序章 脳外科医が倒れる日
脳外科医が2222年にタイムスリップ!?
ロボットも人間も救う、本格医療ドラマ×SF
午前二時十一分。
顕微鏡の下で、糸より細い血管の断端がようやく噛み合った。
「遠位、クリップ外します」
助手の指が動く。
「待て」
その一言で、手術室の空気が止まった。
吸引の音が細くなる。麻酔器の呼吸だけが規則正しい。モニターの電子音は落ち着きすぎていて、かえって不気味だった。術野の奥では、たった今つないだ血管が、一本の判断でまた終わるかもしれない。
「左の穿通枝が沈んでる」
若い助手が顕微鏡の脇で息をのむ。
「でも先生、その枝はもう捨てる判断じゃ」
言った瞬間、自分でも言いすぎたと分かった顔になる。
楠タケルは顕微鏡から目を離さなかった。
「脳に捨てていい部位などない」
怒鳴ったわけではない。だがその一言で、室温が一度下がったように感じた。
「そこが落ちても、この人は死なない。歩ける。食える。たぶん喋れる」
声は低い。
「だが指先の順番が死ぬ」
助手が黙る。
「シャツのボタンを留めるのが遅れる。字の最後が少し崩れる。家族しか気づかない。でも本人は毎日それで躓く。
捨てるなら、そこまで見てから言え。」
一拍置いて、タケルは言った。
「パパベリン。吸引、少し逃がせ」
薬液が落ちる。痙攣みたいに細くなっていた血管が、ごくわずかにほどける。灰色だった深部に、じわりと色が差した。
「……来た」
助手の声が掠れた。
「再灌流、確認」
「さすがです…。先生、何を見てたんですか」
タケルは短く答える。
「血管じゃない。脳だ。戻せる脳は、分かる」
顕微鏡の奥で、灰色だった深部にじわりと赤みが戻っていく。
「助かったとは限らない。血が戻っただけだ。ここから浮腫く。痙攣も出る。言葉も手も、戻るかどうかはまだこれからだ」
切らないで済んだ線がある。残せた順番がある。そこまで抱えて、ようやく助かったと言える。
「閉じるぞ」
止まっていた手術室が、また動き出した。
*
ICU前の廊下は、手術室より明るいくせに息が詰まる。
自動扉の前で待っていた家族が、タケルの姿を見た瞬間に立ち上がった。若い娘と、その隣の父親。どちらも一晩で十歳老けたような顔をしている。
「先生」
娘の声が掠れていた。
「母は、助かったんですよね」
タケルはうなずいた。
「命はつなぎました」
娘の肩がわずかに下がる。その一瞬の安堵を見て、タケルは続けた。
「ただ、元に戻るかはまだ分かりません」
空気が変わった。
「元に戻る、というのは」
父親が聞く。
「麻痺や失語が残る可能性があります。そこまで大きく出なくても、右手の細かい動き、動きの段取り、感情の起伏みたいな、見た目では分かりにくい障害が残ることがある」
「でも…」
娘は祈るみたいな声で言った。
「助かったん…ですよね…?」
「命が助かったことと、元の生活に戻れることは別です」
娘が黙る。意味は分かる。分かりたくないのに、意味だけは正確に届いてしまった顔だった。
「どれくらいで分かりますか」
「数日から数週間です。腫れが引くまで見ないといけない」
そこで娘が、まっすぐタケルを見た。
「うちの母、ピアノの先生なんです」
その一言で、カルテの職業欄が人の人生に変わる。
右手の分離運動。四指と五指の立ち上がり。打鍵の深さ。和音をつかむ速さ。速いパッセージの最後で、一音だけ遅れないこと。
「生きてくれたら、それだけでいいって思ってました。ほんとに思ってたんです。でも」
娘の喉が震える。
「もし指が前みたいに動かなかったら、母はそれでも助かったって言えるんでしょうか」
父親が小さく「やめなさい」と言う。だが娘は止まらなかった。
「だって母、弾けない時、すごく悔しそうな顔するから」
家族に必要なのが何か、タケルにも分かっていた。
大丈夫です、と言えば、この夜は少しだけ越えやすくなる。
だが、その言葉に根拠はなかった。
根拠のない希望で今夜をつないで、あとで失意に落とすくらいなら、ここで冷たい医者でいた方がまだましだ。タケルはいつも、そちらを選んでしまう癖があった。
「いつ戻れるかも、わかりません」
娘の喉が小さく鳴る。
「でも、指も言葉も感情も、そこまで含めて診ます」
少し不器用だと思いながら、タケルは続けた。
「命だけ見て終わりにはしません」
父親が深く頭を下げた。
礼なのか、崩れ落ちるのをこらえているのか、少し見分けがつかなかった。
タケルは白い自動扉を一度だけ振り返る。向こう側にも、まだ守るべきものが残っていた。
*
エレベーターの扉が閉まる。
箱の中は静かすぎて、さっきの娘の声だけがまだ残っていた。
うちの母、ピアノの先生なんです。
その言葉が、そのまま評価項目に変わる。
術後CT。再出血。脳浮腫。失語。右手の巧緻運動。
ただの右手ではない。四指と五指の独立。打鍵の深さ。和音をつかむ速さ。怒り方や笑い方の順番が戻るか。
人が人でいるための細い回路が、どこまで残っているか。
そこを見ることだけは、誰にも譲れなかった。
階数表示がひとつ変わる。
その数字を見た瞬間、視界がわずかに遅れた。
あ、と思う。
床が少しだけ斜めになる。寝不足の立ちくらみだと片づけかけて、違うと知る。もっと嫌な揺れだった。
めまい。
嘔気。
手先のしびれ。
遅れて頭痛が追いついてくる。
非常停止を押そうとした指が空を切った。膝から先に力が抜ける。金属の壁に肩がぶつかる。
それでも頭のどこかだけが妙に冷静だった。
次の手術に間に合わない、と思う。
術後評価がずれる、と思う。
そこでようやく、自分の方が患者になるのかと理解した。
ひどい皮肉だ、とタケルは思う。
笑うだけの筋肉は、もう言うことをきかなかった。
白い天井が、ゆっくり傾く。
お兄ちゃん、と誰かが呼んだ気がした。
知っているはずの声だった。それなのに、その響きだけがどこかで聞いたことがなかった。
振り向くより先に、世界が落ちた。
*




