第五話『檻の中の歌』後編
二度目の夜が来ていた。
地下の研究施設に、外の時間はほとんど届かない。
窓はない。
空も見えない。
雨が降っているのか、晴れているのかも分からない。
ただ、記録だけが時間を示していた。
入室から、四十六時間。
摂食、なし。
水分摂取、微量。
発声行動、継続。
そして、今。
緇は、白い通路を歩いていた。
手には、銀色のトレー。
その上には、小さく切り分けられた魚。
水の入った容器。
栄養補助用の透明なゲル。
柔らかく潰した白身。
前回よりも、種類が増えている。
陽菜の指示だった。
味の好み。
食感。
匂い。
水分量。
拒否の原因がどこにあるのか、確認するためのもの。
食事というより、試験に近い。
緇はトレーを見下ろし、何も言わずに歩き続ける。
白い壁。
白い床。
白い照明。
すべてが清潔で、冷たい。
その奥に、例の部屋があった。
隔壁の前に立つ。
認証。
低い電子音。
ロックが解除され、分厚い扉が横へ滑る。
中は、相変わらず子ども部屋のように整えられていた。
柔らかいマット。
低い棚。
水槽のような設備。
丸みのある机。
淡い色の壁。
だが、そこに生活の匂いはなかった。
何も散らかっていない。
何も動いていない。
誰かが遊んだ跡も、眠った跡も、食べた跡もない。
ただ、部屋の隅だけが少し違っていた。
そこに、"その個体"がいた。
膝を抱えて、座っている。
前と同じ場所。
背中を壁につけ、身体を小さく折りたたむようにして。
緑色の瞳は、床の一点を見つめている。
焦点が合っているのかどうか、分からない。
髪も、肌も、服も、乱れてはいない。
けれど、その姿はひどく消耗して見えた。
何かが削られ続けている。
食べ物ではなく。
温度でもなく。
もっと内側のものが。
「……ぁ……ぅ……」
小さな音が漏れていた。
歌の切れ端。
声になりきらない音。
水たまりで零れていた、あの不器用な歌に似ている。
けれど、今は違う。
音が、どこにも広がらない。
壁に当たり、水槽に当たり、白い部屋の中で弱く折れていくだけだった。
陽菜は、すでに部屋の中にいた。
壁際に立ち、端末を片手に"その個体"を見ている。
白衣の裾が、冷たい空調にわずかに揺れていた。
「遅かったわね」
「指定された時間通りです」
緇は淡々と返し、部屋へ入る。
陽菜は端末から目を離さずに笑った。
「こういう時は、少し早めでもいいのよ?」
「あなたの『少し』は信用できません」
「あら、ひどい」
緇は返事をしなかった。
トレーを、低い机の上へ置く。
金属が触れる、小さな音。
"その個体"は反応しない。
鳴き声だけが、かすかに続いている。
「……ぁ……ぅ……ん……」
緇はその音を聞きながら、魚の皿を手に取った。
部屋の隅へ近づく。
その個体の瞳が、わずかに動いた。
緑色の目が、緇を捉える。
怯え。
警戒。
それから、もっと濃い拒絶。
緇は足を止めなかった。
近づきすぎない距離で、しゃがむ。
「食べなさい」
短い声。
"その個体"は動かない。
膝を抱えたまま、緇を見ている。
「二日近く食べていない。水もほとんど摂っていない」
返事はない。
「死なれると面倒なの」
その言葉にも、"その個体"は反応しなかった。
ただ、喉がかすかに震える。
「……ぁ……」
音が崩れる。
歌にならない。
泣き声にもなりきらない。
緇は、魚の切り身をひとつ摘まんだ。
薄く、小さく、食べやすい大きさにされている。
それを、"その個体"の口元へ近づけた。
優しい動きではない。
だが、乱暴でもない。
口をこじ開けるわけでも、押し込むわけでもない。
