第14話 協会の知ること
相談室の机に、紙が一枚だけ置かれていた。
紗月は椅子を引きながら、その紙の短さに気づいた。表も、びっしり書かれた経歴もない。項目が、数行並んでいるだけだった。
「お呼び立てして、すみません」
相原が、細い眼鏡を押し上げた。
「先に、お伝えしておきます。今日お話しすることは、のあさん本人が了承しています。三日前に、この紙を一緒に見てもらいました」
真帆と千晴が、紗月の両側に座った。
「本人は、同席しないそうです。納品を済ませて、待合にいると言っていました」
「……そうですか」
(聞かれたくない、じゃなくて、聞いているところを見たくない、なのかな)
紗月は、どちらとも決めずに、紙へ目を落とした。
「それから、条件を二つ出されています」
相原は、紙の一番下を指で示した。そこだけ、手書きの文字だった。
「一つ。聞いたあとで、詳しく話してほしいと本人に求めないこと。二つ。家のことや暮らし方を、本人抜きで決めないこと」
几帳面な字だった。相原が、のあの言ったとおりに書き取ったのだろう。
「分かりました。守ります」
紗月が答えると、真帆と千晴も続いた。
相原は、一行目から読み始めた。
*
「四歳の春に、お母さんが家へ帰らなくなりました」
紗月は、机の上に置いた指を止めた。
「その前から、一日、二日と帰らない日があったそうです。帰らなくなってからも、のあさんは一人で、その部屋へ帰っていました。食事は、近くの子ども食堂で」
(四歳)
紗月は、今ののあを思い浮かべた。百五十センチに届かない背。救護の待機場所で、渡されたボトルを半分まで一気に飲んだ顔。
その子がもっと小さかった頃を思い浮かべようとして、うまくいかなかった。
千晴が、膝の上の鞄の持ち手を握り直す音がした。
「そのあと、小さなダンジョンの調査をしていた協会の職員が、のあさんを見つけました。黒瀬という者です。そこから保護につながり、探索者遺族救済施設へ入っています。十六歳で退所して、今は一人で暮らしています」
相原は、そこで一度、言葉を切った。
「施設から学校にも通っていました。ただ、話し方や考え方が周りの子と違うこと、親がいないことで、距離を置かれていたそうです。同級生からも、その保護者からも」
真帆が、小さく息を吸った。
「具体的に何があったかは、ここには書いていません。本人も、話すつもりはないそうです」
「……はい」
「最後の一行です。現在は、探索の仕事で生計を立てています。自分で稼いで、自分で選んで暮らしている。これは、皆さんもよくご存じだと思います」
相原は紙を置いた。それで全部だった。
部屋の中が、しばらく静かだった。
紗月は、いくつかの場面を順に思い出していた。
最初の食事で、のあは入口の見えるほうの席を選んだ。会計になると、すぐに鞄を開けた。奢られることを、借りのように数えていた。
病院の部屋で、紗月の袖を握って泣いたとき。
『返事が、あれだけだったから』
『私、返事を……待って……』
あのときは、真帆のメールのことだと思って聞いていた。
(違ったんだ。……ううん、それだけじゃなかったんだ)
返事のない部屋を、あの子は知っていた。四歳で。
紗月は、机の下で手を握った。力を入れすぎないように、ゆっくり。
「質問しても、いいですか」
千晴だった。声が、いつもより低い。
「のあちゃんに聞けないことを、相原さんに聞くのも、ずるいかなって思うんですけど。……今、のあちゃんが困ってることは、ないですか。お金とか、住むところとか」
「ありません」
相原は、すぐに答えた。
「それは、本人の名誉のためにもはっきり言っておきます。のあさんは、困っていません。皆さんより稼いでいるかもしれません」
千晴が、少しだけ笑った。泣きそうな顔のままで。
「……それは、知ってます」
