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Human Rize─人間になれない少女と父親ではない男─  作者: 坂本 リュカ
第一章『まだ名前のない家族』
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第八話『終末の産声』




自動ドアが開いた瞬間、明るすぎる光が二人を迎えた。



白い床。


整然と並んだ棚。


冷蔵ケースの低い唸り。


レジ横の揚げ物の匂い。



さっきまでいた白い研究施設とは違う。



違うはずなのに、人工的に整えられた明るさだけが、妙に似ていた。



月島は一瞬だけ店内を見渡す。



防犯カメラ。


レジ。


店員。



出口までの距離。


非常口らしき扉。


窓ガラスの反射。


外の駐車場。



それらをまとめて頭に入れる。



店員は、入ってきた二人を見て固まっていた。


無理もない。



夜中に、服の裂けた男がいる。


ところどころに乾いた血が付着している。



その隣には、大きすぎるカッパを着た小さな子ども。


フードを深く被っていて、顔はほとんど見えない。



どう見ても、普通ではない。



「……いらっしゃいませ」




店員の声は、少し遅れて出た。



月島はそれに反応せず、みぎわの手を握ったまま歩く。


みぎわは、店内の光に少し目を細めていた。



フードの奥で、緑色の瞳があちこちを見ている。



棚。


照明。


冷蔵ケース。


カラフルな袋。


聞き慣れない電子音。



けれど、興味よりも空腹が勝っているのか、足取りはふらついていた。


月島はそのたびに、手の力を調整する。



引っ張りすぎない。


離さない。



倒れそうなら支える。


それだけを意識する。



まず向かったのは、冷蔵ケースだった。



サーモン。


寿司。


鮭おにぎり。


鮭フレーク入りの弁当。



魚肉ソーセージ。


水。


スポーツドリンク。



月島は目についたものを、迷わず取っていく。



みぎわが、冷蔵ケースの前で小さく声を漏らした。



「……さーもん」



月島は手に持っていたサーモン寿司を見せる。



「これでいいか」



みぎわの目が、わずかに明るくなった。



「……うん」



その声だけで、月島はもう一つ同じものを取った。



それから、カロリーメイトを二箱。



ゼリー飲料。


タオル。


ウェットティッシュ。


大きめの水。



本当はもっと必要なものがある。



着替え。


包帯。


薬。


靴。


雨具。


現金。



だが、時間がない。


買い物にかけられるのは数分だけ。



月島は必要最低限を判断し、レジへ向かった。



店員は、月島の姿を改めて見て、表情を引きつらせた。


視線が、月島の胸元へ落ちる。



裂けた服。


乾いた血。



それから、フードを被ったみぎわへ。




「……あの、お客様」



月島は財布を出した。



「会計お願いします」



「え、あ、はい」



店員はそれ以上聞けなかった。



聞いていいのか分からない。


関わってはいけないものを見てしまったような顔をして、商品を一つずつスキャンしていく。



電子音が、やけに大きく聞こえた。



ピッ。


ピッ。


ピッ。



みぎわは、レジ横のケースに並ぶ焼き鳥や揚げ物をじっと見ている。



月島はそれにも気づき、鮭おにぎりを一つ追加で置いた。



「これも」



「……はい」



店員の手が少し震えていた。



月島は現金で払った。


カードや電子決済は使わない。


履歴を残したくない。



袋を受け取り、すぐに店を出る。



店員の視線が背中に刺さる。


だが、今は構っていられなかった。



自動ドアが開く。



夜の空気が戻ってくる。


店内の明るさから一歩外へ出ただけで、海の匂いがした。


遠くで波の音がする。



駐車場は広くない。



車は月島のもの以外に、店員のものらしき軽自動車が一台だけ。


月島は車へ戻ろうとして、すぐに足を止めた。



みぎわの足が、ついてきていなかった。


フードの奥で、みぎわが袋を見ている。



空腹で、もう限界に近い目だった。



車に戻ってから食べさせる。


本来ならそうするべきだ。



だが、車内は狭い。


何かあった時に動きづらい。



それに、みぎわは今すぐ食べる必要がある。


月島は自動ドアの脇、ガラス壁の縁に視線を向けた。



店内からは見える。


だが、外からの視線は看板と柱で少し遮られる。



車までは数歩。


逃げるならすぐ動ける。



月島はそこへ腰を下ろした。



「ここで食べる」



みぎわが、月島を見る。



「ここ?」


「少しだけだ」



袋を開ける。



サーモン寿司のパック。


鮭おにぎり。



水。


月島はまず水を開けて、みぎわに渡した。



「先に飲んでいいぞ」



みぎわは両手でペットボトルを持ち、少しずつ水を飲んだ。



飲む、というより、身体が水を思い出すような動きだった。



喉が小さく上下する。


少し飲んで、息をつく。



それからまた飲む。



月島はその様子を見ながら、サーモン寿司のパックを開けた。


箸を渡すより早く、みぎわの視線がサーモンに吸い寄せられた。



「……さーもん」



「食べていい」



その言葉が終わる前に、みぎわは一つ目を口に入れていた。



頬が膨らむ。


小さな口で必死に噛む。



飲み込む。



次。


次。


次。



あっという間だった。


二日間の空腹を埋めるみたいに、みぎわはサーモンを平らげていく。



月島は止めかけて、やめた。



急に食べすぎるのはよくない。


だが、今のみぎわに「ゆっくり食べろ」と言っても、多分届かない。



それほど飢えていた。


それほど、あの白い部屋には何もなかった。



みぎわは最後の一つを飲み込むと、空になったパックをじっと見つめた。


少しだけ名残惜しそうに。



月島は無言で、もう一つのパックを開けた。



みぎわの目が丸くなる。



「……いい?」



「いいよ」



「ぜんぶ?」



「全部」



みぎわは、ほんの少しだけ笑った。



そして、また食べ始めた。


今度は少しだけ遅い。



味を確かめる余裕が戻ってきたのか、噛むたびに目を細める。


月島はその隣で、カロリーメイトの箱を開けた。



包装を破り、一本を口に運ぶ。


味はほとんど感じない。



必要なカロリー。


保存性。


持ち運びやすさ。


摂取の早さ。



今の状況では、これでいい。



みぎわが、横から月島を見上げた。



「ぱぱ、それ」



「カロリーメイト」



「おいしい?」



月島は少し考えた。



「合理的だ」



