暁の赤面姫とカイル王 1
南の強国サウザーの到着を祝う盛大な歓迎会が幕を閉じ、城内が静寂に包まれた夜。
シオンは、今回新しく割り当てられた自身の部屋へと案内されていた。
ディラーの女官たちが丁重に一礼して退室し、重厚な木製の扉がパタンと閉まる。
「……ふぅーーーーーっ!!」
部屋に一人きりになった瞬間、シオンは肺にある空気をすべて吐き出すように、深く、深く息を吐いた。
凛と張り詰めていた肩の力が一気に抜け、サウザーの全軍を率いる威厳ある『姫将軍』の仮面が、その綺麗な顔から完全に剥がれ落ちる。
内面は、亡き兄エドワ王子の遺志を継ぐためにただ必死で頑張っているだけの、どこにでもいる十九歳の可憐なお姫様なのだ。ましてや、最近気になるカイル王の御前である。
歓迎会の間中、緊張で心臓がずっと口から飛び出そうだった。
「疲れたぁ……! カイル様か……!」
シオンは小娘のように頬を真っ赤に染めると、仕立ての良い豪奢な天蓋付きのふかふかのベッドへ向かって、無防備に勢いよくダイブした。
「……ひゃん?」
うつ伏せに倒れ込んだシオンの顔のすぐ下、シーツの奥から、聞いたこともない不気味な硬い這行音が響いた。
シオンが条件反射でシーツを跳ね除けた、その瞬間。
月明かりに照らされた純白のシーツの下から、大人の腕ほどもある太さで、長さは一タット(約百三十五センチ)近くあろうかという、禍々しい多足の巨大生物が二匹、のそりと這い出てきた。
野生に深く根ざす、無毒だが嫌悪感を極限まで凝縮したような巨大虫『ガザガザ』であった。
「――っ、ーーーーーーーいやぁあああああああああああああああああああッ!!!」
脳の芯まで突き抜けるような悲鳴だった。
戦場であれば大剣を振るって敵を薙ぎ倒す姫将軍はどこへやら、中身は純粋なお姫様であるシオンは、恐怖のあまり半狂乱となってベッドから転げ落ちた。
狂ったように足をもつれさせながら、なりふり構わず部屋の扉を押し開け、廊下へと飛び出す。
ドンッ!!!
「おっと、危ない。どうした、シオン殿」
全力で飛び出したシオンの身体は、たまたま廊下を通りかかった、岩のように頑強な男の胸板へと正面衝突した。
強い衝撃にシオンが涙目で顔を上げると、そこには怪訝な顔で自分を見下ろすカイル王の姿があった。
実は、急な増員に伴ってシオンに急遽あてがわれたこの部屋は、この城が建った当時に王の側室の部屋として設計された、奥まった特別室だった。
そしてその部屋のさらに奥の廊下は、カイル王自身の寝所へと直結していたのである。
王が自室へ戻る途中の、完全に予想外の衝突だった。
「か、カイル…さま…! あ、あの、へ、部屋に、部屋にぃッ!!」
完全にパニックに陥ったシオンは、普段の凛々しい口調など塵一つ残らず吹き飛び、カイル王の衣服の袖を掴んでガタガタと震えながら、ただ自室を指差すことしかできない。
「部屋に? ――曲者かッ!」
カイル王の目つきが一瞬で鋭く跳ね上がった。ハルトの件の直後である、モーゼスの刺客が早くも動いたかと直感し、戦士の顔になってシオンの部屋へと迷いなく踏み込む。シオンは震えながら、王の背後からベッドを指差した。
カイル王は全身の筋肉を限界まで引き締め、一気の間合いでベッドに躍り出ると、大剣をいつでも引き抜ける体勢のまま、左手で一気に純白のシーツを剥ぎ取った。
そこには、月光を浴びて、無数の足を慌ただしく動かしている二匹のデカいガザガザが、ただ間の抜けた様子で佇んでいた。
「…………なんだ、これか」
カイル王は拍子抜けしたように、肩の力を思い切り抜いた。
そして、未だに廊下の陰からガタガタと震えてこちらを見ている金髪褐色の姫将軍に向かって、呆れたように、しかし至って真面目なトーンで告げた。
「シオン殿、ただのガザガザですよ。……ふむ、な
かなかに大きい。これはじっくりと火に燻って、香ばしく焼いて食べたら非常に美味そうですよ?」
シオンは耳を疑った。涙で濡れた瞳を限界まで見開き、信じられないという顔でカイル王を見つめる。
(いま、何と言ったの? 焼いて、食べる……!?)
カイル王は心の中で本気で首を傾げていた。
(サウザーの軍勢を率いるほどの凄腕の戦士だ、過酷な戦に出れば、ガザガザの二匹や三匹、焼いて貪り食うことなど日常茶飯事だろうに……。何をそんなに怯えているのだ?)
王のズレきった戦士としての親切心が、ここで最悪の追い打ちをかける。
カイル王は、シオンの恐怖を取り除いてやろうと、素手で太いガザガザの一匹の胴体をガシッと掴み上げると、それをシオンの目の前へと差し出したのだ。
「ほら、見てごらんなさい。肉が詰まっていて実に美味そう――」
「ひっ、……あ、…………」
目の前に迫る、うねうねと動く一タット近い巨大な多足生物の質感。
シオンは白目を剥き、声にならない悲鳴を最後に、そのまま後ろへと糸の切れた人形のように、ゆっくりと倒れ込んでいった。
「シ、シオン殿!?」
カイル王は慌ててガザガザを放り捨て、倒れる寸前のシオンの身体を、その逞しい両腕で間一髪抱き留めた。腕の中のシオンは完全に気を失っており、その美しい金髪がカイル王の腕に柔らかくかかる。
タタタタッ!
「シオン様!? 何か?――」
その時、ただ事ではない悲鳴を聞きつけたサウザーの女官たちが、廊下の向こうから血相を変えて駆けつけてきた。
このまま部屋の中で気を失ったシオンを抱き抱えている姿を見られれば、「ディラーの王が、我が国の姫将軍を襲った」と特大の勘違いをされかねない。
カイル王は冷や汗を流しながら、気絶したシオンの身体を片腕で支えつつ、部屋の扉から顔だけを覗かせて、駆け寄る女官たちを鋭い声で制した。
「心配ない! 部屋に大きな虫が出ただけだ。ワシが仕留めたゆえ、お前たちは持ち場へ戻れ。シオン殿は少々疲れが出たようだ、ワシがこのまま休ませる!」
王の圧倒的な威厳に圧され、女官たちは
「は、はっ、失礼いたしました……!」と引き下がっていった。
「……やれやれ、大ごとになるところだったぞ」
静まり返ったシオンの寝所で、カイル王は一人、腕の中のシオンを抱えたまま本気で途方に暮れていた。
仕方なく、シオンの軽い身体をそっと持ち上げると、ガザガザが逃げ去ったあとのベッドへとゆっくりと横たえ、毛布を優しくかけてやる。
月明かりに照らされたシオンの寝顔は、昼間の凛々しさはどこへやら、本当にただの可憐なお姫様そのものだった。
「戦場ではあれほど凄まじい気を放つというのに、こんなものに怯えるとはな……」
カイル王は苦笑しながら、シオンが再び目を覚ましてパニックを起こさないよう、そしてまた虫が現れて彼女を脅かさないよう、部屋の椅子を引き寄せ、彼女が眠る傍らで静かに見守るように腰を下ろした。夜の城の奥深く、二人の奇妙で、どこか甘やかな沈黙の時間が静かに流れていく。




