カシムの秘密
キィール、カイル王達が連合国家の建国へ向け、五大部族の先行やサウザー軍の出陣といった激動の渦のなかで忙しく動き回っている裏で、ディラー城の薄暗い地下の詰所には、一人でじっと己の不条理な宿命と戦っている少年がいた。
十八歳の脱走暗殺者、カシムであった。
カシムは普段、若様であるキィールのぶっきらぼうな護衛として振る舞いながら、裏では完璧な筆跡偽造の手仕事で売国奴ゴドルを始末するほどの超一流の技術を持っている。
だが今、カシムが白磁の机の上に置いた自らの右手は、暗殺者にとっては致命的とも言えるほど、激しく、不気味手が震えていた。
「……くそっ、また、切れかかってやがるのか……」
カシムは震える手で懐を探り、古びた小さな薬入れを取り出した。なかには、数粒の不気味な色をした丸薬が、転がるように残っているだけだった。
これが、カシムが真理教団という地獄に縛り付けられている本当の理由であった。
教団の幹部たちは、暗殺者たちが自分たちを裏切って逃げ出さないよう、特殊な薬を飲ませていた。
それは一種の麻薬のような物であり、定期的に使い続けなければ、全身の血が狂ったように悶絶して苦しみ死ぬという呪いの薬であった。
カシムが今こうして教団から脱走して生き延びているのは、ある過去の凄絶な任務の失敗があったからだ。
数年前、ある暗殺の仕事に赴いた際、作戦は思わぬ失敗に終わった。
激しい戦いのなかで、指揮官でありカシムの元教官でもあった男が、片足を骨折して動けなくなってしまったのだ。
退路を断たれた絶体絶命のなか、元教官はカシムを生き延びさせるため、自らがその場に残って時間を稼ぐと静かに腹をくくった。
そして、カシムの胸に己の薬入れを押し付け、冷徹にこう告げたのだ。
『これだけあれば当分は大丈夫だ。任務失敗の責任で教団から命を狙われるような事態になったら、これを持って逃げろ。もし逃げて薬が足りなくなったらデルモラードへ行け。あそこにはこの薬の元になる薬草がある』と。
その後、その失敗は暗殺を頼んできた人間が裏切ったためだと分かり、カシムへの処分は無かったため、カシムは教官に託された薬を使わずにそのままお守りのように懐に持っていた。だが、教団を脱走して何年も経った今、その薬はもう、数回分しか残っていない。
デルモラードに来て薬剤屋を当たれば、すぐに薬の材料が見つかるかと思っていたが、現実は甘くなかった。どの薬剤屋の店主に聞いても、そんな植物や成分は聞いたこともないと首を振るばかりだったのだ。
カシムは激しい眩暈と手の震えに襲われながらも、薬をこれ以上消費するわけにはいかないと、奥歯をガチガチと鳴らして必死に痛みを我慢していた。
冷や汗が顎を伝って白磁の床へと滴り落ちる。
これでは、得意の手紙の捏造のペンを握ることすらできなくなってしまう。
カシムが不条理な呪いに一人で耐え、呼吸を荒くしていたそのアワーの瞬間だった。
詰所の扉が静かにノックされ、東の婚約者であるリンからの、「直ちに来て下さい」という極秘の呼び出しの声が頭の中で響いた。
「……リン様から……やれやれ、あの聡明な少女の前に、この震える手で行けば…」
カシムはぶっきらぼうに呟き、必死に気力を振り絞って右手の震えを強引にねじ伏せると、上着の衣服を整え、リンの待つ部屋へとゆっくりと冷徹に歩みを進めるのだった。
カシムが気力を振り絞って右手の震えを隠し、衣服を整えてディラー城の奥にあるリンの私室の扉を開けた時、室内にはリンが、腕のなかに一頭の美しい漆黒の獣を抱いて静かに座っていた。
「よく来てくれました、カシム。貴方に紹介したい仲間がいるのです」
リンが清らかな声で告げると、その腕のなかにいる光をすべて吸い込むような黒い毛並みを持った獣をカシムへと見せた。
「この子はアトン様が、私に仕えろと遺してくださったフェル。……表向きはただの野生のガーガですが、私の大切な『護衛兼密偵』です」
「……は?」
