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Human Rize─人間になれない少女と父親ではない男─  作者: 坂本 リュカ
第一章『まだ名前のない家族』
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第六話『父親ではない男』後編



────その頃。





地下研究施設の別区画では、乾いた音が響いていた。




がり。


がり。


がり。



硬いものを削る音。



訓練区画の隅に、太い丸太のようなものが固定されている。



本物の木ではない。


高密度の樹脂と特殊繊維を固めた、爪研ぎ用の消耗材だった。



表面には無数の傷が刻まれている。



浅いもの。


深いもの。


裂けたもの。


抉れたもの。



そのほとんどは、同じ個体によるものだった。



斑は、そこに爪を立てていた。



白と黒の混ざったぼさぼさの髪が、顔の半分を隠している。


黒革のショートパンツ。


ノースリーブのタンクトップ。


晒された腹部。



耳元のピアスが、動くたびに小さく揺れる。



小柄な身体。


けれど、その腕から伸びる爪は、人間のものではなかった。



がり、とまた削る。


丸太の表面が、細く剥がれた。



「はー……」



斑は退屈そうに息を吐いた。



「暇ッスねぇ」



誰に言うでもない。


返事をする者もいない。



訓練区画は広い。


白い壁と、厚い床材。



壁際には壊れた標的や、噛み跡の残った防護板が積まれている。



斑が壊したものだった。



何度も。


何度も。



そのたびに、研究員が青い顔をして交換していった。



斑はそういう顔を見るのが嫌いではなかった。



人間は、壊れやすい。



すぐ怯える。


すぐ隠れる。


すぐ命令だけは立派になる。



だから嫌いだった。



けれど、今はその人間すら近くにいない。



ただ白い部屋。


ただ退屈な音。



ただ、自分の爪が削る感触だけ。



「ぎぬぎぬ先輩は真面目に仕事中。はるるんはお姫様のお世話。ゆっきー先輩はどっかでふわふわ」



斑は丸太に爪を立てたまま、口を尖らせる。



「ボクだけ暇とか、扱い雑じゃないッスか?」



がり。


深く爪を入れる。



繊維が裂ける。



その瞬間だった。




斑の鼻が、わずかに動いた。



爪の動きが止まる。


白黒の髪の奥で、目が細くなった。



匂い。


人間の匂いがした。



それ自体は珍しくない。



この施設には研究員がいる。


警備員がいる。



政府側の人間が出入りすることもある。


消毒液や薬品で誤魔化されていても、人間の匂いは消えない。



汗。


血。


皮膚。


呼吸。


恐怖。



そういうものは、どれだけ白い服を着ても、どれだけ綺麗な部屋に閉じこもっても、奥から滲む。


斑は、それを嫌というほど知っている。



だから最初は、気にも留めなかった。



また誰かが通ったのだろう。


また誰かが、怖がりながらこの施設を歩いているのだろう。



そう思った。




けれど。




「……ん?」