みぎわは首を傾げた。



「うごうり、けき」



「ごうりてき。腹は膨れる」



「おいしい?」



「……あんまり」



みぎわは、少しだけ不思議そうな顔をした。


それから、自分のサーモン寿司を一つ、月島の方へ差し出す。



「ぱぱ、さーもん」



月島はそれを見る。



「いい。みぎわが食べな」



「ぱぱも、たべるって言った」



月島は言葉に詰まった。



そういえば、車の中で言った。


帰ったら食べると。



ぱぱも食べるかと聞かれて、食べると答えた。



みぎわは、それを覚えていた。


月島は差し出されたサーモンを受け取った。



「……ありがとう」



「うん」



月島はサーモンを口に入れる。



冷たい。


コンビニの寿司の味。


特別うまいわけではない。



けれど、みぎわはそれを見て、嬉しそうに笑った。



「ぱぱ、たべた」



「食べた」



「みぎわも、たべる」



残りをまた口に運ぶ。



月島はその横顔を見ていた。



つい数十分前まで、白い施設の中にいた。


緇に追われ、陽菜に見送られ、暴走個体の警告音を背中で聞いた。



今も安全ではない。


いつ追手が来てもおかしくない。



それなのに、コンビニの自動ドアの脇で、みぎわはサーモンを食べている。




名前をもらったばかりの子が。


お腹を空かせて。


生きようとしている。



月島はカロリーメイトを飲み込み、水を飲んだ。



「食べたら、すぐ行く」



「どこ?」



「まだ決めてない」



「おうち?」



月島はすぐに答えられなかった。



あの部屋には戻れない。


戻れば、また見つかる。



もう、あそこは安全な場所ではない。




けれど、みぎわは“おうち”と言った。



段ボールがあって。


テレビがあって。


水たまりの歌があって。


サーモンを焼いた匂いがして。



「ただいま」と「おかえり」があった場所。



月島は、少しだけ目を伏せた。



「……今は、戻れない」



みぎわの手が止まる。



「もどれない?」



「ああ」



月島は言った。



「でも、場所は探す」



みぎわが月島を見る。



「ばしょ?」



「みぎわが眠れて、食べられて、怖がらなくていい場所だ」



言葉にしてから、月島は自分でその重さに気づいた。



そんな場所が、今の自分に用意できるのか。


分からない。



それでも、言わずにはいられなかった。



「そこを、家にする」



みぎわは、少しだけ考えた。



それから、小さく頷いた。



「みぎわ、ぱぱとなら、いい」



月島は息を止めた。



一瞬だけ、返事が遅れる。



「……そうか」



「うん」



みぎわは、空になったパックを見下ろした。



「みぎわ、なまえある」



「ああ」



「ぱぱ、いる」



「ああ」



「おさかな、おいしい」



「……ああ」



みぎわは満足そうに頷いた。



「じゃあ、だいじょうぶ」



月島は、その言葉に何も返せなかった。



大丈夫なはずがない。


状況は最悪だ。



追われている。


行き先もない。



この子の正体も、自分の身体も、陽菜の目的も分からない。



何も大丈夫ではない。



だが、みぎわは今、本気でそう思っている。



名前がある。


月島がいる。


サーモンがおいしい。



だから、大丈夫。



その単純さが、月島の胸を静かに締めつけた。



「……行こう」



月島は立ち上がる。


みぎわも立とうとして、少しふらついた。



月島はすぐに支える。



「歩けるか」



「……うん」



言葉とは裏腹に、足取りは頼りない。


月島は迷わず、みぎわを抱き上げた。



「少しだけ抱える」



「うん」



みぎわは抵抗しなかった。


むしろ安心したように、月島の服を握る。



空になったパックを袋に入れ、月島は車へ向かう。



エンジンはかけたままにしてある。


車の向きも道路側。



すぐに出られる。

月島は運転席側へ回ろうとして、ふと立ち止まった。



何かが、おかしい。


音。



いや、音ではない。



空気の重さ。


コンビニの照明の上。


看板の影。



そこに、何かがいる。



月島が見上げた瞬間。



看板から、影が剥がれた。


落ちてきたのではない。



跳んだ。



黒い塊が、夜の空気を裂いて飛び出す。




「─────っ!」




月島は反射的にみぎわを抱え込み、後ろへ跳んだ。



次の瞬間、影は車の上に着地した。



轟音。



金属が潰れる音がした。


フロントガラスが砕ける。


屋根が折れる。



車体が沈む。



ついさっきまで二人が乗っていた車が、一瞬で押し潰された。


ぺちゃんこになった屋根の上で、それは獣のように身を沈めていた。



月島の思考が冷える。



もう追っ手が来たのか。



黒い女か。


獣か。


女研究員か。



だが、違う。



それは、今まで見たアベラントとは明らかに様子が違っていた。



人間の形を保とうとしていない。


保てていない。



四肢は細く、しかし異様に筋張っている。



背は低い。


だが、獣のように前傾し、いつでも跳びかかれる姿勢を取っている。



毛並みのようなものが、首筋から背中にかけて逆立っていた。


口元から涎が垂れている。



目は血走っていた。


瞳孔が開ききり、焦点が合っていない。



喉の奥から、低い唸り声が漏れる。


身体は小刻みに震えていた。



寒さではない。


恐怖でもない。



抑えきれない衝動が、皮膚の下で暴れているような震え。


首元で、認証タグが揺れていた。



割れたライトの明滅に照らされ、文字が見える。



個体番号一五一。


コードネーム、獏(ばく)。


モデル、マングース。


暴走個体アベラント。



「……暴走個体」



月島の声が、低く漏れた。



一瞬、思考が止まる。



追っ手ではない。


緇でもない。


斑でもない。


陽菜でも、粉雪でもない。



命令を受けて動いている個体ではない。



格納され、隔離され、接触を禁じられているはずのもの。


施設の奥で見た、あの表示が頭をよぎる。



暴走個体。


強制格納中。


接触厳禁。


開放厳禁。



「……なんで」



月島は、潰れた車の上で唸る獏を見た。


目は血走り、涎が糸を引いている。



身体は小刻みに震え、理性の欠片も見えない。



「なんで、暴走個体がここにいる…っ!」



答えはない。


だが、嫌な予感だけが急速に形を持っていく。



陽菜の声が、耳の奥で蘇った。



――いずれ、すぐ会えるもの。



施設の奥で鳴った、低い警告音。



緇の疑念。


陽菜の笑み。



すべてが、一本の線で繋がりかける。