カシムはぶっきらぼうに眉をひそめ、その漆黒のフェルを鋭い目のまま見つめ返した。一流の暗殺者であるカシムの五感は、目の前の小さな獣から生き物特有の呼吸の音も熱も一切感じ取れないという、底知れない隠密の気配を瞬時に察知していた。
フェルがリンの腕のなかで琥珀色の目を細め、カシムに向けて鋭い目つきを向けると、カシムはフッと不敵な笑みを漏らした。
「成る程。……どうやら、ただの黒いガーガじゃないようだな、コイツは」
「ええ。人前ではとても可愛い姿を見せてくれる、お利口な男の子ですよ」
リンがそう言って、フェルを白磁の机の上へと軽やかに下ろすと、漆黒のフェルは音もなくカシムの衣服の裾へと近づき、クンクソと嗅ぎまわった。
その瞬間、フェルは人間と同じ流暢な言葉の思念を、リンの脳内へ響かせた。
(……ねえ、リン。このカシムって男、なんだか身体から変な匂いがするよ。隠そうとしているけれど、悪魔の薬の匂いだ)
リンはポーカーフェイスのまま、心の中でフェルへと返した。
(……薬の匂い? 私には分からないわ、フェル)
(まあね、人間の鼻じゃこの微かな毒素の成分を嗅ぎ分けるのは無理だよ。でも私の嗅覚なら、一ミンの猶予もなく見抜けるさ。……この男、完全に薬が切れかかって苦しんでいるよ)
フェルからの完璧な隠密の報告を受け取ったリンは、机の向こうに立つカシムの右手を静かに見据え、冷徹に大義を突きつけた。
「
カシム。……貴方は、その右手の震えを抑えるために、あの真理教団の呪われた薬を飲んでいますね?」
「なっ……!?」
暗殺者として命がけで隠し通してきた最大の弱点を一発で見抜かれ、カシムは慌てて大きく目を見開いた。だが、目の前にいる黒髪黒目の聡明な婚約者リンと、その足元で全てを見透かしたように琥珀色の目を光らせている漆黒のフェルを前に、もはや誤魔化しは通用しないと諦めて仕方無く認めた。
「……チッ、お前には何も隠せねえな。そうだ、俺は教団の薬に縛られてる。定期的に飲まなきゃ悶絶して死ぬ呪いだ。教官が、足りなくなったらこのデルモラードのどこかに薬の元になる『ケシミヤ草』が生えているはずだと言っていたんだが、街の薬剤屋を何アワー探しても見つからなかった。……リン、お前なら、そのケシミヤ草がどこに生えているか知っているんじゃないか?」
カシムが藁をも掴む思いで問い詰めると、リンはいつもの完璧な予測の微笑みをその白い肌に浮かべ、優しく首を振った。
「ええ、ケシミヤ草の自生地なら知っています。……ですが、それよりもっと良い方法(両替)がありますよ、カシム」
「もっと良い方法だと?」
「私は、貴方のその呪いを根本から癒やし、毒素を完全に消し去るための、昔の神々が遺した秘薬を持っているのです」
「……ハッ、そんな都合のいい秘薬がこの世にあるわけねえだろ。教団の毒はそんなに甘くねえ」
カシムは深く疑い、ぶっきらぼうに吐き捨てたが、リンは白磁の引き出しから、不思議な光沢を放つ小さなアンプルを取り出した。
「嘘ではありません。少し前にも、傷ついたスパルタカスたちを救うために私が実際に使った、神々の秘薬です。さあ、これを飲んでみなさい」
リンから手渡されたその冷たい秘薬を、カシムは半信半疑のまま、喉を鳴らして一気に口の中へと流し込んだ。
次の瞬間だった。
「……っ!? ぐ、あああ……っ!」
カシムは胸を押さえ、白磁の机に両手を叩きつけて激しく苦悶した。
だがそれは、教団の薬が切れた時の不条理な激痛ではなかった。
神々の薬の凄まじい高濃度成分が、カシムの体内で暴れていた教団の毒素を完璧に中和し、すり潰すように上書きしていく衝撃だったのだ。
わずか数十の呼吸の後、カシムがハッと気づいて自らの右手を上げると、先ほどまであれほど激しくブルブルと震えていた手のひらが、まるで嘘のように、完璧にピタリと静止していた
「……止まった。手の震えが、完全に消えてやがる……! 」
カシムが自らの奇跡の右手を凝視して驚愕していると、フェルがリンの腕の中へと軽やかに飛び帰り、脳内で流暢に笑った。