鼻の奥に、別のものが引っかかった。



人間の匂い。



確かにそうだ。


鉄の匂いも混じっている。



乾いた血。


埃。



外の空気。


山の土。



それから、ほんの微かに水の匂い。



どこかで嗅いだような。


あの小さい子の部屋に近い匂い。



だが、それだけではない。



その奥に、斑が今まで嗅いだことのないものがあった。



強い。


強烈。



鼻の奥を突き刺すような濃さ。



普通なら顔をしかめる。


人間の匂いが濃ければ濃いほど、斑は嫌悪を覚える。



近づきたくない。


噛み千切りたい。


消したい。



そうなるはずだった。



なのに。



今回は違った。




鼻が曲がりそうなほど強い。



気配だけで、喉の奥がざらつく。


背中の毛が逆立つような感覚がある。



尻尾なんて今は出していないのに、尾の先まで神経が通ったような気がした。



それなのに、嫌ではない。


不快ではない。



むしろ、もう一度嗅ぎたい。



もっと近くで確かめたい。



そんな感覚が、胸の奥に残った。


斑は、ゆっくりと丸太から爪を抜いた。



「……なんスか、これ」



小さく呟く。



答える者はいない。


斑は鼻を鳴らした。



もう一度。


匂いを拾う。



薄い。


かなり薄い。



空調に流され、消毒液に紛れ、水と金属の匂いに隠れている。


それでも、ある。



施設の外側から、内側へ。


正規の通路ではない。



研究員の足取りでもない。


警備員の巡回でもない。



低い場所。


水の流れる場所。



排水か、換気か、搬入口の裏。



斑の口元が、ゆっくりと上がった。



鋭い八重歯が覗く。




「へぇ」




楽しそうな声だった。


けれど、目は笑っていない。



獲物を見つけた時の目でもない。


敵を見つけた時の目でもない。



もっと別のもの。



名前のない興味。


本能が先に気づいて、頭が追いついていない感覚。



斑は丸太から離れた。



足音は軽い。


床を踏むたび、身体が小さく沈み、すぐに跳ねる。



───ラーテル。



恐れを知らない生き物。


自分より大きな相手にも噛みつく。



毒にも、痛みにも、簡単には屈しない。



斑はそう作られた。


そう育てられた。



だから、怖いものは少ない。



嫌いなものは多い。




人間は、その筆頭だった。




けれど、その匂いは違う。



人間なのに。


人間のはずなのに。



奥に、何か別のものがある。



獣でもない。


アベラントでもない。


研究員でもない。



血の匂いの奥に、妙な重さがある。



命令の匂いではない。


恐怖の匂いでもない。


餌の匂いでもない。



それなのに、鼻が勝手に追いたがる。



斑は舌打ちした。



「……気持ち悪いッスねぇ」




そう言いながら、声には笑いが混じっていた。



嫌悪ではない。


苛立ちでもない。



むしろ、どこか楽しそうだった。



斑は訓練区画の扉へ向かう。


認証タグが揺れる。



個体番号〇九六番。


成功認定個体アベラント。


コードネーム、(まだら)


