ソフィアの想い1
廊下へと去っていく三人の背中を見送りながら、ソフィアはふと、自身の記憶の引き出しをひっくり返していた。
「……男の人、ですか」
ぽつりと呟いた彼女の頬が、見る間に淡い朱色に染まっていく。
脳裏をよぎったのは、あの逞しくも不器用な男――スパルタカスの姿だった。
それは、激しい闘神戦の直後のことだ。
スパルタカスは瀕死の重傷を負い、医務室のベッドで生死の境を彷徨っていた。城の医官たちが総出で診察にあたっていたものの、なす術もなく立ち尽くすばかりの深刻な状況。
そこへ駆けつけたのが、ソフィアだった。
彼女の手には、予言者であるリンから預かったばかりの貴重な『秘薬』が握られていた。
「そこを退きなさい」
立ちはだかる医官の前に、ソフィアは毅然と一歩を踏み出した。
「予言者様より、この方に与えるようにと秘薬を預かってまいりました。これ以上、時間を無駄にするわけにはいきません」
そのただならぬ気迫と『予言者』の名に気圧され、医官は黙って道を譲る。
ソフィアはベッドに近づくと、意識を失っているスパルタカスの口元へ慎重に秘薬を流し込んだ。
薬が効いてくるのを待ちながら、彼女は横でじっとその寝顔を見つめていた。
固く結ばれた唇、戦いを生き抜いてきた男らしい輪郭。
(……よく見れば、この方も中々の……)
そんな不謹慎な考えが頭をよぎった瞬間、ソフィアは前日までの自分を思い出し、激しい羞恥心に襲われたのだった。
ソフィアは二十五歳。
適齢期を迎えながらも未婚のまま、25歳以上で城でただ一人の未婚女官として激務をこなす日々。
周囲を見渡せば魅力的な殿方ばかりで、知らず知らずのうちに心が惚れやすくなっていたのは否めない。
最初は、ゾイルだった。
彼の凛々しさに胸をときめかせたものの、彼がメシアを見つめる眼差しに気づき、入る隙がないと悟って静かに身を引いた。
そんな彼女の前に、次に現れたのがサジィールだったのだ。
サジィールの洗練された佇まいに、ソフィアの心は完全に射抜かれてしまった。
自分でも自制が効かないほど、周囲から見れば「バレバレ」なほどの好意を彼に注ぎ、健気に尽くし続けた。
だが、そんな彼女の想いに、サジィールは誠実さをもって答えた。
ある日、彼はソフィアの真っ直ぐな視線を受け止め、静かに、しかし決然と告げたのだ。
『ソフィア殿。貴女が私に、どれほど心を砕いてくれているかは痛いほど分かっています。……ですが、私には心から愛する妻がいるのです。今は生死すら不明の身ではありますが、私の心に他の女性が入る余地はありません。貴女の好意をこれ以上曖昧に受け取ることは、貴女に対して不誠実極まりない。だから、正直にお伝えします』
その言葉は、ソフィアの淡い恋心を粉々に砕いた。しかし同時に、一途に妻を想う彼の高潔さに、これ以上踏み込んではいけないと深く納得させられるものでもあった。
(……ああ、私としたことが、失恋の反動で今度はスパルタカス様にまで目を奪われるなんて!)
ベッドの傍らで、ソフィアは赤くなった顔を両手で覆い、一人で悶絶していた。
幸いにも、秘薬の効果でスパルタカスがうっすらと目を覚ましたため、彼女の妄想はそこで強制終了となったのだが。
「……本当、偉そうなことを言っておきながら、私だって殿方のことになれば、あの初々しい姫方と大差ありませんわね」
ソフィアは小さく苦笑すると、パタパタと手で顔を仰ぎ、いつもの厳格な筆頭女官の表情へと戻るのだった。
バダン!
突然ドアが空き
「お父様!」
少女が叫びながら入って来た。
そう言えば、子供がいるとソフィアは聞いていたので、別に慌てずスパルタカスの方へ行こうとする少女を見ていた。
だが、その小さな手には、いつの間にか冷たく鈍い光を放つ短剣が握られていた。
狙いは、油断しているスパルタカスの胸元――心臓の直上。
「スパルタカス様……っ!?」
咄嗟に異変を察知したソフィアの身体が、弾かれたように動いた。
叫びながら、ソフィアは自身の右手を、少女の突き出した腕めがけて真横から全力で叩きつける。
ガキィンッ!
と鋭い衝撃音が響き、短剣の軌道がわずかに逸れた。しかし、完全に威力を殺しきることはできず、冷徹な刃はスパルタカスの肩の肉を深く貫いた。
「ぐっ……!?」
予期せぬ激痛にスパルタカスがうめく。だが、薬に操
られたリノの凶行は止まらない。
リノは血走った目で、突き刺さった短剣をさらに深く押し込もうと、あるいはもう一度刺そうと、尋常ならざる怪力で刃を動かそうとする。
「させません……っ!」
ソフィアは自らの負傷も顧みず、リノの小さな両手首を上からガシッと力いっぱいつかみ取った。
リノの凄まじい力がソフィアの腕に伝わり、互いの力が激しくぶつかり合う。一歩も引けない、緊迫した膠着状態。
「何事だ!?」
そこへ、ただならぬ気配を察知したキィールが、サジィールやカイル王、ゾイル、そしてエレナとリンを引き連れて部屋へと飛び込んできた。
目に入ったのは、肩を刺されたスパルタカスと、狂乱するリノの腕を必死に掴んで食い止めているソフィアの姿。
「危ない!」
キィールは電光石火の速さで踏み込み、ソフィアの手から少女の身柄を引き剥がすように、背後からその小さな身体をがっしりとホールドした。拘束された少女は、まるで自我を失った野獣のように激しく暴れ、キィールの腕の中で牙を剥く。
「若様!これを!」
リンが鋭く指示を飛ばす。
その声に応え、リンは懐から素早く、特殊な薬液をたっぷりと染み込ませた布を取り出しキィールにわたした。
キィールは素早い動きで少女の正面へ飛び込むと、暴れる彼女の口元をその布で覆い隠した。
強力な鎮静作用を持つ薬液が、リノの呼吸を通じて強制的に体内へと送り込まれていく。
「う、あ……お、と……さ……」
リノの身体から、急激に不自然な力が抜けていった。血走っていた瞳がゆっくりと閉じられ、やがて彼女はキィールの腕の中で、深い眠りへと落ちるように静まり返った。
誰もが息を呑む中、肩を押さえるスパルタカスと、息を切らせて立ち尽くすソフィアの間に、重苦しい沈黙が流れる。




