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Human Rize─人間になれない少女と父親ではない男─  作者: 坂本 リュカ
第一章『まだ名前のない家族』
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第五話『檻の中の歌』前編




部屋には、まだ明かりが残っていた。



倒れた家具。


裂けた壁。


床に広がる血。



そのすべてを照らしているのは、つけっぱなしになったテレビの光だけだった。



画面の中では、子ども向け番組の明るい歌が流れている。



手をつなごう。


みんなで笑おう。



そんな無邪気な声が、誰もいなくなった部屋に響いていた。



だが、その歌を聞く者はもういない。



男は血の海の中で動かず。

小さな個体は連れ去られ。


白衣の女たちは、すでにアパートの外へ出ていた。





夜は静かだった。


騒ぎを聞きつける者もいない。




悲鳴の残響も、血の匂いも、薄い扉一枚の向こう側で置き去りにされている。




その静けさを破るように。




夜の路地に、場違いなほど明るい声が響いた。




「はるるんー! ぎぬぎぬ〜!」




アパートの階段を下りたところで、緇は足を止めなかった。



ただ、眉だけがわずかに動く。




「……来たわね、騒音」




その隣で、白衣の女───墨橋(すみばやし) 陽菜(はるな)がくすりと笑った。




「元気でいいじゃない」



「元気と騒音は別物です」



「えー、ひどいッスねぇ。仕事終わりの後輩に向ける第一声じゃないッスよ、それ」



路地の向こうから、

(まだら)が軽い足取りで近づいてくる。



明るい声。


人懐っこい笑顔。


小柄な身体。



低い背丈に、身軽そうな体つき。



黒革のショートパンツに、動きやすそうなノースリーブのタンクトップ。


腹部は無防備に晒されているのに、

その立ち姿に隙はない。



白と黒が混ざった髪は、手入れを放棄したようにぼさぼさのショートカット。


前髪は目元にかかっていて、表情の細部は読み取りづらい。



それでも、口元だけはよく見えた。




にっと笑った唇の端から、鋭い八重歯が覗いている。


耳には小さなピアスがいくつも光っていた。




人間の形をしている。 人間の少女のように笑っている。




だが、その歩き方にはどこか獣じみたものがあった。




「ニシシ…!」




音が軽い。


軽いのに、地面を踏む瞬間だけ、妙な重さがある。



笑っているのに、目の奥にまったく怯えがない。



人間の住む夜道を歩いているというより、獲物のいなくなった巣穴を通り抜けているような気配だった。



斑は両手を頭の後ろで組み、にっと笑う。



「いやー、今日も仕事終わりって感じッスね」




緇は横目だけを向けた。




「どこが?」



「いや、なんか達成感あるじゃないッスか。ひと仕事終えたあとの空気っていうか」



「部屋、血まみれでしたけど」



「そうなんスよねぇ」




斑は困ったように肩をすくめた。



まるで、飲み物をこぼした程度の話でもするように。




「人間ってすぐ壊れるから、片付け面倒ッスよね」



その言葉に、緇の目が少し細くなる。



陽菜は笑ったまま、斑を見る。



「斑ちゃん、そういうこと言うと、わたしたちが悪者みたいじゃない」



「悪者ッスよ」



斑は即答した。



陽菜は心外そうに目を丸くする。



「あら、失礼ね。研究者よ」



「やってることは悪者ッス」



「研究っていうのはね、外から見るとだいたい悪そうに見えるものなの」



「便利な言い訳ッスねぇ」



「便利なものは使う主義なの。それに、これは必要悪よ?」



「本当に悪者の発想ッス」



「…斑」




緇の声が、会話を切った。



低い。



大きな声ではない。



だが、その一言で斑の視線が緇へ戻る。




「なんスか、ぎぬぎぬ先輩」



「その呼び方をやめなさい」



「えー、そこッスか?」



「そこよ」



「じゃあ、くろくろ先輩?」



「切るわよ」



「候補が全部ダメッスね」



「名前で呼べばいいだけでしょう」



「距離感が遠いッス」



「近づけた覚えがないもの」




斑はけらけら笑った。



その笑い声は明るい。



明るすぎる。



だからこそ、夜の路地には少し不自然だった。




その時だった。




緇の腕の中で、小さな身体が震えた。





「……ぁ……ぅ……」




細い音。


泣き声、というには少し違う。


人間の喉から出る嗚咽ではない。



もっと高く、薄く、空気の奥を震わせるような音だった。




水の中で鳴った音が、遅れて空気に染み出してきたような響き。




緇の腕に抱えられている小さな個体は、身を縮めていた。




灰白色の肌。



細い手足。



濡れたような艶を帯びた皮膚。



深く揺れる緑色の瞳。




その目は、今は誰も見ていない。



