第三章 第三話「恒」
兄の真実は3歳年上で、幼い頃から何をするにも兄の後ろをついて行ってた。
腹が空いた時には、子供でも作れる簡単で満腹になる飯の作り方を教えてくれた。
親との記憶はあまりない。両親は高齢の父方の祖父母の介護で忙しく、たまに会話すれば『医者になれ』という指図ばかりだった。
徹真が幼い頃にはすでに祖父母は90歳を超えていた。父が生まれた時、祖父母はすでに50歳を超えており、父は祖母の長い不妊治療の末に帝王切開で生まれたと聞いたことがある。
長寿医療の進歩は、徹真と真実が家族で過ごせる時間と引き換えに、ヒトの平均寿命を大きく延ばした。
両親の教育方針あって恒兄弟は近所では成績優秀で有名だったが、徹真が中学三年、真実が高校三年の夏、事件が起きた。
珍しく食卓に家族が揃った夜のことだった。兄の真実が『他校に彼女がいる。その彼女が妊娠した』と打ち明けたのだ。
母は泣き、父は激昂し、真実は家を出て、やっとの努力で入学した医大附属高を辞めて働き始めた。
『俺と紅寧に子供だってよ。早く会いてえなァ』
家を出る時、真実はそう言って笑った。
両親には言ってはいないが、徹真は真実の彼女に会ったことがある。名前は喜代永紅寧といい、初対面の徹真に『おめーそんなデカいのに人見知りなのかよ!?』と言ってのける3歳年上の強烈な女子だった。
真実は、自分のことで家が大騒ぎだというのに、どこまでも日だまりのように穏やかな声で赤ん坊の誕生を心待ちにしていた。
そんな兄がいなくなって、家はますます静かになった。
徹真は元々寡黙な少年で、真実から『学校楽しいか?』などと聞かれて初めて自分のことを話すので、真実がいなくなると誰ともくだらない話をする機会がなくなった。
太陽が昇るのをやめたような日々の中、背丈だけが延びていく。
徹真の高校受験が終わるのと同じ頃、真実が入院した。
過労だった。
「……なんで、こんなになるまで働いた」
徹真は怒りと心痛を滲ませて尋ねた。
「徹真知らねえのか?子供育てるのって2000万円必要らしいぜ」
「……それは俺も聞いたことはある」
「あと1か月くらいで生まれるんだ。2000万には届きそうにねえけど、1円でも多く稼がねえとなァ」
「……は?」
徹真が目を見開く。
「……マジで言ってるのか?」
「何がァ?」
「……子供育てるのに2000万必要って話は、生まれてから大学行くまでの話で……生まれるまでに2000万必要なわけじゃねえぞ」
「そうだったのかァ?」
「馬鹿野郎!!まさか2000万稼ごうとして倒れたのか……?」
「いやァ、そのまさかよ」
「……もうこんなになるまで働くな。本当に死んじまうぞ」
「無理だな。もう一ヶ月先までシフト入れちまってる。こんなんで休んだら俺を雇ってくれた職場に迷惑かけちまう」
「ッ……」
働いたことのない15歳の徹真には、仕事だと言われてしまえばそれ以上何も言えなかった。
その後も働き続けた真実は、急性心不全で亡くなった。
止められなかった。真実は生まれてくる子供に会いたい一心で働き続けた。たったひとつの勘違いによって、真実はたったの一度も子供に会うことなく命を落とした。
真実の周りには、誰も真実の勘違いに気付いてあげられる大人はいなかった。何でも知っていて無敵に見えた兄は、本当はただどこにでもいる、よく間違えてよく突っ走る18歳の子供だった。
その事実だけが徹真に重く残された。
桜の開花を告げるニュースが流れてから1週間ほど過ぎた頃、徹真のスマホに知らない番号から電話がかかってきた。
声の主は喜代永紅寧だった。以前会った時と変わらない声色で、徹真の子供が生まれたと知らされた。
『会ってみないか?』
紅寧は訊いた。
「……いいのか?」
『いいもクソも、お前にとっては甥っ子だぞ。生まれたてだからしわくちゃのサルみてえだけど、かわいいぞ』
「……名前は」
『寧生。私の名前から一文字とって、生きるっていう字とくっつけた』
「生きる……」
