第七話『名前のあるもの』
それは、“その子”を救い出す数分前のことだった。
月島は、白い通路を進んでいた。
第三格納棟。
下層。
壁に埋め込まれた表示板には、そう記されている。
水の匂いが濃くなっていた。
消毒液の奥に、湿った空気が混じる。
壁の中を流れる水音。
低く唸る機械音。
遠くで開閉する電子ロックの音。
月島は、そのすべてを拾いながら進む。
走らない。
だが、遅すぎもしない。
すでに監視カメラに映っている可能性は高い。
完全な潜入は諦めている。
必要なのは、見つからないことではない。
見つかる前に、“その子”を見つけること。
囲まれる前に、連れ出すこと。
「───っ」
月島は角の手前で止まった。
通路の先に、人影はない。
足音もない。
呼吸音もない。
空調の流れに混じる衣擦れもない。
少なくとも、聞こえる範囲には。
月島は一歩踏み出した。
───その瞬間。
「───っ!!」
背筋に、細い針を刺されたような感覚が走った。
音ではない。
匂いでもない。
気配。
いや、視線だった。
月島は足を止める。
通路の白い壁。
照明。
監視カメラ。
配管の影。
開きかけた扉。
視界にあるものを、順番に並べる。
異物はない。
誰もいない。
だが、いる。
そう判断した瞬間、通路の脇にある暗い隙間から、声がした。
「へぇ」
軽い声だった。
「この男が、あの匂いの正体ッスかあ……」
月島は半歩下がった。
同時に、身体をわずかに斜めへずらす。
正面から襲われた時、すぐに横へ逃げられる位置。
背中は壁につけない。
逃げ場を塞がない。
声の主は、ゆっくりと姿を現した。
小柄な身体。
黒革のショートパンツ。
ノースリーブのタンクトップ。
白と黒が混ざった、ぼさぼさの髪。
目元は前髪で隠れ、口元だけがよく見える。
にっと笑った唇の端から、鋭い八重歯が覗いていた。
その歩き方は、人間のものではなかった。
軽い。
低い。
床を踏んでいるのに、体重を置いていない。
いつでも跳べる。
いつでも噛みつける。
そういう歩き方だった。
女は、後頭部で腕を組んだまま、月島を見る。
「見た目は、完全に人間ッスけどねぇ」
月島は答えない。
喉の奥が乾いていた。
呼吸は乱れていない。
だが、汗が背中を伝っているのが分かる。
先ほど出会った白い少女とは違う。
あの少女は、脆かった。
弱いわけではない。
それでも、怯えと迷いがあった。
目の前の個体には、それがない。
敵意ですらない。
ただの興味。
そのはずなのに、視線が鋭い。
針のように、皮膚の下へ刺さってくる。
月島の視線が、斑の首元へ落ちた。
認証タグ。
個体番号〇九六番。
成功認定個体アベラント。
コードネーム、斑。
モデル、ラーテル。
───獣。
月島は、その文字を見た瞬間に理解した。
対峙するだけで分かる。
力が違う。
速度が違う。
身体の作りが違う。
こちらが動くより早く、あちらは喉元に届く。
逃げれば背中から裂かれる。
戦えば最初の一撃で終わる。
目の前にいるのは、そういう種類の生き物だった。
月島は手を握る。
爪が掌に食い込む。
恐怖はある。
焦りもある。
だが、それだけだった。
頭の中は、不思議なくらい冷えている。
距離。
床材。
照明。
通路幅。
斑の重心。
肩の角度。
膝の沈み。
どれも並ぶ。
だが、結論は変わらない。
勝てない。
抜けない。
斑は月島の沈黙を楽しむように、鼻を鳴らした。
「そんなに怖い顔しなくていいッスよ」
「……どいてくれないか」
月島が言う。
斑は笑った。
「嫌ッスねぇ。人間に命令されるの」
「なら、通してくれないか?」
「それも命令じゃないッスか。あとさっきと変わってねえッス」
軽い。
あまりにも軽い。
殺せる相手の前で、冗談を言っている。
月島は視線を逸らさない。
「……ふぅ〜ん」
斑はしばらく月島を見ていた。
その目は、獲物を見る目に似ていた。
だが、捕食するための目ではない。
もっと別のもの。
名前をつけるなら、好奇心。
この男が何をするのか。
どこまで行けるのか。
それを見てみたいという目だった。
斑はゆっくりと首を傾げる。
「……左」
月島の眉がわずかに動く。
「…なに?」
「姫様の匂い、水の奥に残ってるッス」
斑は顎で通路の先を示した。
「行くなら左」
「なぜ教える…?」
「教えてないッス」
斑は、にっと笑った。
「独り言ッス」
月島は斑を見た。
罠か。
誘導か。
それとも本当に、ただの気まぐれか。
