5.最期の頼み
翌週、美来と共に佑二の元を訪れた。いつも通り、好物の手土産を持って。前回、別れ際になっても落ち込んだままに見えた彼だが、今日は普段と変わらず、軽口をたたいていたので安心した。
「美来も、気が向いたら、また来てくれよ。」
「分かりました。気が向いたらね。でも、今日みたいに変なことばかり聞き出そうとするなら、やめるからね?」
自宅への帰り道。美来が私の顔をじっと見た。
「あなたたち、いつの間にあんなに仲良くなったの?」
「別に。最初から変わらんと思うけど。」
「そうかなぁ。なんかこう、昔からの親友みたいになってる気がするよ。」
「はあ?妻の元彼と親友なんて、あり得ないね。」
「その割に、私たちの話をペラペラと。恥ずかしい。」
「事実なんだから、別にいいだろ?俺とラブラブなのが嫌だっての?」
「そんなことは、言ってないよ。もう。」
美来は反対側を向いた。こんな時の彼女は、少し赤い顔をしているはずだ。
「彼、案外元気だよね。もう少し頑張れるのかな。」
私は、彼の些細な変化が心に引っかかっていた。いつもなら、すぐに手をつける手土産に、今日は手をつけなかったのだ。「夜の楽しみに」と言った言葉通りならば、ただの思い過ごしなのだろうが。
「そうだな。この調子なら、皆で正月が祝えるかもね。」
それでも、こんなときにどうしても抱いてしまう淡い期待。半世紀も生きていれば、たいていの場合、それは裏切られるものだと、知っているはずなのに。
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その後の半月で、佑二の容態は急速に悪化していった。ベッドに横たわり、酸素マスクをした彼は、起き上がることもままならない。看護師が、手際よく点滴を追加すると、慣れた様子で会釈をして去っていく。
「そんな顔するなよ。最初から、分かってたことだ。」
ベッドの柵に手をついて立っている私に、彼が力のない声で言った。
「それは……そうだけどな。」
美来は何も言わず、ベッドの脇の椅子に腰を下ろした。軽く腕を組む彼女のその手が、二の腕を強く掴んでいるのが分かる。私たちの前にいる男に残された時間が、そう多くないことは、誰の目にも明らかだった。
「大槻さん。何か、欲しいものとか、したいこととか、ある?ベッドの上じゃ、何でもって訳にはいかないだろうけど。」
「そうだな。沖縄に旅行に行きたい。北海道から鹿児島まで、全部行ったが、沖縄だけ行けてなくてな。」
「なんだよ。無茶なことを。」
「冗談だよ。あんた、ほんとにいい人だな。そのいい人を見込んで、最期の頼みを聞いてもらうか。」
私と美来は目を合わせた。佑二は咳払いをひとつすると、それを口にした。
「美来と、キスがしたい。それが俺の望みだ。」
油断していた。彼が妻の元恋人であることを、忘れかけていた。眉間にしわを寄せて、天を仰ぐ美来。私は、彼女の夫として当然の反応をした。
「そりゃだめだ。何言ってる。いくら最期の頼みといったって、許可できる訳がない。」
それを聞いた佑二は、底意地の悪い笑みを浮かべた。
「西川さん、あんた、この間言ってたよな?『キスくらい浮気のうちに入らない』って。俺はその言葉、忘れてないよ?」
それを聞いた美来がこちらを睨む。
「あらら。浮気なんかする訳ない、とか言いながら、知らないところで知らない誰かとキスしてたりするのかしらね?この人は。」
「なんでそうなるんだよ。そんなことはないよ。」
「ふん。どうだか。」
私たちの様子を見ていた佑二が、小さく息を吐いて笑った。
「今更、あんたたちの仲を引き裂こうなんてつもりはない。ほんのちょっとの心残りを、解消してから死にたいと思ったんだ。」
「……そんなこと言って。あっちで志乃に怒られるよ?」
「あいつも、キスは浮気じゃないって言ってたんだよ。だいたい、俺を残して先に逝っちまったんだから。こっちにも遊ぶ権利くらいあるだろ?」
佑二は目を閉じて、泣きそうな顔をした。
「唇になんて贅沢は言わん。ほっぺたに。軽くでいい。それで満足する。」
大きなため息をついた美来は、思いつめた顔をしていた。二人を見ていた私は居た堪れなくなり、頭を掻いた。
「ああ、もう!くそっ。好きにしろよ。俺は見なかったことにする!」
部屋を出ようとする私を、美来が引き留めた。
「するかしないか、私が決める。あなたも、そこにいればいいよ。ほんとにキス以外のことをしなかったか、後で疑われても面倒だしね。」
「ゴホッ。はっ。やめてくれ。それこそ死んじまう。」
佑二が咳き込み、手で胸を押さえた。彼の呼吸が整うのを確認し、二人に背を向けて腕を組んだ。美来が小さな声で「よし!」と言ったのが聞こえ、心の耳を閉ざした。
十秒か。一分か。一時間か。とにかく長い時間が過ぎた。背後からは、物音ひとつ聞こえない。待ちきれずに声をかけようとしたとき、美来が言った。
「もういいよ。こっち向いても。」
振り返ると、先ほどと寸分違わぬ位置に、彼女は立っているように見えた。視線も、なんら変わるところなく、佑二に向けられている。佑二が美来に向ける視線も、同様だった。
「あの……した?」
恐る恐る聞くと、美来は憂いと安堵をごちゃまぜにしたような顔を、こちらに向けた。
「さあ。」
佑二に目をやると、彼は天井を見つめたまま言った。
「さあ。」
「いやいや。さあって。ちょっとモヤモヤするんだけど。それは。」
私を見た佑二が、静かに言った。
「そのまま死ぬまで、モヤモヤしとくんだな。西川さん。」
口元に笑みを浮かべ、目を閉じた佑二は、やがて静かな寝息を立てはじめた。彼は、そのまま意識を取り戻すことはなく、その年が終わろうとする頃、志乃の元へと旅立った。
(つづく)




