毘世拝都
2045年、春。
毘世拝都の首都には、今日も変わらず穏やかな陽光が降り注いでいた。
雲間から覗く青空を、天を衝くような高層建築がいくつも切り取っている。ガラス張りの外壁には陽光が反射し、地上を行き交う人々の足元へ、幾何学的な影を落としていた。
通りに軒を連ねる飲食店。ある小奇麗なカフェに若い女達が入っていった。
『いらっしゃいませ』と音声が鳴る。
注文と同時に、販売機の奥で機械が動き出した。クリームが絞られ、色とりどりの果実が寸分の狂いもなく並べられていく。
細やかな装飾が瞬く間に施され、最後に艶やかな光沢をまとわせると、数秒後、ほどなくして小扉が開いた。
滑り出した銀色のトレーには、熟練の職人さえ舌を巻きそうな、美しいタルトが載っていた。
女達は流れ作業のように品物を手に取り、各々ドリンクを注ぎテーブルへと向かった。
店内は賑わっていた。女達のあとに若い男が一人、手早く注文を済ませ、窓際の席へと向かう。
白いTシャツからのぞく腕は細い。
黒髪がよく映えるような色白な男である。
客たちがボタンを押す音、機械の規則正しい駆動音と食器の触れ合う音が、人々の話し声に紛れていた。
男は窓際の席で薄い端末を操作する。
画面には、店内のあちこちで交わされる会話が次々と表示されていた。
入口付近、男女二人組。─海外文化の賛美。
店内奥、男性四人組。─国家に対する不信。
カウンター席、入り口手前から三つ目の男。─反国家的思想。
何気ない雑談の一つひとつが、画面の上で文字列へと置き換わっていく。
ただ発言の内容と、その人物に下された判定だけが整然と並んでいた。
男は骨ばった指を滑らせ、いくつかの項目を選択する。画面に表示された文字列が次々と色を変え、やがて一つのメッセージが浮かび上がった。
『データを送信しますか?』
男は迷うことなく、確定を押した。ほどなくして、店の入口が勢いよく開いた。
「おい、待て貴様!」
突然響いた怒声に、客たちの視線が一斉に入口へ集まる。老竹色の軍服を着た男たちが、数人連れ立って入ってきた。
先頭の軍人は、戸惑う客の一人を指差した。
「今の発言はどういうことだ!」
「は…?俺は何も…!」
「無駄だ!こちらには証拠がある!これは貴様の声だろう?先ほどの発言は反国家的とみなす!」
軍人が握っていた端末から音声が響き、ついさっきまで話していた声が再生される。
客の男は何も言えず、唇を噛んだ。
軍人は構わず淡々と続ける。
「今から言う者は全員、我々に従うように。まずはお前!」
名指しされた客が青ざめる。他の客たちは互いの顔を窺いながら、口を閉ざし、目を合わせないよう視線を落とした。
先ほどまで食器の音と会話で満ちていた店内が、不気味なほど静まり返る。
窓際にいた男は、いつの間にかいなくなっていた。
『材料を補充してください』
『フィルターの清掃が必要です』
販売機から音が鳴った。
先ほどまで賑やかだった店内に、販売機の無機質な声だけが響いていた。
任務を終えた軍人たちは、いつものように連れ立って歩き出した。
「今日も沢山摘んだな、やっぱりああいうカフェなんかで喋ってると、気が緩むんだろうな」
「よく働くな、新人!お前が目星つけた店、大当たりだったな」
まるで畑仕事でも終えたような、気安い口ぶりだった。新人と呼ばれた男は軽く頭を下げ、
「ありがとうございます。ですが私はもう二年目ですので、新人のように扱っていただく必要はありません」と続けた。
「この小隊では一番新人なんだから、なんでもいいだろうが」と肩を叩かれ笑われる。
「しかし、お前には同情心とかはないのか?」別の軍人が顔も見ずに尋ねた。
若い軍人は一瞬だけ考える素振りを見せ、
それから真っすぐに答えた。
「仕事に私情は持ち込むべきではないと思っています」
「はは、真面目だな」
「いいじゃないか。立派なことだ」
一人が満足そうに笑った。
「我々はこの国に身を捧げたんだ。国のために生き、国のために死ぬ。それこそが本望なんだから」
