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第四話『家族のまねごと』



朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。

部屋の中は静かだった。音らしい音はない。


ただ、生活している空間特有の、わずかな気配だけが満ちている。



キッチンに立つ男の動きは無駄がなかった。


冷蔵庫を開ける。中を確認する時間は短い。



視線を滑らせただけで、必要なものはすでに選別されているようだった。



取り出した食材を並べる。



包丁を握る。


切る。



一定のリズム。


正確な間隔。



速さはあるのに、雑さがない。



まな板の上に並ぶ切り身が、同じ厚みで揃っていく。



その背後、リビングの端。

以前はそこに、潰れかけた段ボールが置かれていた。



今は違う。



段ボールは折り直され、形を保っている。


内側には布が敷かれ、簡易的な“居場所”として整えられていた。



意図して作ったというより、いつの間にかそうなっていたような自然さで。



その中に、いた。



"それ"は座っている。


膝を軽く抱えるような姿勢。背筋は伸びすぎず、崩れすぎず。



視線は───男に向いている。



瞬きは少ない。

呼吸の間隔は、人間よりわずかに遅い。


だが止まっているわけではない。一定のリズムで、確かに続いている。



ただ見ている。


追っている。




包丁の動き。


腕の角度。


体重移動。



すべてを、逃さず拾っているような視線だった。



男は振り返らない。

気づいていないわけではない。


ただ、それに反応する必要がないと判断しているだけだ。



フライパンに火を入れる。


油を引く。


切り身を並べる。



焼ける音が、静かな部屋に広がる。



そのタイミングで、足音がひとつ増えた。


軽い。



だが、床に対する圧のかけ方が均一ではない。


滑るようで、引っかかるような、不思議な歩き方。



"それ"が近づいてくる。



男の横、少しだけ離れた位置で止まる。


近すぎない。遠すぎない。



邪魔にならない距離を、迷いなく取る。



視線は、フライパンへ。



焼けていく切り身。


油の跳ね。


煙の揺れ。



それらをじっと見ている。



男は何も言わない。


指示も、説明もない。



だが、動きが噛み合っていた。



皿を出す。


二枚。


考えた様子はない。


最初からそうすることが前提だったように、自然に取り出している。



盛り付ける。


均等に分ける。



箸を置く。


もう一膳。



視線を向けることもなく、"それ"の前に皿が置かれる。


"それ"は少しだけ首を傾けた。



それから、手を伸ばす。


指で掴む。



その動作も、前より滑らかになっていた。


力の入れ方を理解している。潰さず、落とさず、ちょうどいい強さ。



口に運ぶ。


噛む。


飲み込む。



表情は変わらない。



だが、止まらない。



次。


また次。



一定のリズムで食べ続ける。




男も食べ始める。



無言。



テレビがついている。


教育番組。


明るい音楽。


わかりやすい言葉。


大げさな動き。



画面の中では、家族をテーマにした短い物語が流れていた。



子ども。


母親。


父親。



手を繋ぐ。


笑う。


名前を呼ぶ。



"それ"の動きが、そこで一瞬だけ止まった。



箸は持っていない。


手に持っていた食べ物が、口元で止まる。




視線がテレビに固定される。




音。


動き。


声。



それらを、じっと受け取っている。



やがて、ゆっくりと視線が動いた。


テレビから外れる。




男へ。


またテレビへ。



そして、もう一度男へ。




繰り返す。



比べているような動き。


口にくわえていた人差し指が、離れる。



小さく、持ち上がる。



男の方へ向く。


指先が、まっすぐ向けられる。





───間。





ほんのわずかな、空白。









「……ぱぱ?」










音は小さい。




だが、はっきりしていた。




男の動きが止まる。


箸を持ったまま。




ほんの一瞬。


呼吸ひとつ分にも満たない、わずかな遅れ。




その間に、何かが入り込む余地があった。



だが────、




「……違う」




短い。


即答に近い。


迷いを切り捨てるような否定。



視線は向けない。

テレビの方へ戻したまま、言う。



"それ"は、少しだけ首を傾けた。




「……?」




理解していないのか、確かめているのか。


そのどちらとも取れる、曖昧な反応。

だが、それ以上は何も言わない。



再び、食事に戻る。




手を伸ばす。


口に運ぶ。


同じリズムで、食べ続ける。



テレビの中では、まだ家族が笑っている。




部屋の中には、同じように二人分の食事が並んでいる。




音は、テレビと、わずかな咀嚼音だけ。



それでも───

どこかで、ほんのわずかに、何かがずれていた。




