第1章 3 ユナの母、ナギ
「おかえりなさい、ユナ」
玄関の奥から、柔らかな声がした。
「ただいま、ナギ」
「あれ、今日も顔色が少し悪いですね。心拍も少し高めです。ほら、よしよししてあげるから私の胸においで」
「ちょ、ちょっと! お客さん来てるから恥ずかしいって!」
ユナは慌てた。
タケルはその女性を見た。
見た目は三十代前半ほどに見える、美しい女性の姿だった。薄い灰色の髪を後ろでまとめ、表情は穏やかで、姿勢も無駄がない。二十一世紀でも見かけないような、昔ながらの割烹着を着ている。
ロボットと聞いたが、目線も息遣いも、人間にしか見えなかった。むしろ、人間より人間らしい気がした。
「はじめまして。楠タケルです。突然お邪魔してしまって、すみません」
「あなたが、楠タケル様ですね」
ナギはタケルへ視線を移し、静かに頭を下げた。
タケルも深々と頭を下げた。
「ナギはロボットなんだから、そこまで丁寧にしなくてもいいよ」
ユナが誤魔化すように言った。
「人の家に世話になるんだから、当然だろう」
「まあ、そういうところは良いと思うけど」
ユナはそっぽを向いた。
「……でも、ナギを雑に扱っていいって意味じゃないからね」
タケルはもう一度、ナギをじっと見た。
ロボットと言われても、まだ信じられない。
表情、左右差、目の動き。どれを取っても自然だった。せいぜい、整いすぎているくらいだった。
「何見てんのよ」
見つめあう二人にユナがツッコミを入れた。
「失礼ですが、どこまでが機械なんですか」
「失礼でしょ!」
「すみません。職業病で」
「その職業病つらくない?忘れたら?」
と、ユナは呆れる。
「どうぞ、確かめてくださいませ」
ナギは怒るでもなく、タケルの方へぬっと顔を近づけ、目を伏せた。
タケルは一瞬ためらった。ナギの容姿があまりに美しかったからだ。
髪は絹糸のように細く、一部が白い首筋にかかっている。まつげは長く、頬には血色のような淡い赤みがあった。顔の造形は30代の年齢にデザインされているが、肌にはシミ一つなかった。
ナギの頬に触れた。
温かく、柔らかかった。指先に返ってくる弾力も、皮膚の下にある微かな湿りも、人間の肌としか思えなかった。
タケルは、胸の奥がきゅっとした。そして気まずい感じがして手をひっこめた。
「これは人工生体皮膚です」
ナギは静かに言った。
「人間や動物の細胞をもとに人為的に作られた組織です。私のものは、微小循環もあり、温痛覚もある高度なものです。」
「皮膚だけじゃないよ」
ユナが横から言った。
「ナギは当時最新の技術を使ったロボットで、消化器、腎臓、循環器、脳の一部まで体の殆どが人工生体臓器でできてるんだよ。」
「脳まで?」
タケルの声が、思わず低くなった。
ユナは続ける。
「人間もね、ケガや病気になったら体や臓器を人工のものに入れ替えるの。」
「じゃあ、」
「そう、だから医者はもういらない時代なの」
「そうか…」
タケルの心がちくりと痛んだ。
「事実だもん。手術なんて、ロボットの方が正確だし」
「まあ、そりゃそうだな…」
タケルは自分の手を見た。
何千回と、切って、張って、縫って、人を救ってきた手。
この時代ではお払い箱なのか。タケルにはこの上なくショックだった。
「しかしそれじゃ、人間とロボットの境目がわからないじゃないか」
「それなんだよね」
ユナは少しだけ寂しそうな表情になり
「でも、人間とロボットは法的には明確な違いがあってね……」
ユナが話そうとした矢先、
「はい、貴方のために作った椅子です」
と、ナギが奥から椅子を運んできた。
二十一世紀でいうところの3Dプリンターで作ったような急ごしらえの椅子だったが、造りは遥かに精巧だった。