「真帆さんは」
「私は……」
真帆は、眼鏡の縁に指をかけて、外しかけてやめた。
「これまでどおり、教わってもいいですか。練習を見てもらうのとか。気を遣わせてたら、どうしようって」
「急に変えないほうが、のあさんは楽だと思いますよ。断られたら、そこで終わり。それ以外は、今までどおりで」
真帆は、うなずいた。
相原が、三人を順に見た。
「今日お話ししたのは、皆さんと一緒にいる時間が増えてきたからです。何も知らずに、踏んでほしくないところを踏んでしまわないように。……どうするかは、皆さんが決めてください」
紗月は、真帆と千晴を見た。
二人とも、紗月を見ていた。
それで、足りた。
「一緒にいます」
紗月は言った。
「本人が嫌じゃない範囲で。今までどおり、一緒に仕事をして、ご飯を食べます。条件の二つは、守ります」
「はい。そう伝えてもらえると、本人も楽だと思います」
相原は、紙を二つに折った。
*
待合の長椅子で、のあは一人、飲み物のボトルを持っていた。
蓋は閉まっている。中身は、半分より少し多く残っていた。
紗月たちが近づくと、のあは立ち上がった。
「終わりましたか」
「うん。のあがいいって言ったところまで、聞かせてもらった」
紗月は、聞いたことを短く伝えた。四歳のこと。食堂のこと。保護と施設、学校のこと。今は自分で暮らしていること。
のあは、紗月の顔ではなく、胸のあたりを見て聞いていた。
「条件の二つも、聞いた。守るよ」
「……はい」
「それでね」
紗月は、少しだけ言葉を選んだ。
「私たちは、これからも、のあと一緒にいたい。護衛の日じゃなくても。仕事部屋に来るのも、ご飯も、今までどおり」
のあの指が、ボトルの蓋の上で止まった。
すぐには、返事がなかった。
千晴が何か言いかけて、口を閉じた。真帆は、のあの手元を見ていた。
「……護衛は」
のあが言った。
「空いてるときに、行きます」
それだけだった。
一緒にいたい、の答えにはなっていなかった。護衛の話に、わざと置き換えている。紗月には、それが分かった。
(一歩、下がった)
知られたくなかったことを、知られた。のあは自分で許したのに、それでも、今までと同じ距離ではいられないのだろう。
千晴が、紗月の袖を小さく引いた。
紗月は、首を振らずに、目だけで千晴を止めた。
(ここで追いかけたら、この子は、もっと遠くまで下がる)
野良猫だよね、と千晴が名付けた日のことを思い出した。来たと思ったらすぐいなくなるし、でもまた来る。
また来る。そっちのほうを、信じることにした。
「うん。空いてるときに、お願い」
紗月は、それだけ言った。
のあの肩から、ほんの少し力が抜けたように見えた。
「では、今日は、これで。寄るところがあるので」
「うん。気をつけて」
のあは会釈して、管理区の出口へ歩いていった。
*
外は、もう暗くなっていた。
管理区の門を出たところで、のあの小さな背中は、自分の家のある方角へは曲がらなかった。駅のほうへ。改札の向こう、明かりの多い街の方角へ。
「あっち、のあちゃんの家じゃないよね」
千晴が、小声で言った。
「うどんの人のとこかな。まさねぇさん、だっけ」
「たぶん」
紗月は答えた。
病院の部屋で、のあが言っていた。まさねぇがうどんを持ってきてくれて、と。あのときだけ、のあの声が少し柔らかかった。
「……追いかけないの?」
真帆が聞いた。責める声ではなかった。自分も迷っている声だった。
「追いかけない」
紗月は、改札へ吸い込まれていく背中を見ていた。
「あの子にも、帰る場所がいくつかあるほうがいい。うちだけじゃなくて」
人の流れの中で、黒い髪が一度だけ見えて、見えなくなった。
紗月は、しばらくそこから動かなかった。
千晴が、紗月の袖をもう一度引いた。今度は、帰ろう、の引き方だった。