「…ごちそうさま」




食器を流しに置く音が、やけに乾いて聞こえた。


水を出す。


一定の水圧。


皿に当たって弾く音が、規則的に続く。




背後で、気配が動く。

振り向かなくても分かる。



さっきまでテーブルの前にいたそれが、位置を変えた。



「……風呂、入るか」



独り言に近い声量だった。



返事はない。

だが、床を擦るような音が一度だけ鳴る。


了承、とまでは言えない。



ただ、流れに乗るように動いている。



浴室の扉を開ける。

湿気の残り香と、冷えたタイルの匂いが混ざる。



蛇口を捻る。


水が落ちる。


浴槽の底に当たる音が、次第に深くなる。




その音を、"それ"は見ていた。




視線が水の軌道を追う。




落ちる場所。


跳ね返る粒。


広がる波紋。




足元で、わずかに動きが変わる。


バタ、バタ、と小さく床を叩くような動き。



規則はない。




だが、止まらない。



男は一度だけ横目で確認する。




「……まだだ」




短く言う。



"それ"の動きが、一瞬だけ止まる。



それから、また小さく動く。


完全には抑えられていない。



水位が上がる。


一定の高さに達したところで、蛇口を閉める。



音が止まる。



静寂が戻る。




「……いいぞ」




言葉と同時に、"それ"が動いた。



ためらいがない。


助走もない。



そのまま、浴槽へ。



水が大きく揺れる。


縁を越えて、外へ飛び散る。


男の腕に、数滴かかる。



言葉を返す前に───



水面が、静かになる。


沈んでいる。


完全に。



輪郭だけが、水の中にぼやけて見える。



数秒。


十秒。


それ以上。



泡は出ない。


呼吸の気配もない。


男の視線が、わずかに固定される。



だが、声はかけない。



判断を保留する。


やがて。



水面が揺れる。

ゆっくりと、顔が現れる。


何も変わらない。

息を吸う様子もない。



ただ、水の中から出てきただけのような動き。




次の瞬間。




水が割れる。



"それ"が動く。



泳ぐ。


壁から壁へ。


底から水面へ。



流れるような軌道。



水を掻くというより、すり抜けている。

その動きに、音が重なる。



小さい。


連続している。


一定ではない。



だが、無秩序でもない。



高い音。


低い音。


短い間隔。



わずかな伸び。



水面に触れて、揺れる。


男はその音に、ほんの一瞬だけ意識を割く。



聞き覚えがある。


どこかで。



だが、引っかからない。



思い出そうとする前に、意識を切る。


必要がない。



流しに戻る。



水を出す。


皿を洗う。


背後で、音は続いている。



途切れない。

重なりながら、変化していく。



規則があるようで、掴めない。




だが───



同じ並びが、何度か繰り返されている。



男は、それ以上考えない。


手を動かし続ける。



やがて、水音だけになる。




振り返ると、"それ"は浴槽の中で静止していた。




こちらを見ている。




─────水面は、もう揺れていない。






あれから、"それ"と男はお風呂から上がり、就寝するところだった。




電気を落とす。


部屋が暗くなる。


残るのは、わずかな外光と、家電の小さな作動音。

布団に入る。



体を横にする。


目を閉じる。


すぐには落ちない。



浅い。



意識が浮いたまま、沈みきらない。

どこかで引っかかっている。



そのまま、時間が流れる。



境目が曖昧になる。


意識が切り替わる。



白い。


光が強い。



匂いがある。


消毒液。


古い布。


湿った床。



声。


断片的。


繋がらない。



呼ばれる。


呼ばれない。



手を伸ばす。


触れない。



遠い。


近い。



音が歪む。



呼吸が合わない。


胸が詰まる。



速くなる。


遅くなる。




どちらでもない。




混ざる。



崩れる。




どこかで、音がした。



小さい。


連続している。


規則はない。



だが、途切れない。



高い音。


低い音。



近い。


遠い。


重なる。


揺れる。



その音に、呼吸が引っ張られる。



乱れていた間隔が、少しずつ揃う。


意識しないまま、合わせている。


胸の動きが、同じ幅になる。



速さが落ちる。


深くなる。



音は続いている。


変わらない。



ただ、そこにある。



触れない距離で。


離れない位置で。



やがて。



夢の輪郭が、薄くなる。



匂いが消える。


光が落ちる。


声が途切れる。



目が開く。


暗い。


部屋。


天井。



現実。



呼吸は、整っている。



さっきまでの乱れが、嘘のように消えている。

理由は、分からない。



考える前に、視線が動く。



横。



いた。



"それ"が、すぐ近くにいる。



座っている。