モデル、ラーテル。



扉が開く。


白い通路の空気が流れ込む。


斑はそこへ出た。



鼻を上げる。


匂いは、さらに薄くなっている。



普通の個体なら、もう追えない。



人間なら、そもそも気づかない。



けれど、斑には分かる。


あの匂いは、消えていない。



施設の奥へ向かっている。



深く。


低く。


水の方へ。



斑はにっと笑った。



「侵入者ッスか」



白い通路に、斑の声が小さく響く。



「それとも……」



そこで言葉が止まった。


何と言えばいいのか分からなかった。



人間。


そう呼ぶには、匂いが濃すぎる。



アベラント。


そう呼ぶには、気配が違いすぎる。



獲物。


違う。



敵。


まだ違う。



斑は首を傾げる。



「……まあ、直接会えばわかるッスね」



軽く言って、歩き出す。


だが、その足取りはいつもの巡回とは違っていた。



遊びに行くような軽さ。


狩りに向かうような静けさ。



その両方が混ざっている。



白い通路を進みながら、斑はもう一度鼻を鳴らした。



強烈で。


得体が知れなくて。


鼻の奥に残って離れない匂い。



人間の匂いのはずなのに、人間だけでは終わらない匂い。



斑は笑った。



「……ちょっとだけ、面白くなってきたッス」



そして、その匂いの元へ向かっていった。









暗い通路の先に、金属の格子があった。



「出られそうか…?」



月島は手を伸ばし、それに触れる。



冷たい。


通気口の出口。



格子の向こうには、白い光が漏れていた。



研究施設の中だ。



月島は耳を澄ませる。



水音。


空調。


遠くの電子音。



それから、低く、重い音。



唸り声のようにも聞こえた。



だが、人の足音はない。


少なくとも、この出口のすぐ近くには。



月島は格子の留め具に指をかけた。



錆びているように見える。


だが、完全には死んでいない。



定期的に点検されている。


見た目だけ古くしてある。



そう判断するのに、時間はかからなかった。




「ぐ──!」




力を入れる。


金属が軋みかける。



月島は手を止め、角度を変えた。



押すのではなく、ずらす。


引くのではなく、浮かせる。



ほんの少しだけ力の逃げ道を作る。


格子は、ほとんど音を立てずに外れた。



月島はそれを片手で支えながら、下を覗く。



白い床。


白い壁。


強すぎるほどの白の主張。



人影はない。


月島は身体を滑らせた。



胸の傷跡が通気口の縁に擦れる。


鋭い痛み。



それでも声は出さない。



床に降りる。


膝を沈め、衝撃を逃がす。



小さな音が、白い床に吸われた。



月島はすぐに暗い部屋の周囲を目を凝らしながら、確認する。



右。


左。


前。



そして、背後。



そこで、息が止まった。



いた。



すぐ後ろに。




白い部屋の奥。


月島が降り立った通気口の真下から、ほんの数歩の距離に。



何かが、立っていた。



最初、壁だと思った。



赤黒く焼けた壁。


黒い毛に覆われた柱。




そう見えた。



だが、違う。



それは呼吸していた。




ごく低く。



ごう、と。




喉の奥で、風が腐ったような音を立てている。



人ではなかった。


人間に擬態している個体ですらない。



いや。


そもそも、擬態という発想が入り込む余地すらない。



それは正真正銘、化け物そのものだった。



二メートルを優に超える巨体。



二足で立っている。


いや、立たされている。



巨大な拘束架に、全身を押しつけられ、無理やり直立の姿勢に固定されていた。




腕。


手首。


肘。


肩。



太腿。


膝。


足首。



胴。


首。



ありえない数の鉄板が重なり、太いボルトが肉の上から打ち込まれている。


拘束しているというより、施設そのものに縫い止められているみたいだった。



それでも、動いていた。



赤黒い腕が震える。


金属が軋む。



拘束具が、ぎち、と嫌な音を立てる。



抜けない。


抜けるはずがない。



そう作られている。


それでも、その化け物は力任せに引き千切ろうとしていた。



月島は動けなかった。


肌は赤黒い。


深い血の色と、焼けた肉の色を混ぜたような色。



その上に、真っ黒な体毛が荒く生えている。



肩から背中にかけての筋肉は、丸太を束ねたように太い。



首は短く、異様に分厚い。


胸板は鉄の扉のようだった。



腕は人間の胴ほどある。



手は大きい。


片手で、月島の頭を丸ごと包めるほどに。



指は太く、爪は黒い。


爪の先だけで、骨ごと肉を潰せそうだった。



その頭には、黒い布のような目隠しが何重にも巻かれていた。



視界を塞ぐため。


あるいは、何かを見せないため。



布の隙間から、湿った呼気が漏れる。



その両側に、湾曲した角。




牛。


いや。


闘牛。



だが、家畜ではない。


競技のための獣でもない。



怒りだけを増やされ、暴力だけを伸ばされ、最後に理性を失ったもの。



───その化け物が、すぐ後ろにいる。



目隠しされているのに、見られている気がした。



月島の背筋に、冷たいものが這い上がる。



化け物の顔は、こちらを向いていない。



目も塞がれている。



それなのに。


気づかれているのではないか。



今、この瞬間にも、匂いで。



音で。


体温で。


呼吸で。



自分という異物を、拾われているのではないか。



怪物が、低く唸った。



月島の心臓が、一度だけ強く脈打つ。



拘束架の横に、モニターがあった。



白い画面。


赤い警告表示。



月島の視線だけが、そこへ滑る。



個体番号〇〇五。


暴走個体アベラント。



コードネーム、(えん)


