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Human Rize─人間になれない少女と父親ではない男─  作者: 坂本 リュカ
第一章『まだ名前のない家族』
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第六話『父親ではない男』前編

地下研究施設の一室に、外の時間は届かない。


窓はない。



白い壁。


白い床。


白い天井。



天井に埋め込まれた照明は、朝も夜も関係なく、一定の明るさで室内を照らし続けている。


清潔で、静かで、温度のない部屋。



その中央に、長い机が置かれていた。




机の上には、薄い端末が一台。




数枚の資料。


冷めきった紙コップ。


それから、小さな銀色のケース。




墨橋陽菜は、その前に座っていた。


白衣の袖口から覗く指先で、机をとん、と軽く叩く。




一度。


二度。


三度。



規則的な音が、白い部屋に小さく響く。



やがて、端末が低く鳴った。


画面が立ち上がる。



映ったのは、人の顔ではなかった。



黒く潰された輪郭。


加工された声。


性別も、年齢も、人数も分からない。



ただ、そこにいる。


それだけが分かる。




『報告を始めろ』




低い声が言った。


陽菜は椅子に深く腰かけたまま、片手をひらひらと振る。




「はいはい。朝からせっかちねぇ」



『墨橋』



「分かってるわ」




陽菜は肩を竦めた。


その仕草だけ見れば、いつも通りだった。



軽く、柔らかく、掴みどころがない。



だが、画面の向こうの声は笑わない。




『個体番号二〇六の保護は完了しているな』



「ええ。お姫様は無事に格納済みよ」



『脱走経路は特定したか』



「一応はね」




陽菜は別の資料を引き寄せた。



施設の見取り図。


第二育成区画から旧廃棄区画まで、赤い線が引かれている。



「育成室の排水口から、二〇六の体液反応が出てる。保守路を通って廃棄区画へ移動し、搬出用の段ボールに潜り込んだ。そのまま廃棄資材と一緒に、施設の外へ運ばれたみたい」



『監視記録は』



「その時間だけ、十七分間欠損してる」



画面の向こうから、短い沈黙が返った。



『……原因は』



「設備の接続障害。管理班はそう報告してるわ」



『都合がよすぎる』



「古い設備だもの。壊れることくらいあるでしょう?」



『保守路の隔離扉も、同じ時間に開いている』




陽菜は肩を竦めた。




『内部の人間が関与した可能性は』



「保安部が調べてる。今のところ、怪しい記録はないわ」



『君も調査対象だ』



「あら。光栄ね」



陽菜は楽しそうに笑った。



『再発防止策は』



「保守路へ生体感知器を設置。搬出物は箱一つまで重量と内部を確認する。二〇六の格納区画へ入れる職員も限定するわ」



『同じ事態を二度起こすな』



「分かってるわ」



『次は事故として処理しない。意図的な持ち出しとして捜査する』




陽菜の指先が、資料の上でわずかに止まった。


だが、すぐにいつもの笑みを浮かべる。



「怖いわねぇ」



『心当たりがあるのか』



「まさか」



陽菜は資料を閉じた。


その上へ、新しい一枚を重ねる。



そこには、小さな個体の写真が印刷されていた。



灰白色の肌。


緑色の瞳。


細い手足。



部屋の隅で膝を抱えている姿。

その下には、いくつもの数値と波形が並んでいる。



摂食、なし。


水分摂取、微量。


発声行動、継続。



入室から、四十六時間。




『摂食状況は』



「芳しくないわね」




陽菜は悪びれずに答える。




「固形物は拒否。水分もほとんど摂っていない。発声行動だけは継続中。ずっと隅で鳴いてる」



『原因は』



「環境変化。対象喪失。分離不安。候補はいくつかあるわ」



『対処は可能か』



「時間をかければね」



『時間は無限ではない』



「知ってるわ」




陽菜は資料の端を指で撫でた。



そこには、二〇六の発声を解析した波形が印字されている。



細く、高い音。


歌になりきらない声。


水中で響くような、独特の震え。



感情や意味を奪われたそれは、ただの線として紙の上に並んでいた。




『二〇六計画に支障はないのか』




その言葉で、部屋の空気がわずかに重くなった。




陽菜は薄く笑う。




「今のところは」



『発声特性は』



「想定以上ね。空気中でも水中でも減衰が少ない。通常の聴覚刺激というより、個体の興奮状態に直接干渉している可能性がある」



『格納個体への適用は』



「まずは低危険度の個体から。二〇六の発声で興奮状態が落ちるか。攻撃衝動が鈍るか。外部命令の受容率に変化が出るか。そのあたりを見ることになるわ」



『成功すれば』



「閉じ込めておくだけだった失敗作たちを、もう一度兵器として使える」




陽菜は笑った。



柔らかく。


軽く。



けれど、その言葉の中身だけは冷たい。



「政府としては、夢のある話でしょう?」



『国家防衛上、必要な研究だ』



「言い方って便利ねぇ」



『茶化すな』



「はいはい」




陽菜は白衣の袖を揺らした。




その時、喉の奥が小さく鳴った。




咳。


ほんの一度だけ。



陽菜は口元を手で押さえる。


長くは続かない。



すぐに手を下ろし、何事もなかったように笑みを戻した。



だが、机の下で握られた指先だけが、わずかに震えていた。




『……体調管理は怠るな』




画面の向こうの声が言った。




『君に倒れられると、計画に支障が出る』



「あら、心配してくれるの?」



『管理対象としての話だ』



「でしょうね」



陽菜は小さく笑った。



机の端に置かれた銀色のケースへ、視線が一瞬だけ落ちる。


中には細いアンプルが数本並んでいた。



透明な液体。


赤いラベル。



開封済みのものが一本だけ、横向きに転がっている。




陽菜はそれ以上見なかった。




『目撃者の処理は』




画面の向こうの声が、話題を変えた。



陽菜は椅子に背を預ける。




「斑ちゃんに始末させたわ」




あまりにも軽い声だった。



買い物を頼んだ。


部屋の掃除を済ませた。


その程度の響き。



『数が多い』



「仕方ないでしょう。回収地点が住宅地だったんだから」




陽菜は頬杖をつく。




「爪痕も残してあるし、大型獣の襲撃で通せるわ。警察には“クマ被害”として処理してもらえばいい」



『現場周辺の損壊が不自然だ』



「そのあたりは政府の仕事でしょう?」



陽菜はにこりと笑う。



「この生物兵器アベラントが、政府とヒューマライズの共同開発だなんて知られたら困るもの。国内の信用失墜どころじゃ済まないわ。国外からも、ずいぶん賑やかに責められるでしょうねぇ」