こちらを見ている。




距離が、近い。

だが、触れてはいない。




一定の位置を保っている。



瞬きは少ない。


呼吸は、静か。



さっきと同じ速さ。


同じ間隔。



男は、しばらくそれを見ている。



何も言わない。


問いもない。




ただ、一度だけ目を閉じる。




再び開くと───、

"それ"は、少しだけ位置を変えていた。



元の距離。


最初の配置。



何もなかったかのように。


ただ、そこにいる。



視線だけが、変わらずこちらを追っていた。





朝だった。


カーテンの隙間から差し込む光は薄く、部屋全体に色のない明るさだけを落としている。



テレビでは、いつもの教育番組が流れていた。



明るい音楽。


大げさな笑い声。


子ども向けに作られた、単純で優しい世界。



その音を背中で聞きながら、男はキッチンに立っていた。



フライパンに火を入れる。

昨日より少し多めに切ったサーモンを並べる。


焼ける音。



後ろから、小さな足音が近づいてくる。

振り返らない。


もう、それが誰なのか確認する必要もなかった。



冷蔵庫を閉める。



皿を出す。


二枚。


意識していない。



もう完全に、二人分を準備する動きが染みついていた。




食卓へ運ぶ。



"それ"は、すでに椅子の前にいた。



最初の頃は高さが合わず、よじ登るように座っていたのに、今は違う。


ぎこちなさは残っているが、“どうすれば座れるか”を理解している動きだった。



座る。


待つ。


男が席につくのを見てから、食事に手を伸ばす。



その仕草が妙に自然で、男は一瞬だけ視線を止める。



言葉はない。



テレビだけが喋っている。

だが、不思議と静かではなかった。



生活音がある。



咀嚼音。


皿が擦れる音。


椅子が軋む音。



それは、確かに"誰か"と暮らしている音だった。




男は、それに気づかないふりをした。




食事を終える。

食器を流しへ運ぶ。



"それ"はテレビを見ていた。



相変わらず瞬きは少ない。

だが、以前のように“眺めているだけ”ではない。



音に反応している。



言葉の区切り。


笑うタイミング。


歌のリズム。



何かを学習するように、じっと受け取っている。




男は時計を見る。




「……そろそろ行くか」




呟く。


その瞬間。



"それ"の顔が、ゆっくりこちらへ向いた。




反応が速い。


“言葉”ではなく、

“空気”で察知しているような速さだった。



男は上着を取る。



鍵を掴む。


玄関へ向かう。



背後から、視線。




いつものことだ。





だが今日は、それが少しだけ重かった。





「……もう、おそと……?」




声。


たどたどしい。

けれど、意味を持った言葉だった。



男の動きが、一瞬だけ止まる。




振り返らない。




「……仕事だから」




短く返す。




靴を履く。


ドアノブに手をかける。




その時だった。






「ばいばい……ぱぱ」





静かな声だった。




小さい。




けれど、はっきり届いた。




男は動きを止める。


振り返らない。




そのまま、背を向けたまま言う。





「……俺は君のパパじゃない」





間。




「……あの時、放っておけなかっただけだ」





言葉は硬かった。



突き放すように。



自分に言い聞かせるみたいに。



ドアを開ける。




外の空気が流れ込む。


一歩、踏み出す。




その直後。




「────ぅ」




背後から、低い音が響いた。



小さい。


長く尾を引くような鳴き声。



言葉ではない。


だが、感情だけは妙にはっきり伝わってくる。



寂しさ。


取り残されたみたいな、静かな音。



男の眉が、わずかに寄る。


胸の奥に、小さな引っかかりが残る。



だが、止まらない。



ドアを閉める。


音が遮断される。



静かになる。



それでも、耳の奥にはまだ残っていた。



空は曇っていた。

陽は出ているはずなのに、街全体が薄暗く見える。



男は一定の速度で歩いていた。



いつもの道。


いつもの時間。


歩幅も、呼吸も、ほとんど変わらない。



だが。




「……っ?」




数分歩いたところで、視線がわずかに動く。




横断歩道のガラス。


停車中の車。


ビルの窓。



映り込む景色を、無意識に拾っている。



気配。


いる。



ひとつじゃない。



男の足取りは変わらない。


だが、意識だけが後方へ向く。



足音。


一定ではない。



二人。


いや、三人。



間隔が不自然だ。



合わせていないようで、合わせている。

素人ではない。


だが、訓練された人間の動きとも違う。



消えない。


普通なら、人を追う時は気配を散らす。

呼吸を殺し、視線を切る。



だが───こいつらは違う。



妙に“濃い”。

存在感が、沈まない。



男の眉が、わずかに動く。



(……なんだ、この気配)



