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第1章 1 目覚めと出会い

(あらすじ)脳外科医の楠タケルは、2026年に過労で倒れる。目を覚ますとそこは・・・

 永遠の夢を見ていた。そう感じた。

 子供の頃の楽しい日々だった。両親や妹と過ごした、もう戻らないはずの時間が、夢の中だけは終わりなく続いた。妹がタケルの裾を引っ張る感触。家族団らんでの談笑。色褪せたはずの記憶が鮮明だった。

 浮上は、突然だった。

 深い水の底から、意識だけを無理やり引き上げられる。そんな感覚だった。先に世界の方が明るくなり、遅れて、自分という輪郭が戻ってくる。夢の中の妹の手が、するりと抜けた。


 タケルは目を開いた。

 真っ白な部屋だった。

 病室に見えないこともない。だが、タケルの知る病室とは違った。深い雪景色のように、壁も天井も白く、余計な物が何もない。ただドアが一つあるだけ。清潔というより、まだ誰にも使われていない展示場のようだった。

 音もしんとしていた。

 人工呼吸器の駆動音も、輸液ポンプの小さな警告音も、モニターの電子音もない。空気そのものが細く鳴っているような、妙に整いすぎた静けさだけがあった。

 匂いだけはタケルの嗅ぎなれた消毒液の匂いだった。

 タケルはそこに、かすかな安堵を覚えた。

 そこで初めて、胸の違和感に意識が向いた。胸郭に、見たことのないものがぴたりと貼りついている。

 チューブではない。マスクでもない。半透明のやわらかい、ずっしり重い膜のようなものが、胸骨から肋骨の流れに沿って、腹部の一部まで一枚で密着していた。存在感があるのに、嫌な感じは全くしない。

 息を吸うたび、ごく優しく締まる。

 吐くたび、少し先回りして胸を押し戻す。

 管もマスクもないのに、呼吸だけを誰かに丁寧に矯正されているみたいだった。

 タケルは感嘆した。これは革命的な呼吸補助デバイスだ。

 タケルはやはりここが病院であることを確信した。


 まず、自分の身体を確かめる。

 院内で倒れたところまでは覚えている。激しい頭痛。めまい。後頚部痛。数日前から続いていた妙な頚の痛み。

 くも膜下出血か。

 もしくは、椎骨動脈解離かもしれない。

 倒れる直前まで、医者としての頭は勝手に鑑別を並べていた。患者の前でも、自分の頭だけはいつもそうやって回り続けた。感情を後回しにするのが得意だった。

 だが、いまは頭痛がない。吐き気もない。視野も明瞭だった。

 特技の暗算をした。頭の回転はスムーズだった。

 両手を握って開く。両手を互いに思いっきり握手をする。粗大な運動障害はなさそうだ。

 指先を鼻へ運ぶ。回内回外運動をする。前庭機能は保たれていそうだ。

 足趾を動かす。知覚も運動も保たれている。

 タケルはひとつひとつを確かめながら、それが他人の体を診ているのと少しも変わらない手順であることに、今さら気づいた。自分の体を、患者として診たことなど、これまで一度もなかった。