画面の向こうの空気が、わずかに硬くなる。



『発言には気をつけろ』



「この通信、録音されてるの?」



『当然だ』



「あら。じゃあ今のところだけ消しておいて」



『墨橋』



「冗談よ」



陽菜は笑った。


その笑みに、恐れはない。




『政府筋には、すでに処理班を回している。報道管制も段階的に入る。警察への説明は、大型獣被害で統一する』



「優秀ね」



『君たちの後始末だ』



「わたしたちだけの後始末じゃないでしょう?」




沈黙が落ちる。


陽菜はその沈黙を楽しむように、紙コップを持ち上げた。



中身は冷めきっている。



一口だけ飲んで、すぐに顔をしかめた。



「冷たい」



『例の子を拾っていた男はどうした』




その言葉で、陽菜の動きが止まった。




紙コップを持った指。


机に置きかけた手。


薄く笑っていた口元。



すべてが、ほんの一瞬だけ静止する。



本当に、一瞬だけ。




『報告では、個体番号二〇六は一般男性の住居にいた。回収時、その男と交戦した記録がある』




画面の向こうの声は続く。




『だが、記録では現場に遺体がないようだが』



陽菜は黙っていた。


白い照明が、変わらない明るさで彼女を照らしている。



笑みは残っている。


けれど、その目だけが、少しだけ動かなくなっていた。



『説明しろ』



数秒。


陽菜は、紙コップを机に置いた。



ことん、と小さな音が鳴る。




「ああ」




そして、いつもの調子で手を打った。




「それなら、斑ちゃんが食べちゃったわ」



『……また個体〇九六か』



画面の向こうの声が、露骨に低くなる。



『任務中の摂食は何度目だ』



「お腹が空いてたんでしょうねぇ」



『ふざけている場合ではない』



「ふざけてないわよ。斑ちゃん、ほんとに人間嫌いだもの」



『嫌悪と摂食は別問題だ』



「本人の中では繋がってるんじゃない?」



『あれは成功認定個体だが、制御安定性に難がある。任務に赴くたび、不要な損耗と情報攪乱を増やしている』



「でも便利でしょう?」



陽菜はにこりと笑う。



『便利と安全は別だ』



「便利なら十分よ」



『墨橋、君は個体に甘い』



「そう?」



『特定の個体への判断が鈍る傾向がある』



「分析ありがとう。今度、性格診断でもお願いしようかしら」



『個体〇九六については、後日再調整を検討する』



「斑ちゃん、嫌がるでしょうね」



『必要なら廃棄も視野に入れる』




陽菜は、ほんの少しだけ目を細めた。



だが、それもすぐに消える。



「分かったわ。伝えておく」



『伝える必要はない。決定事項になれば、こちらで処理する』



「そう」



声は軽い。


けれど、それ以上は何も言わなかった。



『男の件は、本当に個体〇九六の摂食で間違いないな』




再び、その話題に戻る。



陽菜は画面を見る。




黒く潰された輪郭。


加工された声。



そこにいる誰かは、彼女の表情を見ているのだろう。



嘘を探している。


矛盾を探している。




けれど、陽菜は笑っていた。





いつも通りに。



軽く。



柔らかく。




「ええ」



短い返事だった。




『現場確認はなぜ省略した』



「必要ないと思ったからよ」



陽菜は即答した。



「個体二〇六は確保済み。目撃者は処理済み。男は個体〇九六が摂食。残っているのは血液反応と損壊痕だけ。下手に人を入れると、かえって痕跡が増えるわ」



『現場は封鎖中だな』



「ええ。表向きは害獣被害の調査。警察も大家も近隣住民も入れてない。清掃班を入れるなら、政府側の処理が済んでからにするつもりだったわ」



『個体〇九六の摂食ログに、該当する反応がない』



陽菜の笑みは崩れない。



「機械って案外あてにならないのね」



『現場血液量は、致死量に相当する。だが、遺体の骨片、衣服片、内臓片、いずれも未確認。個体〇九六の摂食として処理するには、証拠が薄い』



「斑ちゃん、食べ方が汚いもの」



『笑い事ではない』



「笑ってないわ」



陽菜は笑っていた。



『現場確認班を向かわせる』



その言葉に、陽菜の指がわずかに止まった。



ほんの小さな停止。


一拍にも満たない。



だが、その一瞬だけ、白い部屋から音が消えたように見えた。



「……好きにすれば?」



すぐに、いつもの声へ戻る。



『政府側から一名。ヒューマライズ回収班から一名。現場血液、損壊痕、残留物を再確認する』



「二日も経った現場で?」



『封鎖しているのなら、状態は大きく変わっていないはずだ』



「まあ、そうね」



『男が生存している可能性は低い。だが、個体番号二〇六と接触していた一般人だ。情報漏洩リスクは排除する必要がある』



「真面目ねぇ」



『君が曖昧な報告をしたからだ』



「斑ちゃんが食べた。十分明確じゃない」



『墨橋』



「はいはい」



陽菜は軽く手を上げた。



「確認班を入れるなら、第三処理ルートから戻してちょうだい。第一区画の搬入口は使わせないで。今は格納個体の移送準備で混んでるから」



『旧医療棟側の第三区搬入口を使わせる』



「助かるわ」



『なぜ笑う』



「笑ってた?」



『ああ』



陽菜は口元に指を当てた。



「癖よ」



『計画を優先しろ。個体番号二〇六は最重要管理対象だ。万一にも失うな』



「もちろん」



『現場確認班から不審点が上がれば、君にも再聴取を行う』



「怖いわねぇ」



『墨橋』




通信が切れる直前、声が低くなる。




『余計な感情は挟むな』




陽菜は一拍置いてから、微笑んだ。




「それ、わたしに言う?」




通信が切れた。



画面が黒く落ちる。


白い部屋に、静けさが戻った。



端末の暗い画面には、陽菜の顔だけが映っている。



白衣。


薄い笑み。


整えられた表情。



けれど、しばらくすると、その笑みが消えた。



すっと。


初めからなかったみたいに。


部屋の温度が、少し下がったように見えた。



陽菜は黒い画面を見つめたまま、口を開く。




「……食べられるわけ、ないでしょう」




声は低かった。



いつもの軽さは、どこにもない。


誰に聞かせるための声でもなかった。



ただ、胸の奥に沈んだものが、わずかに漏れただけ。




その直後、陽菜は小さく咳き込んだ。



一度。


二度。



今度は、すぐには止まらなかった。



白衣の袖で口元を押さえる。



肩がわずかに震える。


数秒後、ようやく呼吸が戻った。



陽菜は袖口を見た。



白い布の端に、ほんの小さな赤が滲んでいる。


彼女はそれを、しばらく見つめていた。



それから、何事もなかったように袖を折り返す。



赤い染みは、内側へ隠れた。


机の端に、小さな写真立てが置かれていた。



ただし、表は伏せられている。


中に何が写っているのかは見えない。



陽菜は指先を伸ばしかける。


古い写真立ての縁に、爪が触れる寸前で止まった。



そのまま、数秒。



動かない。