冷たい。

まるで針みたいだった。



皮膚の上を滑るんじゃない。

もっと奥。



神経に直接触れてくるような視線。



それが、消えない。


むしろ近づいている。



男は前を向いたまま歩く。



速度は変えない。

だが、脳内ではすでに距離と配置を組み立てていた。




右後方。


左。


高所にも一つ。



見られている。


観察されている。



その感覚だけが、妙に鮮明だった。




胸の奥が、ざわつく。



理由は分からない。




ただ、本能に近い部分が警鐘を鳴らしていた。





───近づくな。




───あれは、人間じゃない。





男は、無意識に足を止めかける。





その瞬間。




背後の気配が、一斉に止まった。




ぴたり、と。




まるで、こちらの反応を見ていたかのように。





会社に着いてからも、男の調子はどこか噛み合っていなかった。



朝から降っていた曇天のせいか、蛍光灯の白い光がいつもより冷たく見える。



パソコンを立ち上げ、業務用端末を開く。



いつも通り。 数字を確認し、資料を読み、必要な情報を頭の中で整理していく。


それは問題なくできた。



むしろ、いつも以上に速かった。



視線を一往復させただけで、資料の矛盾点や不足箇所が頭の中に並ぶ。


入力ミス。報告漏れ。優先順位の逆転。 誰がどこでミスをしたかまで、自然と見えてしまう。



だが今日は、それを処理する速度に対して、思考の中心だけが別の場所にあった。




───ばいばい……ぱぱ。




あの声が、離れない。

キーボードを叩く指が、一瞬だけ止まる。



「月島…?」



隣から声が飛んできた。


顔を上げると、同僚の男が缶コーヒー片手にこちらを見ていた。




「お前さ、いつも辛気臭い顔してるけど」




ぷし、と缶を開ける音。



「今日はなんか特に辛気臭いぞ」



「……そうか?」



「そうだよ。なんかあったのか?」



「…別に」




即答だった。

だが、その返答に自分で違和感を覚える。




別に、ではない。



なら何だ。


何に引っかかっている。



男は視線を画面に戻した。


数字は読める。状況も整理できる。



だが、自分の内側だけが曖昧だった。



胸の奥に、薄く重いものが残っている。

不快感とは少し違う。 焦燥とも違う。



思い出す。



扉が閉まる寸前。 背後から聞こえた、低い鳴き声。



あれは、たぶん。



寂しかったのだ。



その考えが浮かんだ瞬間、男は無意識に眉を寄せた。



彼女にあんな声を出させた。




それに対して、自分は今───。




「……罪悪感?」




小さく漏れた声に、自分で驚く。




「ん?なんか言ったか?」



「いや」



男はすぐに首を振った。



罪悪感。


そんなもの、自分が抱くとは思っていなかった。



合理的に考えれば、否定は当然だった。


自分は親ではない。 拾っただけだ。

勘違いさせる方がよくない。



それなのに。



あの一言を、

あんなふうに拒絶する必要はあったのか。



考え始めると、妙に落ち着かなくなる。



男は小さく息を吐き、キーボードへ向き直った。




……早く終わらせよう。



今日は、早く帰る。




帰って───。




謝る。





そこまで考えて、男はまた一瞬だけ手を止めた。





謝る?




自分が?




誰に?




あの“生き物”に?





