いつもの日常、その終わり
壁に掛けられた時計へと視線を向ける。
「……よし」
思わず、小さく声が漏れた。
時刻は、いつもの退社時間より少し早い。
正確には定時を少し過ぎているけれど、ここ最近の自分からすれば十分すぎるほど早かった。
(今日は帰れる……!)
椅子の背もたれに身体を預け、ぐっと両腕を上へ伸ばす。
「ん~~……!」
凝り固まった肩や背中が、パキパキと音を立てる。
「痛……」
思わず顔をしかめた。
ここ数日、残業続きだった。
帰宅するのはいつも遅い時間。
家に着けば食事を済ませ、風呂に入って、明日のた めに寝る。
読みたいと思って買った小説も、途中まで読んだまま机の上に積まれている。
休日にやろうと思っていたことも、ほとんど手を付けられていない。
仕事が嫌いなわけではない。
むしろ、任された仕事を黙々と片付けていくのは嫌いじゃなかった。
けれど、さすがに連日となると疲れる。
「……明日は休みだし」
そう呟くと、それだけで少しだけ気持ちが軽くなった。
今日は久しぶりに、帰ってから時間がある。
それだけのことなのに、妙に嬉しい。
会社を出て歩き始めると、夜の街を吹き抜ける風が心地よかった。
(さて……)
今日の夕飯をどうするか。
歩きながら考える。
普段なら、疲れているし適当に済ませてしまうところだけれど――今日は違う。
(連日頑張ったし……ちょっとくらい奮発してもいいよね)
スーパーへ寄って、少し良いお肉を買う。
焼くだけでも十分美味しいだろう。
それから――
(デザートも買っちゃおうかな)
考えただけで、口元が緩む。
プリンもいい。
ケーキも捨てがたい。
いや、久しぶりなんだから両方買ってもいいのでは?
(明日は休みだし)
大事なことなので、もう一度心の中で繰り返す。
明日は休日。
つまり、夜更かししてもいい。
読みたかった小説を夜遅くまで読んでもいい。
途中で眠くなったら、そのまま寝てもいい。
朝だって、目覚ましをかけずに寝られる。
(最高じゃん……)
思わず頬が緩んだ。
明日の朝はゆっくり起きて。
溜めていた小説を読んで。
気が向いたら資格の勉強をして。
お腹が空いたら何か作って。
疲れたら昼寝でもして。
誰にも急かされない。
そんな休日を想像するだけで、足取りまで軽くなっていく。
「今日は帰ったら、まずご飯……」
独り言のように呟く。
肉を焼いて。
デザートを食べて。
その後は小説。
少しくらい夜更かししても、明日は休み。
「ふふっ」
知らず知らずのうちに、笑っていた。
特別なことなんて何もない。
ただ、仕事が早く終わって、明日が休み。
それだけ。
でも――そんな何気ない時間が、私は好きだった。
信号の前まで来たところで足を止める。
赤信号。
私は立ち止まり、ぼんやりと向かい側を眺めた。
隣には、小さな男の子がいた。
手にはボール。
楽しそうに弾ませながら、信号が変わるのを待っている。
ぽん。
ぽん。
ぽん。
規則的な音が聞こえる。
私は何気なく、その様子を横目で見ていた。
――そのとき。
「……あっ」
男の子の手から、ボールが離れた。
ころん。
ボールは歩道を転がり、そのまま車道へ向かっていく。
「あ……」
男の子が一歩踏み出す。
「待って!」
誰かの声が聞こえた。
けれど、男の子はボールを追いかけていた。
そして――
車道へ飛び出した。
「危ない!!」
周囲から悲鳴が上がる。
私は反射的に道路の先へ視線を向けた。
その瞬間。
――大型トラックが見えた。
「……っ!」
近い。
あまりにも近すぎる。
ブレーキ音が響いた。
キィィィィッ――!
クラクションが鳴り響く。
周囲から次々と声が上がる。
「危ない!」
「誰か止めろ!」
「子どもが!」
けれど、そんな声はまるで遠くから聞こえてくるようだった。
視界の中で、トラックだけが異様なほど大きく見える。
男の子は、道路の真ん中で立ち尽くしていた。
怖くて動けないのかもしれない。
私の身体が勝手に動いた。
「――危ない!」
駆け出す。
男の子の腕を掴む。
「こっち!」
思い切り引っ張った。
小さな身体がこちらへ引き寄せられる。
――間に合った。
そう思った。
けれど。
「え……?」
勢いがつきすぎた。
男の子を歩道側へ引っ張った反動で、今度は自分の身体が道路側へ傾く。
足がもつれる。
身体が前へ投げ出される。
「――っ!」
顔を上げた。
目の前に、トラック。
巨大な車体。
眩しいヘッドライト。
迫り来るエンジン音。
クラクション。
周囲の悲鳴。
全部が一つの音になって、頭の中を駆け巡る。
(あ……)
そこでようやく理解した。
私は今――
トラックに轢かれる。
身体が動かない。
逃げられない。
時間だけが、妙にゆっくり流れていく。
(……死ぬ)
怖い。
当然、怖かった。
もっと生きたい。
まだ読み終わっていない小説もある。
食べたいものだってある。
明日の休日だって楽しみにしていた。
――肉、買おうと思ってたのに。
そんな場違いなことが、頭に浮かんだ。
そして次の瞬間。
私はぎゅっと目を閉じた。
(……でも)
さっきの男の子が助かったのなら。
(この子が生きてくれるなら……)
それなら。
それでもいいのかもしれない。
そう思った。
――衝撃は、来なかった。
代わりに感じたのは――
ひやりとした空気だった。
「……?」
閉じていた目を、ゆっくりと開く。
そこにあったのは、見慣れた道路ではなかった。
見たこともない天井。
見たこともない壁。
そして――
自分の足元には、淡い光を放つ巨大な魔法陣が広がっていた。
「…………え?」
私は、ただ呆然とその光景を見つめていた。
はじめまして。
読んでいただきありがとうございます。
亀更新なのですが、それでも待って続きを楽しみにしていただけると幸いです。