やがて、指を引く。




「本当に、しぶとい子」




小さく呟いた。


呆れているようにも聞こえた。



怒っているようにも。


どこか、懐かしんでいるようにも。



陽菜自身にも、それが何なのか分からないようだった。



白い部屋の中で、彼女はしばらく黙っていた。



軽口もない。


笑いもない。



白衣の女研究員ではなく、ただ冷たい目をした一人の女が、そこに座っているだけだった。



やがて、端末に別の通知が入る。



個体番号二〇六。



発声行動、継続。


摂食、なし。


水分摂取、微量。



陽菜はその表示を見る。




「……っ、」




数秒後、口元に笑みが戻った。



いつものように。


軽く。


柔らかく。



何もなかったみたいに。




「さて」




陽菜は椅子から立ち上がる。



机の上の銀色のケースを開け、アンプルを一本だけ取り出した。


眺める。



それから、使わずに戻した。



蓋を閉める。



「お姫様の様子でも見に行きましょうか」



部屋を出る直前、彼女は一度だけ写真立ての方を見た。


だが、手には取らない。



裏返った写真は、最後までこちらを向かなかった。



扉が開く。



白い通路の光が、部屋の中へ流れ込む。



陽菜は、またいつもの足取りで歩き出した。









月島は、壊れた玄関の前で足を止めていた。


血に汚れた指は、まだ拳を作っている。



部屋の中には、乾いた鉄の匂いが満ちていた。



床に広がる黒い血。


抉れた壁。


倒れた家具。


割れた食器。



玄関の方へ伸びる、小さな足跡と、引きずられたような跡。



そのひとつひとつが、月島の頭の中で形を持っていく。



緇が踏み込んだ位置。


斬撃の軌道。


自分が倒れた場所。



"あの子"が手を伸ばした位置。



抱えられたのか。


引きずられたのか。


どのタイミングで抵抗が消えたのか。



床に残ったわずかな擦過痕だけで、それが分かる。



いや。


分かってしまう。



月島は、ゆっくりと部屋の中央へ戻った。



足元の血は乾ききっている。


歩くたびに、薄く割れた血の膜がぱり、と鳴った。



その音すら、妙に大きく聞こえる。



テレビはついたままだった。



画面の中では、ニュースキャスターが淡々と原稿を読んでいる。



『一昨日未明から本日にかけて、県内各地で大型獣によるものとみられる襲撃事件が相次いでいます』




一昨日。



月島は、その言葉を拾った。



一昨日未明。



自分が倒れた夜。


つまり、あれから二日近く経っている。



『被害者の身体には、鋭い爪のようなもので切り裂かれた痕があり───』



映像が切り替わる。



規制線。


赤色灯。


壊れた車。



血の跡を洗い流す作業員。



『警察はクマによる被害の可能性もあるとして、周辺住民に注意を呼びかけています』



クマ。


違う。



月島はもう一度、そう思った。



あれは獣じゃない。



少なくとも、ニュースの中で語られているような生き物ではない。



黒い女。


白衣の女。



あの女たちと同じ場所から来たもの。



あるいは、あの女たち自身。



「アイツら、なにが目的なんだ」



月島はテレビの画面を見つめた。



映像の隅に映る道路標識。


一瞬だけ映った山の稜線。


規制線の奥に見える古い看板。



ニュースキャスターの言葉より、そちらの方が重要だった。



県内各地。


けれど、完全な無秩序ではない。



映像に出た地点は、ばらばらに見えて、ひとつの方向へ伸びている。


自分のアパートから、山側へ。



誰かが移動した道。


何かを運んだ道。



月島の中で、地図が組み上がっていく。



通勤で通った道。


昼に見た交差点。


バス停の名前。



閉鎖された施設の噂。


山道。


使われなくなった医療棟。



まだ確定ではない。


だが、輪郭は見え始めていた。




────その時だった。




月島は、ふと顔を上げた。




「だれか、来てる」




廊下の向こう。


まだ遠い。



だが、足音が聞こえた。




二人。




一人は革靴。


もう一人は、硬い作業靴。



歩幅が違う。



革靴の方は軽いが、迷いがない。


作業靴の方は少し重い。



荷物を持っている。



足音の間隔。


階段を上がる速度。


会話のない沈黙。



この部屋へ向かっている。




月島の思考が、冷たく切り替わった。



警察ではない。


警察なら、もっと人数がいる。



無線の音。


近隣への声かけ。


足音の散り方。



それらがない。



大家でもない。


この時間に、鍵も持たず、二人で来る理由がない。



来るのは、後始末をする側。


あるいは、確認に来た側。



月島は息を止めた。



止めようとしたのではない。


自然に、止まっていた。



心音すら、遠くなる。




部屋を見回す。



隠れる場所。


押し入れは、倒れた棚で半分塞がっている。



ベランダは外から見られる。


キッチン下は狭すぎる。



浴室。


天井の点検口。


そこまで考えるのに、一秒もかからなかった。



月島は、血の乾いた床を踏まないように歩いた。



足跡を残さない。


破片を蹴らない。


呼吸を乱さない。



浴室へ入る。



天井の点検口に手を伸ばす。


普通なら届きづらい高さ。



だが、今の身体は動いた。



「……ぐっ」



胸の傷跡が引きつる。


脇腹に痛みが走る。



それでも、指は縁を掴んでいた。



月島は身体を引き上げる。



狭い天井裏に、音もなく身を滑り込ませた。


点検口を戻す。



完全には閉めない。


細い隙間だけを残す。



その直後、玄関の外で足音が止まった。




「ここか」




低い声。


革靴の男。



「はい。二〇六回収地点。墨橋主任の報告では、民間人男性一名と交戦。死亡推定。遺体は個体〇九六による摂食処理、となっています」



もう一人の声。


こちらは少し若い。



ヒューマライズ側の人間。


言葉に事務的な硬さがある。



「死亡推定ねぇ」



革靴の男が、鼻で笑った。



「便利な言葉だ」



電子音が鳴る。


鍵ではない。



外部権限による開錠。



玄関扉が開いた。



空気が動く。


乾いた血の匂いが、廊下へ流れた。



「うわ」



最初に入ってきた男が、短く声を漏らす。



「二日経ってこれかよ。よくこの状態で封鎖だけにしてたな」



「墨橋主任の判断です。下手に人を入れると痕跡が増える、と」



「政府と上層部が確認して来いって言うから来たけどさ」



革靴の男は、床の血だまりを避けながら中へ入る。



「マジでなんでこんなことしなくちゃいけねえんだ。そもそも信用ないなら、あの女に主任なんか任せんなよな」



ヒューマライズの男が、少し困ったように笑う。



「あの方は実績がありますから」



「実績ねぇ」



革靴の男は、壊れたテーブルを足先で軽く押した。


乾いた血の破片が、床で小さく割れる。