ただ、そこに差し出す。
食べるなら、食べればいい。
食べないなら、次の手段を考える。
そんな距離。
"その個体"は、魚を見なかった。
緇だけを見ていた。
瞬きの少ない緑色の瞳が、じっと緇を捉えている。
その視線の奥で、何かが揺れた。
恐怖ではない。
怯えでもない。
もっと小さく、もっと鋭いもの。
次の瞬間。
"その個体"が動いた。
速くはない。
けれど、迷いがなかった。
小さな口が開く。
差し出された魚ではなく、緇の指へ。
かぷ、と。
噛みついた。
「……!」
緇の指先に、細い痛みが走る。
皮膚が破れるほどではない。
だが、歯は確かに立っていた。
"その個体"は、噛んだまま離さない。
小さな顎。
弱い力。
けれど、拒絶だけははっきりしていた。
緇は動かなかった。
痛みに顔を歪めることもない。
払いのけることもしない。
ただ、静かに"その個体"を見下ろす。
数秒。
白い部屋から、音が消えた。
鳴き声も止まっていた。
「……噛んだわね」
緇が言った。
責める声ではなかった。
確認に近い。
"その個体"は、噛んだまま緇を見ている。
緑色の瞳が、わずかに震えていた。
噛んでいる側の方が、怯えているようにも見えた。
陽菜が、くすりと笑った。
「すっかり姫に嫌われてるわね」
緇は、視線だけを陽菜へ向けた。
「あなたがそう仕向けたのでしょう」
「あら。わたしのせい?」
「少なくとも、好かれる要素はないわね」
「緇にもないと思うけど」
「…分かっているわ」
陽菜は、面白そうに目を細めた。
緇は噛まれた指を、無理に引き抜かない。
そのまま、声だけを低くする。
「離しなさい」
"その個体"は離さない。
緇は少しだけ沈黙したあと、空いている手で別の切り身を取った。
ゆっくりと、それを床に置く。
"その個体"の近く。
手を伸ばせば届く場所。
「食べるかどうかは、あなたが決めなさい」
"その個体"の顎が、わずかに緩む。
緇の指が離れる。
小さな歯の跡が、白い指先に残っていた。
血は出ていない。
だが、確かに痕はある。
緇は、その跡を一度だけ見た。
それから、何事もなかったように立ち上がる。
"その個体"は、床に置かれた魚を見ない。
手も伸ばさない。
ただ、膝を抱え直し、また身体を小さくする。
「……ぁ……ぅ……」
鳴き声が戻る。
けれど、さっきよりもかすれていた。
陽菜が端末を操作する。
画面に、記録が追加されていく。
「拒食継続。攻撃反応あり。対象は緇。噛合力は弱いけれど、明確な拒絶行動……と」
「楽しそうね」
「楽しくはないわよ」
陽菜は軽く言う。
「興味深いだけ」
「同じよ」
「違うわ。楽しいと興味深いは別物よ」
「あなたにとっては同じでしょう」
陽菜は答えず、"その個体"を見た。
隅で丸くなった、小さな身体。
食べ物には触れない。
水にも近づかない。
ただ、細い音だけを漏らしている。
「……あんた、二日も食べてないのよ」
陽菜の声は軽い。
叱るでもなく、慰めるでもない。
困ったわね、とでも言うような声。
「どうしたもんかしらねぇ。死なれたら困るし」
その言葉が、"その個体"の命を案じているものなのか。
それとも、管理上の問題を案じているだけなのか。
聞いただけでは分からない。
たぶん、陽菜自身にも分けられていない。
緇は少しだけ目を細めた。
だが、何も言わない。
「強制投与は?」
緇が聞く。
「今はしないわ」
陽菜は即答した。
「反応が濁るもの。それに、下手に刺激すると余計に閉じる」
「では、放置ですか」
「観察よ」
「都合のいい言葉ですね」
「便利な言葉は使う主義なの」
陽菜は端末を閉じた。