理解できない。




理解できないまま、胸の奥だけが妙に落ち着かなかった。









帰り道、男は魚屋の前で足を止めた。

硝子越しに、氷の上へ並べられた切り身が見える。



サーモン。




"それ"が一番よく食べるもの。




今朝の、あの声が蘇る。




ばいばい、ぱぱ。




その後に響いた、低く寂しげな鳴き声。




胸の奥に、まだ引っかかっている。




「……少し高いのでも買って帰るか」




誰に聞かせるでもなく呟いて、店の暖簾をくぐる。



「あら、いらっしゃい」



魚屋のおばさんが顔を上げた。



「おや、またサーモン買ってくれるのかい」



「……はい」



「この前もずいぶん買ってくれたよねぇ。そんなに好きなの?」




男はショーケースを見る。


いつものものより、色の濃い切り身が並んでいた。

値段も少し高い。



だが、今日はそれでいいと思った。



「……娘が」



口にしてから、ほんのわずかに遅れて、自分の言葉を認識する。



「娘が、サーモン好きなので」



訂正は、しなかった。


できなかった、のかもしれない。



おばさんは嬉しそうに目を細めた。



「そうかいそうかい。そりゃあ、おばさんにとっても嬉しいねぇ」



手際よく切り身を包みながら、笑う。



「子どもが美味しそうに食べてくれるなら、こっちも張り合いがあるってもんだよ。今日はいいやつ入ってるから、少し多めにしとくね」



「……ありがとうございます」




男は財布を出す。



娘。



その言葉が、頭の奥でまだ残っていた。


以前なら、すぐに否定していたはずだ。



違う。


そういう関係じゃない。


拾っただけだ。



そう思えたはずだった。




だが今は、そういう考えが浮かばなかった。



袋を受け取る。



ずっしりとした重み。


ひとり分ではない重さ。




「またおいで。娘さんにもよろしくね」



「……はい」




返事までしてしまった。



店を出ると、雨の匂いが濃くなっていた。



男は袋を持ち直す。


サーモンの重みが、指に食い込む。



その重さが、妙に現実的だった。



部屋へ帰れば、きっと"それ"……いや、






─────"あの子"がいる。





玄関の音に反応して、小走りで来る。


緑色の目で見上げてくる。



それを想像した瞬間、男の足は自然と早くなっていた。









帰宅した頃には、外はすっかり暗くなっていた。




鍵を開ける。




扉を開く。




部屋の空気が流れ込んでくる。



静かだった。




だが、無人の静けさではない。




“誰かがいる静けさ”。




それがもう、当たり前になっている。




「……ただいま」




言ってから、自分で少し止まる。



何に対して言った。




返事はない。


だが、ぱたぱた、と軽い音が奥から聞こえた。



"その子"がいた。



こちらを見る。

相変わらず、瞬きが少ない。


緑色の瞳が、まっすぐ主人公を捉える。



そして、近づいてくる。



テクテク、と以前より滑らかになった足取り。

歩き方が、もう“移動”として成立している。



男は靴を脱ぎ、ソファへ腰を下ろした。


疲労が重い。




"その子"は少しだけ間を空けてから、その隣へ座った。




何も言わない。



ただ、いる。


視線だけが向いている。



いつも通りだった。

なのに、今日は妙に気まずい。


朝のやり取りが、部屋の空気に薄く残っている気がした。



男は視線を逸らす。


テレビはついていない。 部屋は静かだ。

静かなせいで、余計に意識してしまう。




隣にいる。


近い。


体温。 呼吸。 わずかな衣擦れ。




全部わかる。




男は小さく息を吐いた。




「あの、さ……今朝は───」




言いかける。


だが、言葉が続かない。



"その子"は黙ったまま、男を見ている。



責めるでもない。 悲しむでもない。


ただ、見ている。



それが逆に落ち着かなかった。




男は視線を落とす。









「……きみは」




自分でも、なぜそんなことを聞こうとしたのか分からなかった。





「…どこから来たんだ?」




"その子"は答えない。



首を傾げるでもなく、ただ男を見ている。



質問の意味が分からないのか。


答えを持っていないのか。




それとも、言葉にできないのか。


判断はつかなかった。



男は少しだけ息を吐く。




「……答えられるわけないか」




沈黙。

けれど、その沈黙は不快ではなかった。



以前なら、会話が途切れた瞬間に、次の言葉を探していた。



正しい返答。


適切な相槌。


場を壊さないための処理。




だが今は、何も言わなくてもよかった。




隣にいる。




ただ、それだけで空白が埋まっている。





男は、ぽつりと続けた。




「……まあ俺も、自分がどこから来たのか、よく分かってないようなもんだ」




"その子"の視線が、わずかに揺れた。



意味を理解したのかは分からない。



ただ、聞いてはいた。



男はそれ以上言わなかった。





ふと。


頭の中に、一瞬だけ浮かぶ。




───もし、"この子"がここにいなかったら。




静かな部屋。


誰もいない空間。


テレビの音もなく。 視線もなく。 呼吸音もない。




昨日までなら、それが普通だった。



なのに。



想像した瞬間、胸の奥が妙に冷えた。



男は無意識に眉を寄せ、

その感覚を振り払うように頭を軽く振った。



違う。


疲れているだけだ。


変なことを考えるな。




そう結論づけようとした、その時だった。







───ジジッ。






微かなノイズ音。


男が顔を上げる。



消していたはずのテレビ画面に、

一瞬だけ白い砂嵐が走った。



すぐ消える。


だが、部屋の空気がわずかに変わった。




静かすぎる。




さっきまで確かに聞こえていた冷蔵庫の駆動音が、

急に遠くなった気がした。



耳の奥が詰まるような感覚。

気圧が変わったみたいに、空間そのものが重くなる。




"その子"が、ぴたりと動きを止めた。




その緑色の瞳が、ゆっくりと玄関の方へ向く。



