ルシドの野望
ディーラで『神聖イオン帝国』の建国宣言がなされ、数万の民の歓声が響き渡っていたころ。
大陸で最も土地が広く、農業が盛んな大国サンタスの王宮では、若き王ルシドが焦燥しきった様子で部屋を右往左往していた。
「カリア……! 聞いたか、中原の自称イオン十七世の小僧め、ついに神聖イオン帝国などと名乗って新しい国を興しおった!いよいよ、本当に戦争が始まるのだが…」
優柔不断なルシドは、激動する大陸の情勢にただただ怯え、その細い身体を震わせていた。
そんな夫の背中へ、一人の美しい女性がそっと細い手を添えた。ルシドの最愛の妃、カリアである。
カリアはルシドを安心させるように優しく微笑むと、彼を包み込むように耳元で甘く囁いた。
「何を怯えていらっしゃるのです、ルシド様。これは、天があなたに与えてくださった最大の『好機ですわ」
「好機……? 我がサンタスにか?」
ルシドが不思議そうに振り返ると、カリアはその美しい黒い瞳に完璧な人形の輝きを宿し、彼の手を優しく握りしめた。
「ええ、そうです。あの大逆者どもを討つために、帝国の黒眸騎士団と北部同盟が動き出します。そして我が父盟主デモノ王は、この戦いで最も大きな軍功をあげた者に、次の時代、すなわち北部デルモラードの地を統べる『真の王』の座を譲ると約束してくださいました。しかも私はデモノ王の娘です。」
「デルモラードの……王……!」
ルシドの瞳に、初めて小さな野心とプライドの火が灯った。彼はカリアを心から愛しており、彼女の言葉に一切の嘘がないと盲目的に信じ込んでいた。何より、カリアはルシドにだけは一度も嘘を言ったことがないのだ。ただ、これがデモノ王から娘に下された「サンタスの兵力を限界まで絞り出せ」という冷酷な密命だという事実を、ルシドが知る由もなかった。
「ルシド様。あなたこそが、次のデルモラードを統べるにふさわしい気高きお方。デモノ王の信頼を勝ち取るために、今こそ我がサンタスの誇るすべての力を、同盟のために差し出すのですわ」
カリアの甘い、しかし拒絶を許さない響きに踊らされ、ルシドは狂喜乱舞した。
「ああ、お前の言う通りだ、カリア! お前を次のデルモラードの、最も高貴な王妃にしてやる! 我がサンタスは一番大きい国だ、兵力は一万もある! 国を留守にするための最低限の千だけを残し……よし、九千の兵のすべてを同盟の軍勢として私が直々に連れていこう!」
「素晴らしい決断ですわ、ルシド様……。あなたなら、必ず素晴らしい王になれます」
カリアは完璧な微笑みを浮かべながら、深くルシドの胸に顔を埋めた。
ルシドは満足げに彼女の肩を抱き寄せ、未来の王になるという無邪気な夢に胸を膨らませていた。
カリアの身体を汚い欲望で見て来る男達とは違い、ルシドの愛には一切の濁りも嘘もない。
カリアは、デモノの娘では無い。カリアは、あの血の海のなかでデモノ王に拾われ娘として育てられたのだ。先にルシドに出会っていたなら、彼のこのまっすぐな内面に救われ、それなりに本当に好きになって幸せになれたはずだった。
だが、カリアの心はすでにデモノ王という孤独な怪物に囚われていた。カリアにとって、ルシドを騙し、サンタス国の兵と穀物をギリギリまで搾り取るこの行為は、デモノ王のための完璧な『道具』としての仕事だった。
(ルシド様……。私を本当に愛し、嘘のない誠実さを注いでくださる優しい人。あなたが私の言葉に踊らされ、兵を差し出せば差し出すほど、あなたは破滅へと近づいていくかも知れないのに私は……)
翌日、大陸で最も土地が広く、農業が盛んな大国サンタスの重々しい評議の間には、居並ぶ重臣たちの困惑とどよめきが満ちていた。
「皆、よく聞け!」