判断材料は少ない。
だが、時間もない。
このまま向かい合っていても、"あの子"には近づけない。
月島は言った。
「……君も、見逃すのか」
斑の笑みが少し深くなる。
「にしし。ゆっきー先輩も、ボクも何も見てないッス」
「……白い女といい、君といい」
月島は低く言う。
「ここは、ずいぶん命令が軽いんだな」
「忠誠心あるやつの方が少ねえッスよ」
斑は肩をすくめた。
「命令聞けないやつは檻の中。使えないやつは廃棄。使えるやつはただの道具」
声は軽い。
だが、言葉の中身だけが冷たい。
「みんな、それを知ってるから従ってるだけッス」
月島は黙った。
斑の口元から笑みが消えることはない。
けれど、その言葉には嘘がなかった。
斑は通路の奥をちらりと見る。
「とっとと行くッス」
「……」
「気づかれるのも、時間の問題ッスよ」
月島は、斑を見たまま数秒黙った。
それから、左の通路へ視線を向ける。
水の匂い。
奥へ続く白い廊下。
第三格納棟。
下層。
「……そうだな」
月島は短く答えた。
斑の横を通り過ぎる。
背中を見せる。
その瞬間、喉元を裂かれる可能性はあった。
だが、斑は動かなかった。
月島は一度も振り返らず、通路の奥へ消えていった。
白い廊下に、月島の足音だけが遠ざかる。
斑はそれを見送る。
にやり、と笑ったまま。
けれど、その鼻の奥には、まだ月島の匂いが残っていた。
血。
外の空気。
湿った通気口の埃。
人間の汗。
施設の中では、本来どれも珍しくない匂いだ。
人間など、何人もいる。
研究員も、警備員も、作業員も。
斑にとって人間の匂いなど、普段ならわざわざ意識するようなものではなかった。
なのに。
「……変な匂いッスねぇ」
斑が、ぽつりと呟く。
もう姿は見えない。
足音も、かなり遠ざかっている。
それでも月島の匂いだけが、鼻の奥にこびりついて離れなかった。
濃い。
重い。
ただ汗臭いとか、血の匂いが強いとか、そういうものではない。
それら全部の奥に、何か別のものが混じっている。
知らない匂い。
嗅いだことのない匂い。
人間のはずなのに、人間だけでは終わらないような――妙に鼻へ残る何か。
斑は、もう一度鼻を鳴らした。
「んー……」
すん、と短く空気を吸う。
月島が通ったあとの空気。
そこに残された匂いが、施設特有の消毒液も、湿った水の気配も、薄い鉄臭ささえも押し退けている。
まるで、この白い通路そのものを、別の匂いに塗り替えていくみたいだった。
「人間って、こんな匂いしたッスかねぇ……」
斑は首を傾げる。
その意識が、完全に月島へ向いていた。
───だから。
気づくのが、ほんの少しだけ遅れた。
本来なら、斑の鼻なら拾えていた。
通路の奥。
壁と配管の隙間。
天井近くの暗がり。
そこに薄く張りついていた、別の匂い。
湿った糸。
古い布。
長く閉ざされた部屋のような、淀んだ匂い。
白い女の匂い。
決して無臭ではない。
むしろ斑は、あの独特な匂いがあまり好きではなかった。
だから普段なら、近くにいればすぐ分かる。
けれど今は。
ついさっきまで目の前にいた月島の匂いが、あまりにも強かった。
近すぎた。
濃すぎた。
そして何より――斑にとって、知らなすぎる匂いだった。
鼻がそちらへ引っ張られていた。
意識まで持っていかれていた。
だから、ほんの一瞬。
白い女の匂いが、その奥へ沈んだ。
「あーあ」
背後から、甘い声がした。
斑の肩が、ぴたりと止まった。
「斑ちゃん、いっけないんだぁ」
笑みは消えない。
けれど、その声を聞いた瞬間。
斑の纏う空気が、一段だけ冷えた。
「……いっちばん面倒くさいやつに見つかったッスね」
斑は、ゆっくりと振り返る。
通路の影から、白い人影がゆらりと現れた。
白繭だった。
真っ白な肌。
無造作に伸びた白い髪。
ぼろぼろの患者服。
猫背のまま、斑を上目遣いに見ている。
その赤い瞳は、斑の顔を見ているようで、少しずれていた。
目が合っているはずなのに、噛み合わない。
口元には、笑みの形だけが張りついている。
「みてたよ」
白繭は言った。
「人間さん、逃がした」
「シロ先輩こそ、こんなところ勝手にうろついてていいんスか?」
斑は軽く返す。
声はいつもの調子だった。
だが、足は動かない。
白繭の姿を見た瞬間から、斑は無意識に距離を測っていた。
白繭は、こてんと首を傾げる。
「いいんだよ」
「誰が許可したんスか、それ」
「あたし」
