2.顔なじみ
413号室は定員が六人の大部屋だった。入口のネームプレートの一番上に、大槻佑二の名が書かれている。その文字は擦れており、彼がそれなりの期間ここに居続けていることを示していた。しかし、窓際のベッドに彼の姿はない。
「大槻さんでしたら、この時間は大抵デイルームにいらっしゃいますよ。」
ベッドを覗き込む美来に、看護師が言った。
「デイルーム?」
「ええ。病室を出て、左手のつきあたりです。共有スペースなので、ご自由に。」
彼が病棟内を自由に移動できる程度の状態であることに、安堵を覚えた。デイルームに足を踏み入れた私と美来の視界に入ったのは、病衣をまとい椅子に腰かける男の後ろ姿。男の正面にあるテレビは、ショッピング番組を映している。他に、人はいなかった。
「あれじゃないの?」
「多分。」
「声かけてみるか。」
「そうね。」
小声で会話する私たちに気がついたのか、男が上半身を捻るようにして振り返った。
「なんか用?ん?」
男は美来の顔を見て、首を傾げた。
「美来……か?」
「こんにちは。お久しぶり。」
「ああ。ほんとうに来てくれたのか。随分変わったな。一瞬分からなかった。」
「老けたと言いたいのかしら?失礼ね。」
「そっちは旦那さん?亮さん……だったか。志乃の葬儀、来てくれていたよね。」
「ええ。その節はどうも。ご無沙汰してます。」
「立ったままもなんだし、そっちで座って話をしよう。飲み物、自販機で買えるから。悪いけど、自腹のセルフサービスで。」
そう言って立ち上がった佑二は、窓際の四人席に移動していった。ゆっくりではあるが、足取りはしっかりしている。私は先に行くよう美来を促すと、自販機でお茶を三本買った。小銭を財布にしまいながら、少し後悔していた。この後、二人が昔を懐かしむように仲睦まじくする姿を見せられやしないかと、気持ちがざわついていた。私が遅れて席に着くと、佑二が頭を下げた。
「俺のわがままに付き合ってくれて、ありがとう。あんたたちには言わずにおこうと思っていたんだ。あとは一人静かに死ぬつもりだったが、思ったより元気でな。暇を持て余すと欲が出る。最期に、二人に会ってみたくなった。申し訳ない。」
照れくさそうにする彼を見て、想像していたより気さくな男だと思った。
「二人に、ではなく彼女に、じゃないんですか?本音は。こんな事情なら、美来に直接連絡をしても良かったのに。」
「ネットのアカウントやらスマホの連絡先やら、全部綺麗にした後に気が変わったもんでね。自分の親はもういないし、結局、志乃のところに頼るしかないんだなぁ。」
彼は両手を頭の後ろで組んだ。同世代の男の腕としては、やはり痩せている。
「二人で来てくれと言ったのは、一応気を使った……というのもなくはないが、美来の旦那さんがどんな男か、興味があったんだ。葬儀の時は、話をする時間もなかったから。」
それを聞いた美来が、私の方を見た。
「二人して同じようなことを言ってる。そんなに気になるもの?」
「そりゃ気になるよ。当たり前だ。」
美来は佑二を窺うように見た。
「気にはなるだろ。わざわざ確かめようとまでは思わなかったが、これが最後のチャンスだとしたら尚更、な。まぁ、この歳だ。お互い、冴えないオッサンで悲しくなったね。」
「いやいや、大槻さん。そりゃ酷いな。そんなに冴えないかね?」
「ああ。俺の方が、西川さんよりだいぶスマートだ。」
「それは……ちょっとシャレにならん。」
頭を掻いた私を見て、佑二は嬉しそうに笑いながら、ペットボトルのお茶に口を付けた。美来が腕を組み、彼に問いかけた。
「思ったより元気そう。もう、治療はしないの?」
「ああ。散々やってきたが、ここにきて三か所に転移したのが分かってな。特に肺が厳しいらしい。来週にはホスピスに移る。苦しまんようにと、頼んである。」
「……そっか。もう、どうにもならないのかしらね。」
「志乃は何の準備もできずに突然死んじまった。それと比べたら、俺なんかこうして古い友人と話をして、今日新たに西川さんとも顔なじみになって、幸せなもんだよ。」
しかし、幸せだと口にした男の顔には、不安と淋しさが滲んでいる。そうでなければ、私たちをここに呼びはしなかったのではないか?
「さて、こんなシケたところに長居しても仕方ない。二人の顔を見られて、心残りはなくなったよ。お茶、ごちそうさま。事故らんように、気をつけて帰ってくれ。」
佑二が立ち上がる。美来は、正面を向いたまま何も言わなかった。
「大槻さん、まだしばらくは、生きられるんでしょう?」
「んん?医者の見立てでは、年を越えられるかどうか、というところらしい。急変する可能性も、否定はできないそうだが。どうして?」
「たまに、顔を見に来てもいいかな?折角顔なじみになったんだし、これで最期というのも惜しい気がして。」
「ふふっ。同情なら遠慮しとくよ。親しい人間には弱ったところを見られたくなくて、会いたいと思った奴との挨拶は、もう全部済ませたんだ。」
「同情はゼロじゃないけど、俺は親しいって訳じゃないでしょ?他人のほうが、話しやすいこともあるんじゃないかな。思ったより元気な日は、思ったより長く続くかもしれない。そしたらまた、暇を持て余す気がする。」
驚いた顔でこちらを見ている美来に視線をやり、私は話を続けた。
「ついでに、美来もついて来るかもしれない。なあ?」
「……そうね。たまには、ついて来るかもね。」
佑二は両手を天井に向けて広げた。
「西川さん。あんた、いい人だな。美来があんたと結婚した理由が分かる気がする。好きにしてくれ。こっちからは連絡できんが、ホスピスも同じ院内だ。移動先は、看護師に聞けば分かると思う。」
呆れたという顔をしている彼の口元が、少しだけ笑っているように見えた。小さく手を上げると、デイルームから出ていった。
「お人好し。昔の恋人に、好んで会わせるなんて。」
「好んでる訳じゃない。彼が、それで淋しくないなら。それに、いくら会わせたところで、美来は俺の嫁だ。信じてる。」
「あなた。いい人なのね。」
「そうだよ。三十年近く一緒にいるのに、知らなかった?」
そう言いながら、自分が本当に良い人と言えるのかどうか、若干の気まずさを感じていた。ひょっとすると、佑二から美来の過去の話が聞き出せるのではないか?という打算も、なくはなかったからだ。
(つづく)