焦点が合っていないわけではない。




ただ、ここではないどこかを見ている。



あるはずのない場所を。



もう届かない誰かを。




細い指が、何もない空間を掴もうとしていた。




ぎゅ、と閉じる。



開く。



また閉じる。




まるで、さっきまで掴んでいた服の感触を、まだ探しているみたいに。




「……ぁ……ん……ぅ……」




音が揺れる。


歌の切れ端のようだった。



けれど、歌にはなりきらない。


音程は途中で崩れ、震え、甲高い鳴き声へ変わっていく。



雨の日の水たまりで零れていた、あの不完全な歌。


その残骸だけが、喉の奥で壊れているようだった。



斑の笑い声が、そこで止まる。


完全に消えたわけではない。



ただ、少しだけ薄くなった。



「……まだ鳴いてるんスね、その子」



「ええ」




陽菜は"その個体"へ顔を寄せる。



声は軽い。


表情も穏やかだ。




だが、その目だけは違った。




泣いている子どもを見る目ではない。


壊れそうなものを心配する目でもない。


細かな変化を逃さないための目。



喉の震え。


呼吸の乱れ。


瞳孔の揺れ。


指先の動き。



そのすべてを、一つずつ拾っている目だった。




「……へぇ。こんな鳴き方もするのね」




陽菜は小さく言った。




「人間の真似だけじゃなくて、原型の反応も出てる。発声というより、共鳴に近いのかしら」




緇の視線が冷える。



「今、それを分析する?」



「大事なことよ」



「その子は怯えています」



「分かってるわ」




陽菜の返事は早かった。



軽さは残っている。




けれど、その一言だけは、どこか温度が違った。




「分かってるから、見てるの」



緇はそれ以上、何も言わなかった。



斑が陽菜を見て、半笑いで肩をすくめる。




「はるるん、そういうとこ怖いッスよね」



「そう?」



「普通、泣いてる子を見て最初に出てくる感想じゃないッス」



「あら。斑ちゃんに普通を語られる日が来るなんてね」



「ひどいッス。ボクにも普通くらいあるッスよ」



「どこに?」



「このへんッス」



「胸を張らないで。ないものは揺れないわ」



緇が淡々と言う。



斑は一瞬だけ自分の胸元を見下ろし、次にぱっと顔を上げた。




「ぎぬぎぬ先輩、今日もキレキレッスね!」



「褒め言葉として受け取る要素がないわ」



「尊敬してるッス!」



「その尊敬を捨てなさい。拾った人がかわいそうだから」




陽菜はまた笑った。



「ほんと、仲良しねぇ」



「目が腐っていますよ、研究員」



「上司に向かって辛辣ね」



「上司なら、もう少し上司らしくしてください」



「わたし、十分上司らしいと思うけど」



「自覚がないのは重症よ」




陽菜は肩を竦める。


その仕草は大人びている。



だが、その口元にはずっと薄い笑みが残っていた。



楽しんでいる。


緊張も、恐怖も、罪悪感も、どこか遠くへ置いてきたように。



その横で、"その個体"だけが震えていた。




「………」




緇は腕の中の小さな身体を抱え直す。



力は強い。


逃がさないための力。



けれど、骨を軋ませるほどではない。



傷つけるつもりはない。


少なくとも、無駄に痛めつけるつもりはない。



落とさない。


暴れさせない。


壊さない。



必要な分だけ、正確に拘束している。




"その個体"の細い腕が、緇の黒い服を掴みかける。




だが、すぐに離れた。


掴みたい相手が違うのだと、手の動きだけで分かる。




緇はそれを見下ろし、静かに言った。




「……もう戻りませんよ」




"その個体"は答えない。


言葉の意味を理解したのかも分からない。



ただ、その音に反応したように、喉が小さく震えた。



「……ぁ……ぅ……」




陽菜はその様子を見つめていた。



笑っている。



けれど、完全に面白がっているだけではなかった。



距離を置いている。


意図的に。



感情が近づきすぎないように、観察という形に置き換えている。



斑が空気を変えるように、手を叩いた。




「あ、そうだったッス。上から伝言ッス」




緇はため息を吐く。




「最初からそれを言いなさい」



「個体番号二〇六の回収完了。とっとと帰投しろ、だそうッス」



「とっとと?」



「そこはボクの味付けッス」



「でしょうね。上がそんな言い方をしたなら、この組織は今日で終わりよ」




陽菜が苦笑する。




「報告としては?」



「回収対象は確保。一般人の目撃者は処理済み。周辺の人払いも完了。以上ッス」



「人払いという名の皆殺しでしょう」




緇の声が低くなる。



斑は悪びれない。




「いいじゃないッスか。ボク、人間嫌いッスもん」




陽菜が自分を指差した。




「一応、わたし人間よ?」



「はるるんは特別ッス!」



「特別なら殺さないの?」



