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商談不成立

 一人で外に出た陽は、コンビニに向かう前に、誰もいない深夜の公園で電話をしていた。


「ああ、俺だ。また一匹ガキを捕まえた。すぐに来てくれ。――俺もこの前のでこの辺りは最後にするつもりだったんだが、有希が上物を見つけてな。――ああ。いつも通り、薬で眠らしておくからな」


 電話を切ると、陽は鼻歌交じりにコンビニへ足を向ける。


 陽がコンビニに着くと、あの黒スーツの男がまだ煙草を吸っていた。夜中だというのにサングラスを外さない黒スーツはとてもカタギの人間とは思えなかった。不審に思いながらも、コンビニで追加のプリンを買って陽は帰路に就く。



               ⊃・⊃・⊃



 浴室でシャワーを浴びているリンは、頭や体を洗うでもなく、ただお湯の雨の中で突っ立っているだけだった。

 凹凸のなだらかな彼女の白い体には、制服を着ている時には見えなかったが、あちこちに大小の傷痕がある。


 お湯の雨が滴り落ちる音を聞いていたリンは、おもむろに床に座り込むと、口の奥へ指を突っ込む。そして胃の中にあった未消化のプリンと牛乳を残らず吐き出す。

 プリンだったものが排水口に飲み込まれていくさまを、彼女はじっと見つめていた。


「……」


 しかし、彼女が吐き出したのは食物だけではない。とても小さなガラス瓶も一緒に吐き出していたのだ。

 排水口に引っかかっているその瓶の中には無色透明の液体が入っている。


               ⊃・⊃・⊃


 浴室で何かが倒れたような音が聞こえると、有希は結束バンドを幾本か持って様子を見に行く。


「リンちゃん? どうしたの?」


 何度か呼びかけてみるが、浴室からはシャワーの流れる音しかしない。


「リーンちゃーん……。入るよ?」


 有希が浴室の扉を開けると、とても薬品臭い蒸気が飛び出してきた。


(くさ)っ! な、なにこの臭い!?」


 浴室内では、出しっぱなしのシャワーに打たれているリンが、壁にもたれかかるように座ってうなだれていた。


「この子の臭いなの……?」


 タオルで鼻を覆いながらシャワーを止める。

 なんでこんなにホルマリンの臭いがするのかはわからないが、有希にとってはそんなことはどうでも良かった。これから売られるリン(商品)の過去や素性がどうであろうと、彼女には関係ないからだ。



 何度か揺すったり頬を軽く叩いてみて反応はないことを確認する。まぶたをこじ開けても視線が動かない。


「リンちゃーん、お薬入りの牛乳飲んで眠っちゃったのかなー?」


 リンが完全に眠っていることを確認すると、有希は脱衣所に戻って結束バンドを持ってくる。


「これで大金が貰えるんだから、楽なものよねー。高飛びする前にもう一稼ぎできるなんてついてるわ。ごめんねリンちゃん、私たちのハネムーンの足しになってね」


 意気揚々と浴室に戻ろうと有希が振り向いた瞬間、目の前には全裸のリンが立ちはだかっていた。



「えっ……」



 ありえない。

 なぜ、起きている。

 確かに牛乳に混ぜて飲ませたはずなのに、なぜ薬が効いていないのか。


 そのことを有希が考える前に、リンはさきほど吐き出した小瓶の中身を彼女の顔にひっかけた。


「――ぎゃあああっ!」


 まさしく焼けるような激しい痛みが襲いかかり、有希は顔を押さえて狭い脱衣所の床をのたうち回る。

 脱衣所に立ち込めるこの強烈な臭いは、紛れもなくホルマリンだ。


 しかもただのホルマリンではない。

 小瓶に入っていたのは、通常は五倍から十倍に希釈して使用するホルマリンの原液だ。そんな劇物を肌や目にかけられれば激しい痛みと炎症を引き起こし、揮発した高濃度のホルマリンのガスを吸い込めば喉も焼ける。


 だがそんな毒ガスの中でも平然として立っているリンは、床に落ちていた結束バンドで有希の手足を縛り、騒げないように口にタオルを巻きつける。そして脱衣所の窓を開けて換気をした。


 リンは、全裸のまま部屋に戻ってスマホの電源を入れ直してどこかに電話をかけ、台所から包丁を持ってきた。


 脱衣所では有希が(うめ)いているが、焼けた喉とタオルが邪魔でまともな声が出ない。包丁を待ってきたリンは、有希をうつ伏せにして上に乗り、彼女に向かってその刃を振るった。


               ⊃・⊃・⊃


 しばらくして陽が帰ってくると、彼を迎えたのは無音と暗闇のみであった。


「有希? 人をパシらせておいて寝てんのか?」


 声をかけるが返事がない。

 そしてなぜかきつい薬品(ホルマリン)の臭いがする。


 嫌な予感が陽の背筋を這い登ってくる。


「おい有希、いるんだろ! 返事をしろ!」


 声を荒げて中に入って電気をつけると、明るくなったリビングには、ホルマリンの臭いと後ろ手に縛られた有希の背中があった。彼女の小指は切り取られていて、結束バンドでむりやり止血されている。



「有希っ!」


 陽は慌てて駆け寄って有希を抱き起こすが、眠っている彼女の顔を見ると、拒絶するように飛び退いて絶句する。


「なっ……!?」


 彼女からは鼻を刺すようなホルマリンの臭いがして、その顔は醜く焼けただれたようになっていた。

 腰を抜かした陽が状況を理解する前に、頭に固い何かが突きつけられる。


「動くな。脳みそをぶち撒けられたくないならな」


 見知らぬ男の声が背後から聞こえた。


「だ、誰だお前は。有希に何しやがった!」

「俺か? 俺たちはオブチュアリー・ノーチスっつー掃除屋だ」

「ふざけるな! 有希になにしやがった!」


 振り向こうとした陽の頭を、背後の男が思い切り蹴り上げる。

 倒れた陽が頭を起こそうとすると、今度は赤いフレームのメガネをかけた制服姿のリンが銀色の大きな拳銃(デザートイーグル)を突きつけてきた。


「お前は……!」

「動くなって言ったろ。つーか、お前らはやり過ぎたんだよ」


 黒スーツの男が陽の顔を土足で踏みつける。歯が折れて口のなかに血の味が広がった。


「ガキさらいも一人か二人でやめとけばいいものをな。欲張るからこうなるんだ」


 男は何度も陽の頭を蹴る。陽が抵抗しなくなると、最後にもう一度蹴った。


「リン、こいつも縛って眠らせとけ。連れてくぞ」

「……うん」


 袋に詰め込んだ有希を背負って黒スーツの男は部屋から出ていく。何度も頭を蹴られて意識が朦朧とする陽は、大した抵抗もできずにリンに縛られてしまう。


「やめてくれ……。頼む、助けてくれ……」


 歯が折れてうまく喋れない陽がリンに助けを求める。だが、リンは何も答えなかった。


「……そ、そうだ。お前、プリン好きだったよな。金は、あるんだ。俺を助けてくれたらいくらでも買ってやるぞ」


 いくら言っても彼女の手は止まらない。

 陽を縛り上げると、リンは薬の入った注射器を取り出す。


「お願いだ……。死にたくねえんだ……」


 泣いて懇願する陽だが、リンは最後まで目線すら合わせなかった。

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