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バルドの懺悔

謁見の間での張り詰めた出迎えが終わり、夜、城の奥深くにある王妃の私室にて、ライアとバルドは二人きりになった。

重厚な扉が閉められた瞬間、ライアの顔から、平民や家臣たちを魅了していたあの女神のような優しい微笑みが、跡形もなく消え失せた。その緑の目は焦りと怒りに激しく泳ぎ、父親であるバルドに向けて、声を押し殺した鋭い言葉をぶつける。


「お父様! 一体どういうおつもりなのですか! なぜ、自らあのシオンの軍に同行するなどと言い出したのです!」


激しく詰め寄る娘に対し、五十歳の大貴族バルドは、微動だにせず冷徹な目でライアを見つめ返した。

その沈黙が、ライアの焦燥をさらに燃え上がらせる。


「お父様……私には聞いているのです。私に仕える侍女から、密かに城内の不穏な噂を聞いていました。二年前、あの方……エドワ王子がデルモラードの霧のなかで亡くなったあの事件。あれは、お父様が王子を『見殺し』にしたのではないかと……!」


ライアは激しく首を振り、縋り付くような目でバルドに続けた


「いいえ、あんな噂、嘘に決まっていますわ! お父様はこのサウザー国を陛下と共に創り上げ、幾度も救ってきた偉大な英雄なのです。そんなお父様が、エドワ王子を見殺しにするはずがありません。誰かが私たちの実家を貶めるために流した、悪質なデマに決まっています!」


必死に自分に言い聞かせるように、震える声で叫ぶ娘。

しかし、五十歳の老臣バルドは、ただ哀しげに、自嘲するような冷たい笑みをその唇に浮かべただけだった。


「いや、ライア。あながち、その噂も嘘ではないのだよ」


「え……?」


ライアの身体が、完全に凍りついた。まるで世界の土台が足元から崩れ去ったかのように、美しい緑の目が驚愕に大きく見開かれる。

バルドは信じられないという顔で立ち尽くす愛娘を静かに見つめながら、背負った鎧の重みを噛み締めるように、二年前のあの深い霧の戦場の話を始めた。


「二年前、我らは海から来たという不気味な盗賊団を討伐するため、デルモラードの地を突き進んでいた。エドワ王子が第一軍を率いて前線を走り、私が第二軍を率いて後方を追う、二軍に分かれての行軍だった。……あの日は、ひどく深い霧が出ていてな。視界が遮られ、王子たちも周りの兵たちも、己がどこを走っているのかすら分からなくなっていたのだ」


バルドの声は、どこまでも低く、密室の闇に染み込んでいく。


「だがな、ライア。長年あの不気味なデルモラードの地を戦い抜いてきた私の目だけは、霧の僅かな変化と地形の異変から、いち早く気づいてしまったのだ。……このまま進めば、あの名前を聞くだけで全人類が震え上がる神の領域の縄張りに近くなってしまう、とな」


ライアは息をすることすら忘れ、父親の言葉を食い入るように見つめていた。


「すぐに第一軍の王子に『進むな、足を止めろ!』と連絡を入れようとした。……だが、その瞬間に、私の脳裏にドロドロとした黒い魔が差したのだ。もし、このまま知らせず、王子に何かあれ第一位の王位継承者が消える。そうなれば、次は我が孫の、お前が産んだティルが次の王座に就けるのではないか……と、一瞬、本当にほんの一瞬だけ、私はそう計算を弾いて言葉を飲み込んでしまった」


「お、お父様……そんな……」


「だが、すぐに私は思い直したのだ。いくら何でもあそこには、サウザーが誇る精強な第一軍がいる。あの兵力があれば、たとえ何が起きようとそう簡単にはやられまい。我々が合流するまで持ち堪えるだろう、とな。そう自分に都合の良い言い訳をして、私は知らせるのを辞めた。……そこへ、私の背中を見ていた副官が、霧の異常に気づいて私に詰め寄ってきたのだ。

将軍、ここは守護神の領域に近いのでは。すぐに王子に連絡し、我々も急いで合流しましょう!と。王子を強く慕っていたその副官は、必死に焦っていた」


バルドは拳をぎゅっと握りしめ、己の過去の醜さを絞り出すように続けた。


「私は自分の最初の一瞬の野心を隠すために、副官へ冷徹に言い放った。『第一軍がいるのだ、そう簡単にはやられまい。我々が行くまで大丈夫だ』と。だが副官は万が一がありますと食い下がった。そこで私はさらに『今ここで合流を急げば、海から来た盗賊団の包囲網が破れて奴らを逃がしてしまうぞ』と、指揮官としての真っ当な正論を持ち出したのだ。副官は涙を流して『そんな奴らより王子の身に何かあったらどうするのですか!』と絶叫した。……そうして私と副官が、霧のなかで数分間、激しい議論をして第二軍の足を止めてしまった、まさにその最悪のタイミングだった」


バルドの瞳に、二年前のあの血に染まった深い霧の光景がまざまざと蘇る。


「第一軍からの悲痛な伝令が、血相を変えて飛び込んできた。……王子たちが追っていた海からの盗賊団は、実は神の秘宝を狙ってアトンの山に入り、あの化け物猿の大群に追われて血まみれで逃げてきていたのだ。何も知らない第一軍はその逃げてきた盗賊団と正面から遭遇し、行く手を阻まれて大パニックに陥った。そこへ、すぐ後ろから超高速で迫ってきた化け物猿の群れに襲われ、迎撃の陣形すら取れずに蹂躙された。……我が第二軍が駆けつけた時には、盗賊団はほとんど全滅、第一軍も半数が全滅し、王子は自分の副官を身代わりにして庇い、息絶えた後だった」


