4.裏の顔
佑二から昔話を聞いた帰り道。私は初めて入ったバーで、一人酒を飲んでいた。普段なら、家で美来と飲むか、居酒屋で馴染みの顔と飲むか。ともかく、その日は一人になって物思いに更けたかったのだ。
「裏の顔……か。」
佑二が言っていた、志乃の裏の顔。私は、その顔を知っていた。勤め先で美来と出会って三年、首尾よく恋仲になり、結婚して新居を構えて、しばらく経った頃。志乃が、初めて我が家に遊びに来た。美来によれば、志乃は一番付き合いが長い親友であり、彼女の夫とも面識がある、ということだった。志乃の夫、つまり佑二が美来の元恋人であることは、その時は伏せられていた。
――「改めまして。大槻志乃です。」
美来と一緒にいる彼女とは何度か顔を合わせていたが、まともに言葉を交わしたのはこの時が初めてだった。
「西川亮です。妻がお世話になっています。」
「ふふ。すっかりご夫婦ですね。私の方が古株ですけど。」
「はは。そうでしたね。」
当初、志乃は一貫して大人しい女性という印象だった。正反対に思えるこの二人が、どうして仲が良いのかと、不思議に思ったものだ。
「志乃ー。うちの人に手、出さないでよー。」
「出さないよ。信用ないな。」
「そんなもの、あるかい。旦那に言いつけるからね。」
「美来ちゃんは、あたしに冷たすぎるのよ。」
親友同士の他愛もない冗談だと思ったそのやりとりが、冗談でもなかったと分かるのは、それから半年ほど後だ。志乃は、その後も月に何度か美来を訪ねて来た。そのこと自体は、気にも留めなかった。女友達はそういうものだというある種の達観があったし、なにより志乃と話す美来はいつも楽しそうだった。
それは、いつものように志乃がうちに来ていた日の午後。電話の応対を終えた美来が、慌てた様子で出かける準備を始めた。
「美来。どうした?何かあった?」
「亮ちゃん。実家行ってくる。お父さんが事故って怪我したって。お母さんだけじゃ、ちょっと心配だから。」
「ええ!?いっしょに行こうか?」
「自治会の会合があるって言ってたじゃない。夜。」
「ああ、そうだった。しかしな。」
「大丈夫。命にかかわるような話じゃないみたいだから。どうしてもなら、連絡するから来てよ。」
「わかった。気をつけて。ちゃんと見てやって。」
「もちろん。ああ、志乃もごめん。この後どうする?」
「いいよ。あたしは旦那と待ち合わせてるから、時間になったら勝手に帰る。美来ちゃん、気をつけてね。」
「ありがと。またおいでよ?じゃあね!」
美来の車のエンジン音が、遠のいていった。志乃と二人、玄関先に残された私は、彼女と何を話したら良いものか、悩んでいた。
「折角来てくれたのに、申し訳ないね。とりあえず、コーヒーでも淹れますか。」
「いえ。ありがとうございます。『亮ちゃん』か。仲いいんですね。」
そう言った志乃が、何故だか私を睨みつけたように思えた。
「ま、おかげさまで。」
目を逸らしてリビングに向かおうと歩き出した私を、志乃が呼び止めた。
「亮さん!これ見てください!」
「え?」
振り向いた私に、勢いよく彼女が抱き付いたかと思うと、私の唇に彼女の唇が重なった。細い腕からは想像がつかない力で締めつけられて、よろけた私は壁に押し付けられた。激しくなるキスを受けながら彼女の腕を掴み、そのままゆっくりと彼女を引き剥がした。
「んん。志乃さん……なにやってんの。」
彼女はそれでも離れようとしなかった。
「ふっ。ふぅ。痛っ。こうやって、美来ちゃんも押さえつけてるんですか?ああっ。」
私は、片方の手にグッと力を込めた。片膝を床についた彼女の体から、力が抜けた。
「美来にこんな真似はしない。なんでこんな……」
下を向いたまま喋ろうとしない彼女。
「こんなことするなら、もう二度とここには来ないでほしい。」
「それはっ!」
私を睨みつけたその顔は、いつものお淑やかな彼女からは想像がつかない、憎悪のような何かを含んでいた。
「だったら、ちゃんと説明してくれ。参ったな。まったく。」