「……どうなってる」



月島は奥歯を噛んだ。



研究所で、何かが起きている。



いや。


起きたのか。



それとも、起こされたのか。



考える時間はなかった。



みぎわが小さく震えた。



「……ぱぱ」



「見るな」



月島は短く言った。


その時、コンビニの自動ドアが開いた。



店員が顔を出す。



「何事ですか!」



月島は振り返る。



店員は潰れた車を見た。


その上にいる獏を見た。



そして、顔から血の気が引いた。



「ひ……」



足がもつれ、その場に腰を抜かす。


獏の首が、店員の方へ動いた。



月島の判断は一瞬だった。



「早く逃げろ!!」



怒鳴る。


店員の身体が跳ねる。



「奥へ行け! 扉を閉めろ!」



店員は、転びそうになりながら店内へ這うように戻った。


自動ドアが閉まりかける。



獏の視線が、店員から月島へ戻る。



次の瞬間、獏が跳んだ。



速い。


低い。


地面を這うような跳躍。



月島はみぎわを抱えたまま横へ転がる。



獏の爪が、さっきまでいた場所を抉った。


アスファルトが裂ける。



月島はすぐに立ち上がろうとして、みぎわを片腕で支える。


戦えない。



この距離でまともに受ければ終わる。



逃げる。


だが、車は潰された。



徒歩で走っても追いつかれる。


みぎわを抱えたままではなおさらだ。



獏が振り向く。


口が裂けるように開く。



牙。


涎。


獣の臭い。



みぎわが、月島の腕の中で顔を上げた。



さっきよりも目に力がある。



サーモンを食べたからか。


水を飲んだからか。



それでも、完全ではない。


疲労は残っている。



だが、みぎわは両手を前へ出した。



「ぱぱ」



「無理するな」



「みぎわ、やる」



獏が再び跳ぶ。


みぎわの小さな掌から、水が撃ち出された。



さっき緇に放ったものより、明らかに太い。


速い。



水の塊が獏の胸に直撃する。



獏の身体が吹き飛んだ。


駐車場の端まで転がり、看板の支柱に叩きつけられる。



金属音が響いた。


みぎわの身体が、月島の腕の中でぐらりと傾く。



「みぎわ」



「……だい、じょうぶ」



声は弱い。


今の一撃も、相当体力消耗するのだろう。



月島は獏を見る。


倒れている。



だが、死んではいない。



胸が上下している。


指が動いている。



起き上がる。


すぐに。



逃げることはできない。


戦えば負ける。



真正面からぶつかれば、月島もみぎわも殺される。




なら。



─────勝てる場所へ誘導するまでのこと。





月島の視線が、道路の向こうへ動いた。


コンビニの裏手。



海沿いから少し外れた場所に、古い廃墟があった。


山道を下る時に見えていた。



外壁の一部が崩れ、窓ガラスは割れている。


小さな廃工場か、使われなくなった倉庫。



柱。


壁。


狭い通路。



瓦礫。


段差。


遮蔽物。



あそこなら、獏の直線的な跳躍を制限できる。



みぎわの水を、壁や床に当てて使える。


真正面から撃つ必要はない。



足元を崩す。


視界を奪う。



誘導する。


距離を作る。



勝つのではなく、負けない形を作る。



月島は決めた。



「みぎわ」



「……うん」



「今から走る。俺の合図まで撃つな」



みぎわは息を切らしながら頷いた。



「うつな」


「そうだ」



月島は潰れた車に一瞬だけ目を向ける。


戻る手段は消えた。



なら、迷う必要もない。



「掴まってろ」



「うん」



月島はみぎわを抱え直し、走り出した。



コンビニの駐車場を抜ける。


道路を渡る。



背後で、獏が起き上がる音がした。


骨が鳴るような、不快な音。



低い唸り。


そして、爪がアスファルトを掻く音。



追ってくる。


月島は振り返らない。



廃墟までの距離を測る。



およそ八十メートル。



みぎわを抱えた状態では長い。


だが、走るしかない。



足が地面を蹴る。


胸の傷跡が痛む。



息が熱い。


みぎわの体温が腕に伝わる。



後ろから、獏の足音が迫る。


速い。



だが、まっすぐではない。


さっきの水を受けた影響か、動きにわずかな遅れがある。



それでも、人間よりはるかに速い。


月島は廃墟の入り口を見た。



崩れたフェンス。


割れた窓。


半開きの鉄扉。



そこへ飛び込めば、一瞬だけ視界を切れる。



「みぎわ、右を見るな」



「……」



「怖くなる」



みぎわは何も言わず、月島の胸に顔を寄せた。



月島は速度を落とさない。


背後で、獏が跳んだ気配がした。



月島は直前で進路を変える。



左へ。



獏が通り過ぎ、道路脇のガードレールに爪を立てる。


金属がひしゃげる。



月島はその隙に、崩れたフェンスを越えた。



みぎわを抱えたまま、身体を低くする。


鉄扉の隙間へ滑り込む。



暗い。


埃の匂い。


湿ったコンクリート。



錆びた鉄。


古い油。



月島は廃墟の中へ入った。



直後、背後で獏の爪が外壁を叩いた。



壁が揺れる。


コンクリート片が落ちる。



月島はみぎわを抱えたまま、奥へ進む。



目が暗さに慣れるより早く、頭の中で地形を組み立てる。



柱が三本。


右に崩れた棚。


左に細い通路。



奥に階段。


床には瓦礫。


天井は一部抜けている。



使える。


ここなら、まだやれる。



廃墟の中は暗かった。


割れた窓から、コンビニの白い光が細く差し込んでいる。



足元には瓦礫が散らばり、壁はところどころ崩れていた。



天井の一部は抜け、月明かりが斜めに落ちている。



正面から戦えば負ける。


逃げても追いつかれる。



車はもう使えない。


なら、この場所を使うしかない。



柱。


壁。


割れた窓。



倒れた棚。


狭い通路。


瓦礫の山。



それらが、月島の頭の中で配置されていく。



ただの廃墟ではない。


使えるものと、使えないもの。



隠れられる場所。


誘導できる場所。


視界を切れる位置。



水を当てれば崩せる壁。


音が反響しやすい通路。



そのすべてが、一瞬で並んだ。



外で、獏が唸る。



低い。


濁った声。



理性を残した敵の声ではない。


飢えた獣が、獲物を逃がすまいと喉を鳴らしている音だった。



月島は、崩れた柱の陰にみぎわを下ろした。


けれど、手は離さない。



「みぎわ」



「……うん」



みぎわは息を切らしていた。



顔色はまだ悪い。


サーモンを食べ、水を飲んだとはいえ、二日間の消耗が消えたわけではない。