男もつられるように視線を向ける。



何もない。



なのに。




“いる”。




朝感じた気配とは違う。


もっと静かで。もっと冷たい。

薄い刃物を首筋に当てられているような感覚。



視線。


それも、一つじゃない。




玄関の向こう。 壁越し。 扉のすぐ外。




息を潜めて、こちらを見ている。



男の背筋を、じわりと汗が伝った。




部屋の電気が、ふっと一瞬だけ暗くなる。





"その子"の喉が、小さく鳴った。






警戒。







あるいは───威嚇。









その瞬間。












───ピンポーン。











チャイムが鳴った。




チャイムが鳴った瞬間。



"その子"の肩が、ぴくりと震えた。


それまで隣で静かに座っていたそれは、

弾かれたように顔を上げ、玄関の方を見る。



空気が変わる。



男にも、それがわかった。



説明できない。 だが、わかる。




冷たい。




玄関の向こうに立っている“何か”が、

この部屋の温度を数度下げたような感覚。



"その子"が、じり、と男の服の裾を掴む。



その手は、少しだけ震えていた。

男は無言のまま立ち上がる。



チャイムは、もう鳴らない。

だが、気配だけが消えない。



いる。


扉の向こうに。


待っている。



男は玄関へ向かいかけて、ふと足を止めた。



背後を見る。



"その子"は、こちらを見上げていた。



緑色の瞳が、微かに揺れている。




男は数秒黙ったあと、低く言う。




「……下がってて」




"その子"は反応しない。



いや、理解できていないわけではない。



少し遅れて、静かに後ろへ下がった。



けれど視線だけは、ずっと男から離れない。



男はゆっくりと玄関へ向かい、覗き穴を見る。




女がいた。




白衣。


黒髪のボブ。


緑色のワイシャツに、短いパンツ。黒タイツ。




場違いなくらい整った笑顔で、こちらを見上げている。




そして、その隣。



長身の女が、無言で立っていた。



切れ長の目。


黒髪の姫カット。



薄黒いワイシャツに、真っ黒のネクタイ。

黒いグローブ。


口にはキャンディー。



まるで人形みたいに動かない。



なのに。



視線だけが、異様だった。


扉越しですらわかる。



こちらを“見ている”んじゃない。



捉えている。


逃がさないように。




玄関の奥で、"その子"が低く鳴いた。




男は息を呑み、ゆっくり扉を開ける。




「こんばんは〜」




女は、待ってましたと言わんばかりに笑った。


その声音は柔らかい。人当たりもいい。



なのに、妙に神経を撫でる。



「突然ごめんね〜。わたし、ヒューマライズ研究所の主任をやっております、墨橋(すみばやし) 陽菜(はるな)と申します。


以後、お見知りおきを」




ぺこり、とわざとらしく頭を下げる。



そしてすぐに、




「な〜んて、硬っ苦しいご挨拶は置いておいて」



と、軽く笑った。



距離感が近い。

初対面のはずなのに、妙に踏み込んでくる。



男は返事をしない。



代わりに、隣の女へ視線を向ける。



黒い女は、何も喋らない。


キャンディーを舌で転がしながら、

ただ静かにこちらを見ている。



瞬きすら少ない。


感情がないわけじゃない。



むしろ逆だ。



感情を徹底して押し殺した結果、底の方に鋭利なものだけが沈殿している。



そんな目だった。




───その瞬間。




背後から、何かが男にぶつかる。



"その子"だった。




さっきまで下がっていたはずなのに、

いつの間にか後ろまで来ている。


ぎゅっ、と服を掴む。



小さな指が、離すまいとするみたいに強く。



男の背に半分隠れるようにして、"その子"は黒い女を見ていた。



呼吸が浅い。


明確に怯えている。


まるで、本能で理解しているみたいだった。





───この人たちは、危険だと。




男は無意識に、少しだけ前へ出る。



庇うように。




黒い女は、その様子を無言で見ていた。



いや。



観察していた。



"その子"が誰を頼るのか。誰を盾にするのか。



誰の後ろに隠れるのか。



そのすべてを。




「あ、この子が気になる?」




陽菜が振り返る。



「この子は(くろぎぬ)。わたしのボディガードみたいなもんだから、あんまり気にしないで〜」



気にするなと言われて、気にしない方が無理だった。

男は警戒を隠さない。



だが陽菜は気にした様子もなく、白衣のポケットから一枚の写真を取り出した。




「それでね、今日はちょっとしたお願いがあって」




差し出される。



男は視線を落とす。



そこに写っていたのは、"その子"だった。



今より幼い。


だが間違いない。



瞬間。



背後で、"その子"の呼吸が止まりかける。



男は振り返らない。


だがわかる。



怯えている。



陽菜はそんな反応を楽しむように、

写真をひらひら揺らした。



「その子、うちで受け持ってる管理個体なの」



軽い口調。


世間話みたいな声音。



「だから返してほしいな〜って。もちろん、タダとは言わないわ」




陽菜は指を二本立てる。



「かなりの額、出せる。

あなたが、一生困らないくらいには」




男は何も答えない。


ただ、写真を見る。



その横顔を、"その子"が見上げている。



不安そうに。


怯えるように。


服を掴む力が、少しずつ強くなっていく。



陽菜は続けた。



「別に悪い話じゃないと思うのよねぇ。あなたも元の生活に戻れるし、その子も本来いるべき場所に戻れる。


お互い、丸く収まるでしょ?あとはこの事を秘密にしてもらうだけ」




───元の生活。




その言葉が、妙に耳に残った。




男の脳裏に、いつもの光景が浮かぶ。




無機質な会社。


決まった時間。


決まった帰り道。



誰とも深く関わらず、誰にも理解されず、理解しようともせず。




ただ、“普通”を演じ続ける毎日。




感情を間違えないように。空気を壊さないように。  人間らしく見えるように。



そうやって生きてきた。




いや。




───生きていたのか?




