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第11話 慟哭

 扉の前で、のあは荷物を持ち替えた。


 三人の鞄は、事件のあと相原を通して預かっていた。千晴の小さな鞄。真帆の端末の入った袋。紗月の鞄は、少し重い。


(千晴さんのを先に。真帆さんの端末は机に。紗月さんのは最後)


 順番は、ここへ来るまでに三回決め直した。


 それから、自分の鞄の中にある一本のボトルを確かめた。来る途中の店で買ったものだ。


「どうぞ」


 案内の人が扉を開けた。


 明るい部屋だった。窓の近くに千晴がいて、机の向こうに真帆がいた。紗月が椅子から顔を上げる。


 三人とも、そこにいた。


 のあは、入口から足を動かせなかった。


「のあ」


 紗月が呼んだ。


「来てくれて、ありがとう」


 紗月は立ち上がりかけ、のあが一歩動いたのを見て、座り直した。


「もう、普通に話せるから。大丈夫」


 のあはうなずいて、机まで進んだ。


「真帆さんも」


「だいぶ動くよ。ほら」


 真帆が右手を上げた。指を曲げて、開く。机の上のカップを持ち上げる。ゆっくりだったが、落としそうにはならなかった。


 のあは、真帆の袋を手の届く場所へ置いた。真帆が自分で端末を取り出す。


「持ってきてくれたんだ」


「落としてはいません」


「うん。ありがとう」


 千晴にも鞄を渡した。千晴は膝の上に引き寄せて、いつものようにすぐ話し出さず、一度だけ息を整えてから口を開いた。


「ちゃんと揃ってる。ありがと、のあちゃん」


「……はい」


(三人とも、ここにいる)


 分かっていて来たのに、誰かが手を動かすたびに、目で追ってしまう。真帆が端末を置く。千晴が鞄を閉じる。紗月が、空いた椅子を少し寄せる。


 のあは、まだ立っていた。


「問い合わせは、全部相原さんに回してあります。皆さんも、今は返事をしなくていいって」


 用意してきたことから話した。


「私の配信の記録も、渡してあります。奥田のカメラにも、全部残ってたそうです」


「うん。聞いた」


 紗月は短く答えた。事件の最初から話し直そうとはしなかった。


「仕事は、しばらく休むことにした。急いで戻ったりしないから」


「それなら……」


(それなら、何だよ)


 のあは紗月の鞄を見た。机に置けば渡せる。相手ももう手を空けている。


 代わりに、自分の鞄からボトルを出した。


「これ」


 千晴の前に置いた。


 千晴が、ボトルを見た。それから、のあを見た。


「……これ、私が机に置いてたのと、同じやつ」


「戻ってきたら飲むって、言ってたので」


 千晴の顔が、くしゃりと歪んだ。笑おうとしたのか、泣こうとしたのか、自分でも分からないような顔だった。


「……ずるいなあ、のあちゃん」


 千晴はボトルを両手で包んだ。


「それ、あとで一緒に飲もうね。私が置いてた一本は、のあちゃんの分なんだから」


「はい」


 真帆が、のあを呼んだ。


「メール、送ってよかった」


 真帆は端末を見ていなかった。のあを見ていた。


「途中で、仕事中かなって思ったんだけど。送ってよかった」


「届いたから。……近かったし」


 いつもなら、それで終わった。


 依頼は終わっていた。道も知っていた。出口へ戻るところで連絡が来たから、すぐ行けた。そう答えるつもりで、来た。


「だから……」


 次の言葉が、出なかった。


(体が動かない。助けて)


 店の写真が並ぶやり取りの続きに、あの短い文が浮かぶ。あのときは、行く場所を決めて、返事を打てた。今は真帆の顔が見えているのに、同じ調子で喋れなかった。


 のあは鞄を置こうとして、持ち手を握り直した。


「のあちゃん。ちゃんと食べてる?」


 千晴が聞いた。


「相原さんから、あちこち連絡してくれてたって聞いたけど。自分のご飯、後回しにしてない?」


「食べました」


 すぐに答えた。


「まさねぇが、うどんを持ってきてくれて。作り置きも。……ちゃんと」


「そっか。ならよかった」


 千晴は、ボトルを胸に抱えたまま笑った。


「あのときも、自分の水はあとだったからさ」


 いつもの声だった。


(千晴さんのほうが倒れたのに、また俺の飯の心配をしてる)


 のあは何か答えようとした。


 唇だけが、動いた。


「のあ。鞄、もらうね」


 紗月が手を添えた。持ち手を引かず、底を支えて、待っている。


 のあは自分の指を見下ろした。


(力を抜けばいいだけだろ)


 それだけなのに、指を開く順番を考えてしまった。


 一本ずつ、離す。


 鞄の重さが、紗月の手へ移った。


「ここ、座れるよ」


 寄せられた椅子が、すぐ横にあった。


 のあは座った。膝の上に置くものがなくなって、両手を重ねようとする。


 息を吸った。うまく続かなかった。


 もう一度吸おうとして、途中で細く引っかかった。俯いた先に自分の膝があって、そこへ、ぽたりと滴が落ちた。


 のあは瞬きをした。


 止まらなかった。


(俺は、荷物を渡しに来たんだろ)