それでも、さっきまでより目には力が戻っている。



月島を見ている。


何をすればいいのか、必死に待っている。



月島は短く言った。



「俺が言ったところに撃て」



「うつ」



「そうだ。あいつじゃなくていい。壁、床、柱。動きを止める」



みぎわはよく分かっていない顔をした。



それを見て、月島はすぐに言い直した。


言葉だけでは足りない。



みぎわはまだ、こちらの指示を完全に理解できるわけではない。



「俺が指を向けたところだ」



月島は、自分の指先をみぎわに見せる。



それから、近くの壁を指差した。



「そこ」



「そこ……」



みぎわは、月島の指先を目で追った。



「そうだ。俺が指したところに、水を撃つ」



「ぱぱが、ゆび、したところ」



「ああ」



みぎわはまだ少し不安そうだった。


けれど、月島の指先と壁を交互に見て、小さく頷いた。



「みぎわ、うつ」



獏が廃墟の入り口に現れた。



血走った目。


涎を垂らした口。



小刻みに震える身体。


低く沈んだ獣の姿勢。


認証タグが首元で揺れている。



個体番号一五一。


コードネーム、獏(ばく)。


モデル、マングース。


暴走個体アベラント。



その血走った目が、月島を見た。


次に、みぎわを見る。



唸り声が、さらに低くなる。


月島はみぎわの前に立った。



「まだ撃つな」



獏の爪が、床を掻いた。


コンクリートに傷が走る。



次の瞬間、獏が跳んだ。



低い。


速い。



地面を這うように、黒い影が迫る。



月島は右前方の床を指差した。



「ここ!」



みぎわの目が、月島の指先を追う。



それから、両手を前に出した。


小さな掌から、水が噴き出す。



細くはない。


まだ、まとまりもない。


けれど、勢いはあった。



サーモンを食べたからか。


水を飲んだからか。



さっき緇へ放った時よりも、明らかに量が多い。



水流が獏の右前方の床を叩いた。


床の埃が舞い、水飛沫が広がる。



獏は一瞬だけ足を滑らせ、突進の軌道をずらした。



その隙に、月島はみぎわを抱き上げて横へ飛ぶ。



獏の爪が、二人のいた場所を抉った。


コンクリートが裂ける。



「次」



月島は倒れかけた柱の根元を指差した。



「ここだ!」



「ここ……!」



みぎわは、月島の指先を確認してから、両手を向ける。


水が放たれる。



今度は倒れかけた柱の根元に当たった。



古い柱が軋む。


完全には折れない。



だが、獏の視界に水飛沫と粉塵が広がった。


獏が一瞬だけ月島たちを見失う。



「こっちだ」



月島はみぎわを連れ、倒れた棚の陰に身を滑り込ませる。



獏が唸った。


鼻を鳴らす。


匂いで追っている。



月島は自分の血の匂いを意識する。



まずい。


視界を切っても、匂いで位置を読まれる。



───なら、完全に隠れるのではなく、誘導する。




月島は瓦礫を一つ蹴った。


音が廃墟の奥へ転がる。


獏の首がそちらへ動く。



その瞬間、月島は左の壁を指差した。



「そこ!」



みぎわは振り向く。


一瞬だけ迷い、それから月島の指先の先へ両手を向けた。



水が壁を叩き、破片が飛ぶ。


獏の肩に瓦礫が当たった。



けれど、それだけだった。



獏は倒れない。


怯まない。



血走った目だけが、さらにぎらつく。



「……っ」



みぎわが息を切らす。



月島はすぐに、その肩を支えた。



「まだいけるか」



「……いける」



声は弱い。


それでも、みぎわは頷いた。



「みぎわ、やる」



月島は獏を見る。



水噴射は効いている。



足を滑らせる。


視界を遮る。


動きを乱す。



だが、決定打にならない。



獏の身体は軽い。


低い。


速い。



水を受けても、衝撃を逃がすように身体を捻る。



真正面から押し返しても、すぐに戻ってくる。


廃墟の壁を崩して当てても、致命傷には届かない。



そして、獏は慣れてきていた。



理解しているわけではない。


理性で分析しているわけでもない。



だが、本能が反応し始めている。



みぎわが両手を上げる。


水が来る。



肩が強張る。


攻撃が来る。



月島が視線を向ける。


月島が指を向ける。



───そこが危ない。



獣の身体が、予兆を覚え始めていた。


次にみぎわが水を放った瞬間、獏は撃たれる前に横へ跳んだ。



水流が空を切り、奥の壁を濡らす。



「……慣れてきた、のか」



月島は低く呟いた。


みぎわの息が乱れる。



「ぱぱ」



「大丈夫だ」



答えながら、月島の思考は冷えていく。



どうすれば勝てる。


水を当てるだけでは足りない。



量を増やしても、広がれば逃げられる。


押すだけでは倒せない。



もっと細く。


もっと速く。



一点に集めれば。



水を、ただ出すのではなく。


圧をかけて撃ち出せば。



月島の視線が、さっき水を受けた壁へ向く。



古いコンクリート。



表面は削れている。


だが、貫けてはいない。



水が広がったからだ。


広がらせなければ。



一点に集中させれば、獏の身体ごと壁へ叩きつけられる。



いや、壁ごと壊せるかもしれない。



ただし、獏は避ける。


今のままでは当たらない。



動きを止める必要がある。



月島の脳裏に、黒い女の姿が浮かんだ。



緇。


蜘蛛化した黒い個体。



あの時、みぎわは水だけではなく、別の攻撃を使った。



音。


人間の耳には聞こえない、何か。


至近距離で頭部に当てた時、あの黒い女ですらよろめいた。



特別認定されたアベラントが、一瞬膝をついた。




なら。


───当然、獏にも通じる。




ただし、みぎわはまだ遠くへ正確に撃てない。



あの音は、近くなければ届かない。


真正面から狙えば、獏の方が速い。



みぎわが先に襲われる。


なら、獏をみぎわの前まで連れてくる。



月島自身を餌にして。



「みぎわ」



「……うん」



月島は廃墟の右側を見た。


崩れた小部屋。



壁には、腰の高さほどの小窓がある。


人が通るには小さい。



けれど、みぎわが顔を出すには十分。



その小窓の正面には、狭い通路。


獏が月島へ突っ込めば、進路はほぼ固定される。



月島は小窓を指差した。



「見えるか、あの窓」



「まど」



「あそこに隠れろ」



みぎわの指が、月島の服を握った。



「…ぱぱは?」



「俺はここに立つ」



「だめ」



みぎわはすぐに首を振った。



「ぱぱ、あぶない」



「危ないから、来る」



月島は言った。



