リンの苦悩
「はい。ミシア様、キィール様と今度ゆっくり話し合います」
サーシャ、エレナと共に固く手を握り合い、ミシアの部屋をあとにした
。リンは無表情で後追った。
リンは二人の前では、国を背負う予言者として毅然とした表情を崩さなかったが、自室へと戻り、一人きりになった瞬間――リンはシーツに顔を押し当てるようにして、ベッドへ崩れ落ちた。
ポロポロと、堪えきれない涙が枕を濡らしていく。
「……何ひとつ、知らなかった」
リンは小さな身体を限界まで丸め、激しく打つ鼓動を両手で押さえた。
じつは、ソフィアの妃教育、そしてミシアの講義を経て、三人の妃候補の中で最も深い衝撃を受け、今もなお激しい大パニックに陥っていたのは、他ならぬリンだった。
サーシャとエレナの話に合わせ、時には予言者として彼女たちを導く言葉さえ口にしていたが、リンの胸のうちは、処理しきれない困惑の嵐が吹き荒れていた。
リンの頭脳には、この世界のあらゆる歴史、政治、経済、そして遥か彼方の神聖な知識に至るまで、アトンによって授けられた膨大な情報が完璧に収められている。自分は世界のすべてを知っている――そう自負していたのだ。
だが、その完璧な知識の器の中に、抜け落ちている領域があった。
それが、生身の「男女の情愛」であり、「命の紡ぎ方」の真実だった。
(私は……男女の間に流れる絆から生まれたわけではない。アトン様が作った、ただの、作られた人間……)
リンは普通の人間としての生活を送ったことがない。
生身の人間と深く関わった経験すらなく、ずっとアトンの教えを覚えているだけなのだ、愛とは何か。彼女にとってそれは、頭脳の片隅にある「無機質な文字データ」でしかなかった。
そして、知らなかった事実が、リンを不安にさせる。
そもそもここに来たのはアトンよりキィール様の妻になれと言われたからなのだ。
それなのに、昨日から立て続けに浴びせられた、生々しくも温かい人間の世界の真実。
もしかしたら、自分の知識は完全ではないのではないか?と…
そして聞かされた命を繋ぐための試練、死んでもいいと思えるほどの愛、そして数十年後に生まれる子供たちの未来――。
知らなかった「愛」という言葉が、圧倒的な質量を持って自分に迫ってきた時、すべてを知っているはずだった予言者は、自らのあまりの無知さに、ただただ恐怖し、打ちのめされていた。
「キィール様を……本当に、愛する……?」
リンは涙で濡れた目を見開き、夜の闇を見つめた。
愛されたいと言う気持ちは今は無い、作られた存在である自分が、生身の人間であるキィールを、魂の底から「本当に愛する」ことなんてできるのだろうか。
すべてを知る予言者でありながら、人間の愛の前に誰よりも迷子になってしまったリンは、熱を持ったまま冷めない自らの胸をぎゅっと掻きむしり、静かに夜の底へと沈んでいくのだった。




