姫将軍シオンの帰還
デルモラード地方の南方に位置するサウザー国は、年間を通じて比較的温暖な気候に恵まれた豊かな海上交易都市である。
この国の海には独特の自然の法則があった。
暖かい季節には西風が吹き、寒くなると東風が吹く。
サウザーの人々はこの規則的な風を完璧に利用し、物資を運ぶ専用の大型船を走らせていた。
港にはいつも、豊かな食料や鉱石類、そしてこの地でしか目にする事のできない珍しい食べ物が満載され、南国の心地よい潮風と共に活気に満ちあふれている。
そんなサウザー国へ、ディラー国での調査から戻ったばかりの十七歳の姫将軍シオンが、慌ただしく帰還した。
「おお、シオン! よくぞ無事で帰った!」
出迎えの間に入った瞬間、待ちわびていた国王アレフが大きな身体を揺らして駆け寄ってきた。
四十五歳になるアレフは、わずか二十五歳という若さで病死した最愛の前正妃シャルテのことを今でも愛し続けている。そして、そのシャルテの面影を色濃く残す、褐色の肌に緑の髪をしたシオンを、異常なまでに溺愛していた。
アレフは愛娘の肩を抱き寄せると、その顔を覗き込み、過保護なほどにうろたえた声を上げる。
「ディーラでの任務、本当に苦労をかけたな。だが、もう良い。あちらの情勢は何やら騒がしくなっているようだが、お前がこれ以上、他国の諍いに巻き込まれる必要はないのだ。これ以上の危険はお前に冒させたくない。しばらくは城でゆっくりと身体を休めるのだぞ」
父親としての愛が深すぎるがゆえの、あまりにも過保護な引き止めだった。
しかし、シオンはその温かい抱擁を受け止めながらも、アレフを見つめる瞳に強い光を宿していた。
(いいえ、お父様……。ここで私たちが足を止めれば、デイモノートのすべてがあの男の手に落ちてしまう。二年前、あの守護神の縄張りの霧のなかで亡くなった兄上の遺志を継ぎ、この国を守るためには、私は動かなければならないのです……)
頭のなかで二十二歳で亡くなった実の兄のことを強く想いながら、エレナはアレフの手を優しく、しかし毅然とした態度で遮り、衝撃の事実を告げた。
「お父様、お気遣いは嬉しく思います。ですが、休んでいる時間はありません。……新しく建国を宣言した国がありますが、どうもあの不穏な神官モーゼスの息がかかっており、裏で恐ろしい反乱を企てています。私は再びサウザーの軍を率いて、ディーラへ向かいます」
「な、何だと……!? 再びディーラへ行くだと!?」
我が子ながら惚れ惚れするほどに凛々しく、そしてあまりにも危険な大義を口にする娘の決意に、アレフは驚愕し、困り果てたように眉を下げた。
そんな娘と父親の熱を帯びたやり取りを、少し後ろから静かに見つめている女性がいた。三十五歳になる現在の正妃、ライアである。
ライアは三女神由来の神聖な名にふわさしく、誰もが心洗われるような穏やかで優しい微笑みをその唇に浮かべていた。
家臣や平民たちからも、まるで聖母のように慕われている彼女の表情は、一見すると仲睦まじい親子を温かく見守る良き母親そのものであった。
だが、その完璧な仮面の裏側で、ライアの心の中は激しい嫉妬と黒い怨嗟の炎に焼き尽くされていた。
(ふふ……相変わらず微笑ましい親子ですこと。前
妻のシャルテに似ているというだけで、アレフ様は私やティルに見向きもせず、あの女ばかりを猫かわいがりする……。モーセスの影が潜む反乱の戦場へ自ら赴くというのですか。好都合ですわ。いっそ、このままあの生意気なシオンが、今度の激しい大戦のなかで、無惨に死んでくれれば良いのに……)
心の中でどれほど悍ましい呪いを唱えていようとも、ライアの微笑みが崩れることは決してない。
彼女はただ、美しい緑の目を細め、静かに二人のやり取りを特等席から眺め続けている。
そのライアの傍らで、静かに控えていた実質的な国のナンバーツーである五十歳のバルドが国王に対して深く、恭しく礼をしながら、しかし力強く言葉を紡ぐ。
「国王陛下。なれば、このバルドがシオン様と共に出陣いたしましょう」
続けて
「私が第二軍を率いてシオン様の盾となり、その行軍を完璧に支えてみせます。これならば、陛下もご安心いただけるはず」
愛娘を一人で死地へ向かわせたくないアレフは、信頼する老臣の心強い申し出に顔を綻ばせた。
「おお、そうか! バルド、お前が自ら付いて行ってくれるというなら、私も安心だ。シオンを頼んだぞ」
「ははっ、お任せください。この命に代えましても」
バルドが頭を下げた、その瞬間だった。
アレフ王がバルドの元へ歩み寄り、そのがっしりとした手を、バルドの右肩へと置いた。それは、一見すると忠臣を労う主君の温かいスキンシップに見えた。
だが、アレフの手は、バルドの服の生地が軋むほどに、ぎりりと強く肩に食い込んでいった。
生々しい王の腕の力に、バルドが息を呑んだ刹那、アレフは笑顔を崩さないままバルドの耳元へと顔を寄せ、誰にも聞こえない低い、氷のように冷え切った声で囁いた。
「……同じことは、二度と起こらんだろうな」
それは、二年前、霧のなかでエドワ王子を救えなかったあの事件の真実を、すべて知っている王からの、逃れられない死の警告だった。
バルドの身体が、恐怖と驚愕でビクリと大きく震えた。全てを察せられていたという心臓が止まるほどの不意打ち。
しかし、バルドは次の瞬間には、今度こそシオンの身代わりになってその罪を清算するという本当の覚悟を腹の底にのめり込ませ、ナンバーツーの老獪な鉄の仮面を被り直した。
「……ご心配なく、陛下。あの時のような不覚は、決して」
バルドは何事もなかったかのように平然と、しかし決然とした声で答えてみせた。
二人の間で、一瞬にしてすさまじい血の牽制が行われたことなど、シオンは知る由もない。
だが、そのすぐ隣で
(お父様がなぜあの女の軍に……?)
と、張り付いた笑顔の裏で激しく取り乱し始めた現正妃ライアの緑の目だけが、驚愕に泳いでいた。