「目の前に俺がいれば、あいつは俺を狙う」



「……ぱぱ」



「理性がある相手なら通じない。横を警戒する。君を先に潰す」



月島は獏を見る。



「でも、あいつは違う。目の前の獲物を前に、待てるほどの理性がない」



みぎわは、まだ不安そうだった。


けれど、月島の目を見て、ゆっくり頷く。



「みぎわ、なにする?」



「俺が合図したら、音だ」



「おと」



「さっき黒い女に撃った、あれ」



みぎわの瞳が少し揺れる。



「あれ、する」



「できるか」



みぎわは、小さく息を吸った。



そして、頷いた。



「できる」



「音で止めたら、すぐ水を撃つ」



月島は言った。



「今度は広げるな。ぎゅっと細くする」



「ぎゅっと」



「そうだ。手の中で、水を潰すみたいに。細くして、真っ直ぐ撃つ」



みぎわは自分の両手を見る。



「みず、ぎゅってする」



「ああ」



「できるかな」



「みぎわなら、できる」



月島は即答した。



根拠はなかった。


だが、みぎわには必要だった。



迷いではなく、合図が。


不安ではなく、信じる言葉が。



みぎわは小さく頷いた。



「……うん。みぎわ、やる」



月島は、みぎわを小部屋へ向かわせた。



みぎわはふらつきながらも、小窓の下へ入る。



フードの奥の緑色の瞳が、月島を見ている。


月島は自分の手を軽く上げて見せた。



「俺が手を上げたら、音」



「て、あげたら、おと」



「あいつが止まったら、俺が叫ぶ。その時に水だ」



「みず」



「ぎゅっとして撃て」



「ぎゅっと」



みぎわは両手を胸の前で握るようにした。



「うん」



月島は小部屋から離れた。



わざと足音を立てる。


わざと姿を見せる。



崩れた柱の前。


狭い通路の中央。



獏から見て、最も分かりやすい位置に立つ。



血の匂い。


人間の匂い。



弱い身体。


腕にみぎわを抱えていない月島。



獏の目が、月島に固定された。



牙の間から、涎が落ちる。


床に糸を引く。



月島は一歩下がった。



獏が低く身を沈める。



来る。


月島の思考がさらに冷えた。



足の角度。


肩の沈み。


爪の位置。



跳ぶ方向。


着地地点。



全部、読める。


だが、避けられるかは別だ。



月島はあえて、避けるのを遅らせた。



獏を、みぎわのいる小窓の正面へ誘い込む。



あと三歩。


二歩。


一歩。



獏が跳んだ。


黒い塊が、真っ直ぐ月島へ突っ込んでくる。



速い。


低い。



牙が開く。


涎が飛ぶ。



月島はぎりぎりまで動かない。



そして、手を上げた。



「今!」



小窓から、みぎわが顔を出した。


フードの奥の緑色の瞳が、獏の横顔を捉える。



至近距離。


真横。



避ける余地はない。



みぎわが口を開いた。


音は聞こえなかった。



けれど、廃墟の空気が歪んだ。



割れた窓ガラスの破片が震える。


床の粉塵が浮く。



獏の頭部が、見えない槌で殴られたように跳ねた。



「ギ、ッ――」



獣とも人間ともつかない声が漏れる。


獏の身体が空中で崩れた。



突進の軌道がずれ、月島の横を掠めて床へ叩きつけられる。


だが、倒れきらない。



獏は四肢を痙攣させながら、まだ動こうとしていた。



頭を振る。


爪を立てる。



立ち上がるのも、時間の問題だった。



月島は叫んだ。



「みぎわ! 今だ!!」



みぎわが小窓から身を乗り出す。



顔をしかめる。


小さな両手を前に出す。



掌の間に、水が生まれた。



最初はただの水だった。



揺れている。


震えている。



けれど、みぎわは唇を結び、うーん、と力を込めるように眉を寄せた。



「ぎゅって……」



水が縮む。


掌の中で暴れながら、細くなる。



押し出す水ではない。


広がる水でもない。



一点へ。


真っ直ぐ。


圧をかけて。



月島は、みぎわの身体が後ろへ引かれる気配を見た。



まずい。


反動が来る。



だが、止めない。



今しかない。



「撃て!」



みぎわの掌から、水が撃ち出された。



音が変わった。


水音ではない。


空気を裂く音。



細く圧縮された水流が、獏の胸へ真正面から突き刺さった。



獏の身体が浮いた。



そのまま壁へ運ばれる。


押し流されるのではない。



撃ち抜かれるように、後ろへ押し込まれていく。



獏の背中が壁に激突した。


次の瞬間、古いコンクリートが砕けた。



壁が内側から破裂するように壊れ、瓦礫と粉塵が弾け飛ぶ。


獏の身体は壁ごと向こう側へ叩き込まれた。



重い音。


廃墟全体が揺れる。



月島の視界の端で、みぎわの身体が吹き飛んだ。



圧縮水噴射の反動。


小さな身体が小窓から後ろへ弾かれる。



「みぎわ!」



月島は駆けた。


崩れた棚を蹴り、瓦礫を越え、みぎわへ手を伸ばす。



間に合う。


月島はみぎわを抱き込んだ。



そのまま反動ごと受ける。



背中から壁に叩きつけられた。


鈍い音が廃墟に響く。



肺の空気が抜ける。


胸の傷跡が焼けるように痛む。



背中に、砕けたコンクリートの角が食い込む。




「ぐ、っ……!」




視界が一瞬白くなる。



それでも、月島はみぎわを離さなかった。


小さな頭を腕の中に入れ、瓦礫から庇う。



しばらく、音が消えたように感じた。


粉塵だけが、白く舞っている。



みぎわが、腕の中で顔を上げた。



緑色の瞳が、不安そうに揺れている。



「ぱぱ……いたいいたい?」



月島は息を整えた。



背中は痛い。


胸も痛む。


指先も痺れている。



だが、みぎわに傷はない。


それだけで十分だった。



月島は、少しだけ微笑んだ。



「大丈夫だ」



みぎわの頭に手を置く。


濡れた髪を、優しく撫でる。



「よくやったな、みぎわ」



みぎわは、ぽかんと月島を見た。


それから、疲れ切った顔で、ほんの少しだけ笑った。



「みぎわ、やった?」



「ああ」



月島は頷く。



「みぎわが止めた」



その言葉を聞いて、みぎわの表情が少しだけ緩む。



安心したように。


嬉しいように。



けれど、すぐに身体から力が抜けた。



月島は支え直す。



「もう撃つな。喉も、手も休ませろ」



「……うん」



月島は、壊れた壁の向こうを見た。



粉塵でよく見えない。


獏の姿はない。



いや、瓦礫の奥に沈んでいる。



動いていない。


少なくとも、すぐには立ち上がれない。



月島は息を吐いた。


勝った、とは思わない。



ただ、今は動ける。