その男は誇らしげに胸を張り、大げさに片手を掲げる。そして、声高らかに言い放った。
「素晴らしき我が国、毘世拝都!」
「すべてを我らが拝都のために!」
その言葉を聞きながら、彼らの背中を見つめる若い軍人は目を細めた。
――長くここにいると、こうなってしまうものなのか。
いや、それとも最初からか。
軍務を誠実に遂行することと、自分の意思を持たないことは違うはずだ。
命令には従う。与えられた仕事は果たす。
一般人を装って人々の思想を調査し摘発する任務だって、仕事ならばやる。
当然だ。
だからといって、国家の言うことすべてに賛同しなければならない理由がどこにあるんだ。ましてや、自分の生き方まで差し出したつもりはない。
任務を終えた若い軍人は小隊を一時離れ、兵舎のロッカールームへ向かう。昼間だが、電気をつけないと薄暗い。
構わずにロッカーを開け、白いTシャツを脱ぎ軍服をまとう。軍帽のつばの下から覗く瞳は、相変わらず冷めていた。
――ああはなりたくないな。自分の頭では何も考えていなさそうだ。
この国に身を捧げたつもりはない。
俺は俺だけのものだ。
鼎榊は、考えることさえ他人に委ねる人間が、どうにも好きになれなかった。
検挙。
その言葉が、毘世拝都の一般市民の間で日常的に飛び交うようになったのは、ここ数年の話だった。
国家や軍隊に対する侮辱的な発言、政府の方針に異を唱える言葉、あるいは諸外国の文化を賞賛する何気ない一言。
そうしたものが反国家的な思想の表れとみなされ、軍による取り締まりの対象となっていた。
検挙された者がその後どうなるのか、詳しいことを知る者は少ない。
数日にわたる尋問を受けるだとか、思想を改めるまで解放されないだとか、まことしやかな噂ばかりだった。
もっとも、そうした噂話ですら、今では人目を忍ばなければできない。
近年、この国の統率者が代わってからというもの、あれこれと理由をつけなにかと制限する政策は徐々にその色を濃くしていた。
かつては当たり前だったことが、いつの間にか許されなくなる。榊たちも、そんな変化の中で育ってきた。
「榊!」
聞き慣れた声に、榊が振り返った。通りの向こうから、二人の青年がこちらへ歩いてくる。
「よお!もう今日の任務終わりか?」
金髪の青年は、昔から変わらない人懐っこそうな笑みを浮かべていた。
「おー小牧、泉。お前たちも終わったのか?」
榊の問いに、青年がひらっと片手を振る。
「いや、俺は次の仕事が一時間後。それまで暇つぶしって感じ」
梁小牧はそう言って、悪戯っぽく笑い、傍にあったベンチによっこらせと言いながらどかっと腰かけた。
「げ、小牧、昨日雨降ったでしょ。ベンチ濡れてるんじゃないの」と、隣にいた亘泉が顔をしかめる。
「この軍服、速乾だから大丈夫だろ、泉も座れば」
「僕はいいよバカ小牧」
小牧と泉がいつもの調子で軽口を叩きあう傍らで、速乾でも尻が濡れるのは嫌だろと榊は内心思っていた。
三人は幼いころからの付き合いだ。現在はそれぞれ異なる隊に所属している。たまたまタイミングが合い、こうして揃って話すこともあれば、数ヶ月顔を合わさないこともよくあった。互いの性格も、考え方もよく知っている。軍隊の中にいて、気軽に口が利ける貴重な相手だった。
しばらく他愛のない話をしていると、小牧が不意に空を見上げた。
「…おっ、今日も飛んでるな」
つられて二人も視線を上げる。
高層建築の合間を、小型の無人飛行機が数機、悠々と横切っていくところだった。
「ドローンも増えたよねえ」
泉がため息まじりに呟く。
「あれ、何用だ?」
小牧が尋ねた。
「空撮用だろうな」
榊が短く答える。
「空撮ねぇ……」
小牧は眩しそうに目を細めた。
「本格的に軍事運用が始まるんだろうな。
便利なんだろうけど、毎日飛ばされるとさ」
そこで言葉を切り、空を見上げたまま続けた。
「なんか、見張られてる感じはするよなぁ」
「バカ小牧」
すかさず泉が口を挟む。
