リンの気持ち
サウザー国の国王アレフが自ら第二陣を率いてディーラへ行くぞと宣言し、姫将軍シオンや大貴族バルドを伴った三千の軍勢が、暖かい南国の風を孕んでいよいよサウザーの地を出発した、まさにその頃のこと。
ディラー国の城内、人目を完全に遮った地下の一室に、カシムが帰って来ていた。
部屋の空気はひんやりと冷たく、白磁の壁には蝋燭の灯火が三人の影を不気味に長く引き伸ばしている。
サジィールは、使い込まれた鉄の胸当てを外した旅装のままで佇み、その傍らには、見た目は少女のリンが、シリウス教の聖なる布陣を思わせる汚れなき白の薄衣を纏って静かに座っていた。
「カシム。サウザーでの任務、見事だった。これが約束の、いや、それ以上の報酬だ」
サジィールが、ずっしりと重い金貨の入った革袋を黒檀の机の上へと置いた。
カシムは頭巾を少し緩め、その線の細い麗しき顔に不機嫌そうな影を落としながら、机の上の革袋を鷲掴みにした。そして、サジィールとリンを鋭い目で見据え、ぶっきらぼうに吐き捨てる。
「おい、何であんな面倒くさい事しないといけなかったんだ! ただ喉笛を掻き切るだけなら一瞬で済んだものを、あのゴドルとかいう大臣の筆跡を1ミリの狂いもなく完全に真似て偽造手紙を仕立て上げるのが、どれだけ大変だったか分かってんのか! 、この重さじゃ割増分は入ってるみたいが!」
カシムの至極まっとうな不満と要求に対し、サジィールは冷徹な鉄の仮面を崩さないまま、いかにも大人の政治家らしい適当な言い訳を静かに返した。
「まー、な……。売国奴として処刑されれば、その家族までが連座して処刑されるか、良くて奴隷に落とされる。そうなれば残された身内にモーセスへの復讐の火種を植え付けるだけだからな。余計な恨みを買わぬための、これも完璧な計算だ」
サジィールがそう言って言葉を濁した、その時だった。
隣に座っていたリンが、カシムの胸元にあるツルツルとした銀の通信ペンダントをそっと見つめ、魂を揺らすような真摯な眼差しで、その小さな唇を開いた。
「……カシム。私たちはこれから、誰もが怯えずに暮らせる新しい国を創ります。そのためには、時にはあなたに暗殺をお願いすることもあるでしょう。ですが……私は、たった1人の罪人のために、何も知らない罪の無い家族や人々まで巻きぞいにしたくはありません! だからこそ、あなたにあの手紙を偽造してもらったのです」
リンのその言葉は、暗殺組織の血生臭い論理だけで生きてきたカシムの胸の奥へ、強烈な打撃となって突き刺さった。
カシムは驚き、そして呆れたように、目の前のサジィールとリンの顔を交互に見つめ、フンと鼻で笑った。
「ハッ、甘っちょろいな! お前ら、そんな綺麗な理想を裏の泥仕事にまで持ち込んでたら、いつか痛い目を見るぜ!」
カシムは首の鎖を指先で軽く弾くと、金貨の袋を懐へと放り込んだ。
「まー、いいや。お前らがどれほど過保護で甘ちゃんでも、俺には関係ねえことだ。お陰で割増分もあって、たっぷり稼げたからな。……用が済んだなら、俺は帰らせてもらうぜ、予言者様」
カシムは頭巾を深く被り直すと、足音を完全に消し、夜の霧のなかへと音もなく消え去っていった。
一人残されたリンは、カシムの去った冷たい扉を見つめながら、自分のなかの軍師としての覚悟と、シリウスの女神が掲げる慈愛の平穏を、改めて強くその胸に抱き締めるのだった。