ここから離れる。


陽菜たちが来る前に。



別の暴走個体が来る前に。



月島はみぎわを抱え上げた。



「出るぞ」



「……でる」



みぎわは、月島の服を握る。



月島は廃墟の出口へ向かった。



粉塵の中を抜ける。


壊れた柱を避ける。



瓦礫を踏まないように、慎重に。



外のコンビニの光が見えてきた。



あともう少し。





その時だった。




みぎわが、ぴくりと反応した。




顔を上げる。


耳ではない。



身体全体で、何かを聞いているようだった。



床を伝う振動。


瓦礫の下で、爪が動く音。


獣の肺が、もう一度空気を吸い込む気配。



みぎわの目が見開かれる。



「ぱぱ……!」



月島は振り返った。



遅い。


壊れた壁の向こう。


瓦礫の山が弾けた。



獏が起き上がっていた。



満身創痍だった。


胸は抉れ、片目は潰れかけている。


頭部から血が垂れている。


身体のあちこちにコンクリート片が刺さっている。



それでも、止まっていない。


血走った目は、まだ月島を見ている。



いや。



月島しか見ていない。



牙が開く。


爪が伸びる。



みぎわが両手を前に出そうとする。



だが、間に合わない。



喉は震えない。


水も集まらない。



さっきの一撃で、身体が限界に達している。



月島はみぎわを抱き寄せた。



自分の身体で庇う。


避けられない。




獏が跳ぶ。





その瞬間。






「─────あなた」






声がした。



廃墟の入り口。


場違いなほど柔らかい声。




「───つくづく、アベラントに好かれる性質(たち)なのね」




月島の視界の端に、白衣が揺れた。


墨橋(すみばし) 陽菜(はるな)。



いつの間にか、そこに立っていた。



笑っている。


息も切らしていない。



まるで、ここでこうなることを知っていたみたいに。




そして、その隣から、黒い影が消えた。



「退きなさい」



緇の声だった。


月島が反応するより早く、黒い軌跡が獏の懐へ入った。



一撃目。


右肩から左脇へ。



黒い刃が走る。



二撃目。


左肩から右脇へ。


軌跡が交差する。




「がぁ、あ─────」




獏の胴に、巨大な罰印が刻まれた。



遅れて、血が噴き出す。


獏の身体は、糸が切れたように床へ落ちた。



重い音。



廃墟に沈黙が落ちる。


獏の身体は、もう動かなかった。



廃墟の床に叩きつけられたまま、黒ずんだ血を広げている。




その胴には、巨大な罰印のような裂傷が刻まれていた。



右肩から左脇へ。


左肩から右脇へ。



二つの黒い軌跡が交差した跡。



緇は、その前に立っていた。


蜘蛛化した黒い外殻に、獏の血が細く伝っている。



けれど、緇はそれを気にした様子もない。



月島を見ない。


みぎわも見ない。



ただ、倒れた暴走個体を見下ろしている。



処理対象を確認する目だった。


助けた相手を見る目ではない。



月島は、みぎわを抱えたまま後退した。



背中には、さっき壁へ打ちつけられた痛みがまだ残っている。


胸の傷跡も疼いている。



腕の中のみぎわは、もうほとんど力が入っていなかった。


それでも、月島の服だけは握っている。



小さな指が、離れまいとしている。



陽菜は、そんな二人を見て、にこりと笑った。




「勘違いしないでね」




軽い声だった。




「助けに来たわけじゃないの」




月島は答えない。


答える代わりに、みぎわを抱く腕に力を込める。



今、ここで緇と戦って勝てる可能性はない。



みぎわは限界だ。


自分も消耗している。



車もない。


逃走手段は潰された。



廃墟の出口には陽菜と緇。


後ろには獏の死骸。



外には、コンビニの白い明かり。



そして、その向こうに暗い街。




状況は最悪だった。


だが、陽菜は緊張感のない足取りで、一歩だけ前へ出た。



「ねぇ、月島くん」



月島の目がわずかに細くなる。


名前を呼ばれた。



この女は、初めから知っている。



自分の名前も。


自分の身体のことも。


おそらく、自分がなぜ生きているのかも。



陽菜は白衣のポケットに手を入れたまま、楽しそうに首を傾げた。



「手を組まない?」



廃墟の空気が、わずかに止まった。


緇が陽菜を見る。



「……何を言っているの」



その声には、明らかな警戒が混じっていた。


月島も、陽菜から目を離さない。



「ふざけるな」



「ふざけてないわよ」



「俺たちを殺そうとした相手と、手を組めると思うのか」



「正確には、殺しかけたのは緇よ」



緇の眉間に皺が寄る。


陽菜は悪びれもせず、ひらひらと手を振った。



「わたしは交渉しただけ」



「結果は同じだ」



「厳しいわねぇ」



陽菜は笑った。


しかし、その笑みは崩れない。



月島が拒絶することも、織り込み済みのようだった。



「条件を出すわ」



陽菜は言った。



「あなたとお姫様を、これ以上追わない」



みぎわが、月島の腕の中で小さく反応した。



お姫様。



その呼び名に怯えたように、月島の服を握る。



月島はその小さな手を、片手で覆った。


陽菜は続ける。



「その代わり、暴走個体の後始末を手伝ってほしいの」



「断る」



即答だった。


陽菜は目を細める。



「早いわね」



「お前の都合で動く理由がない」



「あるわよ」



陽菜はスマホを取り出した。


画面を操作する。



暗い廃墟の中に、小さな光が浮かんだ。



「見なさい」



月島は動かない。


だが、視線だけは画面へ向いた。



ニュース中継だった。



画面の中では、夜の街が映っている。


いつもの街のはずだった。



コンビニ。


信号。


道路。


歩道橋。


ビルの明かり。



けれど、その光景はもう日常ではなかった。



画面が激しく揺れている。



どこかの通りで、車が横転していた。


煙が上がっている。



警察官が何人も道路を封鎖し、拳銃を構えている。



その向こうに、何かがいた。



人間ではない。


獣でもない。


巨大な影が、街灯の下を横切る。



リポーターの声が震えていた。



『現在、現場では正体不明の大型生物による襲撃が――』



銃声。



一発。


二発。


三発。



画面の向こうで、警察官たちが発砲した。



だが、影は止まらなかった。


弾丸を受けても、怯んだ様子はほとんどない。



次の瞬間、影が跳ねた。


警察官の一人が吹き飛ばされる。



叫び声。


悲鳴。


カメラが大きく揺れる。



『下がってください! 下がって! 危険です!』