玉座から立ち上がった若き王ルシドは、これまでにないほど激しい野望の光をその瞳に宿し、机の上の大陸地図を力強く叩いた。
「ディーラの自称イオン十七世の小僧め、ついに神聖イオン帝国などと名乗って新しい国を興しおった! モーゼス宰相様もデモノ盟主も、あの大逆者どもを絶対に許しはしない。これより、本当に時代がひっくり返る大戦争が始まるのだ。そして、これこそが天が我がサンタスに与えてくださった最大の好機である!」
ルシドは激しく声を張り上げた。これまでは優柔不断で情勢に怯えるばかりだった若い王が、まるで何かに取り憑かれたように自信に満ち溢れている。 重臣たちが顔を見合わせるなか、ルシドのすぐ隣には、最愛の妃カリアが貞淑で美しい笑みを浮かべて静かに寄り添っていた。
ルシドがここまで豹変したのは、他でもない、昨夜カリアから「あなたこそが次の北部デルモラードを統べる真の王にふさわしいお方」と甘く囁かれ、その無垢な野心を限界まで煽り立てられたからだった。
「ルシド様、しかし……我が国の常備軍は、すべてを合わせても6000。出せるのは4000でしょうか…」
老臣の一人が不安げに異を唱えると、ルシドは不敵に笑って首を振った。カリアが裏から完璧に操り、ルシドの口から言わせようとしている狂信的な軍事計画が、その口から淀みなく飛び出す。
「案ずるな! 我がサンタスの国庫にある蓄えを、これよりすべて叩き出す! その莫大な資金をもって大陸中から腕利きの傭兵をかき集め、さらに領内の国民を呼び集めて臨時の兵士として仕立て上げるのだ。これにより、我がサンタス軍は一気に『一万』の大軍勢へと生まれ変わる!」
「な、国庫の蓄えをすべて軍備に……!? 国民を兵にするなど無茶です!」
重臣たちの間に悲鳴のような動揺が広がった。
国力をギリギリまで絞り出す、あまりにも無謀な大博打だ。しかし、カリアを心から愛し、彼女に最高の王妃の座を与えたいと願うルシドには、もう重臣たちの制止など耳に入らなかった。
「黙れ! 勝利の後の果実を思えば、これしきの投資は当然だ。カリア、我が軍の配置についての件、皆に伝えてやれ」
ルシドに促され、カリアは完璧に洗脳された人形のフリをしながら、重臣たちへ向けて優雅に、そして冷徹に言い放った。
「重臣の皆様、王のご決断を疑ってはなりませんわ。新しく構築される12000の軍勢のうち、訓練された本物の兵士と強力な傭兵たちを含む9000の全力を、我がサンタスの威信をかけて北部同盟の軍勢として出撃させます。そして、国民から急ぎかき集めた兵2000に補給部隊を、残り1000を国の治安維持として残すのです。これで万事、抜かりはありませんわね?」
カリアの美しくも拒絶を許さない響きに、重臣たちは圧倒され、それ以上言葉を返すことができなかった。
ルシドは満足げに深く頷き、隣の妃の細い肩を抱き寄せた。
「その通りだ! 9000の精鋭と2000の補給部隊、総勢11000を率いて、この私が直々にデモノ盟主のもとへと馳せ参じる! 我がサンタスの豊かな実りと、この圧倒的な大軍があれば、次のデルモラードの覇者が誰になるかは明白だな!」
ルシドの顔には、未来の真の王になるという純粋で無邪気な夢が輝いていた。
カリアへの愛にも、彼の野心にも、一切の嘘はない。ただ、これがデモノ王からカリアへ下された
「サンタスの国力を限界まで貢がせ、使い潰せ」という冷酷な密命であることなど、ルシドも重臣たちも夢にも知らなかった。
カリアは心の中でただ一人の孤独な怪物の完璧な道具としての冷徹な微笑を捧げていた。
大国サンタスの蓄えをすべて叩き出し、無理やり一万へと膨れ上がらせた歪な軍勢。
そのうちの9000主力と補給部隊の2000が、若き王ルシドの野望とともに不気味に動き出すのだった。