「まあいいわ。また明日、立ち会いましょう」
「今日の摂食は」
「無理ね」
陽菜はあっさり言った。
「今日はもう十分、データ取れたし」
緇は、部屋の隅へ視線をやる。
"その個体"は、さらに小さく丸まっていた。
床に置かれた魚には触れない。
水の容器にも、視線すら向けない。
「……ぁ……ん……」
緇は、何かを言いかけた。
だが、言葉にはならなかった。
陽菜が先に歩き出す。
「行きましょう、緇」
「……ええ」
緇はトレーを机に残したまま、部屋の外へ向かう。
"その個体"のそばに置いた魚も、そのままにした。
隔壁の外へ出る。
陽菜が認証を行う。
分厚い扉が、ゆっくりと閉まり始める。
部屋の白が、細くなっていく。
その向こうで、"その個体"は動かない。
膝を抱えたまま。
小さく。
部屋の隅に、置き去りにされたみたいに。
「……ぁ……ぅ……」
最後まで、その音だけが漏れていた。
扉が閉まる。
ロック音。
低い機械音。
白い通路に、静けさが戻る。
陽菜は、端末を白衣のポケットへしまった。
「明日は少し、匂いを強めましょうか。魚の種類も変えてみるわ」
「……ええ」
「緇」
「なによ」
「噛まれたところ、消毒しておきなさい」
緇は、少しだけ間を置いた。
「必要ないわ」
「必要あるわ。感染症よりも、報告漏れの方が面倒なの」
「結局、そちらの心配ね」
「どちらもよ」
陽菜は笑った。
そのまま、軽い足取りで通路を歩いていく。
緇は、一度だけ閉じた扉を見た。
表情は変わらない。
何も言わない。
数秒後、視線を外す。
そして、陽菜の後を追って歩き出した。
部屋の中には、"その個体"だけが残された。
広い。
白い。
静か。
柔らかいマットの上には、手つかずの食事が置かれている。
魚。
水。
透明なゲル。
どれも冷たく、綺麗に並んでいる。
水槽の中では、水面だけがゆっくり揺れていた。
空調の流れか。
それとも、部屋の中に残った小さな声が揺らしているのか。
天井の隅で、監視カメラの赤いランプが点滅している。
規則的に。
淡々と。
"その個体"は、部屋の隅で膝を抱えていた。
額を膝に押しつける。
細い肩が、小さく上下する。
「……ぁ……ぅ……」
歌。
そう呼ぶには、あまりにも弱い。
だが、それは確かに歌の形を探していた。
雨の日の水たまりで、初めて外の音に合わせた時のように。
浴槽の中で、男の呼吸を整えた時のように。
水面へ広がる波紋のような音。
自分を落ち着かせるための、小さな響き。
けれど、今は続かない。
途中で音が折れる。
喉の奥で震え、崩れ、甲高い鳴き声へ変わる。
「……ぁ……っ……ぅ……」
歌ではなくなる。
声でもなくなる。
甲高い鳴き声が、高く細い音だけが、白い部屋に残る。
誰も返事をしない。
テレビの音もない。
食器の音もない。
鍵の回る音もない。
「ただいま」と言う声もない。
"その個体"の指が、膝の上で小さく動いた。
何かを掴もうとする。
もう、そこにない服の裾を。
もう、届かない背中を。
震える唇が、ゆっくり開く。
「……ぱぱ」
音は、ひどく小さかった。
呼びかけというより、こぼれ落ちたものに近かった。
そのあとに続いた鳴き声は、さらに細い。
寂しそうで。
壊れそうで。
白い部屋の中で、すぐに消えてしまいそうだった。
「……ぁ……ぅ……ん……」
その音は、どこにも届かない。
届くはずがない。
それでも、"その個体"は膝を抱えたまま、小さく鳴き続けた。
「……ぁ……ぅ……ん……」
白い部屋に、細い声が揺れる。
水面に落ちた波紋のように。
誰かの呼吸を探すように。
「……ぱぱ」
その声が、暗闇の底へ沈んでいく。