 報告もできた。三人とも返事をしている。助けに行ったときは、何をするか迷わなかった。今さら、話せなくなるようなことは、何も起きていない。


「返事が、あれだけだったから」


 口から出た声は、ひどく頼りなかった。


 真帆が顔を上げた。のあは説明しようとして、首を振った。


「メール。そのあと、何も……」


 床に座って、玄関を見ていたことがあった。


 小さな体で、空の冷蔵庫の前に座って。外の足音が近づくたびに顔を上げて、通り過ぎるたびに、また待った。


 呼んでも返事のない部屋のことを、のあは今、思い出したくなかった。


 走っているあいだ、ずっと、あの部屋の音がしていた。扉の向こうから返事がなかったら。開けた部屋に、誰も――。


「のあ」


 紗月の声がした。


 のあはそちらを向いた。目の前の顔が涙でぼやけて、慌てて手でこすろうとする。紗月は止めずに、待っていた。


「真帆さんが、動けないって。千晴さんも、紗月さんも……」


「うん」


「私、返事を……待って……」


 続きを言おうとしたところで、声が崩れた。


 のあは肩を縮めた。息を細くすれば、音を出さずに済むと思った。けれど喉が詰まって、堪えようとするほど、顔がゆがんでいく。


 千晴が、机の端にハンカチを置いた。


 のあはそこへ手を伸ばしかけて、すぐ横の紗月を見た。顔を見られたくなくて俯くと、伸ばした手が、紗月の袖に触れた。


 そのまま、指が離れなくなった。


 紗月が、体を寄せてくれた。のあは袖をつかんだまま、額を近づけた。


 肩に、触れる。


 それだけで、抑えていた息が、声になった。


 のあは顔を隠した。紗月の服を握って、息が足りなくなるたびに吸い直した。涙を拭くつもりだった手は、もう膝には戻らなかった。


 背中に、紗月の手が添えられた。


「いるよ」


 その声を聞いて、また泣いた。


 何がそんなに怖かったのか、言おうとするたびに喉が詰まった。


 ただ、今は、紗月の袖を離せなかった。


「私も、怖かった」


 真帆が言った。


 のあは顔を上げられなかった。それでも、聞こえた。机の向こうから届いた、生きている真帆の声だった。


「のあちゃんの声が、扉の向こうでしたとき」


 千晴の声も、震えていた。


「ああ、来たって。それで、泣きそうになった。……泣けなかったけど。体、動かなかったし」


 千晴が、少しだけ笑った。


「だから、今、私の分まで泣いてていいよ」


 のあは、泣いた。


 声を抑えようとしては失敗して、時々、三人の誰かが小さく返事をしてくれた。自分が誰を呼んでいるのか分からなくなっても、返事だけは、ちゃんと聞こえた。


 *


 息が落ち着いてきたとき、最初に気になったのは、紗月の袖だった。


 濡れて、しわになっている。


 のあは、つかんでいた手をゆっくり緩めた。


「すみません。服」


「乾くよ」


 紗月はそれだけ答えた。


 のあが体を起こすと、背中に添えられていた手も離れた。引き止められたわけでもないのに、今度は、離れすぎるほうが落ち着かなかった。


 ハンカチを畳む。濡れた布は、きれいに重ならない。指で押さえて、端を折り直した。


「それ、持ってて」


 千晴が言った。


「まだ使うかもしれないし」


「……借ります」


 のあは、もう一度顔を拭いた。鼻をすすった音が思ったより大きくて、目を伏せる。千晴はからかわず、自分の鞄を椅子の横へ下ろした。


 真帆が、端末を持って画面を見てから、伏せた。


「今日は、こっちは閉じとく」


 何が映っていたのかは見せず、そのまま机に置く。練習の動画を見終わったあとと、同じ置き方だった。


 のあは空いた机を見た。


 荷物は渡した。伝えることも、終わった。


(そろそろ帰ったほうが、三人も休めるよな)


 入口の扉へ目を向ける。立とうとして、膝の上の手を握った。


 紗月が、こちらを見ていた。


 のあはハンカチを握り直した。次の仕事の相談も、確かめたい記録も、何もなかった。


(……まだ、帰りたくない)


 野良猫なら、用が済めば帰る。いつもそうしてきた。


「もう少し、ここにいていい?」


 最後まで言ってから、目を上げた。


「もちろん」


 紗月がうなずいた。真帆が机の上の荷物を寄せて、のあの前を空ける。


「お茶、頼もうか。私も温かいの飲みたい」


 千晴が部屋の案内を手に取った。


「紅茶でいい? 甘さは、どうする?」


 のあは、濡れたハンカチを握ったまま答えた。


「いつもの」


 三人とも、聞き返さなかった。


 千晴が注文を送るあいだ、のあはぼんやりと、自分の手を見ていた。


 さっきまで、紗月の袖を握りしめていた手だった。


(……美人の袖、全力で握りしめてたな、俺)


 顔が、じわじわ熱くなった。


 のあは、ハンカチで顔の下半分を隠した。


「のあちゃん、顔赤いよ。熱ある?」


「ないです」


「泣いたからかな」


「泣いたからです」


(違う。それもあるけど、違う)


 紅茶が届くまで、のあはハンカチを下ろさなかった。

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