モデル、闘牛。



危険度、最上位。



状態、強制格納中。



接触厳禁。


開放厳禁。


視覚刺激厳禁。


聴覚刺激厳禁。


拘束具解除権限、上層部承認必須。



備考欄には、短い文字列が並んでいる。



単独での鎮圧不可。


複数小隊による対応推奨。



過去出撃記録、施設区画三つを完全破壊。



人的被害、記録非公開。


生存時災害指定相当。



最後の一文だけが、やけに目に残った。



生きる災害。



画面の中の文字は、そう読めた。



魘が腕を引いた。


拘束具が鳴る。



ぎしり。



白い部屋の中に、金属の悲鳴が響く。



「……!」



月島は反射的に息を止めた。



見つかれば死ぬ。



そう理解した。



戦える相手ではない。


逃げるという判断すら、遅れれば間に合わない。



この距離で拘束が外れれば、何もできない。



潰される。


引き裂かれる。


叩きつけられる。



どれになるかの違いでしかない。



恐怖はあった。



皮膚が強張る。


喉が乾く。


足の裏が床に貼りついたように重い。



だが、叫ばない。


動きを乱さない。



頭だけが、異様に冷えていく。



魘の首の角度。


拘束具の数。


揺れている鉄板。


唸り声の周期。



目隠し。


聴覚刺激厳禁。


音に反応する可能性が高い。



なら、音を出すな。



月島は魘を視界に収めたまま、ゆっくりと後ろへ下がった。



一歩。



床の埃。


金属片。


細いケーブル。



踏んではいけないものを選別する。



二歩。



魘の肩が震えた。


拘束具がまた鳴る。



三歩。


足裏に、何かが触れた。


柔らかい。


被覆された線。


電線。



気づいた時には遅かった。



ぷつ、と小さな音がした。



月島の足元で、細いケーブルが切れた。




「───っ、」



全身が止まる。



血の気が引いた。




警報。


ロック。


電流。


拘束具の解除。



最悪の可能性が、頭の中に一斉に並ぶ。



魘が唸る。


ごう、と喉が鳴る。



拘束台が震える。


だが、それだけだった。



赤い警告灯はつかない。


警報も鳴らない。


モニターの表示も変わらない。


施設全体に異変はない。



切れたのは、重要な制御線ではない。



少なくとも、今すぐ何かを起こす線ではない。




「……ぅ」



月島は、ゆっくりと息を吐いた。


安堵と呼ぶには薄い。



ただ、胸の奥で固まっていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。



足を上げる。


切れたケーブルを避ける。



そのまま格納室の出口へ向かおうとした。




その時。



扉の向こうで、足音がした。



人間。


一人。



白い床を歩く靴音。



速度は一定。



迷いがない。



この部屋へ向かっている。



月島はすぐに周囲を見る。



拘束架の陰。


モニターの裏。


壁際の機材棚。



扉の開き方。


相手の視線の流れ。




(どうやって隠れる…)




選択肢は少ない。



近づく足音。



止まる。



電子ロックの解除音。


扉が開いた。



白衣の男が入ってくる。



研究員。


片手に端末。



もう片方の手には、細い検査器具の入ったケース。



月島は、すでに動いていた。


音を立てずに床を蹴る。



扉が開き、研究員の視線が魘へ向いた瞬間、その背後へ回る。


正面から見れば、何もいない。



後ろを振り返らなければ、気づかない。


月島は身を低くし、研究員の背後にしゃがみ込んだ。



近い。


近すぎる。



白衣の裾が、頬に触れそうだった。



研究員は気づかない。


魘の方しか見ていない。



「状態確認、開始」



研究員は端末へ向けてそう言った。


声は少し震えている。



慣れている。


けれど、慣れきってはいない。



当然だった。



目の前にいるのは、拘束された災害だ。


研究員は魘へ近づく。



月島は、その背中の影に隠れながら、横へ滑った。



一歩。



研究員の足音に、自分の動きを重ねる。



二歩。



端末の操作音に、衣擦れを紛らわせる。



三歩。



扉までの距離。



あと少し。




魘が唸った。


さっきより近い音だった。



研究員の肩が、びくりと跳ねる。



月島の足も、一瞬止まりかけた。



その時、魘の顔がわずかに動いた。



目隠しされた顔が、こちらへ傾く。



見えていない。


見えているはずがない。



それなのに、黒い布の下から、何かがこちらを覗いた気がした。



月島は息を殺す。



魘の鼻が、低く鳴った。


匂いを嗅いでいる。



そう思った瞬間、研究員が慌てて端末を操作した。



「鎮静出力、二段階上昇」



短い電子音。


拘束架のどこかが青白く光る。



魘の身体が、わずかに沈んだ。


唸り声が低くなる。



研究員は、息を吐いた。



(今しかない───!)