「しかも、アイツらの統括官までやってるんだろ? 気が狂ってんだろ。俺は無理だわ。あんなバケモンども」



「統率できる人間が少ないんです」



「そりゃそうだろ。まともな神経してたら、近づきたくもねえよ」



月島は、天井裏で動かなかった。



二人の位置。


声の高さ。


靴音。



衣擦れ。


腰の装備。


通信端末の場所。



すべてを拾う。



革靴の男は政府側。


背広。


左胸に硬いカードケース。



右腰に小型の端末。


武器らしき重さはない。



ヒューマライズの男は回収班。



作業用の黒い服。


袖口に小さなロゴ。


腰に採取用ケース。



左側に細い警棒。


戦闘員ではない。


確認要員。



だが、通信は持っている。




今出るべきではない。


月島は、呼吸を浅くした。




「でも、近い未来、成功個体は生物兵器として外に出すんでしょう?」



ヒューマライズの男が言った。



「売るってことか?」



「正式には、提携国への防衛資産提供です」



「言い方だけ綺麗にしやがって」



革靴の男は笑った。



「で、いくらだよ」



「成功体ってだけで、数億はくだらないそうです」



「マジか」



革靴の男は、血だまりを見下ろしながら吹き出した。



「まあ、あんな非人道的な実験してたんだからな。むしろ安い方か」



「その発言、記録されてたらまずいですよ」



「されてねえだろ。こんな現場確認でいちいち録音してたら、こっちが困る」



「困る発言は控えてください」



「真面目かよ」



二人は、軽く笑った。


その笑い声は、この部屋にはあまりにも不釣り合いだった。



床には血がある。



壁には爪痕がある。



ここで誰かが倒れた。



ここで"あの子"が泣いた。




それでも、二人の声に重さはない。




面倒な現場。


厄介な報告。



ただ、それだけだった。


ヒューマライズの男が、壁の傷をライトで照らす。



「かなり深いですね」



「クマで通せるのか、これ」



「通すしかないでしょう。政府側で報道管制を入れると聞いています」



「俺たちの仕事ばっか増えるな」



「ヒューマライズ側も同じです」



「どうだか」



革靴の男は、部屋の中央でしゃがみ込む。


血だまりを見た。



「ここで交戦したってのは本当らしいな」



「血液量は致死量相当です」



「なら死んでるだろ」



「普通なら」



その一言で、革靴の男が顔を上げる。



「普通なら?」



「……いえ。記録上の話です」



「そういう含みのある言い方やめろよ。気味悪い」



「申し訳ありません」



ヒューマライズの男は、採取容器を取り出した。


血の一部を削り、透明な容器へ入れていく。



その動作は慣れていた。



人の血を扱うことに、ためらいがない。


革靴の男は、玄関の方を見た。



「今回の任務、誰が当たってたんだっけか」



「報告書、ちゃんと読んでないんですか」



「概要だけだよ。個体名までは覚えてねえ」



「特別認定個体が一体。それと、成功認定個体が一体」



「特別認定って、あの黒いやつ?」



「緇です」



「ああ、あいつか。まだ会話が通じる方のバケモンな」



「言い方」



「違うのか?」



ヒューマライズの男は答えなかった。


革靴の男は、そこで思い出したように笑う。



「あと一体は?」



「問題児のやつです」



「あー」



革靴の男が、心底面倒そうに息を吐いた。



「斑か。またあいつか」



「はい。個体番号〇九六。成功認定個体。モデルはラーテルの」



「何度目だよ、ったく」



革靴の男は、倒れた椅子を足でどかした。



「報告する立場になってみろってんだ。任務外摂食、過剰損壊、民間人巻き込み。毎回毎回、あいつの名前が出る」



「本人に言います?」



「言うわけねえだろ。食われるわ」



ヒューマライズの男が笑う。


革靴の男も笑った。



「いや、そもそも反省とか無理か。バケモンだからな」



その言葉で、月島の指がわずかに動いた。


天井裏の暗がりで、埃がひとつ落ちかける。



月島は、すぐに止めた。


怒りはある。



だが、今は出さない。


こいつらを殴るために生き残ったわけじゃない。



"あの子"を取り戻すために、ここにいる。



聞け。


拾え。


辿れ。



ヒューマライズの男が、玄関付近にしゃがみ込む。



「小さい足跡があります」



「二〇六か」



「おそらく。かなり乱れています。抵抗した可能性がありますね」



「そりゃするだろ」



革靴の男は鼻で笑った。



「拾われてたんだろ? 飼い主から引き離された犬猫と同じだ」



月島の喉の奥が、冷たく固まった。



犬猫。


飼い主。



違う。


そう言いかけた声を、飲み込む。



ヒューマライズの男は、淡々と足跡を撮影していた。



「男の遺体については、やはり痕跡が薄いですね」



「斑が食ったんだろ」



「骨片も衣服片も残っていません」



「だから、食ったんだろ」



「摂食ログに該当反応がないと、上層部は言っています」



革靴の男は舌打ちした。



「機械も上も面倒くせえな」



「墨橋主任の報告だけでは不十分という判断です」



「あの女、何考えてるか分かんねえしな」



「そこは否定しません」



「だろ?」



革靴の男は、にやりと笑った。



「いつもへらへらしてるくせに、目だけ笑ってねえんだよ。統括官なんて役職じゃなくて、あっち側に入れとけって話だ」



「それは言いすぎです」



「いいや、言い足りねえよ」



革靴の男は、壁の爪痕にライトを向ける。



「人間の顔して、人間じゃないものを管理して、人間じゃない計画を回してる。まともなわけねえだろ」



ヒューマライズの男は少しだけ黙った。



そして、低く言った。



「……まともな人間は、ここには残りませんよ」



その言葉だけは、冗談ではなかった。



月島は、その声の温度を覚えた。



恐怖。


諦め。


慣れ。



それらが混じっている。


この男も、完全に知らないわけではない。



知ったうえで、残っている。


月島の中で、評価が一段下がった。



革靴の男が、リモコンを拾う。



テレビを消した。


部屋が少し暗くなる。



「現場確認。血液量は致死量相当。遺体なし。骨片なし。衣服片なし。個体〇九六の摂食による処理と仮定。追加清掃班を入れて、クマ被害用に現場調整。こんなところか」



「サンプルは持ち帰ります」



「どこへ」



「旧医療棟側の第三区搬入口へ戻せと指示されています」



その言葉を聞いた瞬間、月島の意識が細く研ぎ澄まされた。



旧医療棟。


第三区搬入口。



政府側の男は、軽く眉をひそめる。



「第三区? なんでわざわざそっちなんだよ」



「二〇六関連の資料が、第三格納棟扱いに移行したそうです」



「また面倒な名前が出たな」



「詳しくは知りません」



「知らなくていいやつか」



「知ると面倒が増えるやつです」



「じゃあ聞かねえ」



革靴の男は立ち上がる。



「車は?」



