちゃんが、編み物から顔を上げて手を振った。ミレイは、振り向かずに指だけ動かした。
*
二駅ぶん電車に揺られて、管理区のある駅で降りた。
のあの部屋は、東管理区の門の前を通り過ぎた先にある。夜の通りは人が少なく、自販機の明かりばかりが目立った。
「のあさん、配信のとき、ほんとに喋らないですよね」
「喋ることが、ないので」
「僕、あれ流しながら寝てます。彼氏には、なんで銃の音で寝れるのって言われるんですけど」
「……音で寝られる人、多いみたいです」
(こっちの気も知らないで、みんな寝るんだよな)
ルカは歩幅を、のあに合わせていた。近すぎず、遠すぎない。隣を歩かれても、のあは気にならなかった。
管理区の門が見えてきた。
夜間は閉まっていて、門柱の上の灯りだけが点いている。
その灯りの下に、人が立っていた。
男だった。探索用の上着を着ている。手にした画面の光が、下から顔を照らしていた。
男が、顔を上げた。
のあを見て、はっきりと笑った。
「……のあちゃん、ですよね」
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