白繭は、くすくす笑った。
それから、指をひょいと持ち上げる。
「あたし、見張り番だもん」
「……自称ッスよね、それ」
「お姉ちゃんの近くとか、小さい子の近くとか、通路とか」
白繭の指が、またひょいと動く。
天井の隅。
壁の割れ目。
通路の奥。
そこにあるはずのない細い白が、ほんのわずかに震えた。
「糸、いっぱい張ってあるの」
白繭は楽しそうに言う。
「誰が歩いたか、だいたい分かるよ」
斑の目が細くなる。
見えないほど細い糸。
光を受けてもほとんど反射しない。
けれど確かに、施設の白い通路の中に張り巡らされている。
命令ではない。
任務でもない。
白繭が勝手に張った巣。
白繭が気に入った場所。
白繭が気にする相手。
緇の近く。
"その子"の近く。
通路。
逃げ道。
そのすべてに、糸がある。
「悪趣味ッスねぇ」
「だって蜘蛛だもん」
白繭は、当然のように答えた。
そして、にたりと笑う。
「さっきの人間さん、変な重さだった」
斑は黙る。
「人間さんなのに、人間さんみたいに糸が揺れないの」
白繭は、赤い瞳を細めた。
「だから見に来たら、斑ちゃんが逃がしてた」
「逃がしてないッスよ。道を塞がなかっただけッス」
「同じだよ」
「違うッス」
「同じ」
白繭は楽しそうに繰り返した。
「斑ちゃん、人間さんを逃がした」
斑は思わず、ため息を吐く。
「昔から苦手だったんスよねぇ、シロ先輩のこと」
「粉雪ちゃんとお揃いの白なのにね」
白繭は、ぼろぼろの患者服の袖を少し持ち上げた。
「白、嫌い?」
「ゆっきー先輩の白は綺麗ッス」
斑は笑った。
「シロ先輩の白は……湿ってるッス」
白繭の口元が、少しだけ深く裂けるように歪んだ。
「いひひ」
指が、自分の唇に触れる。
そのまま、口角を無理やり吊り上げた。
笑顔の形だけを作る。
「───それ、傷つくなぁ」
次の瞬間。
斑の首元に、白い線が巻きついた。
細い。
見えないほど細い。
だが、触れた瞬間、斑の笑みがほんの少し消えた。
糸は軽いはずだった。
重さなどないはずだった。
それなのに、首に乗ったそれは刃物よりも冷たい。
白繭が指を少し曲げる。
斑の首筋に、赤い線が走った。
一滴だけ、血が滲む。
斑は動かなかった。
動けなかったのではない。
動けば切れると分かっていた。
白繭の糸は、ただの糸ではない。
引けば裂ける。
締めれば落ちる。
首にかかった時点で、斑の速度も膂力も意味を失っていた。
「お話しよっか」
白繭は言った。
「斑ちゃん」
「お話という名の脅しッスよね、これ」
斑は両手を上げる。
声は軽い。
だが、首元の赤い線は消えない。
「お願いだよ」
「首に糸かけながら言うセリフじゃねえッス」
「お願いを聞いてくれたら、言いつけない」
「……聞かなかったら?」
白繭は笑った。
「斑ちゃん、ばらばら」
「シンプルで嫌ッスねぇ」
「ね。簡単でしょ?」
白繭はまた、指で自分の唇を吊り上げる。
笑顔の形。
中身のない笑顔。
「お願い、聞いてくれる?」
斑は首元の糸を見る。
それから、白繭を見た。
「……そのお願いってやつ」
斑は、ゆっくりと言った。
「聞くだけなら、聞くッスよ」
白繭の赤い瞳が、嬉しそうに細まった。
▼
白い格納室を出て、月島は来た道を戻った。
腕の中には、“その子”がいる。
軽い。
あまりにも軽い。
二日近く食べていない身体は、抱え上げた瞬間に分かるほど弱っていた。
それでも、“その子”は月島の首に腕を回し、服をぎゅっと握りしめている。
離れない。
もう二度と離さないみたいに。
月島はその小さな身体を抱え直し、白い通路を進む。
水の匂い。
消毒液。
電子ロックの音。
監視カメラの赤い光。
すでに侵入は知られている可能性が高い。
いや、知られていると考えた方がいい。
なら、立ち止まる理由はない。
まずは、侵入に使った排水経路へ戻る。
そこから外へ出て、隠しておいた車へ向かう。
月島は、頭の中で経路をなぞった。
下層通路。
格納区画。
非常階段。
白い廊下。
魘の格納室。
通気経路。
排水溝。
そこまで戻れば、外へ出られる。
そう考えていた。
だが、数十メートル進んだところで、月島は足を止めた。
腕の中の“その子”が、小さく声を漏らす。
「……ぱぱ?」
「いる」
月島はすぐに答えた。
「ここにいる」
“その子”はそれだけで安心したように、月島の肩へ頬を寄せた。
その身体は、熱を持っているようで、ひどく冷えてもいる。
月島は目を細めた。