タケルが腰を下ろすと、背中から腰、膝裏まで、吸いつくように体に合った。
「すごいな。俺の体にぴったりだ」
「病院からデータを共有しました」
「そんなことまでできるのか」
「ナギはすごいんだから」
ユナが少し得意げに言った。
会話する間に、ナギはお茶と湯呑を持ってきた。
「どうぞ」
とナギがお茶を入れようとすると、ナギの右手が少し震え、湯呑を軽く落とした。幸いお茶はこぼれなかった。
「ナギ、最近ちょっとおかしいよ」
「大丈夫ですよ」
タケルはそのやりとりを見逃さなかった。
お茶はほっとする普通のお茶だった。
ユナは両手で茶器を包み、しばらく湯気を見ていた。
「さっきの話だけど」
「ロボットの脳の話か?」
「違う。私の話」
ユナは茶器の縁に目を落としたまま言った。
「私ね、親の顔、ほとんど覚えてないの」
タケルは返事ができなかった。
ユナは笑った。
笑ったが、いつもの軽さはなかった。
「この時代だと、それは珍しくないよ。子供は小さいうちに親から離されて、施設とか、養育用のロボットに預けられるの。親と一緒に暮すのは、とっても贅沢なこと」
「どうして」
「それは…」
ナギが割って説明した。
「二十一世紀と違い、この時代の人間には労働や納税の義務がありません。その代わりに、子をもうけることが社会的な義務とされています」
「子を産むことが、義務?」
タケルは思わず聞き返した。
「はい。しかし近年では、人工子宮の普及によって、親自身が妊娠・出産することは少なくなりました。遺伝上の親はいても、顔を合わせたことのない子供が多くいます」
「あなたは、それでいいのか」
「いいと思う?」
ユナは小さく笑った。
「衣食住には困らない。娯楽もある。友達みたいに話してくれるロボットもいるし、疑似恋愛だってできる。寂しくならないようには、ちゃんと作られてる」
ユナは少しうつむいた。
「でも、何か違うなって」
タケルは、未来の人たちを哀れに感じた。
「でもナギは別なの。ご飯を作って、勉強を見て、体調を管理して、眠れない日はそばにいてくれた。」
ユナがそう言うと、ナギは懐かしそうに目を細めた。
「ユナは小さいころから、少し体が弱かったのです。不安になると、すぐ私のところへ来ました」
「ナギ、そういうの言わなくていいから」
「背中をとんとんと叩くと、少し落ち着くんです」
「ちょっとやめてよ」
ナギは、ユナの抗議を聞きながらも、そっと手を伸ばした。
まるで昔の癖のように、ユナの背中を軽く叩く。
とん、とん。
「ユナの心よ、”凪”になあれ」
「もー!」
ユナは耳まで赤くした。
「心拍が少し下がりましたよ」
タケルは思わず笑いそうになった。
ユナは恥ずかしさを取り繕いながら続ける。
「…ナギは、私にとっては唯一の家族みたいなもの」
「みたいなもの?」
「家族、って言うと怒られるんだよ。この時代では、そういう分類じゃないから」
「誰に」
「法律とか、施設とか、いろいろ」
「……ま、暗い話はここまで」
ユナはわざとらしく明るい声を出した。
「未来について知りたいんでしょ、2026年以降の歴史を教えてあげる。まず2089年に…」
「待て。
…二十一世紀は俺が生きる時代だ。ネタバレはやめてくれ。」
ユナはきょとんして、またも、ぷっと吹き出した。
「いいじゃん、もう未来に来ちゃったんだから」
「また戻れるかもしれないじゃないか」
その言葉に、ユナはさらに笑った。
「未来の歴史にネタバレって。変なの」
「俺にとってはまだ未読なんだよ」
「歴史に未読とかあるんだ」
ユナはすっかり明るさを取り戻していた。




