キィールの深夜の苦悩
ハルト大臣の劇的な救済と、翌朝の会議に向けた完璧な仕込みが終わり、大人たちが短い仮眠を摂るために散っていった後。
静まり返った秘密作戦室には、第一王子キィールだけが一人、ぽつんと残されていた。
大机の上に広げられた、デルモラード地方の巨大な羊皮紙の地図。
そこにはサジィールやゾイルが書き込んだ無数の進軍経路や、ハルトが指し示したモーゼスの精鋭部隊の配置が、黒々としたインクで刻まれている。
キィールは卓に両手をつき、じっとそれを見つめながら、仮面の奥で小さく、重い溜息を吐き出した。
(僕は……大したことは出来ないな)
胸の奥からせり上がってくるのは、泥のように重い無力感だった。
カイル王の、敵の謀略をも一瞬で己の覇道へと反転させる圧倒的な王の器量。
サジィールやゾイルの、一ミリの無駄も妥協もない冷徹な軍略の組み立て。
カシムの、闇に紛れてすべてのネズミを絡め取る完璧な裏工作。
彼ら一流の大人たちが神速で盤面をひっくり返していく様を、自分はただ眺めていることしかできなかった。誰もが「本物の第一王子イオン十七世」として自分を祭り上げ、新国家の象徴として敬ってくれるが、内実はどうだ。自分には兵を率いる武勇も、国を動かす内政の才もない。
「――そんなに眉間にシワを寄せていると、せっかくの顔が台無しですよ、キィール様」
鈴を転がすような静かな声が、誰もいないはずの部屋に響いた。
驚いて振り返ると、部屋の入り口に、漆黒の植物獣フェルを腕に抱いたリンが佇んでいた。その後ろからは、いつものように音もなく、裏の司令塔であるサジィールが歩み寄ってくる。
「サジィール、リン……。起きていたのか」
「寝苦しくてな。それより、何をそんなに落ち込む必要がある。城内の膿はすべて綺麗に片付いたというのに」
サジィールは机の端に腰掛け、いつも通りのぶっきらぼうな調子でキィールを見下ろした。
キィールは少し躊躇ったが、最も信頼する二人を前に、胸の内に溜まった澱を隠すことができなかった。
「……俺は、自分の無力さが嫌になったんだ。今回のハルト大臣の件も、カイル王のあの機転がなければ国はガタガタになっていた。今後の防衛戦の編成も、戦術も、すべてサジィールたちが決めていく。俺には何も思いつかないし、何もできない。ただそこに座って、神妙な顔をして皆の言葉に頷くだけの飾り物だ。これで本当に、これから創る新国家の『皇帝』になれるのだろうか……」
少年の素直な吐露だった。
だが、その言葉を聞いたサジィールは、怒るでも呆れるでもなく、むしろ満足そうに小さく鼻で笑った。
「キィール様。さっきは、自分の意見を強く言ったではないですか?ご立派でしたよ」
「え……?大した事じゃないよ、僕も含め国で乱になると、王族、貴族が命追われて、ここに来てる人々もそんな過去がある、僕は思うんだよ、連座制が常識だからじゃないかとね」
キィールが怪訝な顔をすると、サジィールは腕を組み、鋭い眼光を向けながら言葉を繋いだ。
「そうですな、それが当たり前だと、私も思ってました。若の考え納得しました。
それと皇帝とは、変に細かな内政や軍略に口を出すものではありません。なぜなら、あなたが一度言葉を発してしまえば、それがどれほど愚策であろうとも、臣下はそれに従うしかなくなるからです」
「臣下は従うしか……」
「そうだ。もしあなたが『あっちの山に兵を置け』と気まぐれに言えば、現場の将がどれだけ危険だと分かっていても、皇帝の絶対命令に逆らうことはできん。変に賢ぶった王が余計な指示を出し、現場を混乱させて国を滅ぼした例など、歴史を紐解けば山ほどある。臣下たちがそれぞれの才を尽くし、自由に知略を振るえるのは、あなたが『何も言わずに見守ってくれているから』に他ならない」
サジィールの言葉を受け、今度はリンが静かに一歩前へ出た。腕の中のフェルが、琥珀色の瞳をキィールに向けながら「にゃー」と低く鳴く。
「フェルも同意見です」
リンは優しく微笑みながら、キィールを見つめた。
「一万年前の神々の記録にも、優柔不断に口を出して自滅した指導者の歴史が数多く残されています。皇帝とは、盤面がどれほど激しく揺れ動こうとも、大樹のようにどっしりと中央に座り、沈黙を守るべき存在なのです。そして――」
リンの黒い瞳が、一瞬だけ伝説の予言者としての絶対的な光を帯びる。
「最後の最後、誰もが決断を下せずにいる『ここぞという瞬間』にだけ口を出し、すべてを決定づける。それこそが皇帝の唯一にして最大の役割です。
さっきので良いのです。
それこそが皇帝の唯一にして最大の役割です。あなたのその『沈黙』は無力ではない。優秀な臣下たちに全力を尽くさせるための、最も強固な信頼という名の盾なのですよ、キィール様」
二人の言葉が、キィールの少年の心を深く、優しく貫いた。
何も言えないのではない。皆を信じているからこそ、黙って座っているのだ。
自分の「沈黙」そのものが、この秘密同盟をのびのびと躍動させるための、皇帝としての最大の資質だったのだと、霧が晴れるように理解できた。
(そうだ。俺が揺らいでどうする。俺は皆の才を信じて、最後にすべての責任を背負って、そして自分の意見ははっきり言おう)
キィールは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
仮面の奥の瞳から無力感は完全に消え去り、そこには新国家を統べる本物の「皇帝」としての、静かで圧倒的な覚醒の光が宿っていた。
「……ありがとう、二人とも。」
キィールは力強く頷き、地図を真っ直ぐに見据えた。
「俺は堂々と、あの椅子に黙って座っていよう。そして、皆が整えてくれた勝利の盤面を、最後にこの手で完璧に掴み取ってみせる」
「その意気です、我が君」
サジィールは獰猛に笑い、慇懃に頭を下げた。
深夜の短い、しかし何よりも重要な対話が終わり、三人は翌朝の決戦会議に向けて、確固たる結束を胸にそれぞれの部屋へと戻っていった。