画面が乱れる。


別の映像に切り替わった。



今度は、上空からの映像だった。



ヘリのカメラ。



川沿いの道路で、複数の車が炎上している。


人々が逃げている。



その後ろを、異形のものが追っていた。



長い腕。


歪んだ背骨。



人間の動きを真似たようで、決定的に違う歩き方。



画面の端で、民間人が転ぶ。


近くの誰かが引っ張ろうとする。



次の瞬間、カメラが急に上を向いた。



映像が途切れた。


音だけが残る。



悲鳴。


サイレン。


発砲音。


怒号。



月島は、画面を見ていた。



表情は変わらない。


だが、みぎわを抱く腕に力が入った。



「……暴走個体」



低く呟く。


陽菜は頷いた。



「そう」



「なぜ外にいる」



「さあ」



「とぼけるな」



月島の声が低くなる。



「何を知っている」



陽菜は笑っている。


だが、月島はその目だけを見ていた。



軽い声。


柔らかい仕草。


ふざけた態度。



その奥に、何かがある。



この状況を見ても、陽菜は驚いていない。


慌ててもいない。



まるで、こうなることを前から知っていたみたいに。



月島は一歩、陽菜へ向けて踏み出した。




「何をした」




緇も、陽菜を見た。



「……陽菜」



その声には、月島と同じ疑念があった。


陽菜は、二人の視線を受けて、ゆっくり肩をすくめる。



「何もしてないわよ」



一拍。


それから、楽しそうに言った。



「備えていただけ」



廃墟の外で、遠くサイレンが鳴っていた。



一つではない。


二つ。


三つ。



重なっていく。



陽菜はスマホの画面を閉じないまま、続けた。




「人間が作ったものを、人間が最後まで管理できると思ってる方が不思議じゃない?」




月島は答えない。



緇が、低く言った。



「……あなた、本当に何を知っているの」



「知ってることは多いわよ」



「答えなさい」



「嫌」



陽菜はあっさり言った。



「今ここで全部話したら、面白くないもの」



緇の目が冷たくなる。


だが、陽菜は構わず月島を見る。



「ねぇ、月島くん」



スマホの画面には、別の現場が映っていた。


ビルのガラスが割れ、赤い光が反射している。



避難する人々。


泣き叫ぶ子ども。


警察車両の赤色灯。



そのすべての上から、ニュース速報の文字が流れていく。



『複数地域で正体不明の生物による被害』


『住民に避難呼びかけ』


『政府、情報確認中』


『警察・消防が対応に追われる』



陽菜は画面を月島へ向けたまま言った。



「もう、この日本に安全な場所なんてないわ」



月島はみぎわを見る。


みぎわは、画面を見ていなかった。



月島の胸に顔を押しつけ、震えている。


音を拾っているのかもしれない。



スマホから漏れる悲鳴。


遠くのサイレン。


廃墟の外で鳴る、街のざわめき。



それら全部が、みぎわの身体に刺さっている。



陽菜は、それを見ていた。


観察するように。



そして、ほんの少しだけ、声の調子を落とした。



「あなた一人なら、どこかで死ねるかもしれない」



月島の視線が鋭くなる。


陽菜は笑う。



「でも、その子を連れて安全に暮らしたいなら――暴走個体をどうにかしないとね」



「俺に処理しろと?」



「あなた一人に、とは言ってないわ」



陽菜は自分の胸に手を当てる。



「わたしがいる」



緇を指差す。



「緇もいるし、斑ちゃんもいるわ」



緇は不快そうに陽菜を睨んだ。



「勝手に決めないでください」



「でも、やるでしょう?」



「それは命令なら、です」



「なら、もうじき来るわ」



陽菜の声は軽かった。


けれど、その内容は重かった。



「正式な会見は、早くて明日の朝でしょうね。政府もヒューマライズも、今は情報をまとめるので精一杯」



スマホの画面を閉じ、白衣のポケットへしまう。



「でも、表に出る前に、裏の命令は来る」



月島は黙って聞いていた。


陽菜は続ける。



「暴走個体の処理」



「成功個体と特別認定個体の投入」



「関係者の情報漏洩防止」



「任務放棄、逃亡、処理妨害を確認した場合は即時処分」



緇の表情が、わずかに強張った。


それはまだ発令されていない命令のはずだった。



だが、陽菜はまるで、既に文面を読んだことがあるかのように言った。



月島はその反応を見逃さない。



「……なぜ分かる」



「備えていたって言ったでしょう?」



陽菜は軽く返す。



「動かせる統括官は多くないわ。わたしを含めて、二人」



「二人?」



「ええ」



陽菜の笑みが、少しだけ薄くなる。



「もう一人いるの。政府に尻尾を振るのが上手い男がね」



緇がわずかに目を伏せた。



知っている顔だった。


月島はそれを見て、頭の隅に置く。



もう一人の統括官。


政府寄りの男。



今は深掘りする時間はない。



陽菜は月島を見たまま言う。



「あなたはその子を守りたい」



「わたしは暴走個体を処理しなきゃいけない」



「利害は一致しているわ」



「お前の利害だろ」



「あなたの利害でもあるわよ」



陽菜は笑った。



「だって、逃げる先が全部燃えてたら、困るでしょう?」



その時だった。



陽菜のスマホが震えた。



短い振動。



一度。


二度。



陽菜は画面を見た。





その瞬間。





笑みが、ほんの少しだけ止まった。


ほんの一瞬だった。



けれど、月島は見逃さなかった。



画面を持つ指が止まる。


親指が、次の操作へ移らない。



白衣の袖口から覗く手首に、わずかに力が入っている。



さっきまでの軽薄な笑みは、まだ顔に残っていた。


だが、目だけが違った。



温度が落ちている。


何かを計算し直している目だった。



緇もそれに気づいた。



「……何ですか」



陽菜はすぐには答えなかった。


スマホの画面には、研究施設からの緊急通知が表示されていた。



『第一区画 拘束系統異常』


『暴走個体・魘 拘束信号消失』


『第一区画内を移動中』


『危険度、最上位』


『該当区画職員は即時退避』



緇の顔色が変わった。



「……魘?」



その声には、先ほど獏を処理した時とは違う緊張があった。


月島はその名を知っている。



あの格納室。


巨大な拘束架に縛りつけられていた闘牛の怪物。



接触厳禁。


開放厳禁。


視覚刺激厳禁。


聴覚刺激厳禁。



単独での鎮圧不可。


あの表示が、頭の中で蘇る。



そして、足元で何かを踏み切った感触。



奇妙な電線。