排水経路。
狭い通路。
一人で這って進むだけでも、かなり時間がかかった。
通気口の格子を外し、身体を滑り込ませ、暗い道を手足で進む。
その間に背後から追手が来れば終わりだ。
それに、今は一人ではない。
“その子”を抱えたまま、あの通路は戻れない。
下ろして進ませるには、体力がなさすぎる。
途中で力尽きれば、狭い通路の中で詰まる。
戻ることも、進むこともできなくなる。
月島は、来た道を振り返った。
戻れる。
だが、戻るべきではない。
侵入に使えた道が、脱出にも使えるとは限らない。
一人で入るための道と、誰かを連れて出るための道は違う。
月島は視線を壁の表示板へ移した。
第三格納棟、下層。
管理区画。
搬入経路。
旧医療棟側、第三区搬入口。
確認班の会話が、頭の中で再生される。
旧医療棟側の第三区搬入口。
確認班は、そこを使って戻った。
外部からは認証がいる。
だが、内側からなら開けられる可能性がある。
少なくとも、排水経路を這って戻るより早い。
月島は判断した。
入ってきた道は捨てる。
搬入路へ向かう。
「少し急ぐ」
月島は“その子”に言った。
“その子”は月島の服を握ったまま、小さく頷く。
「……うん」
月島は走り出した。
走りすぎない。
足音を立てすぎれば、位置を知らせる。
だが、遅すぎれば囲まれる。
白い通路の角を曲がる。
左。
搬入経路。
水の匂いが少し薄くなる。
代わりに、金属と機械油の匂いが濃くなった。
床には、台車の車輪跡が薄く残っている。
壁の下部には、荷物をぶつけたような浅い傷。
間違いない。
ここは、人と物が出入りする道だ。
出口に近い。
月島は“その子”を抱え直した。
その時だった。
「やほやほ〜」
場違いなほど軽い声が、通路の先から響いた。
月島の足が止まる。
搬入区画へ続く扉の前。
白い壁にもたれるように、白衣の女が立っていた。
墨橋 陽菜。
その隣に、黒い女。
緇。
陽菜は片手をひらひらと振っていた。
まるで、待ち合わせに来た相手を迎えるみたいに。
「来ると思ってたわ」
月島は答えない。
腕の中の“その子”が、びくりと震えた。
緇を見たからだ。
あの日、月島を斬り、“その子”を連れ去った黒い個体。
“その子”の指が、月島の服をさらに強く握る。
月島は半歩だけ身体をずらした。
“その子”を、緇の視線から隠すように。
陽菜はそれを見て、楽しそうに目を細めた。
「やっぱり、そっちを選ぶわよねぇ」
月島の視線が、わずかに鋭くなる。
陽菜はにこにこと続ける。
「入ってきた穴に戻るには、その子を抱えたままじゃ狭すぎるもの」
読まれていた。
排水経路へ戻れないことも。
搬入路へ切り替えることも。
この女は、最初から分かっていた。
月島は低く言った。
「……退け」
「怖い顔」
陽菜は笑う。
「よっぽどその子が気に入ったのねぇ」
白衣の裾が、空調の風に揺れる。
「檻のお姫様を迎えに来た王子様、ってところかしら〜」
月島は動かない。
“その子”を抱える腕だけに、わずかに力が入る。
陽菜はそれにも気づいているようだった。
だが、それ以上は言わなかった。
ただ、楽しそうに月島を見ている。
緇が一歩前へ出た。
赤い瞳が、月島だけを見ている。
「……なぜ生きているの」
低い声だった。
怒りではない。
困惑。
そして、警戒。
「あの傷で、人間が立てるはずがない」
月島は答えない。
答えられるものもなかった。
自分でも分かっていない。
なぜ生きているのか。
なぜ傷が塞がっていたのか。
なぜ今、ここまで動けるのか。
緇は陽菜を見る。
陽菜は肩をすくめた。
「さあ」
わざとらしく首を傾げる。
「愛の力じゃない?」
緇の眉間に皺が寄った。
「ふざけないでください」
「ふざけてるように見える?」
「見えます」
「じゃあ、たぶんふざけてるのね」
陽菜は軽く笑った。
その声に、驚きはなかった。
月島が生きていたことも。
ここまで来たことも。
まるで、最初からそうなると知っていたみたいに。
緇はもう陽菜を見なかった。
視線を月島へ戻す。
その目から、迷いが消える。
「今度こそ、確実に止めるわ」
緇の身体が変わった。
黒い外殻が皮膚を覆う。
背中が裂けるように開き、複数の腕が現れる。
細く、硬く、刃のような脚。
人間の形に押し込められていた蜘蛛が、外へ溢れ出す。
“その子”が小さく息を呑んだ。
月島は、その身体を強く抱えすぎないように、けれど落とさないように抱き直す。