深く。
深く。
まるで、水の中へ落ちていくみたいに。
─────そして
男は、暗闇の中にいた。
冷たい水の底に沈んでいるような感覚。
手足は重い。
息をしているのかも分からない。
光はない。
音もない。
ただ、遠くで何かが震えていた。
高く、細い音。
声というには頼りなく、歌というには壊れすぎている。
それでも、男はその音を知っていた。
雨の日の水たまり。
浴槽の水面。
夜の部屋。
自分の呼吸を、いつの間にか整えていた響き。
「……ぁ……ぅ……」
音が、暗闇の中で揺れる。
沈んでいた意識が、それに引き上げられる。
指先に感覚が戻る。
胸が重い。
喉が乾いている。
まぶたの裏に、薄い光が滲む。
「……ぱぱ」
その瞬間。
男は目を開けた。
「───っ、!」
天井が見えた。
見慣れた白。
自分の部屋の天井だった。
数秒、何も考えられなかった。
「……ここ、は」
掠れた声が、喉の奥から漏れた。
自分の声なのに、どこか遠くから聞こえた。
次に、匂いが来た。
鉄。
乾いた血。
焦げたような埃。
砕けたコンクリートの、粉っぽい匂い。
男は、ゆっくりと身体を起こした。
痛みはある。
胸も。
脇腹も。
背中も。
骨の奥から軋んでいる。
だが、動ける。
それがまず、おかしかった。
胸に手を当てる。
服は裂け、血で固まっていた。
そこは、緇の斬撃が通った場所だった。
血が噴き出し、身体の奥で何かが壊れた場所。
だが、傷口はなかった。
塞がっている。
「……塞がってる、のか」
男は小さく呟いた。
代わりに、胸から脇腹へかけて、白く盛り上がった線が残っていた。
爪痕のように。
刃物の軌跡のように。
新しい傷跡。
なのに、すでに塞がっている。
縫合もない。
包帯もない。
治療された痕跡もない。
ただ、身体だけが勝手に戻っていた。
男は、その傷跡を見下ろす。
理解はできた。
だが、認めるには早すぎた。
だから、名前をつけなかった。
床には、黒く乾いた血が広がっていた。
その量は、どう考えても少なくない。
人間なら、助からない。
少なくとも、こうして目を覚ませる量ではない。
「……死んでた、はずだろ」
声に出した途端、その事実だけがやけに重くなった。
男は床へ手をついた。
乾いた血が、指先にこびりつく。
その赤黒い感触に触れた瞬間、記憶が戻った。
緑色の瞳。
震える指。
背中に隠れた、小さな身体。
『ばいばい……ぱぱ』
拒絶した声。
そのあとに聞こえた、低く寂しげな鳴き声。
白衣の女。
黒い蜘蛛。
紫の残光。
裂ける壁。
引きずられていく、小さな身体。
自分へ伸ばされた手。
『ぱぱぁッ!!!』
叫び声が、頭の中で弾けた。
男の呼吸が乱れる。
胸の奥で、何かが軋んだ。
痛みではない。
傷跡よりも深い場所で、何かが歪む。
「……っ、」
"あの子"の顔を思い浮かんだ瞬間、喉が詰まった。
部屋は壊れていた。
壁は抉れ、家具は倒れ、食器の破片が床に散っている。
玄関の方には、小さな足跡と、引きずられたような跡。
そして、途中で途切れている。
テレビだけが、まだついていた。
画面の中で、ニュースキャスターが淡々と原稿を読んでいる。
『一昨日未明から本日にかけて、県内各地で大型獣によるものとみられる襲撃事件が相次いでいます』
映像が切り替わる。
規制線。
赤色灯。
壊れた車。
血の跡を洗い流す作業員。
『被害者の身体には、鋭い爪のようなもので切り裂かれた痕があり───』
『警察はクマによる被害の可能性もあるとして、周辺住民に注意を呼びかけています』
クマ。
違う。
男は、そう思った。
考えるより早く、否定が出た。