「裏手です。表通りは近隣の目がありますから」



「近隣って、生き残ってんのか?」



「斑が処理した区域外にはいます」



「処理、ね」



革靴の男は笑った。



「便利な言葉だな。ただの皆殺しだろ」



ヒューマライズの男は返事をしなかった。



月島は、その言葉を頭の中に刻んだ。



旧医療棟。


第三区搬入口。


第三格納棟。



二〇六関連。


裏手の車。


持ち帰るサンプル。



点が、線になる。



まだ場所は確定していない。


だが、追えばいい。



こいつらは戻る。



"あの子"がいる場所へ。



あるいは、その近くへ。



「浴室も見ますか?」



ヒューマライズの男が言った。



月島の身体が、静かに固まる。



革靴の男は、面倒そうに浴室の方を見た。




「血痕が続いてない。必要ない」



「念のため」



「二日経ってんだぞ。死体があれば臭いで分かる。なけりゃ斑が食った。それで終わりだ」



「分かりました」



ヒューマライズの男は、少しだけ浴室の方を見た。



月島は、動かない。



呼吸も。


瞬きも。



心音すら、意識の奥へ押し込める。



見上げるな。


気づくな。



そのまま行け。



数秒。



ヒューマライズの男は視線を外した。



「撤収します」



「さっさと帰ろうぜ。こんな血臭い部屋、長居する場所じゃねえ」




二人が玄関へ向かう。



革靴。


作業靴。



足音が離れていく。


玄関扉が開く。



外の廊下の空気が流れ込む。


「しかし、個体二〇六も厄介ですね」



ヒューマライズの男が言った。



「たかが一個体のために、政府と上層部がここまで動くなんて」



「たかが、じゃないんだろ」



革靴の男が答える。



「詳しくは知らねえが、上はあれを鍵だと見てる」



「鍵、ですか」



「閉じ込めてる連中を、もう一度使うための鍵だとさ」



「……なるほど」



「興味持つなよ。知ったら戻れねえぞ」



「もう遅い気もしますけどね」



「違えねぇ」




二人は笑った。


扉が閉まる。



足音が廊下を進んでいく。


階段へ。



一段。


二段。


三段。



月島は、まだ動かなかった。



十秒。


二十秒。


三十秒。



足音が一階へ降りる。


建物の外へ出る。



車の扉が開く音。


金属ケースを積む音。


エンジンがかかる音。



そこで初めて、月島は点検口を押し上げた。



音を立てずに浴室へ降りる。


床に着地した瞬間、胸の傷跡が鋭く痛んだ。



「───っ」



月島は歯を食いしばる。


声は出さない。



部屋へ戻る。



テレビの消えた画面に、自分の姿がぼんやり映っていた。



血で汚れた服。


裂けた胸元。


白く盛り上がった傷跡。



死んでいたはずの身体。



月島は視線を外す。


玄関へ向かいかけて、足が止まった。



床に、小さな足跡が残っている。


"あの子"の足跡。



乱れて、擦れて、途中で途切れている。


月島は、そこに膝をついた。



指先で、乾いた跡に触れる。


もう冷たい。



二日前の痕跡。


それでも、そこに"あの子"がいたことだけは分かる。



「……ぱぱ」



頭の中で、声が蘇る。


今日の朝。



玄関。



背中越しに聞こえた声。


ばいばい、ぱぱ。



それに、自分は何と言った。



「……俺は君のパパじゃない」



違う。


さらに続けた。



「……あの時、放っておけなかっただけだ」



月島の指が、床の上で止まる。


乾いた血が、爪の下に入り込む。



あの言葉を聞いた時の、"あの子"の音。



低く。


小さく。


寂しげな鳴き声。



思い出すだけで、胸の奥が軋んだ。



「……違った」



声が漏れた。


ひどく掠れていた。



「ただ、放っておけなかっただけじゃない」



あの時は、そう言えば線を引けると思った。



関係に名前をつけずに済むと思った。



自分は父親ではない。


家族ではない。



責任を負うような存在ではない。


そうやって、いつものように距離を測った。



適切な言葉を選んだつもりだった。


だが、違った。



あの言葉は、ただ傷つけただけだった。


守れなかった上に。


突き放した。



月島はゆっくりと息を吐く。


指先が、小さな足跡から離れる。




「……ごめん」




誰に聞こえるわけでもない。


届くはずもない。



それでも、言わずにはいられなかった。



月島は立ち上がった。


玄関から廊下を覗く。



誰もいない。



階段の隙間から、外が見えた。


街灯の下に、黒い車が停まっている。



後部扉が閉まり、ヒューマライズの男が助手席へ回る。



革靴の男は後部座席。



運転席には、もう一人いる。




黒い車が動き出した。


アパートの裏手に停められていた車は、ライトを低く落としたまま、住宅街の細い道へ滑り出していく。



月島は、階段の影からそれを見ていた。



黒いワンボックス。



後部ガラスの右下に小さな傷。


左のテールランプに、わずかな曇り。



ナンバー。


車高。


タイヤの幅。


エンジン音の癖。



すべて、頭の中に刻み込む。



一度見れば忘れない。


一度聞けば、失わない。



黒い車が角を曲がる。


赤い光が、建物の陰に消えた。



月島はすぐには動かなかった。



十秒。


二十秒。



足音も、話し声も、戻ってくる気配もない。



確認班は、撤収した。



月島は階段を下りる。



走らない。


走れば音が出る。



血のついた靴底で、余計な痕跡も残る。



必要なのは、追いつくことではない。


見失わないこと。



そして、戻る場所を確保することだった。




アパートの駐車場に、自分の車が停まっている。



二日前と同じ場所。


何も知らない顔で、ただそこにある。



その変わらなさが、かえって奇妙だった。



自分は死にかけた。


部屋は壊された。


"あの子"は連れ去られた。



それでも、車はそこにある。




鍵を開け、運転席に乗り込む。


「……ぅぐ」



身体を沈めた瞬間、胸の傷跡がシートベルトに擦れた。



鋭い痛みが走る。



月島は一瞬だけ息を止めた。


だが、手は止まらない。



エンジンをかける。


ライトはすぐにはつけない。



駐車場の出口から、黒い車が消えた方向を見る。



見えない。


だが、道は残っている。



確認班の会話が、頭の中で再生される。



旧医療棟。


第三区搬入口。


第三格納棟。


二〇六関連。



そして、テレビに映っていたニュース映像。



規制線。


赤色灯。


山の稜線。


古い看板。


県道。


大型獣による被害。



ばらばらに見えた情報が、ひとつの方向へ並んでいく。



山側。



月島は車を出した。



速度は上げない。


確認班の車を直接追えば、気づかれる。



近づきすぎれば、尾行になる。


離れすぎれば、見失う。



だから、追うのではない。



読む。



黒い車が選ぶはずの道を。