来る。
緇の膝が沈んだ。
わずかに。
肩の角度が変わる。
右の腕ではない。
左でもない。
背中から伸びた脚の一本が、外へ開いた。
床への圧が増す。
視線は月島の首ではない。
“その子"を抱える、自分の腕だ。
月島は、そのすべてを拾った。
見えたわけではない。
読んだ。
次の瞬間、緇の姿が消える。
速い。
目で追える速度ではない。
「ぅ───!」
月島は横へ飛んだ。
黒い刃が、さっきまで腕のあった場所を通過する。
白い壁が裂けた。
月島は着地する。
膝に衝撃が走る。
胸の傷跡が痛む。
だが、倒れない。
「───っ」
緇の目が細くなった。
やはり。
そう言いたげな目だった。
この人間は、動きが見えているわけではない。
動く前の情報を拾っている。
予備動作。
重心。
視線。
床圧。
そこから、軌道を読んでいる。
なら。
緇の背中の脚が、床を打った。
二撃目。
月島は理解した。
これは避けられない。
初撃は読めた。
だが、二撃目は速度が違う。
体勢も悪い。
腕には“その子”がいる。
逃げる方向も限られている。
読めても、身体が追いつかない。
黒い刃が迫る。
月島の奥で、何かが冷たく沈んだ。
またか。
また守れないのか。
取り戻したのに。
やっと抱きしめたのに。
また、自分は────。
「もう」
腕の中で、小さな声がした。
“その子”が顔を上げていた。
涙の跡が残る目で、緇を見ている。
怯えている。
震えている。
それでも、目を逸らしていない。
「もう、ぱぱをいじめないで……!」
小さな両手が、胸の前で重ねられた。
指は開かない。
祈るようにも、何かを押し返すようにも見える形。
次の瞬間。
掌の隙間から、水が撃ち出された。
細い。
だが、鋭い。
水の線が、緇の踏み込みに突き刺さる。
「水……!?」
緇の刃は月島に届く直前で軌道をずらされた。
黒い脚の一本が床を滑る。
体勢が崩れる。
月島は、その一瞬を逃さなかった。
横へ飛ぶ。
刃が空を切る。
緇の爪が床を削り、白い床材が裂けた。
「───今だ!!!」
月島は走り出した。
「はぁ、はあ……」
腕の中で、“その子”が息を荒げている。
今の一撃でかなり消耗したのが分かった。
だが、足を止める余裕はない。
搬入区画へ向かう。
扉まで、あと十数メートル。
背後で、緇が立ち上がる音がした。
早い。
崩しただけ。
止めたわけではない。
緇は床を蹴る。
黒い外殻が白い照明を弾きながら、通路を滑るように迫る。
月島は振り返らない。
振り返れば遅れる。
だが、“その子”は振り返った。
月島の腕の中から、緑色の目が緇を見た。
緇の刃が、再び伸びる。
今度は月島の首へ。
月島がそれを認識するより早く、“その子”が口を開いた。
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!」
音は聞こえなかった。
少なくとも、人間の耳には。
けれど、空気が震えた。
水面を叩いたように、通路全体がわずかに歪む。
至近距離。
頭部。
蜘蛛化した緇の鋭い感覚器。
そこへ、音にならない音が直撃した。
緇の身体が跳ねる。
「ぅ、ぐっ……!」
黒い脚が床を掻く。
緇はよろめき、片膝をついた。
刃が月島の首の後ろを掠める。
ほんの少し。
服の襟が裂けた。
だが、肉には届かない。
月島はさらに走る。
“その子”の身体が、腕の中でぐったりと重くなる。
「大丈夫か」
「……うん」
声は弱い。
けれど、月島の服を握る指には力が残っていた。
背後で、緇が立ち上がろうとしている。
膝が揺れている。
頭部への衝撃が抜けていない。
それでも、追おうとしている。
───特別認定個体。
彼女についている認証タグ、その言葉の意味を、月島は背中で理解した。
緇は止まらない。
倒れても。
崩れても。
任務を捨てない。
だが、陽菜の声がそれを止めた。
「深追いしなくていいわ」
緇の動きが止まる。
「いずれ、すぐ会えるわ」
月島はその言葉を聞いた。
意味を考える余裕はない。
扉へ向かう。
背後で、緇の声が低く響いた。
「……あなたも少しは足止めしてください」
陽菜は首を傾げる。
「え?」
「拳銃くらい持っているでしょう」
「えぇ〜」
陽菜は白衣の内側へ手を入れかけて、すぐにやめた。
「あれ撃つと肩が痛いのよ」
緇の顔が険しくなる。
「今、そういう話をしているのではありません」
「わたし、か弱い研究職だもの」
「どの口で」