「殺さないッス!」



「まあ、嬉しい」



「喜ばないでください。基準が低すぎるわ」




緇は冷たく言った。



その時、"その個体"がまた鳴いた。



今度は少しだけ長い。



高く、細く、尾を引く音。




緇の腕の中で、身体をよじる。



逃げようとしているわけではない。



どこかへ行こうとしている。




緇からではなく、この場そのものから離れようとしている。



その行き先がどこなのかは、考えるまでもなかった。




アパート。



血の匂いが残る部屋。



倒れた男。



自分を庇った背中。




"その個体"の指が、また空を掴んだ。




斑はそれをちらりと見て、少しだけ口元を歪める。




「……ぎぬぎぬ先輩」



「何」



「もしかして、あのアパートにいた男のこと、

気にしてるッスか?」





緇の足が止まった。




空気が一段冷える。



陽菜は何も言わない。



ただ、目だけを細めた。



緇は斑を見る。



「斑」



「はいッス」



「今の発言、噛みちぎられる前に取り消しなさい」



「噛みちぎるの、あたしの方ッスけど」



「なら、その前に切るわ」



「こわ〜。やっぱ尊敬するッス」



「尊敬されるたびに品位が落ちるからやめなさい」




斑は笑っている。


だが、緇は笑わない。



腕の中の"その個体"も、笑わない。



陽菜だけが、どちらにも踏み込みすぎない距離で見ていた。




「緇」




陽菜が呼ぶ。



声は柔らかい。




「その話は、研究所に戻ってからにしましょう」




緇は少しだけ沈黙したあと、再び歩き出した。




「話すことなんてないわ」



「そう」




陽菜は薄く笑う。




「なら、そういうことにしておきましょうか」




路地の奥へ向かって、三人は歩き出す。



軽い足音。


硬い足音。



ほとんど音のしない足音。



その中で、"その個体"の鳴き声だけが、いつまでも場違いに細かった。




「……ぁ……ぅ……ん……」




意味にならない音。


届かない歌。



それは夜の空気に溶けて、すぐに消えていく。




それでも、"その個体"は鳴き続けた。




─────まるで、その音がどこかに届くと信じているみたいに。










山の中腹に、その研究棟はあった。



街灯もほとんどない山道を抜けた先。

木々の影に隠れるようにして、古い建物がぽつんと立っている。



外壁は灰色にくすみ、ところどころ塗装が剥がれていた。


割れた窓は板で塞がれ、看板は錆びついて文字の半分が読めない。




表向きは、何年も前に閉鎖された医療施設。




そう見える。




実際、遠目には廃墟にしか見えなかった。




「相変わらず趣味悪いッスね、この基地」




斑が建物を見上げ、口元を歪める。




「外は廃墟、中は病院。人間の悪いとこ詰め合わせじゃないッスか」



「でも便利でしょ?」



陽菜は軽い声で返した。



「便利と気持ち悪いは両立するッス」



「便利なら十分よ」



「そういうとこッスよ、はるるん」




緇は何も言わなかった。



ただ、腕の中の"その個体"を抱え直す。



"その個体"は相変わらず小さく震えていた。



「……ぁ……ぅ……」



細く、高い鳴き声。

山の冷たい空気に混ざって、すぐに消えていく。



建物の正面玄関は封鎖されていた。



錆びた鎖。


古い南京錠。


立入禁止の札。



だが、陽菜はそちらへは向かわない。



建物の脇。

苔むしたコンクリートの壁の前で足を止める。


何もない壁だった。

扉も、取っ手も、鍵穴もない。



陽菜は白衣の袖を少しだけ上げた。



手首には、黒い端末が巻かれている。



腕時計に似ているが、盤面には時刻ではなく、細かな光の線が走っていた。




「ふふ〜ん♪」




陽菜がそれを壁にかざす。




数秒。



低い機械音が、壁の奥から鳴った。




次の瞬間、コンクリートの表面に細い亀裂が走る。



縦に一本。


そこから横へ。


さらに斜めへ。



まるで壁そのものが、眠っていた構造を思い出したかのように、無数の線が浮かび上がっていく。




斑が口笛を吹いた。




「何回見ても悪趣味ッスねぇ」



「ふふ、隠し扉はロマンでしょう?」



「人間のロマン、だいたい気持ち悪いッス」



「斑ちゃんは文句が多いわねぇ」



亀裂が開く。

壁の一部が奥へ沈み、左右へ滑った。



中に現れたのは、白い箱のような空間。




───エレベーターだった。




外観の古びた建物とはあまりにも違う。



内側は白い。


白すぎる。


壁も、床も、天井も、光を反射している。



斑は眉をひそめた。



「うわ、出た。白すぎる空間」



「清潔感があっていいじゃない」



「この白さ、清潔っていうより消毒ッスよ。ここに帰ってくるたび、尻尾の毛が逆立つんスよね」



「…あなた、今は尻尾出てないでしょう」



「気分の問題ッス」



「なら気のせいね」