人目を避ける道。


住宅地を抜け、県道へ入り、山側へ向かう道。



この時間帯、信号の少ない道。


監視カメラの少ない道。



政府側の人間とヒューマライズの確認班が、現場から旧医療棟へ戻るために選ぶ道。




「…いまから、迎えに行くからな」




月島はハンドルを握る手に力を入れた。



指先に乾いた血が残っている。


少し滑る。



それでも、運転は乱れない。



信号で止まる。


黒い車の姿はない。


焦りはある。



胸の奥で、確かに急かすものがある。



けれど、その焦りに身体を渡さない。


信号が青に変わる。




「───!」




月島はアクセルを踏んだ。



住宅の明かりが少しずつ減っていく。



コンビニの白い光を過ぎる。


古い工場の横を抜ける。



田んぼの間の道へ入る。


道幅が広がり、やがて狭まる。



舗装の色が変わる。


市街地から、山へ向かう道。



しばらく進んだ先で、赤い光が見えた。



遠く。


カーブの向こう。



木々の間に、一瞬だけ黒い車のテールランプが滲んだ。




「見えた……!」




月島は速度を落とした。


見えた。



それで十分だった。



そこから先は、さらに距離を取る。



山道に入る。


街灯の間隔が広くなり、夜の濃度が増していく。



道路の両側に、黒い木々が迫る。


舗装は荒れ、路肩には落ち葉が溜まっていた。



黒い車が通った跡だけ、濡れた葉が潰れている。



タイヤの幅。


ブレーキを踏んだ場所。


カーブで外側へ寄った跡。



月島はそれらを見ながら進む。



確認班の車は、隠す気がない。


ここまで来れば、人目は少ない。



だからこそ、痕跡は残る。



路面に刻まれた薄い線。


落ち葉の乱れ。


土を踏んだタイヤの縁。



それらが、月島には道標に見えた。


やがて、前方の木々の奥に、低い建物の影が見えた。



月島は、そのかなり手前で速度を落とした。



これ以上、車で近づくのは危険だった。



監視カメラ。


巡回。


搬入口の出入り。



どれか一つに引っかかるだけで、逃げ道が潰れる。



月島は道の脇へ車を寄せる。


だが、そこで停めない。



視線を左右へ走らせた。



木々の密度。


路肩の傾斜。


地面の硬さ。



タイヤ痕が残りにくい場所。


車体が道路から見えない位置。


戻る時、すぐに出られる角度。



数秒で候補を絞る。



少し先に、古い作業道の跡があった。


草に覆われ、今はほとんど使われていない。



だが、車一台なら入れる。



「ここか」



月島はライトを消した。



暗闇に目を慣らし、ハンドルを切る。


車体が草を押し分ける。


枝が窓を擦る。



胸の傷跡がシートベルトに引っかかり、鋭く痛む。


それでも操作は乱れない。



ゆっくり。


確実に。


音を立てすぎないように、車を作業道の奥へ入れる。



道路からは見えない。


施設側からも、木々の影に隠れる。



それでいて、向きを変えればすぐに山道へ戻れる。



逃げるには悪くない。


月島はエンジンを切った。



夜の山に、静けさが戻る。



しばらく、運転席で動かなかった。



呼吸。


心音。



胸の痛み。


腕の重さ。


足の震え。



それらをひとつずつ確認する。



それから、助手席へ視線を向けた。


空いている座席。



そこに、"あの子"の小さな身体を乗せる光景が、一瞬だけ頭に浮かぶ。



濡れたような肌。


震える指。


緑色の瞳。



ぱぱ、と呼んだ声。



月島は目を伏せる。





「……ここまで、戻る。あの子を連れて帰る……絶対に」




誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。



この車は、来るためのものではない。


帰るためのものだ。



ひとりで逃げるためでもない。




"あの子"を連れて、ここまで戻るためのもの。




月島は鍵を抜き、ポケットへ入れた。



扉を開ける。


金属音が鳴る直前で止め、手で押さえて静かに閉じる。



最後にもう一度、車の位置を確認した。



木の影。


作業道の角度。


山道までの距離。



戻る時に迷わないよう、すべてを頭に刻む。



「…いこう」




それから、月島は歩き出した。



ここからは徒歩でいい。


車で近づきすぎれば、音も光も残る。



カメラに映る可能性もある。


だが、足なら木々に紛れられる。



影を使える。


風の音に、衣擦れを溶かせる。



月島は山道から外れ、斜面の木々の間へ入った。



土は湿っている。


落ち葉の下に、小さな枝が隠れていた。



普通に歩けば折れる。


音が出る。



月島は足を置く場所を選んだ。



落ち葉の厚さ。


土の沈み方。


枝の位置。


斜面の傾き。



それらを見て、一歩ずつ進む。



身体は重い。


傷跡は痛む。



だが、痛みはもう止まる理由にはならなかった。



しばらく進むと、森の向こうに建物が見えた。



山の中腹。


黒い木々に囲まれるように、古い施設が立っている。


外壁は灰色にくすみ、ところどころ塗装が剥がれていた。



窓のいくつかは板で塞がれている。


錆びたフェンスには、立入禁止の札。


看板の文字は、半分以上読めない。



それでも、残った文字だけで十分だった。



医療。


療養。


閉鎖。


廃医療施設。



表向きは、何年も前に使われなくなった場所。



だが、月島には分かった。



ここは死んでいない。


建物の周囲の雑草は自然に伸びたように見えて、一定の幅だけ踏み潰されている。



古い駐車場には落ち葉が溜まっているのに、奥へ続く細い道だけは比較的綺麗だった。


照明は消えている。



それなのに、壁際の監視カメラだけが、ほんのわずかに首を動かしている。




「ここが、アイツらの…」




廃墟のふりをしている。



月島はそう判断した。



正面玄関は封鎖されていた。




錆びた鎖。


古い南京錠。


立入禁止の札。



だが、確認班の車が向かったのはそこではない。



裏手。


旧医療棟側の第三区搬入口。


月島は、建物の脇へ回る。



壁は苔に覆われている。


一見すると、ただのコンクリートだった。



だが、ある一部分だけ苔の付き方が浅い。



雨で流された跡ではない。


開閉している面。



その近くの地面には、薄く擦れたタイヤ痕がある。


大型車ではない。



黒いワンボックス程度の幅。



月島は、その壁の前で足を止めた。




取っ手はない。


鍵穴もない。


扉の継ぎ目も、目立たない。



だが、近くの壁に小さな黒いパネルが埋め込まれていた。




「…認証パネルか」




認証装置。


月島はそこへ手を伸ばしかけて、止めた。



認証タグがない。


無理に触れれば、警報が鳴る可能性が高い。



破壊して入ることはできるかもしれない。


だが、その後の経路が分からない状態で警報を鳴らすのは最悪だった。



月島は壁から一歩下がる。




(探せ、どうにか侵入する方法を。観察しろ)