真実の子だ。会いたいに決まってる。
しかし、会うのが怖かった。寧生に会うということは徹真にとって、真実が死んだあとも続く世界に会うということだ。
真実の死を普通に乗り越えて進んでいく周りの人間の様子が、そしてそこから取り残されることが、徹真には針の筵のように痛くて仕方がなかった。
結局ーー徹真は寧生に会わなかった。
寧生は、徹真にとって真実が死んだあとも続いていく世界そのものであり、恐れだった。
赤ん坊だってこんな未練と後悔で汚れた手で触れられるのは嫌だろうと、徹真は真実が死んだ世界に背き、そこから己を隔離した。
高校生になり、季節が何度巡っても徹真の後悔は晴れなかった。
ーーもしも祖父母が高齢でなかったら、両親は兄の勘違いに気付き、正してあげられただろうか。
ーーもしも両親が兄の彼女の妊娠を祝福し、家族で兄を支えていたら、兄は子供のために一人で命をすり減らすことはなかったのだろうか。
ーーもしも自分が兄で真実が弟だったら、真実は自分の忠告を聞いてくれていただろうか。
ーーもしも寧生が生まれてこなかったら、真実は死ななかっただろうか。
こんなことを考えてしまう男が、どうして寧生に会えるだろうか。
月日が過ぎていくに連れ、徹真の中の『寧生』は死と喪失の象徴として巨大に育ち、心を深く蝕んでいった。
徹真は一度もその子供に会っていない。だからこそ一人では抱えきれない悲しみを、兄の孤独を、年少者としての虚しさを、理不尽への怒りを、社会構造への憎しみを、一人の子供に重ねてしまった。
成人し、職に就いてからの生活は側から見れば順調そのものであった。
医者にこそならなかったが、寡黙な自分に向いている仕事を見つけ、日々を淡々と過ごしていたーー肚の中に真っ暗な後悔を燃えたぎらせたまま。
ある日の仕事帰り、川沿いの道で学校帰りの小学生を見つける。
その貌には真実の面影があり、徹真の呼吸が止まる。
小学生は友人から『いずき!』と呼ばれた。
徹真は確信した。
「……あれが、……寧生」
後悔が静かに黒い炎を噴く。
真実の顔が、あの日の病室が、砂嵐のかかった映像となって徹真の視界を埋め尽くす。
あの子供のそばにいてはならない。このまま居続けては、自分は何をするか分からない。徹真は踵を返し、その日は遠回りして帰宅した。
化け物か、俺は。心の中で燃え拡がる黒い炎に吐き捨てた。
その日から、仕事が終わるたびに道にあの少年がいないことを厳重に確かめてから帰るようになった。家に着くまで息が上手くできず、足はことあるごとにもつれ、鼓動が耳の中で絶えず鳴り響くようになった。
にもかかわらず、少年はたびたび徹真の前に現れた。なんら不思議なことではない。この町は自分も真実も暮らしていたのだから、今でも近隣に真実の息子が暮らしていてもおかしくはない。徹真の悲劇は、その少年が真実の子だと気付いてしまったことだった。
「化け物め……」
徹真が禍々しい悲劇の象徴を視界から完全に追い出すことは不可能だった。
夏のある日、川沿いの道で再びあの少年を見つける。
「……寧生」
一人で多摩川の方へ歩いていく。その頃には、徹真は酷い耳鳴りと不眠に苛まれていた。
多摩川へ歩いていく少年の背中を見て、心の中でまた黒い炎が燃え上がる。
いつまで灼かれればいいのだろう。明日も明後日も明々後日もその次も、こんなことがずっと続くのだろうか。あの日の病室と真実の顔が現実の視界を埋め尽くし、徹真は自分がどこに向かって歩いているのかも分からなくなった。
夏の日差しが肌を灼く。
気がつくと河川敷にいた。
まるで過ぎていく時間のように無情に流れる川の音が耳に障る。
川の真ん中にぽつんと浮かぶ離れ小島には誰の手も届きそうにない。
足元の砂利が、踏みつけられてゴリゴリと悲鳴を上げる。
「……お前のせいで、あいつは死んだ」
気がつくと口にしていた。
少年は心底不思議そうに振り返った。
忘れたとは言わない。
その日徹真は、自らの手で寧生を殴殺した。