口元を押さえた自分の手が、微かに震えているのが分かった。落ち着こうと深呼吸をした。私たちは、リビングのテーブルを挟んで向かい合った。それなりに修羅場も経験してきたが、こんなのは初めてだ。何をどう聞けばよいのか。
「あの、志乃さん?あなたには旦那さんがいる。俺に気があるって訳じゃ、ないよね?」
「……正直に話したら、またここに来てもいいですか?」
「内容にもよるけど、事情を知らなきゃ判断しようがない。」
志乃は乱れた髪を指で梳いて、大きなため息をついた。
「亮さんは、普通にいい男だと思います。でも、別に気はありません。ただ、邪魔してやりたくなったんです。美来ちゃんが、亮さんを愛してるから。」
「ん?ちょっと。よく分からないんだけど。」
「だから。美来ちゃんから、あなたを引っぺがしたいって、ちょっと思っちゃったんです。美来ちゃん、ほんとにあなたのこと好きそうなんだもん。むかつく。」
「……志乃さん。もしかして、美来のことが……好き……なの?」
「勘違いは、しないでください。彼女と寝たいとか、そういうことではないんです。ただ、昔から彼女はいつも傍にいてくれて、気づいたら彼女だけを見て生きてました。それが大人になって、ずっと一緒にいることは叶わないんだと気づいてしまった。」
「仲がいいもんね。二人は。」
「美来ちゃんは、あたしを親友だと言ってくれます。隠れてこんなことばかりしてるのに。でも、あたしにとって美来ちゃんは、親友なんてありきたりな言葉じゃ……なんで自分が男じゃないんだろうって。でも、どう頑張ってもあたしは女で。体が求めるのは、やっぱり男の人で。」
「なるほど。そうなんだ。俺には、その苦しみを理解してあげることが、できないな。申し訳ないが。」
「亮さんが謝る必要はありません。ごめんなさい。衝動的に行動するなって、美来ちゃんにも散々言われてるのに。」
「こんなことを聞いていいのか分からないけど、志乃さんは、旦那さんを愛してる?旦那さんは、志乃さんを愛してくれてる?」
「はい。それはもう。始まりは衝動みたいなものでしたけど、凄くいい人で。あたしを大事にしてくれます。あたしも、彼のこと好きですよ。美来ちゃん以外で、こんなに傍にいたいと思えた人は、彼だけですね。」
「なんだ。良かった。だったらなおさら、さっきみたいなことしてちゃだめでしょ。」
「キスくらい、浮気のうちに入りませんよ。」
「いやいや、だめだって。もう。俺の中の志乃さんのイメージ、全然変わっちゃったよ。」
「あら。あたし、元からこうですよ?美来ちゃんの方が、余程純情だと思う。」
「とにかく、もう二度とやめてくれ。俺は美来が好きだし、他の女に興味はない。旦那さんにも申し訳が立たない。仮に志乃さんが男だったとしても、美来を譲る気はない。絶対に。」
「……分かりました。約束します。」
「その上で、美来の友達としてうちに来てくれるのは、今まで通り歓迎する。美来も喜ぶだろうし。俺には遠慮せず、来ていいから。毎日じゃ、さすがに困るけどね。」
「ほんとですか!?ありがとうございます。嬉しい……旦那がいなければ、毎日通うんですけどね。」
「へ?冗談じゃないよ!?」
「あは!うそですうそです。亮さん、優しいんですね。羨ましい。話したことは、美来ちゃんには言わないでくださいね。」
彼女は、いつものお淑やかな顔に戻っていた。
「言わないよ。言いようもない。約束する。それより、腕。見せて。」
「え?」
「痕にはなってないか。乱暴にして悪かった。志乃さんを傷ものにしたら、旦那さんに殺されちゃう。」
「あたしのせいですから。気にしないでください。すみませんでした。」――
その後、志乃の夫が美来の元恋人だったことと、美来が「志乃に奪われた」と表現したことで、この三人の過去に何があったのか、おおよそ察しがついていた。佑二から聞いた話は、その想像を上回る内容ではあったが。
しかし、志乃が美来に想いを寄せていた(それが恋愛感情なのかはさておき)ことを、佑二は知らなかったように思える。志乃は、その気持ちを私にしか明かさなかったのか?美来本人は気づいていたのか?確かめてみたい気持ちと、志乃との約束を守るべきだという気持ちが、交錯していた。
(つづく)