陽菜は楽しそうに笑う。
月島は扉に手をかけた。
電子ロック。
内側からなら開く。
短い電子音。
扉が開く。
外へ繋がる搬入路の暗がりが見えた。
月島はそこへ飛び込む。
“その子”を抱えたまま、白い通路から外れていく。
緇はそれを見て、なおも追おうとした。
だが、陽菜は動かない。
緇は陽菜を見た。
「またあの子を逃がせば、あなたの処分も避けられませんよ」
陽菜は、意に介した様子もなく肩をすくめた。
「大丈夫よ」
軽い声だった。
「わたし、実績だけはあるから」
「そういう問題ではないでしょう」
緇の声には、苛立ちだけではないものが混じっていた。
疑念。
違和感。
今、陽菜は本当に止めようとしていたのか。
本気であの子を取り戻すつもりだったのか。
拳銃を使わなかった。
命令を出さなかった。
緇に深追いさせなかった。
月島を止める機会は、いくつもあった。
それでも陽菜は、笑っていた。
まるで、逃げられることも予定の内だったみたいに。
「……陽菜」
緇は低く言った。
「あなた、何を企んでいるの」
陽菜は振り返る。
白衣の裾が揺れる。
その顔には、いつもの笑みが浮かんでいた。
「ふふ」
陽菜は人差し指を唇に当てる。
「悪巧みよ」
緇は黙る。
陽菜は楽しそうに続けた。
「ね、悪の秘密結社みたいでしょ?」
「……笑えません」
「でしょうね」
その一言だけ、少しだけ温度が低かった。
緇は陽菜を見た。
問い詰めようとした。
だが、その前に、遠くで低い電子音が鳴った。
施設の奥。
暴走個体格納区画の方角。
一度。
二度。
短い警告音。
陽菜はそちらを見た。
笑みを消さないまま。
緇は、その横顔を見て、確信に近い不安を覚えた。
この女は、何かを待っている。
月島を逃がしたことよりも。
あの子を失ったことよりも。
もっと別の何かが、始まるのを。
「……陽菜」
緇の声に、陽菜は答えない。
ただ、白い通路の奥を見つめていた。
▼
夜の山道を、月島の車が走っていた。
ヘッドライトが、暗い道を切り裂いていく。
右へ曲がる。
左へ曲がる。
木々の影が、窓の外を流れていく。
追ってくる車は、まだ見えない。
バックミラーには、黒い山道だけが映っている。
それでも、月島は速度を緩めなかった。
安全になったわけではない。
ただ、まだ追いつかれていないだけだ。
ハンドルを握る手には、乾いた血が残っている。
指先が少し滑る。
胸の傷跡は、シートベルトに擦れるたび鈍く痛んだ。
だが、それよりも気になるものがあった。
助手席。
そこに、“その子”が座っている。
レインコートもまだない。
身体を隠すものは、月島が車に積んでいた薄いブランケットだけだった。
小さな身体にそれを巻きつけ、シートベルトをどうにか合わせている。
けれど、ベルトは大きすぎた。
月島は片手でハンドルを握りながら、もう片方の手で、何度もその位置を直す。
揺れすぎないように。
苦しくないように。
それでも逃げる速度を落としすぎないように。
最速で逃げたい。
だが、速すぎれば“その子”の身体が揺れる。
山道のカーブで振られるたび、“その子”の細い肩が小さく跳ねた。
月島は奥歯を噛む。
速度。
カーブ。
車体の揺れ。
追跡の可能性。
“その子”の呼吸。
すべてを同時に見ていた。
“その子”はぐったりとしていた。
目は開いている。
けれど、焦点が少しぼやけている。
二日近く、まともに食べていない。
水も、ほとんど飲んでいない。
さっき緇へ放った水と音で、さらに力を使った。
限界なのは明らかだった。
「苦しくないか」
月島は前を見たまま聞いた。
“その子”は、少し遅れて首を横に振る。
「……ない」
声はかすれていた。
月島はバックミラーを見る。
後方に光はない。
それでも、安心はできない。
あの施設には黒い女がいる。
あの女研究員がいる。
獣も、白い女もいる。
そして、魘の格納室で切ったケーブル。
遠くで鳴っていた警告音。
何が起きているのか、まだ分からない。
ただ一つだけ分かっている。
戻れない。
もう、元の部屋には戻れない。
あのアパートも。
会社も。
昨日までの日常も。
そこへ“その子”を連れて帰ることはできない。
行き先はない。
安全な場所も知らない。
それでも、ハンドルを握る手は止まらなかった。
まず、離れる。
研究所から。
あの白い部屋から。
あの女たちから。
その先は、走りながら考えればいい。
助手席で、“その子”の指が動いた。