バルドは深く息を吐き、静かに首を振った。

 

「戦術的には、私が盗賊の包囲を優先した判断は間違っていなかった。だが、あの時、もし私が最初の一瞬の野心を捨てて、副官に言われた瞬間に『すぐに全軍急行だ!』と第二軍を走らせていれば、あの遭遇パニックが起きる前に、確実に王子を安全な場所へ退避させ、救い出すことが間に合っていたのだ。……だから、私が言葉を飲み込み、議論で時間を空費したせいで、王子は死んだ。生き残った王子の副官が、アレフ王に密かにその一部始終を報告したのも当然のこと。私は、まぎれもない見殺しの罪人なのだよ、ライア」


父親の口から明かされた、あまりにも生々しい「一瞬の魔」と、取り返しのつかない時間の空白。

すべてを知ったライア王妃は、言葉を失ったまま、ただただ絶望のなかに突き落とされていた。



「だからこそ、ライア。私はこの戦いで、命に代えてもエレナ姫を守り抜かねばならんのだ。あの時言葉を飲み込んだ私の大罪を清算し、サウザーに禍根を残さぬために、あの娘の完璧な盾となる。それが私の果たすべき最後の義務だ」


力強く言い切るバルドの顔には、一国を支えてきた元英雄にふさわしい、決然とした光が宿っていた。

だが、その腹の底に秘めた本当の胸の内は、全く別の哀しい覚悟を弾いていた。

(アレフ陛下は、今でも私を信頼して軍を任せてくださった。あの肩に置かれた強い手と耳元での囁きは、私を脅しているのではない。エドワ王子を失ったあの悲劇を二度と繰り返したくないという、陛下の切実な願いなのだ。陛下はいつも王妃にも優しく、ティルを世継ぎとして大切に育ててくださっている。……そんな優しい陛下を、私は二度も裏切るわけにはいかない。ならば、この戦場こそが、私の死に場所として丁度良い。華々しく姫の身代わりとして散り、すべての過去の因縁を私が抱いて逝けば、この国は本当の平穏を得られる)


五十歳の老臣は、自らの命を完璧な生け贄として捧げる覚悟を、心の深淵で静かに完了させていた。

そのバルドの決意の言葉を聞いたライアは、父親の「本気でエレナを守り抜く」という気高い言葉に、心のどこかで大きな安堵を覚えていた。

だが、それと同時に、ライアは激しい衝撃のなかで、自らの胸に手を当てて愕然としていた。

(私は……私は一体、何を考えていたの……?)


涙が、次から次へと溢れて床を濡らしていく。

アレフ王は、ライアに対していつも優しく、良き夫であり続けてくれた。何不自由ない、誰もが羨む幸せな日々だったはずなのだ。それなのに、夫が前妻シャルテの面影を遺すシオンをあまりにも過保護に溺愛する姿を見るうちに、ライアの心の奥底には、人生で初めての、自分でも気づかないほどの静かな「嫉妬」が、毒草のように知らないうちに芽生えてしまっていた。


「シオンなんて、いっそ死んでしまえばいい」


そんな醜い黒い呪いを心の中で唱えていた自分。

それは、二年前、霧の向こうで一瞬の野心に足をすくませた父親の姿そのものではなかったか。

父親のあまりにも生々しい懺悔の言葉によって、ライアは自分がどれほど恐ろしい心の闇に呑まれかけていたのかを突きつけられ、ようやく激しい自己嫌悪と共に「我に返った」のだった。


「……お父様。ごめんなさい……私、自分が恐ろしいわ……」


床に突き伏して激しく咽び泣くライアの前に、五十歳の大貴族バルドは静かに膝をついた。その無骨な手が、娘の震える肩へそっと置かれる。


「泣くな、ライア。お前は悪く無い」


地を幾度も踏み締め、サウザーを支えてきた元英雄の、しかし一人の父親としての絶対的な優しさを孕んだ声だった。


「私が犯した一瞬の魔も、お前が胸の内に宿してしまった初めての嫉妬の火も、すべてはこのバルドがディーラの戦場へ持って行く。」


バルドは、信じられないという顔で涙の目を上げる娘を、決然とした光を宿した瞳で見つめ返した。


「だからこそ、私はこの戦いで、命に代えてもエレナ姫を守り抜かねばならんのだ。それが私の果たすべき最後の義務であり、人生の最後に弾いた、最高の計算だ。お前は何も知らぬ綺麗な母親のままでいろ。そして、ティルを、私が居ない間頼むぞ」


力強く、あまりにも気高く言い切るバルドの言葉に、ライアは父親の「本気でシオンを守り抜く」という決意を信じ、心のどこかで大きな安堵を覚えていた。

お父様がそこまで言ってくれるのなら、二年前のあの最悪の呪いは、きっと今度こそ書き換えられるのだと。

だが、それと同時に、彼女の胸の奥には、冷たい霧が這い寄るような言い知れぬ激しい胸騒ぎがざわめき立っていた。

(本当にお父様は、無事に帰ってきてくれるのだろうか……)


バルドの心の中の「私の死に場所には丁度良い」という哀しき本当の本心を、ライアはまだ知る由もない。

ただ、言葉にならない微かな恐怖と祈りが混ざり合って震えるライアの背を、バルドは大きな手で優しく、静かに抱きしめ続けるのだった。比較的暖かいサウザーの夜は、二人の血の因縁を包み込むように、静かに更けていった。



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