月島はその一瞬を逃さなかった。



扉の外へ滑り出る。




白い通路。


冷たい光。



扉の向こうでは、まだ魘の低い呼吸音が響いている。



月島は壁に身を寄せた。


心臓が、遅れて強く鳴る。




(生きてるよな…?)




どうにか生きている。


まだ。



月島は振り返らず、白い通路の奥へ進んだ。



月島は、格納室を出た。


背後では、研究員が魘の状態確認を始めている。



「心拍、異常値内。筋出力、拘束範囲内。拘束具負荷、上昇傾向……」



その声の奥で、低い唸りが響く。


拘束された災害。



コードネーム、(えん)



月島は振り返らなかった。


足元で切れた細いケーブルの感触だけが、まだ残っている。



今は何も起きていない。



警報もない。


拘束具も外れていない。



だが、切れたものは元には戻らない。



いずれ何かが起きるかもしれない。


それでも、確かめている時間はなかった。



白い通路が、目の前に伸びている。


壁も、床も、天井も白い。



規則正しく並ぶ照明。


電子ロック。


強化ガラス。


監視カメラ。



外から見た廃医療施設とは、まるで別の場所だった。



月島は壁際に身を寄せる。


天井の隅にある監視カメラが、黒い目のように光っていた。



死角は分からない。


この施設の構造も知らない。



監視室に何人いるのかも、映像が常時確認されているのかも分からない。



完全に見つからずに進むのは、ほぼ不可能。



そう判断した。


なら、やることは一つだった。



見つからないことではない。


見つかる前に、"あの子"を見つけること。



囲まれる前に、連れ出すこと。



月島は歩き出した。



走らない。


だが、遅すぎもしない。



足音を抑えながら、通路の角へ近づく。



右から、台車の車輪音。


左から、電子ロックの解除音。



前方には研究員の声。



月島は一瞬で道を選んだ。


左。



電子ロックが閉じる音に、自分の足音を重ねる。



数歩進む。



止まる。


聞く。


また進む。



その繰り返しだった。



途中、背後の方で短い電子音が鳴った。



月島は足を止める。



警報か。


だが、すぐに遠くの研究員の声が聞こえた。




「魘の拘束負荷、また上がってます」



「定期確認中だろ。いつもの範囲なら流していい」



「了解」



それだけで終わった。


施設全体が動く気配はない。



月島は再び進む。



この場所では、異常が日常になっている。


唸り声も、拘束具の負荷も、警告音も、すぐには人を動かさない。



その遅れを使う。



白い通路の壁に、表示板があった。



第二区画。


低危険度格納室。


処理室。



第三格納棟、下層。



月島の視線が、最後の文字で止まる。



第三格納棟。


二〇六関連。



確認班の会話にあった言葉。


"あの子"がいるとすれば、そちらだ。



月島は下層を示す矢印へ向かった。


通路の途中、強化ガラスの向こうに別の部屋が見えた。



水槽のような部屋。


中には、何かが浮いている。



魚ではない。


人でもない。


長い尾のようなものを揺らしながら、こちらを見ていた。



隣の部屋では、巨大な甲殻を背負った個体が床に伏せている。



さらに奥には、何が原型なのかも分からないものがいた。



壁に張りついた肉のような塊。


骨に見える突起。


ぬめる膜。



生き物として成立しているのかすら怪しい。



それでも、すべてに個体番号がついていた。



研究員たちは白衣を着て、その周囲を歩いている。


数値を記録し、薬剤を投与し、体温を測る。



怪物たちを、まるで備品のように扱っていた。



月島は足を止めない。



見る。


覚える。


だが、引きずられない。



今は、この施設の正体を暴きに来たわけではない。



"あの子"を取り戻しに来た。



通路の分岐で、月島は止まった。



前方から足音。



軽い。


早い。



研究員でも、警備員でもない。



人間の歩き方とは少し違う。



月島は壁際の影に身を寄せた。



足音は近づく。


だが、途中で別の通路へ逸れた。



遠ざかっていく。



月島は息を吐く。



(…見つかるのも時間の問題だ)