 次に、誰もいないのをいいことに顔を動かした。

 眼球を寄せ、口を思いきりすぼめる。ひょっとこの顔。

 額に皺を寄せ、口角を片方だけ引き下げる。自分でも笑えるほど変な顔。

 顔面神経にも、今のところ問題はない。発症時の酷さのわりに頗る良好だ。

 タケルは、勢いづいて適当な言葉を話してみた。

「こんにちは。私の名前は楠タケルです。

 私は19××年×月××日生まれ。今日は、2026年×月×日です。」

 咽喉や声帯の機能まで確かめるべく、タケルはあえて元気な声で話した。自分の声を、自分で聴く。妙な気持ちだった。


 すると突然、

 「はあ!?19××年生まれ? 今日は2026年×月×日!?」

 と天井から若い女性の声がした。

 まもなく、ドアが音を立てて開き、

「……ちょっと待って。今、本当に19××年って言いました?」

 白衣の若い女性が駆け込んできた。

 二十歳そこそこに見える。白衣は妙に軽く、皺ひとつない。布というより、薄い樹脂を折りたたんで服にしたような質感だった。

 顔立ちは若々しく、目がぱっちりとした、溌剌とした顔だった。しかしながら、その表情や目の動きには少しだけ違和感があった。

 タケルはそれを見逃さなかった。職業病だと思う。患者の顔色を読む癖は、自分が患者になっても抜けなかった。

「あなたが主治医ですか」

「シュジイって何ですか」

 彼女は本気で分からないという顔をした。

「ここは武蔵野第七自動救急センターです。私は付属ラボの学生補助。スタッフですらありません」

「児童救急?」

「自動救急です」

「医者は」

「いません」

「救急に医者がいないのか」

「医者なんて、いるわけないじゃないですか」

 タケルはさすがに会話のかみ合わなさに居心地の悪さを感じた。

 彼女自身も、混乱した顔をした。


「…とにかく、今はどういう状況ですか?」

 というタケルの質問に対し、彼女は端末を横目に見た。彼女の眼が、水平に揺れた。

 そして早口で話し始めた。

「あなたは都市歩行層で単独失神状態として巡回機により検出され、自動救急の無署名搬送枠で収容されました。到着時点で、市民ID、身体台帳、継承保険タグの三系統が照合不能。自然人格有無を判定不能。人格継続リスクは暫定C、身体機能回復優先度は低位。診断AIは、暫定的人間性を認めた上で、臓器代替、記憶補完、代理人格呼出しのいずれも不要と判定しています。現在は最低継続プロトコルに従い、補水、循環補正、胸郭同期膜による換気補助のみで保存中です。覚醒確認後は、本人性仮登録、不整合申告、費用帰属の順で処理され・・・」

 すでに、状況はタケルの理解をゆうに超えていた。

 自然人格有無、暫定的人間性、最低継続プロトコル。聞いたこともないような奇妙な用語が並ぶ。タケルはそれ以上考えるのをやめた。もはやタケルは、点滴ルートなしでどうやって循環コントロールをしたのかなどと、医学的な疑問にしか注意がいかなくなっていた。

 彼女は、タケルの様子を見ると、話を中断し、また端末表示へ視線を振る。彼女の眼が、また震えた。

「とにかく、システムによると、あなたは十分に回復しています。」

 タケルは彼女をじっと見た。

「私もずっとあなたをモニタリングしていました。

 良かったですね。上手に変顔もできるくらいに元気になって。」

 といたずらっぽく言った。

 タケルは恥ずかしく思い、ほかに恥ずかしいことはしなかったかと心の中の反省会を瞬時に行い、少し押し黙ってしまった。

「…ありがとう。よく観察してくれて。それでこそ医療従事者の鑑だ。」

 タケルがそう皮肉を言うと、女の表情が少しゆるみ、不意をつかれた顔となった。

 タケルにはその表情の意味が分かった。彼女が医療志望の学生なのかどうかはわからない。ただ、彼女が良き医療者として見られたいと思っていることを微細な表情からタケルは読み取った。

 そしてそれは、タケルにとって、最も信用に値することだった。

 彼女を励まし承認するような、彼女の欲しがる言葉を追加することもできた。しかしタケルの口から出たのはこのような言葉だった。

「…でも、君も体調に気を付けた方がいい。」

「私は元気ですよ?」

「めまいがあるだろう」

 彼女の表情が変わった。

「なんともないです」

「正面でも眼振が出ている。右を注視したときに眼振が強くなる。前庭性のめまいだ。メニエール病か、片頭痛だろう。耳鳴りや、聴こえは大丈夫か?今は休んだ方がいいんじゃないか。」

 タケルが早口で言うと、彼女は顔を真っ赤にして怒りとも羞恥ともつかない表情となった。

「分かられたくないんですけど」

「お互い様だ」

2026.4.30 公開

2026.5.1 いろいろなところを加筆修正しました

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