「……違う」
声に出していた。
「あれは、そんなものじゃない」
あれは獣じゃない。
あの女たちだ。
あるいは、あの女たちと同じ場所から来たものだ。
男は立ち上がろうとした。
膝が揺れる。
壁に手をつく。
それでも、倒れない。
視界が、妙に澄んでいた。
血の乾き具合。
壁の損傷。
扉の傷。
空気の流れ。
粉塵の積もり方。
家具の倒れた角度。
"あの子"が引きずられた跡。
すべてが情報として、頭の中に並んでいく。
速い。
今まで、無意識に落としていた速度だった。
人に合わせるために。
普通でいるために。
自分が何かを、考えないために。
男は、本当は分かっていた。
自分の記憶力が、普通ではないこと。
人の動きも。
言葉も。
視線も。
感情の揺れも。
異様なほど読めてしまうこと。
恐怖も、怒りも、悲しみも、一定以上に乱れる前に冷えていくこと。
感情がないわけじゃない。
ある。
確かにある。
ただ、それを壊れるほど表に出したことがなかった。
いつも、どこかで抑えていた。
まるで、そう作られているみたいに。
「……知ってた」
男は小さく吐いた。
「本当は、ずっと」
人間らしく振る舞うことはできた。
言葉も選べた。
表情も作れた。
周囲に合わせることもできた。
だが、それは人間だったからではない。
人間に合わせていただけだ。
正しい返答。
適切な距離。
死んだような目。
人間っぽい顔。
誰にも触れない生活。
誰にも必要とされない生活。
あれを、普通だと思い込んでいた。
そうすれば、自分が何なのか考えなくて済んだから。
けれど、もう戻れない。
戻る気もなかった。
男は顔を上げる。
壊れた部屋に、"あの子"はいない。
テレビの前で歌を真似る、小さな背中も。
玄関で手を振る姿も。
水たまりで不器用に回る足音も。
サーモンを食べて、たどたどしく「おいしい」と言った声も。
もう何もない。
その空白が、胸を抉る。
「……ごめん」
誰に向けた言葉かは、考えるまでもなかった。
恐怖はある。
怒りもある。
罪悪感もある。
自分が拒絶したこと。
守り切れなかったこと。
また、あんな顔をさせたこと。
すべてが胸の奥に残っている。
だが、それらはもう散らばらない。
ひとつの目的へ、収束していく。
取り戻す。
あの子を。
男は、一歩踏み出した。
足元の血が、乾いた音を立てる。
痛みはある。
身体は重い。
それでも、動ける。
今は、それだけで十分だった。
自分が何者なのか。
この身体に、何が起きているのか。
あの女たちは、何を知っているのか。
それらは、あとでいい。
人に合わせるために落としていた速度。
見ないふりをしていた記憶。
感情を乱さないために閉じていた思考。
普通でいるために、無意識にかけていたすべての制限。
その全部を、もう抑える理由がなかった。
男は、壊れた玄関へ向かう。
テレビの音が、背中に流れる。
『───住民の皆様は、不要不急の外出を控え、周辺で異常な物音や不審な影を見かけた場合は──』
もう、耳には入っていなかった。
頭の中には、ただひとつの声だけが残っている。
『……ぱぱ』
呼びかけではなく。
喪失の音。
届くはずのない場所から、確かに届いた音。
男は、扉の前で立ち止まる。
血に汚れた指が、ゆっくりと拳を作る。
もう、人間らしく振る舞う必要はない。
普通の生活に戻る必要もない。
誰かに理解される必要もない。
あの子を取り戻す。
そのためなら。
「……そのためなら、俺は───」
声は掠れていた。
けれど、迷いはなかった。
その日から、男は───いや。
月島 照は。
──────人間をやめた。