「気のせいで済ませるの、人間っぽくて嫌いッス」



緇が短く言う。



「乗りなさい。時間の無駄よ。それに今のやり取り、粉雪が聞いたら悲しむわよ」



「ぎぬぎぬ先輩、ゆっきー先輩には甘いッスよね」



「あなたと違って、騒がしくないからよ」



「ひどいッス!」



三人がエレベーターへ乗り込む。



最後に陽菜が端末へ指を滑らせた。

扉が閉まる。


外の山の空気が遮断される。



密閉された白い空間に、"その個体"の小さな鳴き声だけが残った。




「……ぁ……ぅ……」



下降が始まる。


音はほとんどない。



ただ、わずかな重力の変化だけが身体に触れる。



緇の腕の中で、"その個体"が小さく身を竦めた。




陽菜はそれを見ている。




優しく声をかけるわけではない。



だが、目は逸らさない。



「気圧の変化にも反応するのね」



「研究員」




緇の声が低くなる。




「分かってるわ。言わないだけよ」



「言ってます」



「小声だったでしょう?」



「聞こえています」



「緇は耳がいいものね」



「あなたの声が無駄に通るだけです」




斑がにしし、と笑う。




「ほんと仲良しッスねぇ」



「あなたは黙っていなさい」



「はいッス」



「返事もいらないわ」



「了解ッス」



「……」




緇はそれ以上、何も言わなかった。


エレベーターが止まる。




扉が開いた瞬間、空気が変わった。




消毒液の匂い。


冷えた金属の匂い。


微かに混ざる、湿った獣のような匂い。



地下に広がっていたのは、廃墟の外観からは想像もできないほど清潔な施設だった。



白い通路。


規則正しく並ぶ照明。


壁に埋め込まれた監視カメラ。


遠くで鳴る機械音。


一定の間隔で響く、電子ロックの解除音。




その奥から、ときおり何かの鳴き声が聞こえた。




人間ではない。


動物とも違う。



短く潰れたような声。


水の中から響くような声。


金属を擦るような音。



どれも一瞬で消える。


だが、一度耳に入ると、しばらく残る。



斑は顔をしかめた。



「うわぁ。やっぱ無理ッス、この場所」



「毎回言ってるわね」



陽菜は軽い足取りで進む。



「毎回来るたびに嫌いになるッス」



「慣れないの?」



「嫌いなものに慣れたら負けッス」



「誰に?」



「人間にッス」



「広いわねぇ」




通路の先には、警備員が二人立っていた。


どちらも人間だった。



防護服に近い制服。

腰には警棒と、見慣れない形の銃器。


だが、二人ともそれに手を伸ばそうとはしない。




「「……っ!!」」




陽菜たちの姿を見た瞬間、背筋が伸びた。




いや、伸ばされた。



恐怖で。



視線はまず緇へ向かう。



黒い服。


黒い髪。


感情の薄い切れ長の目。



その腕に抱えられたアベラント。




緇の首元には、薄い金属製の認証タグが下がっていた。


施設の白い光を受けて、

そこに刻まれた文字が一瞬だけ見える。




■個体番号〇〇八番。 ■

特別認定個体アベラント。

コードネーム、(くろぎぬ)

■モデル:タイガーワンダリングスパイダー ■




それを見た警備員の喉が、小さく鳴った。




───特別認定。




その文字だけで、反応が変わる。



成功した個体の中でも、さらに一握り。




戦闘記録、任務達成率、制御安定性、すべてを満たした例外。




研究所が管理しているはずの怪物でありながら、同時に、研究所が頼らざるを得ない戦力。



そのひとつが、目の前にいる。




次に、視線は斑へ移った。



目元の隠れた白黒の髪。


にやけた口元から覗く八重歯。


耳元で揺れるピアス。



斑は警備員の視線に気づくと、わざとらしく笑った。

その腰に下げられた認証タグも、軽く揺れる。




■個体番号〇九六番。 ■

成功認定個体アベラント。

コードネーム、(まだら)

■モデル:ラーテル ■




特別認定ではない。



だが、それでも成功体。



人間の管理下に置かれ、任務に投入されるだけの性能と安定性を持った個体。


緇ほどの格ではない。



それでも、警備員たちにとっては十分すぎるほど危険だった。



最後に、陽菜。



白衣。


柔らかい笑顔。


軽い足取り。


その場で最も人間らしく見えるはずの女。



だが、警備員たちの顔色は、

陽菜を見た瞬間にさらに硬くなった。



緇と斑を従えて歩く女。



特別認定個体と成功認定個体を、

まるで部下のように連れている女。



得体の知れないものを、

得体の知れないまま笑って扱う女。



その方が、よほど恐ろしい。




「お疲れさまです……!」




警備員の一人が声を張った。


声の終わりが、わずかに震えている。




陽菜は白衣のポケットから社員証を取り出し、ひらりと見せた。


透明なケースの中に、写真と名前。




墨橋(すみばやし) 陽菜(はるな)