まだ見つかっていない。


だが、長くはもたない。



監視カメラには、もう映っているかもしれない。


誰かが映像を見直せば、不自然な影に気づくかもしれない。



ここは安全ではない。


隠れ続ける場所でもない。



月島は歩幅を少し広げた。



行き先はまだない。


安全な逃げ場所も知らない。



この先どうなるのかも分からない。



それでも、ここより悪い場所はそう多くない。


まず連れ出す。



次に隠れる。



その先は、走りながら考える。


水の匂いが濃くなってきた。



消毒液の奥に、湿った空気が混じる。


壁の中を流れる水音。


低い機械音。



月島は、その匂いを追うように進む。



"あの子"の部屋には、水槽のような設備がある。



排水溝がある。



"あの子"の歌は、水の中で響く音に似ていた。



なら、水の近くにいる。



そう考えた。



再び、施設のどこかで電子音が鳴る。



今度は少し長かった。



背後の方で声が上がる。



「拘束系統にノイズ。暴走個体格納室です」



「魘か?」



「はい」



「またかよ。ログだけ上げとけ」



「了解」



月島は振り返らない。



あのケーブルだ。


おそらく、さっき切ったものが何かに影響している。



まだ大きな異変にはなっていない。


だが、猶予は削れている。



月島は階段を見つけた。



横にはエレベーターもある。


エレベーターは使わない。



記録が残る。


待ち時間もある。



扉が開いた瞬間、誰かと鉢合わせる可能性も高い。



月島は非常階段へ入った。



そこだけ少し空気が違った。



白い通路より古い匂い。


コンクリート。


湿気。


金属の手すり。



階段を下りるたび、胸の傷跡が痛んだ。


だが、足は止まらない。



一段。


二段。


三段。



下へ行くほど、水の匂いが強くなる。



そして、かすかに音がした。



高く。


細く。


歌になりきらない声。



(───!)