「あんまりそういうこと言わない方がいいんじゃないの」
「なんだよ泉、心配性だな!誰も聞いてねえって」
小牧は笑い飛ばした。
「そういう問題じゃないでしょ…ほんとこいつバカ」
泉は呆れたように息を吐く。少女と見紛うほどの顔立ちをしているが、慣れた相手には我が強く、口も悪い。
そして大概、ローテンションだ。
そんな二人を横目に、榊はもう一度空を見上げた。
ドローンはすでに遠ざかり、建物の陰へ消えようとしている。
あれが本当に空撮だけを目的としているのか、それとも別の役割を持っているのか。少なくとも、通りを歩く一般市民や、兵役に従事している下っ端の軍人には確かめる術はない。榊は視線を戻した。
「そういえば泉、お前はもう仕事は終わったのか?私服だけど」
「ああ、僕?今日は非番だったんだ」
泉は抱えていた本を少し持ち上げた。
「だから楽譜を買いに出掛けてたんだよ」
「楽譜?」
「うん。最近は何でもかんでも電子化されちゃうけど、僕はやっぱり紙派だからさあ」
泉は大事そうにそれを抱え直し、意気揚々と話し始めた。音楽は、泉が昔から好んでいるものの一つだ。
特にピアノについては、榊も小牧もその腕前をよく知っている。
「どんなのだ?見せて」
榊が手を差し出すと、泉は素直に楽譜を渡した。小牧も興味津々といった様子で横から覗き込む。
何枚かページをめくってから、榊がぽつりと言った。
「…いいな。名曲揃いだ」「ほんとだなー!」
榊や小牧も小学校で習ったような、誰もが知る名曲ばかりが集められているようだった。
「でもこれ、俺の好きな曲載ってなくね?」
「小牧の好きな曲なら何年か前に載らなくなったよ」泉が前髪を直しながら説明した。
「は、なんで?教科書にも載ってたじゃん、今はもうやらねえの?」
小牧が食いつくと泉は「検閲で引っかかったんだって」と気だるそうに言った。
知らないうちに規制されて目に触れなくなっているものがここ数年は特に増えている。
ぶつくさと文句を言い始めそうな小牧をフォローするように、「今度、耳コピで弾いてやれば」と榊が提案した。
「弾ければね」と泉が言う。一度聴いた曲は即座に弾くことができる泉にとっては造作もないことだろうが、おそらく単純に面倒なのである。そして、検閲に引っかかるような曲を弾いて万が一誰かに聞かれてしまったら、ということも考えているのだろう。
気分屋で、まるでお姫様みたいな男だが、面倒ごとを避けるために慎重になる一面もある。
「もったいねぇよな、泉。そんなにピアノ上手いのに、兵役終わっても音楽の道には進まねえんだろ?」
小牧が泉を見上げて言うと、泉はほんの少しだけ表情を曇らせた。
「…うん」
彼は楽譜を受け取り、表紙を指でなぞった。
「僕より上手い人は、たくさんいるんだって分かったからね」
それだけ言うと、力なく笑う。
「もういいかな、趣味程度で」
「…そうか」
榊はそれ以上は何も言わなかった。
何が正しい慰めなのかなど、そう簡単に分かるものではない。
ところが小牧はいつもの調子で、軽く頭を掻きながら笑った。
「今度なにか弾くときは、俺がバイオリンで合わせてやるよ」
泉が顔を上げる。
「…ええ?小牧、最後に弾いたのいつ?」
「ん?小学校の音楽の授業」
「最低…何年前なのそれ」
「いや、やればすぐ思い出すから」
「昔だって下手だったじゃん…」
痛いところを突かれた小牧が大袈裟に肩を落とす。泉は呆れたように笑い、榊も口元を緩めた。
昔は泉がピアノを弾いているそばで、小牧と一緒によく茶々を入れ怒らせたものだと、榊は思った。
音楽の授業では、ピアノやバイオリン、フルートなんかも習った気がする。
ギイギイという音を出していた小牧より多少上手くはあったものの、榊自身も演奏はそれほど得意ではなかった。
それでも、普段は聴かないような曲に触れられる音楽の授業は、榊も小牧も好きだった。
頭上では相変わらずドローンが飛び交っていたが、三人はもう、それを気にしていなかった。