その下に、肩書きが記されている。




───Human Rize 主任研究員/アベラント部隊統括官。




警備員はそれを見るより早く、すでに頭を下げていた。




「確認、完了しました……!」



「ど〜も♪」



陽菜は場違いなほど軽く手を振った。


そのまま、受付を通り過ぎる。



緇は無言で続く。



斑は警備員の横を通る瞬間、にっ、と笑った。




「おつかれッス」



警備員の肩が、びくりと跳ねた。


斑は楽しそうに笑う。




「取って食ったりしないッスよ。…"今日は"」



「…斑」




緇が低く呼ぶ。




「冗談ッスよ」



「冗談に聞こえないのが問題なの」



「本気で言えばよかったッスか?」



「黙りなさい」



「はいッス」



陽菜は前を歩きながら、くすくす笑っていた。



「相変わらず人気者ねぇ、斑ちゃん」



「怖がられてるだけッス」



「似たようなものよ」



「全然違うッス」




通路を進む。




白い壁。


白い床。


白い天井。



あまりにも白すぎて、距離感が狂いそうになる。




そこへ、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。



通路の奥から、人影が走ってくる。



「陽菜さん……!」



細い声。

息が少し上がっている。



現れたのは、白い少女だった。



異常なほどに白い肌。


血の気が薄く、少し触れただけで崩れてしまいそうな、脆い白さ。



眉も、まつ毛も、髪も白い。


白いロングヘアは背中の中ほどまで落ち、

前髪はまっすぐ切り揃えられている。



背は高い。


斑よりもずっと高い。



本来なら、年長者らしい落ち着きや威圧感があってもおかしくない体格だった。


だが、そうは見えなかった。



患者服の袖口から覗く手首は細く、肩は頼りなく落ちている。



足元はスリッパ。


走ってきたというより、転ばないように必死で早歩きしてきたような足取りだった。



薄い水色の瞳が、不安げに揺れている。


高身長なのに、どこか小さく見える。



斑より先輩であるはずなのに、相手をしていると、

か弱い女子供に向き合っているような錯覚に陥る。



だからかもしれない。



陽菜の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


研究対象を見る目ではなく、手のかかる子を可愛がるような目だった。



「陽菜さん、お、おかえりなさい……!」



粉雪はそう言って、少しだけ頭を下げた。


声は小さい。



けれど、陽菜を見る目には明らかな安心があった。



懐いている。


そう表現するのが一番近かった。



陽菜は足を止め、ぱっと笑う。




「ただいま、粉雪ちゃん」



「け、怪我は……ありませんか?」



「わたしは平気よ。緇も斑ちゃんも、いつも通り」



「それはよかったです……」



陽菜と粉雪との会話が終えた瞬間、ずっと俯いてウズウズしていた斑がぱっと顔を上げた。



「ゆっきー先輩!」



次の瞬間、斑はほとんど跳ねるように前へ出た。


床を蹴る音は軽い。



だが、距離の詰め方だけは獣じみて速い。



「わ、わ……っ」



粉雪が反応する前に、斑はその細い身体へ抱きついていた。



「白は白でも、ゆっきー先輩の白は好きッス〜!」



斑は粉雪の腰あたりに腕を回し、頬をすり寄せるようにして笑う。


粉雪は困ったように両手を浮かせた。



拒むわけでもない。 受け止め方が分からない、という顔だった。



「え、えぇと……なんのことだかさっぱりだけど、ありがとう……?」



薄い水色の瞳が、不安げに瞬く。


高身長のはずなのに、斑に抱きつかれておろおろしている姿は、どこか頼りない。



緇はそれを見て、静かに眉を寄せた。




「粉雪、そいつの相手をしなくていいわよ」



「え、でも……斑ちゃん、嬉しそうなので……」



「そうやって甘やかすから調子に乗るの」



「乗るッス! ゆっきー先輩は優しいッスから!」



「自覚があるなら離れなさい」



「あと三秒だけッス」



「今すぐ」



「はいッス!」



斑は素直に離れた。




だが、その顔は満足げだった。




「……?」




粉雪の視線が、緇の腕の中へ移った。


アベラント。



震えている小さな個体。



緑色の瞳。


細い鳴き声。



粉雪の顔が、少しだけ強張る。



「その子が……保護対象の子、ですか……?」



陽菜は頷いた。



「そうよ。囚われの姫」



斑が横から、にししと笑う。



「どちらかというと、こっちが攫ってる側ッスけどね!」



緇が淡々と返す。



「何を言ってるの。元々うちの子よ」



「言い方が完全に悪者ッスよ、ぎぬぎぬ先輩」



「あなたに言われたくないわ」



粉雪は困ったように視線を泳がせる。



"その個体"の鳴き声が、また細く漏れた。



「……ぁ……ぅ……」



粉雪の肩が、わずかに震える。



「泣いて…るんですか……?」