月島の足が止まった。



空調の音かもしれない。



水音がそう聞こえただけかもしれない。



それでも、胸の奥が反応した。



雨の日の水たまり。


浴槽の水面。


夜の部屋。


自分の呼吸を整えていた、あの響き。



「……無事、だよな?」



返事はない。


だが、方向は決まった。



下だ。


もっと奥。


水のある方へ。



月島は階段を下りきった。



扉の向こうには、また白い通路が続いている。



監視カメラ。


電子ロック。



研究員の足音。



全部ある。


全部、避けきれない。



それでも進む。



見つかる前に、見つける。


囲まれる前に、連れ出す。



月島は扉を押し開けた。


白い光が差し込む。



その先に、第三格納棟の表示があった。



月島は、そこへ踏み込んだ。









白い部屋の中で、"その子"は膝を抱えていた。



部屋は広い。



柔らかい色のマットが敷かれていて、小さな机も、低い棚も、丸いクッションも置かれている。


子ども部屋の形をしていた。



けれど、子ども部屋ではなかった。



匂いがない。



あの部屋にあった、布の匂いも。


焼けた魚の匂いも。


テレビの音も。


水滴の跳ねる音も。



玄関の向こうから聞こえてくる、あの足音も。



ここには何もない。



暖かいものが、何もない。



壁は白い。


床も白い。


天井も白い。



水槽の向こうで、水だけが静かに揺れている。



監視カメラの赤い光が、ずっとこちらを見ていた。




"その子"は小さく喉を震わせる。




「……ぁ……ぅ……」




音は、歌にならなかった。



それでも、"その子"は歌い続けた。



水たまりで覚えた音。


浴槽の中で出した音。


夜、"あの人"の呼吸を少しだけ整えた音。



"あの人"が苦しそうに眠っていた時、そばで鳴らした音。



あの時は、届いた。



"あの人"の呼吸が、少しだけ静かになった。



だから、同じ音を出せば、自分も落ち着けると思った。



「……ぁ……ぅ……ん……」



でも、駄目だった。



喉が震える。


胸が苦しい。


音が崩れる。



歌は途中でほどけて、細い鳴き声になる。



落ち着かない。


苦しい。


さみしい。



"その子"は膝を抱く腕に、ぎゅっと力を込めた。



指が何かを探す。



服の裾。


背中。


腕。



抱き上げてくれる手。


けれど、そこには何もない。



"あの人"はいない。



白い床だけが、冷たく、そこにある。



「……ぱぱ」



声が落ちた。


呼んでも、返事はなかった。



当たり前だった。


見ていた。



赤いものが広がるのを。


倒れた身体を。


動かなくなった顔を。



自分へ伸ばしかけた手が、床に落ちるところを。


連れていかれる時、何度も呼んだ。



ぱぱ。


ぱぱ。


ぱぱぁ。



けれど、"あの人"は起きなかった。



だから、分かっているはずだった。



もう来ない。


来られない。


そう分かっているはずだった。



それなのに、"その子"は呼んでしまう。




「……ぱぱ……」




声と一緒に、目の奥が熱くなった。



何かが溢れた。



"その子"は、それが何なのか分からなかった。



頬を伝って、透明なものが落ちる。




ぽた、と。




白い床に、小さな水の跡ができた。



わたしはそれを見た。



水。



自分から出た水。



雨でもない。


浴槽の水でもない。


水槽の水でもない。



自分の目から、勝手に落ちた水。




初めての涙だった。




ぽた。




また一つ、床に落ちる。



冷たい格納室。


暖かみのない人工の部屋。


生活の跡も、誰かの手のぬくもりもない場所。



その白い床に、"その子"の涙だけが落ちていく。




その時だった。




「……ぅ?」




遠くで、音がした。




"その子"の肩が小さく震えた。



足音。


白い通路を走る音。



最初は遠かった。



でも、近づいてくる。



一歩。


二歩。



迷わず、こちらへ向かってくる。



「……っ!」




"その子"は顔を上げた。



胸が、強く鳴った。




その音を知っていた。




研究員の足音ではない。


緇の静かな足音でもない。


斑の弾むような足音でもない。



もっと、違う。




アパートの階段。


夜。



玄関の向こう。


帰ってくる音。




"あの人"が階段を上り、扉の前で一度止まる音。




鍵を取り出す前の、あの足音。




似ている。


あまりにも、似ている。




でも、そんなはずはない。




"あの人"は死んだ。



動かなかった。


血が出ていた。



連れていかれる時、呼んでも返事をしてくれなかった。



だから、違う。



きっと別の誰かだ。


音が似ているだけ。



そう思おうとした。




けれど、胸の音は止まらなかった。





どく、どく、と。



期待が勝手に膨らんでいく。




違う。



違うはず。




でも。



もし。



もしも。




"その子"は膝を抱く腕をほどいた。



涙で濡れた目を、扉へ向ける。




足音が近づく。


止まらない。



