裏切り者
軍議の席でバルドの老獪な妥協案によって三千の遠征を正式に決定され、企みを完全に打ち砕かれた筆頭大臣ゴドルは、激しい怒りと焦燥に顔を歪めながら、足速に己の執務室へと戻ってきた。
バタンと重々しい扉を閉めると、部屋の闇のなかから一人の男が音もなく姿を現した。ゴドルの側近であり、その正体はデモン国の主デモノが放った本物の密偵であった。
ゴドルは、国を裏切っていたのだ。
「ゴドル殿、軍議の結果はどうなった」
密偵の低い問いかけに、ゴドルは苦り切った顔で机に拳を叩きつけた。
「……おのれバルドめ、余計な真似を! 出来るだけ頑張って二千に誘導したのだが、奴の妥協案のせいで、結局は三千の出兵になってしまった!」
「何だと? それではデモノ様への言い訳が立たんぞ」
密偵の鋭い視線に冷や汗を流しながら、ゴドルは必死に保身の策を告げる。
「いや、まだ手はある! 出兵そのものは止められずとも、遠征にかかる人員の選定、武器や食料の調達、その他もろもろの事務手続きに難癖を付け、理由を設けて出発を何とか数日間は遅らせてみせる。その間にデモノ様へ、サウザー軍の進軍ルートと迎撃の準備を整えるよう急ぎの伝令を飛ばせ!」
「……フン、分かった。直ちに伝令を手配する。遅延工作、確実に頼むぞ」
密偵である側近は冷酷に頷くと、ゴドルに背を向けて足早に部屋を出て行った。
一人残されたゴドルは、椅子の背もたれに深く身体を預け、荒い息を吐きながらブツブツと会議の文句を吐き捨て始める。
「まったく、あの忌々しい武官どもめ……現実の財政も見ずに戦ばかり叫びおって。バルドめ、昔の英雄のくせに今更しゃしゃり出てきおってからに……」
そこへ、ガチリ、と背後で微かな衣服の擦れる音がした。
「なっ――」
ゴドルが振り返ろうとした刹那、その胸元に、音もなく凄まじい衝撃が走った。
鋭い痛みが遅れて突き刺さる。気づいたときには、ゴドルの胸には見慣れぬ一振りの短剣が、深く、根元まで突き立てられていた。
驚愕に目を見開いたゴドルの目の前には、いつの間にか部屋に侵入していた、頭巾で顔を完全に覆った線の細い忍者風の青年が静かに佇んでいた。カシムである。
「が……あ、お前、は……」
ゴドルは口から血を溢れさせ、その場に崩れ落ちた。カシムは冷徹な眼差しで大臣を見下ろし、低く、刃のように冷たい声をかける。
「サウザー国筆頭大臣ゴドル。デモン国の主デモノから金を貰い、この国を裏切ろうとしたな。……仕事だ、悪く思うなよ」
床に血の海が広がるなか、ゴドルは絶命した。
(まだしなきゃいけない事があったんだった)
とカシム思った。
ゴドルはガクリと首を落とし、完全に息絶えいる。
大臣の死体を見下ろしながら、カシムは懐から一枚の白い紙とペンを取り出した。
リンより厳命された事をする為に。
カシムが所属していた真理教団では、標的の暗殺だけでなく、他人の筆跡を完璧に真似る「手紙の偽造」の技術をも徹底的に叩き込まれている。
(甘ちゃんだな!こんな事しなくても)
カシムは机の上にあったゴドルの書類を一瞥してその筆跡を瞬時に脳へ刻み込むと、迷いのない手つきでペンを走らせた。
紙の上に躍り出たのは、ゴドル大臣の筆跡そのものの文字だった。
デモノから金を貰っていた己の行いが恥ずかしいということ、陛下を裏切った申し訳なさ、そして、家族には何も罪は無いからどうか慈悲を、という悲痛な遺書。