「鳴いてるのよ」



陽菜は言った。


優しいようで、どこか線を引いた言い方だった。



「まだ言葉にするには足りないみたい」



粉雪は"その個体"を見つめた。



薄い水色の瞳が、不安げに揺れる。


何か言いたそうに口を開きかける。



けれど、言葉は出なかった。



緇はそれを横目で見て、静かに言う。



「道を空けて。格納するわ」



「あ……はい……」



粉雪は慌てて脇へ下がる。


けれど視線は、"その個体"から離れない。



"その個体"もまた、一瞬だけ粉雪を見た。



緑色と、薄い水色。

どちらもひどく淡く、頼りない色だった。



だが、次の瞬間、"その個体"はまた緇の腕の中で身を縮める。


細い指が、何もない空間を掴む。



「……ぁ……ぅ……ん……」



陽菜は歩き出す。



「さ、姫をお部屋に戻しましょう」



「戻す、って言い方もなかなかッスね」



斑が笑う。



「攫って、戻して、閉じ込める。悪者のフルコースッス」



「斑ちゃん」



陽菜は振り返らずに言う。



「研究者よ」



「はいはい、研究者ッスね」



「返事が軽いわねぇ」



「はるるんほどじゃないッス」



緇は小さく息を吐く。



「……騒がしい」



その声にかき消されるように。



"その個体"の小さな鳴き声だけが、白い通路に細く響いている。



「…着いたわ」



通路の先に、ひとつの部屋があった。




扉は分厚い。


病室の扉にも、施設の管理室にも見える。



だが、近づけば分かる。




これは扉ではない。



隔壁だ。




緇が足を止めると、

壁に埋め込まれたセンサーが低く鳴った。



電子音。


認証。


ロック解除。



白い壁の一部が、横へ滑るように開いていく。




中にあったのは、奇妙な部屋だった。



柔らかい色のマット。


角の丸い小さな机。


低い棚。


子どもが座れるほどのクッション。




壁には、淡い色の模様まで描かれている。



見た目だけなら、子ども部屋に近い。





けれど、そこには決定的に足りないものがあった。




温度。


誰かの手で整えられた気配。


生活の跡。



それらが、何ひとつなかった。




柔らかいマットは、転倒時の怪我を防ぐためのもの。


低い棚は、行動範囲を測るための配置。


壁の模様は、警戒心を下げるための処理。



部屋の奥には、水槽のような透明な設備が埋め込まれている。





強化ガラスの向こうで、水が静かに揺れていた。





天井の四隅には監視カメラ。


床の端には排水溝。


壁には、小さなスピーカー。




どれも目立たないように設置されている。


だが、隠されてはいない。





ここは守るための部屋ではない。


観察するための部屋だった。





緇は無言で中へ入った。



腕の中の"その個体"が、小さく身を縮める。




「……ぁ……ぅ……」




細く、高い鳴き声。


白い部屋の中では、その音が余計に頼りなく聞こえた。



緇は部屋の中央で足を止める。




そして、"その個体"を床へ下ろした。





乱暴ではない。



だが、優しくもない。





必要な動作を、必要な分だけ行った。





"その個体"の足が、マットに触れる。




一瞬、膝が揺れた。



それでも倒れない。




小さな身体は、ゆっくりと周囲を見回した。




白い壁。


水槽。


カメラ。


排水溝。


スピーカー。




そのすべてを、怯えたように拾っていく。




緑色の瞳が、何度も揺れる。




逃げ道を探しているようにも見えた。


あるいは、帰る場所を探しているようにも。




だが、ここには何もない。




段ボールも。


布の匂いも。


テレビの音も。


焼けたサーモンの匂いも。


男の足音も。



何もない。



"その個体"は、一歩だけ後ろへ下がった。




また一歩。


壁際へ。


部屋の隅へ。



そこで、ぺたりと座り込む。



膝を抱える。


小さく丸まる。




三角に折りたたまれた身体は、部屋の広さに対してあまりにも小さかった。


緇は、その様子を見下ろしていた。



数秒。



何も言わない。




陽菜は入り口の外から、部屋の中を覗いている。


斑は退屈そうに壁へ寄りかかっていたが、その視線は"その個体"から離れていなかった。




「随分、警戒されてるッスね」



「当然でしょう」




緇は短く返す。




「さっきまでいた場所とは違うもの」



「それ、言い方によってはちょっと優しく聞こえるッスよ?」



「気のせいよ」



陽菜が、くすりと笑った。



「この部屋、けっこう頑張って整えたのよ。マットも柔らかいし、水槽もあるし。姫様用の特別室」



「檻にしては、ですね」




緇が言った。


陽菜は否定しなかった。




「安全な檻よ」




「言い方を変えても檻ッスねぇ」




斑が、にししと笑う。



"その個体"は部屋の隅で、さらに膝を抱えた。