(ふふ、よかったねリン。これでこの一流の暗殺者も、君に一生頭が上がらなくなったよ)
カシムは自らの身体のなかに漲る、かつてないほどの圧倒的な生命の質量(重さ)に冷や汗を流しながら、リンとフェルを畏怖の目で見つめた。
「……信じられねえ。本当に呪いが消えかかってやがる。……だが、なんだか急に、身体が軽くなったぞ……。おい、この秘薬は一体何なんだ……?」
「神々の秘薬の力が、貴方の身体に適応しようとしているのです。身体の重さに慣れるまで、しばらくその場で静養なさい、カシム」
カシムが自らの奇跡の右手を凝視して驚愕しているのを見つめながら、リンの腕の中にいる漆黒のフェルは、琥珀色の目を微かに細め、人間と同じ流暢な言葉の思念をリンの脳内へと直接響かせた。
(……ねえ、リン。ちょっとおかしいよ。このカシムって男、薬を飲んだ瞬間から気配がまるで変わった。……能力が、異常なほどに跳ね上がっている)
フェルがそう脳内で呟いた、まさにそのアワーの一瞬の空白であった。
「……ん? おい、今、何か言ったか?」
カシムが不意に鋭い目で顔を上げ、リンとフェルをじっと見つめてきた。
そのカシムのまさかの反応に、リンは仮面の奥でハッと息を呑んだ。フェルの声は普通の生き物の声ではなく、リンの脳内に直接届くはずの特殊な思念波だからだ。
リンが
「私は何も言っていませんが……」
と困惑を見せると、カシムは耳の後ろを不気味そうに指先で押さえながら、低くぶっきらぼうに呟いた。
「いや、確かに聞こえた。リン、お前の言葉じゃない、何か別の……もっと冷徹で賢そうな奴の声が、頭の奥に直接響いたような気がしたんだが……」
その言葉を聞いた瞬間、リンの腕の中のフェルは、信じられないものを見たというように琥珀色の目を大きく見開いて戦慄した。
(……これは驚いたな。あの神の秘薬を一杯飲んだだけで、人間のなかで閉ざされていた感覚の能力が、私の思念を拾うレベルまで一気に成長しやがった。――リン、こいつ、ただの脱走暗殺者じゃない。
大昔に神官たちがこぞって買い取っていったという、アトン様の十一人の子供たちの血筋……本物の神の血筋の生き残りだよ!)
フェルは、一万年の不条理な歴史の連なりを瞬時に両替し、カシムのなかに眠る凄まじい才能を見抜いて、脳内で興奮気味に言葉を弾ませた。
(やれやれ、君の周りの奴らは一体どうなってるんだ。若様の仲間といい、このカシムと言い、とんでもない変な人間ばかり集まりやがって。……だが、これはいよいよ、面白くなりそうだな、我が主!)
フェルのその流暢な驚きを脳内で受け止め、リンもまた、胸の奥の心臓をバクバクと激しく高鳴らせてびっくりしていた。
「……よ、余程、あの神々の秘薬が貴方の身体に合っていたのですね、カシム。心配いりませんよ」
リンは鈴を転がすような声で何事もないように取り繕い、カシムを休ませようとしたが、その心の中は、激しい戸惑いの大嵐が吹き荒れていた。
(ちょっと待って、本当にどうなってるの……!?
少し前にあの秘薬を使ったスパルタカスと言い、今回のカシムと言い、私がアトン様の知識から取り出したあの古代の秘薬、みんなに対して効果が効きすぎているわ……! 私の予想が狂うほどの、この不思議な力の目覚めは一体何なの……!?)
カシムは、自らの身体のなかに漲る、ずっしりとしたかつてない生命の質量に冷や汗を流しながら、右手の震えが完全に消え去った白磁の机を見つめていた。
表の戦場では五大部族やサウザー軍の先陣が地響きを立てて出兵を開始していたが、このディラー城の薄暗い私室のなかで、リンとフェル、そして自覚なき神の血を宿したカシムという、世界の闇をひっくり返すための最強の裏の同盟の歯車が、驚威の質量を伴ってゆっくりと、冷徹に噛み合い始めるのだった。
リンは腕のなかの漆黒のフェルを愛おしそうに抱き抱え直し、最強の暗殺者カシムを忠臣として手に入れたことに、仮面の奥で深い満足の微笑みを浮かべるのだった。