本人が書いたものと並べても、一流の鑑定士でさえ絶対に偽物とは見抜けない完璧な「ゴドル大臣の遺書」が、カシムの手によって一瞬にして創り上げられた。
カシムはその偽造した手紙を、自決した大臣の手元へ静かに置いた。
短剣の角度や遺書の配置を、自ら命を絶ったように見える自然な形に整え終えると、カシムは返り血を拭うこともなく、開いた窓から夜の霧のなかへと、まるで最初から存在しなかったかのように音もなく消え去っていった。
翌朝、サウザー城内は激しい蜂の巣をつついたような大騒ぎに包まれていた。
筆頭大臣ゴドルが、自らの執務室で胸に短剣を突き立てて死んでいるのが発見されたのだ。
その手元には、イオン帝国宰相モーセスの手下であるデモノから莫大な賄賂を受け取り、国を裏切ろうとしていた己の不面目を恥じ、アレフ陛下への申し訳なさから命を絶つという、悲痛な自決の遺書が残されていた。
大臣の売国行為の発覚と、あまりにも突然の自決。城内は文官も武官もパニックに陥り、兵たちが慌ただしく廊下を行き交う喧騒が響き渡っている。
「まさか、あのゴドル殿がデモノと繋がっていたなど……。遺書があったとはいえ、あまりにも話が急すぎる」
五十歳の大貴族バルドは、城の重厚な回廊を歩きながら、険しい表情で腕を組んでいた。昨日の軍議であれほど頑なに兵力の削減を主張していた男が、一晩で自決したという不条理に、老獪なバルドの直感は微かな違和感を抱いていた。
兵たちが怒号を上げながら慌ただしく走り去り、一瞬だけ回廊の雑踏が途切れた、その時だった。
バルドの向こうから、サウザー国の一般兵の軽鎧を身にまとった、一人の小柄な兵士が歩いてきた。兜を深く被り、下を向いているため、その素顔はうかがい知れない。
ただの警備の兵だろう。
バルドがそう思い、特に気に留めることもなくその兵士の横を通り過ぎようとした、まさにその刹那だった。
すれ違いざま、バルドの耳元に、霧のように低く冷徹な男の声が滑り込んできた。
「――裏切り者は始末した」
「っ……!?」
バルドの頭の芯に、凄まじい衝撃が走った。
驚愕に目を見開いたバルドは、弾かれたようにその場で足を止め、勢いよく後ろへと振り返った。
だが、そこには誰もいなかった。
バルドが今しがた歩いてきた長い一本の回廊には、うろたえる家臣や遠くを走る別の衛兵の姿があるだけで、今まさに自分のすぐ真横をすれ違い、声をかけてきたはずのあの小柄な兵士の姿は、跡形もなく消え失せていた。まるで、最初から夜の霧が作り出した幻影であったかのように、完璧に気配すら残っていない。
「今のは……まさか、ディラーの……」
バルドの額から、一筋の冷たい汗が流れ落ちた。
自分のすぐ目の前で、誰の手にも触れさせずに一国の筆頭大臣を闇に葬り、完璧な遺書を偽造して自決に仕立て上げてみせた謎の影。
それが、サウザーの厳しい警備をあざ笑うように城内へ忍び込み、この自分にすら気づかれずに接触してきたのだ。
バルドは、誰もいない回廊の空間を凝視したまま、拳を強く握りしめた。
モーゼスの野望を阻み、これから新しい国を創り上げようとしているキィールたちの陣営には、自分の想像を遥かに超える、恐るべき「闇の刃」が備わっている。
バルドは背筋を走る戦慄を必死に抑え込み、鉄の仮面を被り直すと、出陣の準備を進めるシオンたちの元へと、重い足取りで再び歩き出すした。
居なくなった側近は、後日中庭で発見された。
塔から飛び降りたと思われた。
塔の壁の上に遺書があり、私も悪かったと書いてあり、ゴドルの跡追い自殺と思われた。