ブランケットの端を握る。
それから、かすれた声で呟いた。
「……ぱぱ」
月島は、すぐに答えた。
「いる」
“その子”が、ゆっくり顔を向ける。
「……いる?」
「ああ。ここにいる」
それを聞いて、“その子”は少しだけ目を細めた。
安心したように。
眠ってしまいそうな顔だった。
けれど、その指だけはブランケットを握ったまま離れない。
そのまましばらく、車内にはエンジン音だけが続いた。
山道の先に、トンネルが見えてくる。
古いトンネルだった。
入口のコンクリートは黒ずみ、オレンジ色の照明が奥へ点々と続いている。
月島は速度を少し落とした。
トンネルの中は逃げ場が少ない。
追手が前にいれば詰む。
後ろから来られても、避ける場所がない。
だが、別の道を探している時間はなかった。
月島はトンネルへ入る。
外の闇が途切れ、車内の空気が少し変わった。
音が反響する。
エンジン音。
タイヤの音。
壁に跳ね返る風の音。
白い研究施設の通路とは違うはずなのに、どこか似ていた。
閉じた空間。
先の見えない道。
逃げているのに、また何かの中へ入っていく感覚。
“その子”が、ほんの少し身を縮めた。
月島はそれに気づく。
「もう少しで抜ける」
短く言った。
“その子”は頷かなかった。
ただ、小さな声で言った。
「……なまえ」
月島の手が、わずかに止まりかけた。
「……え?」
「なまえ、ない」
トンネルの照明が、二人の顔を等間隔に照らしては消していく。
明るくなり、暗くなる。
また明るくなり、また暗くなる。
「……」
月島は、すぐに返せなかった。
名前。
そういえば、まだつけていない。
研究所では、あの子は番号で呼ばれていた。
個体番号二〇六。
保護対象。
管理個体。
記録。
それを聞いた時、嫌だと思った。
そんなふうに呼ばせたくないと思った。
なのに、自分もずっと名前を与えていなかった。
“それ”。
“その子”。
“あの子”。
そう呼んでいた。
関係に名前をつけるのが怖かったのかもしれない。
名付けてしまえば、もうただ拾っただけでは済まなくなる。
ただ放っておけなかっただけだとは、言えなくなる。
月島は前を見たまま、低く呟いた。
「……そうだったな」
“その子”は、じっと月島を見ていた。
トンネルの明かりが、その緑色の瞳に流れていく。
「名前か……」
言葉は、すぐには出なかった。
焦ってつけるものではない気がした。
けれど、先延ばしにしていいものでもなかった。
名前がないということは、どこにも属していないということだ。
研究所の番号でもない。
月島の部屋の“それ”でもない。
この子自身の名前がいる。
その時、トンネルの出口が見えた。
暗い道の先に、淡い光が開いている。
月島はそこへ向かって車を走らせる。
一瞬、視界が白くなる。
そして。
トンネルを抜けた。
山道の高い位置から、夜の景色が開けた。
下の方に、海が見えた。
月明かりを受けて、黒い水面が静かに揺れている。
その手前には、白く細い砂浜。
波が寄せて、引いていく。
水と陸が触れる場所だけが、月の光を受けて淡く輝いていた。
月島は、その景色を見た。
黒い海。
白い砂。
その境目で砕ける波。
同時に、いくつもの記憶が浮かんだ。
浴槽の水面を滑る、小さな身体。
水たまりの上で、不器用に回った足。
雨の夜に、楽しそうに鳴らした歌。
サーモンを頬張って、嬉しそうに目を細めた顔。
段ボールの縁から、こちらを見ていた緑の瞳。
人間ではない。
けれど、ただの怪物でもない。
水の中にいるようで、こちらへ手を伸ばしてくる。
こちら側に来ようとしている。
けれど、完全にはどちらでもない。
境目にいる。
月島の口から、名前がこぼれた。
「……みぎわ」
“その子”が、瞬きをする。
「……?」
月島は前を見たまま、もう一度言った。
「みぎわってのは、どうだ」
「みぎ、わ……」
小さな声が、その音をなぞる。
まだ不確かで、たどたどしい。
けれど、確かにその響きを掴もうとしていた。
月島は言った。
「水と陸の境目を、汀っていう」
「さかい、め……?」
「ああ」
月島は一度だけ、助手席を見る。
月明かりが、窓越しに“その子”の頬を照らしていた。
涙の跡が、まだ薄く残っている。
「君には、それが似合うと思った」
“その子”は黙った。
意味を全部理解しているわけではないかもしれない。
けれど、その名前を胸の中で何度も転がすように、小さく口を動かしている。