外周を観察する。



扉。


監視カメラ。


地面の痕。



空気の流れ。


建物の構造。


搬入口なら、空気の出入りがある。



地下施設なら、排気口か排水口もあるはずだった。



月島は壁に触れず、視線だけを走らせる。



「…なんだ、これは?」



その時だった。


空気の中に、何かが漂っていることに気づいた。



粉塵。


いや、違う。



白い。


細かい。


ただの土埃ではない。



月明かりを受けて、薄く光っている。


それは壁際に、草の上に、コンクリートの割れ目に、ほとんど見えないほど細かく散っていた。



月島は目を細める。



風は弱い。


山の空気は、ほとんど動いていない。



それなのに、その白い粉だけが、わずかに揺れている。



規則的ではない。


生き物の呼吸のように、微かに震えている。



「これは、まさか鱗粉か……?」



違和感。


それから、嫌な予感。




月島は足を止めた。





次の瞬間。






───背後から、声がした。






「あ、あの……」




「───!」




月島は振り返った。



反射ではない。



反応だった。



膝を沈める。


重心を落とす。



右手は壁に触れられる位置。


左足はすぐに踏み出せる角度。



戦うためではない。


逃げるためでもない。



まず、距離を測るための動き。



そこに、白い少女が立っていた。



白い髪。


白い肌。



患者服。


薄い水色の瞳。



月明かりの中で、その姿は現実感が薄かった。


山の暗がりに立っているはずなのに、周囲の闇に沈まない。



むしろ、闇の方が彼女を避けているように見える。



まさに雪と呼べるような、そんな少女だった。




月島は息を殺した。



音がなかった。


足音も。


衣擦れも。


枝を踏む音も。



気配すらなかった。


なのに、背後にいた。



「……いつから、いた」



声は低くなった。


粉雪は、びくりと肩を震わせる。



「あ、えっと……つい今、降りてきたところです」



「降りた?」



「はい」



粉雪はおずおずと頷いた。



「私の鱗粉が揺れているのを感じたので……誰だろうと思って、飛んできて……あなたの後ろに降り立ったんです」



「飛んで……?」



月島は、粉雪の背中を見た。


翼はない。



少なくとも、今は見えない。




───何を言っている。




そう言いかけて、言葉を飲み込む。



黒い外殻。


背中から伸びた複数の腕。


人間の形をした蜘蛛。



黒い女の姿が、脳裏をよぎる。



ここにいる存在も、同じだ。



人間の姿をしている。


人間の声で喋っている。



だが、人間ではない。



粉雪の首元に、薄い金属製の認証タグが揺れていた。



月島の視線が、そこへ落ちる。



個体番号〇三〇番。



成功認定個体アベラント。


コードネーム、粉雪。



モデル、オオミズアオ。



「……生物兵器」



月島は小さく呟いた。



「アベラント」



粉雪の肩が、また小さく震えた。


けれど、逃げない。



薄い水色の瞳が、不安げに月島を見ている。




「もしかして」




粉雪は、おずおずと口を開いた。




「攫われた子の……お父さん、ですか?」




月島は答えられなかった。


父親。



その言葉だけが、胸の奥に落ちる。



玄関。


背中越しに聞こえた小さな声。



ばいばい、ぱぱ。



その声に、自分は何と返した。



俺は君のパパじゃない。


あの時、放っておけなかっただけだ。



月島の喉が、わずかに動いた。



「……父親じゃない」



いつものように否定しようとして、声が止まった。



違う。


本当に違うのか。



そう言い切れるのか。



二日前なら、迷わず言えた。



今は、言えない。



「……少なくとも、俺はそういったような…」



粉雪は、困ったように眉を下げた。




「あの子は、あなたを呼んでいました」




月島の指が、わずかに動く。




「……え?」


「ずっと、鳴いています」



粉雪の声は小さかった。



「食べ物も、ほとんど口にしないで。部屋の隅で、ずっと……歌みたいな声で」



月島は黙っていた。



粉雪は慌てて首を振る。



「あ、す、すみません……! 私、余計なことを言いましたよね。非戦闘員なのに、こんなふうに……」



「非戦闘員?」



「はい。私は、緇さんや斑ちゃんみたいに戦える個体ではないので……」



粉雪はそう言って、少しだけ自分の袖を握った。



月島は彼女を見る。



細い身体。


不安げな目。


震える声。



その姿だけなら、守られる側に見える。



だが、月島の背後へ音もなく降り立った。



こちらの感知をすり抜けた。


空気中に散った鱗粉で、外周の揺れを把握していた。



弱いわけではない。



種類が違うだけだ。




「……君は」




月島は言った。




「あの黒い女とは、ずいぶん違うんだな」



「黒い女……緇さんのことですか?」



粉雪は少しだけ目を丸くした。



「緇さんも、優しいところはあります。分かりにくいだけで……」



月島は答えなかった。



優しい。


あの黒い蜘蛛が。



"あの子"を抱えて連れ去って行った、あの女が。




月島の沈黙をどう受け取ったのか、粉雪は俯いた。




「すみません。変なことを言いました」




そして、はっとしたように顔を上げる。




「私、侵入者を見つけたら報告するように言われています」



空気が変わった。



月島は、ほんのわずかに重心を下げる。


粉雪はそれに気づいたのか、怯えたように一歩下がった。




「で、でも……」




彼女は通信端末らしきものに手を伸ばしかけた。


指先が震えている。



押せば、警報が鳴る。



人が来る。



緇か、斑か、あるいは別のアベラントが。


粉雪自身も、それを分かっている。



だからこそ、押せない。



月島は動かなかった。