「……ぁ……ぅ……ん……」




歌の切れ端。


泣き声の残骸。



音は小さい。


けれど、途切れない。



緇は扉の方へ戻りかけて、一度だけ振り返った。




「数時間後、また来るわ」



"その個体"は顔を上げない。



反応もしない。


ただ、膝に額を寄せたまま、小さく鳴いている。




「……ぁ……」




緇はそれ以上、何も言わなかった。



部屋の外へ出る。


陽菜も、斑も続く。



隔壁が動き出した。




分厚い扉が、音もなく横へ滑る。


部屋の中の白が、少しずつ細くなる。




その向こうで、その個体は隅に縮こまっていた。




小さく。


静かに。



それでも、鳴き続けていた。




「……ぁ……ぅ……ん……」





最後に、その音だけが漏れる。





そして、扉が閉まった。





ロック音。


低い電子音。


白い通路に、静けさが戻る。




斑が扉を見たまま、ぽつりと言った。




「あの子、大丈夫ッスかねー」



緇は答えなかった。


腕を下ろしたまま、閉じた扉を見ている。



陽菜は軽く息を吐いた。



「時折、様子は見るわ。数時間後、姫様のお食事としましょう」



「食べるッスかね」



「食べてもらわないと困るのよ」




陽菜はそう言って、いつもの調子で歩き出した。



「じゃ、いったん解散。緇は後で記録確認。斑ちゃんは余計なところを壊さないこと」



「はーいッス」



「返事が軽いわねぇ」




「中身も軽いッスから!」



「自覚があるなら改善して」



「無理ッス!」




陽菜と斑の足音が遠ざかる。



緇は、少しだけ遅れて歩き出した。




数歩。



足が止まる。



緇は振り返った。




閉じた隔壁を見る。


白い扉。



その向こうにいる、小さな個体。




数秒。


何も言わない。



それから緇は視線を外し、無言でその場を離れた。










数時間後。


緇は、白い通路を一人で歩いていた。




手には、銀色のトレー。



その上には、小さく切り分けられた魚と、水の入った容器。


それから、栄養補助用の透明なゲルがいくつか並んでいる。



陽菜から言われた通りの内容だった。




姫様のお食事。


そう呼ぶには、あまりにも無機質なもの。




けれど、栄養と消化効率だけを考えれば、悪くない組み合わせだった。


緇はそれを見下ろしながら、足を止めない。




白い壁。


白い床。


白い天井。



この施設の白は、何度見ても好きになれない。




清潔。


安全。


管理。



そういう言葉で塗り固められた白。


けれど、その下にあるものまで綺麗なわけではない。




むしろ、この白さは隠すためのものだ。



血の色も。


膿の色も。


失敗したものの色も。



すべてを、最初から存在しなかったことにするための白。




「………っ」



緇は、トレーを持つ手に力を入れ直した。



角を曲がる。




その先に、よく知った白い人影があった。





白。





だが、粉雪ではない。





粉雪の白は、触れれば崩れそうな白だった。


薄く、脆く、どこか光を透かすような白。





だが、そこにいる白は違った。





濁っている。


湿っている。



壁に張りついた繭の内側のように、冷たく、息苦しい白だった。




少女が、白い壁を背に座っていた。


膝を抱えるでもなく、崩れるように腰を落としている。



顔は壁の方を向いていた。


切れ長の赤い瞳が、白い壁をじっと見つめている。



焦点は合っていない。



何かを見ているようで、何も見ていない。



あるいは、壁の向こうにあるはずのものを、ずっと見ているようでもあった。




長い白髪は、無造作に伸びていた。



手入れされていない。


粉雪の髪のような、静かに整えられた白ではない。


絡まり、垂れ、ところどころ束になっている。



まるで、ほどけかけた繭をそのまま頭に被せたような髪だった。




着ているのは患者服。


だが、それは原形を保っているとは言い難い。




袖は裂け、裾は切り刻まれ、布の端が不自然に垂れている。




何度も替えられる機会はあったはずだった。


この施設なら、患者服の一枚や二枚、いくらでも用意できる。



だがその白い少女は、それを替えようとしなかった。




誰に言われても。


どれだけ破れても。



その古い患者服だけを、ずっと着ている。



誰かに破られたのか。


自分で破ったのか。



判断しづらい。




中背の少女。



腕と脚は、異様なほど細い。


折れそう、というより、最初から骨など入っていないような細さ。



それなのに、そこにあるだけで目が離せない。


弱々しいのではない。



危うい。




緇は足を止めた。



「……任務から帰還していたのね」




少女は動かない。



白い壁を見たまま、瞬きもしない。





緇は、その名を呼んだ。





「───白繭(しろまゆ)