男の喉が、小さく鳴る。



今なら戻れる。



この女に引き渡せばいい。


そうすれば全部終わる。



また、あの静かな生活に戻れる。



誰とも関わらない。何も失わない。


何も抱え込まない。



安全で、空っぽな、死人みたいな毎日。





胸の奥が、鈍く軋んだ。






……嫌だ。




ふいに思う。



あの生活に戻るのか?




また、自分を偽ったまま。


誰とも感情を共有できず、誰にも触れず、

誰にも必要とされず。




このままずっと、“人間のふり”をしたまま生きていくのか。




そんなのは。




そんなのは、嫌だった。



もう、戻りたくない。




たとえこの先、何が待っていたとしても。




あの空っぽな場所へ戻るくらいなら。





───ここで死んだっていい。





その瞬間。



背中にしがみつく感触が、わずかに震えた。


男は視線を落とす。



"その子"がいた。



緇を見ている。


小刻みに肩を震わせながら。


高く、か細い鳴き声を漏らしていた。




怯えている。


心の底から。




その姿を見た瞬間。




男の中で、何かが決まった。




理屈じゃない。


責任感でもない。




ただ。




───この子に、こんな顔をさせたくない。




男は一歩前に出た。

"それ"を背に隠すように。


そして右手を横に出し、線を引くように前へかざす。




拒絶の意思表示。




「……断る」




短く。


はっきりと。



女研究員の肩が、わずかに落ちた。




「…そう、交渉決裂ね。残念だわ……こんな結末になってしまうなんて」




軽い口調だった。


まるで、

予定していた食事の店が閉まっていた程度の落胆。



だが、その言葉の奥には、"決定的な“切り替え”があった。




空気が変わる。




いや───最初から変わっていたのかもしれない。




男は、"その子"を背中へ押しやった。



"その子"の指先が服を掴む。



震えている。


呼吸が乱れている。


細く、高い鳴き声が喉の奥から漏れていた。



緇を見ている。


いや、怯えている。



視線が合うたび、本能そのものが警鐘を鳴らしているようだった。



男は無意識に、一歩前へ出る。



庇うように。


線を引くように。



その瞬間だった。




「片付けてしまいなさい、緇」




陽菜は、笑ったままそう言った。

声色は柔らかい。


まるで「ゴミ出しお願いね」とでも言うような、日常の延長線上の響きだった。



だからこそ、寒気がした。




男の背後で、"その子"がびくりと肩を震わせる。




服を掴む力が強くなる。


細い指先が、微かに震えていた。



呼吸が乱れている。


喉の奥から漏れる、高く細い鳴き声。



怯えている。



陽菜ではない。


緇を見て。



男は理解する。



あの女は危険だ。



理屈じゃない。


生物として。


本能として。



あの女は────“捕食者”だ。



男は"その子"を庇うように、一歩前へ出た。




その瞬間。




「───ッ!!」




部屋の空気が、変わった。




紫。

視界の端で、どろりとした妖光が脈打つ。


緇の身体が、音もなく歪み始める。



服の隙間から覗く肌が、黒く硬質な外殻へ変わっていく。



細い脚。

だが、人間の骨格ではない。


関節の位置が微妙にずれている。



長すぎる脛。

異様なまでに滑らかな動き。


艶めいた黒い甲殻が、部屋の光を鈍く反射する。



皮膚じゃない。



昆虫だ。



巨大な昆虫を無理やり人型に押し込めたような、そんな不快感。



さらに。


背中が裂けた。



いや、開いた。



闇の中から腕が現れる。




一本。


二本。


三本。


四本。




細く、長く、刃物みたいに鋭利な鉤爪。




それが更に増える。




五本。


六本。



床へ触れるたび、

キィ……、と金属を擦るような音が鳴った。



紫色の光は、その身体の亀裂から漏れていた。



胸部。


腹部。


脚。



脈打つたび、深海生物みたいな妖光が明滅する。



長い黒髪の隙間から、顔が持ち上がる。



赤。


鮮血みたいな瞳。



視線が合った瞬間、男の背筋に悪寒が走った。



逃げろ。



脳より先に、本能が叫ぶ。




緇の口元がゆっくり裂けた。



耳元近くまで。


口の奥には、針みたいな歯が幾重にも並んでいる。



頬の裂け目が、呼吸に合わせて微かに開閉していた。



気門。


昆虫の。



人間の形をしているのに、人間じゃない。



それが立っていた。



緇は男を見下ろしたまま、静かに言う。