攻撃もしない。


近づきもしない。



ただ、粉雪を見ていた。



数秒。


粉雪の指は、端末の手前で止まったままだった。



やがて、彼女はぎゅっと目を閉じる。




「……私は」




声が震えた。




「私は、誰も見つけていません」




月島は目を細めた。


粉雪は、顔を上げない。



「見つけていません。まだ。だから……」




そこで言葉が途切れる。




それ以上は言えない。



助けるとは言えない。



見逃すとも言えない。



裏切るとも言えない。



粉雪は、ただ後ろへ下がった。




「すみません」




小さく頭を下げる。




「私、戻ります」




月島は言った。




「なぜ、声をかけた?」



粉雪の足が止まる。


白い髪が、夜風に揺れた。




「……あの子を育てた人が、どんな人なのか」




粉雪は、消えそうな声で答えた。




「知りたかったんです」




それだけ言うと、粉雪はふわりと身を軽くした。



足音はない。



背中から、薄い白が広がったように見えた。



羽。



いや、鱗粉の幕。



月明かりを反射したそれは、一瞬だけ大きな蛾の翅のように見えた。



次の瞬間、粉雪の身体はふわりと浮いた。



風が起きる。



白い鱗粉が、夜の空気に散る。


月島が瞬きをする間に、粉雪は木々の影の上へ消えていた。



音は最後までなかった。



ただ、白い粉だけが残る。



細かく。


淡く。



空気中に浮かぶそれが、施設の壁際で揺れていた。



月島は、すぐには動かなかった。



粉雪の去った方向を見る。


そして、足元に漂う白い鱗粉へ視線を落とす。



見つけていません。



彼女はそう言った。



助けたわけではない。


道を教えたわけでもない。



ただ、見つけなかったことにした。




「お礼、言いそびれたな」



月島は、壁へ向き直る。



白い鱗粉が、ゆっくり流れていた。


風ではない。



山の空気は、さっきからほとんど動いていない。


それなのに、鱗粉だけが一定の方向へ引かれている。



壁の右側。


苔むした斜面の下。


地面に近い位置。



空気が、そこへ吸い込まれている。



月島はしゃがみ込んだ。



草を掻き分ける。


古いコンクリートの隙間。


金網で覆われた小さな開口部。


排気口。



いや、逆だ。



内側へ空気を取り込んでいる。



搬入口周辺の気圧調整。


地下へ続く通気経路。



近くに、人が出入りする場所がある。



彼女の鱗粉が幸を成したのか、

月島は鱗粉の流れを追った。



白い粒子は、壁沿いに細く伸びている。


まるで、見えない糸のように。



その先に、地面へ埋め込まれた溝があった。



古い排水溝に見える。


だが、蓋の縁だけが新しい。



錆びたふりをしているが、触れた跡がある。


重いものを何度も動かした跡。



月島は指をかけた。



持ち上げる。


蓋は重い。



傷跡が痛む。


胸が軋む。



それでも、少しずつ動いた。



金属が鳴りそうになる。


月島は力の角度を変えた。



音を殺す。


蓋を横へずらす。



下には、狭い通路があった。


人ひとりが、ぎりぎり通れる幅。



湿った空気。


冷たい金属の匂い。



奥から、微かな機械音がする。



月島は、その暗がりを見下ろした。



正規の入口ではない。


認証もない。


誰かに教えられた道でもない。



だが、繋がっている。



"あの子"のいる場所へ。


少なくとも、この施設の内側へ。



月島はもう一度、粉雪が消えた空を見る。


白い鱗粉は、まだ空気の中に残っていた。



彼女は何もしていない。


ただ、そこに来て、去っただけ。



月島がその流れを読んだ。


それだけだ。



月島は、狭い通路へ身体を滑り込ませた。


金属の縁が裂けた服に引っかかる。



胸の傷跡が痛む。


息が詰まる。



それでも止まらない。



蓋を内側から戻す。


夜の山の光が細くなり、やがて消えた。



暗闇。


湿った空気。


遠くで鳴る機械音。



月島は、前へ進んだ。


手足を使い、狭い通路を這う。



水の匂いが強くなる。


消毒液の匂いも混じる。



施設の内部が近い。



その奥で、かすかに音がした気がした。



高く。


細く。


歌になりきらない声。



月島は、暗闇の中で目を開いた。




「……待ってろ」



声は小さい。


だが、迷いはなかった。



月島は、さらに奥へ進んだ。




金属の壁。


湿った空気。


足元を流れる細い水音。



外から見ればただの排水経路にしか見えない場所だったが、奥へ進むほどに人工物の気配が強くなっていく。



錆の匂い。


消毒液の匂い。


機械油の匂い。



そして、どこか生き物の体温に似た、湿った匂い。



地下へ繋がっている。




「……間違いない」



月島は壁に手をつきながら、身を低くして進む。



胸の傷跡が服に擦れる。


痛みがある。



だが、動きは止まらない。



通路の奥に、かすかな振動があった。



遠い機械音。


水を循環させるポンプの音。


そのさらに奥に、別の音が混じっている。



人の足音ではない。



機械でもない。


低く、規則のない、何かが施設の内側で息をしているような気配。



月島は一度だけ目を閉じた。



音を分ける。



水。


金属。



空調。


電気。


遠くの電子ロック。



どれも拾える。


どれも並べられる。



だが、探している音はそこにはない。



細く、高い声。


歌になりきらない鳴き声。



"あの子"の声。



今は、弱っているのか聞こえない。




月島は目を開ける。




「……あともう少しだ」




小さく呟き、さらに奥へ進んだ。




暗い通路の先で、白い施設の腹の中が、静かに口を開けていた。

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