その瞬間。



少女の首が、ゆっくりと動いた。





ぎこちない。


人間の関節で動いているというより、見えない糸に吊られ、外側から角度を変えられたような動き。



首。


肩。


肘。


膝。



順番に、少しずつ持ち上がる。




白繭と呼ばれた少女は、壁にもたれていた身体を起こした。


立ち上がる。



だが、その動作はあまりに不自然だった。




床を踏んでいるはずなのに、重心がない。


筋肉で立っているはずなのに、力の流れが見えない。



まるで糸操り人形が、操り手の気まぐれで立たされたように。




ゆらり、と。




白繭は立った。



けれど、背筋は伸びない。


肩は前に落ち、首はわずかに沈み、猫背のまま身体だけが持ち上がっている。




中背の少女であるはずなのに、その姿勢のせいで、ひどく不安定に見えた。


弱々しいわけではない。



ただ、どこか壊れた角度で立っている。



白繭はその猫背のまま、緇を見上げた。



上目遣い。


甘えるようにも、窺うようにも見える。




だが、その赤い瞳には、普通の子どもが持つ遠慮や期待がない。


焦点の合わない目が、緇の顔の少し手前を見ている。




見ているのに、噛み合っていない。


目が合っているはずなのに、言葉が届く気がしない。




白繭は緇の方を向いた。


鮮血のような赤い瞳。




その口元には、笑みが張りついていた。




笑っている。




だが、表情が動いているわけではない。


最初からその形で固定されているみたいな笑み。




唇の端は、八重歯のように鋭く持ち上がっている。


その線は口元だけで終わらず、頬を伝い、耳たぶのあたりまで薄く続いていた。




裂けているのか。


模様なのか。


皮膚の継ぎ目なのか。




分からない。



けれど、それは人間の笑顔ではなかった。




「お姉ちゃん」




白繭は言った。



声は細い。


乾いているのに、どこか粘つく。




「帰ってきたって、聞いて」




緇の表情は変わらない。




「お姉ちゃんと呼ばないで、と言ったでしょう」




「どうして?」




白繭は首を傾げる。



角度が深すぎる。



人間なら不自然に見えるほど、首が傾く。




「成功体で、モデルが蜘蛛なの、あたしたち二人だけ」




白繭は指を一本立てた。


細い指だった。



白く、長く、骨の存在が薄い。




「だから、蜘蛛姉妹」




もう一本、指が立つ。




「先に産まれたの、緇」




そして、その指が緇を指した。




「だから、お姉ちゃん」




白繭はそう言って、猫背のまま緇を見上げていた。



上目遣いの赤い瞳。



そこには、甘えの形だけがある。




けれど、中身がない。


言葉の意味よりも、「お姉ちゃん」と呼ぶこと自体に執着しているような目だった。



緇は冷たく見返した。




「分類上の近さと、関係性を混同しないで」



「でも、蜘蛛」



「それだけよ」



「でも、同じ成功体」



「それだけ」



「でも、緇は特別」




白繭の笑みが、ほんのわずかに深くなる。




「特別な、お姉ちゃん」




空気が、少しだけ冷えた。



緇の目が細くなる。



「わたしに妹は……たったひとりしかいないわ」




白繭は瞬きをしなかった。



赤い瞳が、緇を捉えたまま動かない。




「それ、誰?」




緇は答えない。


答える必要がない。




白繭は、一歩だけ近づいた。



足音がしない。


スリッパでも、裸足でもない。


それなのに、床を踏む音がほとんどない。




患者服の裂けた裾が、ゆっくり揺れる。




「教えて。お姉ちゃん」



「お話にならないわね」




緇はそう言って、白繭の横を通り過ぎようとした。




その瞬間。




白繭の首だけが動く。


身体は正面を向いたまま。



首だけが、緇を追う。




「どこ行くの?」



「あなたに関係ないわ」



「新しい子?」




白繭の声は、少しだけ明るくなった。




「小さい子?」




緇の足が止まる。



ほんの一瞬だけ。




「……」




白繭の笑みが、張りついたまま広がったように見えた。




「やっぱり」




「近づかないことね」




緇は振り返らずに言った。




「今のあなたには、会わせられない」



「どうして?」



「壊すから」




白繭は、きょとんとしたように首を傾けた。




「壊さないよ」



「あなたの『壊さない』は信用できない」



「ちゃんと包む」



「それを壊すと言うのよ」




白繭は黙った。


だが、その赤い瞳は笑っていた。



正確には、目だけが笑っていなかった。


口元だけが、ずっと笑っていた。




緇は再び歩き出す。




その横を通り過ぎる瞬間、白繭の胸元で何かが揺れた。




認証タグ。


裂けた患者服の隙間から、薄い金属片が覗いている。




緇の視線が、一瞬だけそこへ落ちた。




個体番号、〇八八番。


成功認定個体アベラント。



コードネーム、白繭(しろまゆ)





その下に、小さな文字が続いている。





───特別認定候補。





ただし、意思疎通および感情抑制に難あり。





緇はすぐに視線を外した。




「戻りなさい。許可なく区画を出歩くなと言われているでしょう」



「緇も、よく勝手に歩いてる」



「わたしは許可されているの」



「ずるい」



「実績の差よ」



「じゃあ、あたしも実績つくる」



その言葉に、緇はようやく振り返った。




白繭は、壁際に立っている。



張りついた笑顔。


赤い瞳。


細すぎる腕。


ボロボロの患者服。




人間の少女の形をしているのに、その輪郭の奥にあるものだけが、あまりにも違う。



緇は低く言った。



「余計なことはしないで」



「余計じゃない実績なら、いい?」



「白繭」



名前を呼ぶ声が、少しだけ鋭くなる。



白繭は楽しそうに、目を細めた。




「お姉ちゃん、怒った」



「怒っていないわ」



「うそ」



白繭は、また首を傾ける。



「怒ってる」



緇は答えなかった。



トレーを持ち直し、今度こそ歩き出す。




背後から、白繭の声が追ってくる。




「またあとでね、"お姉ちゃん"」




緇は振り返らない。




「会いに来なくていいわ」



「会いに行く」



「来るなと言っているの」



「行く」




会話にならない。



緇はそれ以上、言葉を返さなかった。



白い通路に、緇の足音だけが遠ざかっていく。





その背後で、白繭は壁際に立ったまま、じっと緇の背中を見送っていた。




張りついた笑顔のまま。


焦点の合わない赤い瞳で。


見えない糸に吊られた人形のように、微動だにせず。





やがて、白繭は小さく呟いた。




「……新しい子」




唇の裂け目が、わずかに深くなる。








──────包んであげなきゃ、ね。

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