千切れたケーブル。



月島の喉の奥が、わずかに冷えた。



陽菜はスマホを見つめていた。



笑っている。



いや。


笑顔を、顔に残しているだけだった。



「……へぇ」



陽菜は、わざとらしく明るい声を出した。



「起きちゃったのね、あの暴れん坊が」



緇が陽菜を見る。



「笑っている場合ですか」



「笑ってないと、やってられないじゃない」



陽菜は肩をすくめる。


いつもの調子だった。



軽い。


柔らかい。


ふざけている。



だが、月島には分かった。



この女は、焦っている。


少なくとも、これは予定通りではない。



暴走個体が街へ出ていることには驚かなかった。


警察が倒されている映像にも、民間人の悲鳴にも、陽菜は表情を変えなかった。



けれど、魘という名前だけは違った。



一瞬だけ、笑みが遅れた。


一瞬だけ、指が止まった。


一瞬だけ、声の温度が落ちた。



月島は低く言った。



「……それは、予定外か」



陽菜の目が、月島へ向いた。


一拍。



それから、陽菜はにこりと笑った。



「さあ」



「答えろ」



「やあねぇ。予定なんて、いつも少しは狂うものよ」



緇の視線が鋭くなる。



「陽菜」



「大丈夫」



陽菜はスマホを白衣のポケットへ戻した。



その動作はいつも通りに見えた。


だが、わずかに早い。



画面を見られ続けるのを嫌ったようにも見えた。



「今すぐこっちに来るわけじゃないわ」



「根拠は」



「勘」



「最悪ですね」



「研究者の勘って、案外当たるのよ?」



軽口。


冗談。



いつもの陽菜。


けれど、緇は黙らなかった。



「魘が外に出れば、この程度では済みません」



「分かってるわ」



陽菜の声が、少しだけ低くなった。



それは本当に一瞬だった。


すぐに、いつもの笑みが戻る。



「だから、急がないとね」



月島は、陽菜を見ていた。



この女にも、想定外はある。


すべてを支配しているわけではない。



何かに備えていた。


何かを待っていた。



だが、魘は違う。


少なくとも、陽菜にとっても歓迎できる事態ではない。



それだけは分かった。



そして、それでもこの女は笑う。



焦りを隠すために。


恐れを隠すために。



あるいは、自分自身に余裕があると思い込ませるために。



陽菜は、月島の視線に気づくと、わざとらしく首を傾げた。



「なに?」



「……いや」



月島は答えない。


ただ、みぎわを抱く腕に力を込めた。



陽菜の余裕は、嘘だ。



そう分かっただけで十分だった。



遠くで、爆発音がした。



廃墟の外。


街の方角。



夜空が一瞬、赤く明るくなる。



みぎわがびくりと震えた。


月島は反射的にその頭を胸元へ押しつける。



続けて、またサイレン。



今度は近い。



消防車か。


パトカーか。


救急車か。



判別できないほど、いくつもの音が重なっている。



さらに遠くで、乾いた音が連続した。



拳銃の発砲音。


一拍遅れて、悲鳴。



夜が、壊れていく。


少しずつではない。



一気に。



街の向こうで炎が上がる。


赤い光が、雲の下を滲ませる。



コンビニの白い看板は、まだいつも通り光っていた。


だが、その明るさはもう日常のものには見えなかった。



燃え始めた世界の中で、取り残された小さな箱のようだった。



月島は陽菜を見る。




「……これが、お前の望みか」




陽菜はすぐには答えなかった。



代わりに、燃え始めた街の方を見た。


白衣の裾が、夜風に揺れる。



その横顔は、笑っているようにも見えた。


何かを悼んでいるようにも見えた。



そして、そのどちらでもないようにも見えた。




「望み、ねぇ」




陽菜は小さく呟く。




「そんな綺麗なものじゃないわ」



月島は目を細める。



「なにが目的だ」



陽菜は振り返る。


いつもの軽い笑みを、もう一度顔に貼りつける。



「悪巧み」



「答えになっていない」



「答える気がないもの」



緇が、静かに陽菜を見ている。



その目には、もう明確な疑念があった。



信頼ではない。


疑惑。



それでも緇は、陽菜の隣を離れない。



命令か。


習慣か。


情か。



あるいは、その全部か。



陽菜は月島へ向き直った。



「選びなさい、月島くん」



「わたしと手を組むか」



「その子を抱えて、安全な場所なんてない国を逃げ回るか」



月島は答えない。


答えられるはずもなかった。



みぎわの呼吸が浅い。


身体は限界。



それでも、月島の服を握っている。



名前を得たばかりの子。


みぎわ。



水と陸の境目に立つ子。



その子を守るために、自分は研究所へ戻った。


人間らしく振る舞うことをやめた。



なら。


安全な場所がないというなら。




─────作るしかない。





少なくとも、みぎわが眠れる場所を。


食べられる場所を。


怖がらなくていい場所を。




月島は、まだ何も言わなかった。



けれど、陽菜はそれだけで十分だという顔をした。




「いい目ね」



陽菜は笑う。



「やっぱり、あなたはそっち側に来る」



「勝手に決めるな」



「決めてないわ」



陽菜は燃える街を見た。




「始まっただけ」




遠くで、また何かが爆ぜた。



夜空の向こうに、赤い光が滲む。




サイレン。


悲鳴。


発砲音。


崩れる音。


燃える音。



そのすべてを聞きながら、陽菜は静かに言った。



「始まったのよ」



月島は、みぎわを抱く腕に力を込める。



みぎわは、目を閉じていた。


けれど眠ってはいない。



震えながら、月島の胸にしがみついている。




緇は獏の死骸から視線を上げ、燃え始めた街を見た。






陽菜だけが、どこか遠くを見るように笑っていた。







「─────終末の産声が」






その言葉が、夜の中に落ちる。




そして、遠くの街からまた一つ、悲鳴が上がった。



第八話まで読んでくださり、ありがとうございました。


ここで第一章『まだ名前のない家族』は一区切りです。


月島とみぎわの物語として始まった第一章でしたが、終盤で一気に世界そのものが動き出す形になりました。


かなり急展開ではありますが、ここからが本当の意味で物語の始まりでもあります。


第二章では、さらに広がっていく世界と、月島たちのこれからを描いていく予定です。


また続きを読んでいただけると嬉しいです。

よろしくお願いします。

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