第1章 2 雨宮ユナ
(あらすじ)未来の病室と思しき部屋で目を覚ました、元脳外科医のタケル。学生補助の女性が訪ねるが、タケルは彼女がめまいを隠していることを見抜く。
「うるさい! この二十世紀人!」
彼女はムキになった。
しかし次の瞬間、彼女の体がふらりと傾いた。
タケルは反射的にベッドから身を乗り出した。迷いはなかった。関節の角度を知り抜いた柔道家のような動きで、彼女をすっと抱き上げ、そのままベッドに横たえた。
なお、彼の姿は幸い下半身は着衣状態だった。
「倒れそうな人は、すべて患者です。」
静かな、それでいて有無を言わせない声でタケルは言った。
「患者じゃないです、雨宮ユナです」
と、めまいのなか彼女は強がって言った。
ベッドに寝かされたユナは、しばし憮然として、ふと感じた。ほんのり暖かい体温。久しぶりに嗅ぐ、人間の匂い。
それがどれほど恋しかったか、自分でも気づいていなかった。体が、本能で知っていた。
ほっとした。
しかしそれも一瞬のことで――タケルがユナの視界にぬっと割り込んできた。
「起き上がって。この指を、眼だけでじっと見つめてください。頭は動かさないで。」
「な、なによ」
「しゃべらないで。目が揺れるだろう。俺に従って。」
命令口調なのに、どこかで腹が立てられなかった。声に、迷いがないからかもしれない。
(……水平性。固視で抑制される。末梢寄りだな)
タケルの頭の中では、ユナが誰かなどお構いなしに、すでに診断の歯車が回り始めていた。
「次は頭を持つよ。いいかな。」
返事を待たず――しかし、ほんの少しだけ間を置いて――両手でユナの頭をつかみ、正面を向かせてから素早く左へ動かした。
(補正サッケード無し)
「っ……急に動かさないで!」
「急に動かして確認する検査だ。もう一回」
「――!」
ユナは怒りと眩暈と羞恥心が三つ巴になって、もはやどれが一番強いのかもわからなかった。タケルはそんな彼女の内心に全く気づかぬまま、頭部を中心に10分間ほど、無我夢中で診察を続けた。
彼女はかえって目が回った。
*
「……三叉神経からの刺激が内耳の前庭機関に影響を及ぼすとされる、いわゆる…」
長い。長すぎる。
ユナはベッドに横たわったまま、天井を眺めながら、タケルの講義を聞いていた。いや、聞いているふりをしていた。言葉の半分は頭の上を流れていったが、それでも不思議と、悪い気はしなかった。
「…命に別状はないが、今日はもう休んだほうがいい。」
ようやく終わった。めまいは、気づけば少し落ち着いていた。
「じゃあ、実習は早退して休んだほうがいい?」
「そうだな」
「わかった…」
少し間が開いてユナは言った。
「さっきはきついこと言ってごめんなさい。お詫びに、これからうちに来ない?」
「えっ?」
タケルは固まった。
一緒に帰る。その言葉が頭の中で展開され、初めて自分の状況が見えてきた。帰る場所がない。そもそも、ここがどこかもわからない。
「退院許可はもう出てるから。二十世紀から来て、帰る場所もないんでしょ?」
ユナが普段からこんなに積極的になるわけではない。しかし、憐みや、興味、その他様々な思いが混ざり合ったのか。
「いや、二十一世紀だ」
と、タケルは抵抗したがユナは無視してつづけた。
「今は2222年。あなたのいた時代から、200年後よ。この時代のこと、いろいろ教えてあげる」
タケルは、言葉を失った。
2222年。
意味不明な状況も、その数字を聞いた瞬間、今までの謎が妙に腑に落ちた。と同時に、新たな謎が無数に生まれた。
それより今は、見ず知らずの女性の家に泊まるわけにはいかない。
しかし目の前の現実として、自分がこれからどうすればいいのか、皆目見当もつかない。とりあえず、彼女にゆだねるしかなかった。それが、今できる唯一のことだった。
「君の名前は?」
「さっき言ったけど。雨宮ユナ」
「雨宮さん。俺は楠タケルです。よろしく」
「ぷっ」
ユナが吹き出した。
「苗字で呼ぶの?」
「えっ。」
「だって今の時代、苗字だと見分けがつかないじゃんか!」
ユナは声を上げて笑った。
タケルは彼女の笑いのポイントがさっぱりわからなかった。
そうこうしているうちに、自動音声の退院アナウンスが、穏やかに流れた。
タケルはとりあえず、彼女についていくことにした。
*
病院の退院手続きは、タッチひとつで終わった。煩雑さなど、欠片もなかった。
タケルは、ユナが買ってきてくれたらしい服に袖を通した。
「ありがとう。ユナさんって、優しい人ですね」
タケルは、嘘偽りなく率直な感想を言った。
「そんなんじゃないよ」
と照れながらユナはぼそりと言った。
荷物をまとめたユナと並んで、病院の外へ出た。
そこは歩道だった。
歩道は壁と天井に包まれていた。しかしその壁も天井も半透明で、向こう側に、うっそうとした植生と、さんさんと輝く太陽が透けて見えた。何層もの通路が静かに重なり、小さな搬送ポッドが音もなく滑っていく。もっと遠くには、海を思わせる青い反射がゆっくり、ゆっくりと揺れていた。
紛れもなく未来だった。
歩道を抜け、地上に出た瞬間、熱気が全身を包んだ。
「あれに乗ろう」
タクシー乗り場だった。車体の形は、タケルの知る時代とそう変わらない。
無人タクシーに乗り込むと、車は静かに、しかし信じられないほどの速さで走り出した。
「自動運転だから、渋滞も一切ないよ」
ユナが何でもないことのように言った。
窓の外には、大樹のような建物が林立していた。よく見ると、それはフラクタル構造のビルだった。枝が枝を生み、面が面を重ねる。コンクリートの森なのに、どこか生き物のようだった。自然と都市が、争わずに共存していた。
「ちょっといいかな。」
無人タクシーの中でタケルは口をひらいた。
「俺はこの世界のことを何も知らないから、あなたには色々教えてほしいことがある。
でも、男が初めて会った若い女の人の家に、簡単についていくのはよくないことだと思うんです」
ユナはぱちくりと目を瞬かせた。この期に及んで、何を言い出すんだろう、この人は。
「大丈夫だよ。私の家だし」
「じゃあ一層だめじゃないか!もっと自分を大事にしないと…」
ユナは、タケルが長話をしそうになった気配を察知し、割り込むように言った。
「何勘違いしてるの? ナギっていう私のお母さん代わりのロボットがいるから、大丈夫だよ」
「……そ、そうか……」
タケルの言葉が止まった。
タケルは自分の理解を超える状況を出されると何も言えなかった。
「ついたよ」
タクシーを降り、地下道を抜け、エレベーターに乗った。
ユナの家の扉が開くと、母親のナギらしき女性が出迎えた。
2025.5.2 公開