「みぎ、わ」
一度目。
「み、ぎわ」
二度目。
「……みぎわ」
三度目は、少しだけはっきりしていた。
“その子”は、自分の胸に手を当てた。
ブランケットの上から。
まるで、そこに名前を置くみたいに。
「みぎわ」
そして、月島を見る。
「わたしの、なまえ」
月島は頷いた。
「ああ」
言葉にした瞬間、胸の奥にあった何かが静かに沈んだ。
重くなるのではなく、落ち着くように。
もう、“それ”ではない。
もう、“その子”でもない。
番号でもない。
個体でもない。
名前がある。
ここにいる。
─────みぎわ。
みぎわは、少しだけ笑った。
疲れ切った顔で。
目の下に涙の跡を残したまま。
それでも、確かに嬉しそうに。
「みぎわ」
もう一度、自分の名前を呼ぶ。
「そう」
月島は答えた。
「みぎわ」
みぎわは、月島の服の裾を握った。
それから、小さく言う。
「みぎわ、ぱぱといる」
月島は、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
だが、否定しなかった。
否定する理由は、もうなかった。
「いる」
前を見たまま答える。
「ここにいる」
みぎわは安心したように目を細めた。
そのまま、少しだけ静かになる。
眠るのかと思った。
だが、次に出た声は、ひどく小さく、切実だった。
「……みぎわ、ぺこぺこ」
月島は瞬きをした。
「……ん?」
みぎわは、自分のお腹に手を当てる。
「おなか、ぺこぺこ」
その声は弱かった。
けれど、今までより少しだけはっきりしていた。
自分の名前をもらったからかもしれない。
自分がここにいていいと、少しだけ分かったからかもしれない。
月島は前を見たまま、短く息を吐いた。
「……二日食べてないんだったな」
「……うん」
「……そっか」
本来なら、止まるべきではない。
防犯カメラ。
店員の記憶。
支払い履歴。
追跡される可能性。
危険はいくらでもある。
だが、みぎわの身体は限界だった。
このまま走り続ければ、先にこの子の体力が尽きる。
月島は道路標識を見る。
山道を少し下った先に、コンビニの表示があった。
二十四時間営業。
駐車場あり。
月島は数秒だけ考えた。
そして、決める。
「数分だけだ」
みぎわが顔を上げる。
「……?」
「食べ物を買う」
みぎわの目が、ほんの少し明るくなった。
「おさかな?」
「あるものを買う。サーモンがあれば、それも」
「さーもん…!」
その声だけは、少しだけ嬉しそうだった。
月島はハンドルを切る。
山道を下り、海沿いの道路へ入る。
遠くに、コンビニの白い看板が見えた。
夜の中で、そこだけが不自然に明るい。
月島はバックミラーを確認する。
追ってくる光は、まだない。
だが、長居はできない。
駐車場へ入る。
店内には、店員が一人。
客はいない。
月島は車を停めた。
エンジンは切らない。
すぐに出られるよう、車の向きも道路側へ向けたままにする。
助手席を見る。
みぎわは、ブランケットに包まれたまま、月島を見ている。
離れるのが怖い目だった。
月島は車内を探る。
後部座席に、古いカッパがあった。
以前、雨の日に使ったまま置いていたもの。
月島はそれを手に取った。
「これを着る」
「……きる?」
「姿を隠すためだ」
みぎわはよく分かっていない顔をしたが、月島が広げたカッパに素直に腕を通した。
大きすぎる。
袖も裾も余っている。
けれど、身体の異質な部分は隠れた。
フードを深く被せる。
緑色の瞳だけが、影の奥から月島を見上げていた。
「離れないで」
月島が言う前に、みぎわは月島の服の裾を握った。
「……いる」
小さく言う。
「ぱぱ、いる」
「ああ」
月島は頷く。
「すぐ戻る。いや、一緒に行く」
みぎわの指に、少しだけ力が戻った。
月島はドアを開けた。
夜の冷たい空気が入ってくる。
海の匂いがした。
遠くで波の音がしている。
月島はみぎわを抱えるか迷い、すぐにやめた。
歩けるなら歩かせる。
だが、転びそうならすぐ抱える。
そう判断して、手を差し出した。
みぎわはその手を握った。
小さい。
冷たい。
それでも、確かに握り返してきた。
月島は一度だけ周囲を見る。
道路。
駐車場。
看板。
店内の店員。
防犯カメラ。
全部、危険だった。
だが、今のみぎわには食べ物が必要だった。
月島はその手を引いて、コンビニの自動ドアへ向かった。
───白い光が、二人の足元に広がっていく。