こちらへ。


まっすぐ。



扉の外で、何かが鳴った。




電子音。


ロックが外れる音。



隔壁が、ゆっくりと開いた。




白い光の向こうに、人影が立っていた。




「……!」




"その子"の喉が、声にならない音を漏らす。





───そこにいた。




息を切らして。



服を裂かれて。



血の跡を残して。




───それでも、立っていた。





あの人、───月島だった。




月島は、"その子"を見た。




一瞬だけ、何かを確認するように目を細める。




そして、低く、掠れた声で言った。





「────迎えに来た」





その瞬間。


"その子"の中で、何かが弾けた。




「───ぱ」





さっきまで流れていた涙が、別のものに変わる。



苦しい涙ではなくなる。


冷たかった胸の奥に、熱いものが広がっていく。



届いた。


自分の歌が。


自分の声が。



ずっと呼んでいた声が。




届いたのだと、"その子"は思った。





月島が一歩、部屋に入る。




「待たせて、ごめん」




その声を聞くより早く、"その子"は立ち上がっていた。



足に力が入らない。


二日近く、まともに食べていない。



身体はふらつき、膝が崩れそうになる。




それでも、倒れなかった。



倒れている時間が惜しかった。




少しでも早く。


一秒でも早く。




あの胸に飛び込みたかった。




ぺっ、ぺっ、ぺっ。





「ぱ、ぱ!ぱぁ───」





小さな足音が、白い床を叩く。




"その子"は走った。




涙で視界が滲む。




それでも、月島だけは見えた。




「ぱぱぁ!!!」




叫ぶ。



今度は、悲鳴ではなかった。


引き裂かれるような声ではない。



連れていかれる時の、痛くて、怖くて、苦しい声ではない。




嬉しい。



安心した。



見つけた。



帰ってきた。




そういう全部が混ざった声だった。




月島は、反射的に腕を広げた。




"その子"の身体が、胸に飛び込む。




小さい。


軽い。



けれど、確かにそこにいる。




月島はその身体を受け止めた。




強く抱きしめすぎないように。


でも、離さないように。




"その子"の指が、月島の服を掴む。




ぎゅっと。




もう二度と離さないみたいに。




月島の胸の奥で、別の声が蘇った。




ぱぱぁッ!!!




連れ去られる時の、あの悲痛な叫び。




血の匂い。


伸ばされた手。


泣きそうな緑の瞳。



その記憶が、今の声で上書きされていく。




ぱぱぁ!!!




嬉しそうな声。


安心しきった声。


戻ってきたものを確かめる声。



月島は、"その子"の背中に手を回した。




「……よかった」




声が、少し震れていた。




「本当に。無事で……」




月島は"その子"の肩を見る。




腕を見る。


頬を見る。


足を見る。



傷はないか。


痛めたところはないか。


どこか壊されていないか。




確かめずにはいられなかった。



「どこも怪我はないんだな?」



"その子"は月島の胸に顔を押しつけたまま、小さく頷いた。



「……うん」



「痛いところは」



「……ない」



「本当に?」



「……うん」




月島は、ようやく息を吐いた。




その息が、少しだけ深くなる。




「じゃあ、ここから出よう」



"その子"が顔を上げる。



涙で濡れた緑の瞳が、月島を見る。




月島は言った。




「走れるか?」




"その子"は少しだけ考えた。




それから、まだ掠れた声で言う。




「……おさかな」




月島が瞬きをする。




「おさかな、また食べたい」




その言葉に、月島は一瞬だけ黙った。




そして、ほんの少しだけ表情を緩めた。




こんな場所で。



こんな状況で。



追われている最中で。




それでも、"その子"は魚の話をした。




帰る話をした。


次の食事の話をした。




それが、どうしようもなく生きている証に思えた。




「……ああ」




月島は頷いた。




「帰ったら、たらふく食べような」




"その子"の顔が、少しだけ明るくなる。



「さーもん?」



「ああ。サーモンも」



「いっぱい?」



「いっぱいだ」



「……ぱぱも、たべる?」



月島は一瞬、言葉に詰まった。




それから、短く答える。




「食べる」



「───!」




"その子"は、嬉しそうに月島の服を握り直した。



月島は"その子"を抱え直す。




白い部屋を見渡す。


水槽。


監視カメラ。



低い棚。


柔らかいマット。


作られた子ども部屋。



ここに置いていくものは何もない。




持っていくものは、腕の中にいる。




月島は扉へ向かった。




「行くぞ」



「……うん」




"その子"は月島の首に腕を回した。




白い格納室の床に、涙の跡だけが残っている。




悲しい涙と。



嬉しい涙が。




───同じ場所に、重なっていた。

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