「───死んで」




次の瞬間。



消えた。



否。



速すぎて見えなかった。



床が爆ぜる。

紫の残光が一直線に走った。


緇が、一瞬で間合いを詰めている。



六本の腕が交差した。



斬撃。


空気が裂ける。




「───!!」




男は反射的に"その子"を抱え、その場から横へ飛んだ。



轟音。


壁が裂ける。



コンクリートが紙みたいに抉れ、

粉塵が舞い上がった。



男は床を転がりながら息を呑む。



避けた。


今のを。



緇の赤い瞳が、わずかに細まる。




「……人間が、わたしの動きに…反応した?」




驚き。


だが、それ以上に。



理解できないものを見る目だった。



この人間。


今。


アベラントを抱えて避けた。



まさか、庇った?



一瞬だけ、緇の思考が止まる。




男は叫んだ。




「逃げろ!!」




"その子"は動かない。



恐怖で足が竦んでいる。



いや。


違う。




男から離れられない。



男は歯を食いしばる。




「これは俺の責任だ……!」




喉が焼ける。




「自分可愛さで招いたことだ……!だから、お前は何も悪くない……!」




"その子"の瞳が揺れる。




男は怒鳴る。




「だから逃げろッ!!」



「……逃がさない」





緇が動いた。



先程より速い。




完全に殺意へ特化した踏み込み。




狙いは、"あの子"だ。



男は理解する。



間に合わない。


だから。



"その子"を突き飛ばした。




直後。




紫の閃光が交差する。


バツ字。



空間ごと切断するみたいな斬撃。



男の身体が裂けた。




「─────っ、がぁ」




血が噴き出す。


熱い。



何かが壊れる音がした。



視界が揺れる。


膝から崩れ落ちる。



"その子"の顔が見えた。



大きく目を見開いている。




「───ぱぱぁッ!!!」




叫びだった。


悲鳴だった。



"その子"が緇へ飛びかかる。




「大人しくしてもらえる?」




だが、細く黒い腕がその身体を絡め取る。



拘束。



「ぱぱぁ…!ぱーぱぁ…っ!!!」



"その子"は暴れる。



手を伸ばす。


床を掻く。


男の元へと行こうともがく。



けれど届かない。


引きずられていく。



男は薄れていく視界の中、それを見ていた。



血の味。


冷えていく身体。



その中で最後に浮かんだのは。




死への恐怖じゃない。





───また、あんな顔をさせた。





それだけだった。





男の血が、床をゆっくり広がっていく。




"その子"は緇に拘束されたまま、なおも男へ腕を伸ばしていた。




「……ぱ、ぱ……ッ」




掠れた鳴き声。


緇はそれを無言で押さえ込む。



陽菜は、その様子を眺めながら小さく息を吐いた。




「もう、ちょっと。その子怪我させないでよ〜」




困ったように眉を下げる。




「大事なお姫様なんだから」




緇は赤い瞳だけを横へ向けた。




「なら、あなたが抱えればいいでしょう」



「えぇ〜、嫌よ」




陽菜は即答した。




「頭仕事だけでなく、力仕事までわたしにさせるつもり?」



「普段からあんたは動かなすぎよ」



「研究職ってそういうものなの」




緇は呆れたように視線を戻す。



"その子"はまだ抵抗していた。



小さな爪が、黒い外殻を引っ掻く。




だが、緇は意に介さない。




「……随分、懐かれてるわね」



「そうねぇ」




陽菜は倒れている男を見る。


血塗れ。

もう動かない。



それなのに、どこか考え込むような目だった。



「"予想以上"だったわ」



「アベラントを…庇ってましたね」



「まあ…それもだけど」





陽菜は笑う。


けれど、その笑みはどこか薄い。




「“父親”になろうとしてた」




一瞬だけ。



緇の視線が男へ落ちる。




沈黙。




そして。




「……理解できないわ」



「でしょうね」




陽菜は軽く肩を竦めた。




「わたしも、あんまり理解はしたくないもの」



扉が開く。

外の冷たい空気が流れ込む。



その直前。



陽菜は倒れている男を見下ろす。


血が広がっていく。



それを数秒見つめたあと、ふっと息を吐いた。




「……でもまあ」




軽い声。


まるで、予定していた実験結果を確認するみたいに。




「想定外はいくつかあったけど、概ね計画通りね」




緇の赤い瞳が、わずかに細まる。




「……計画通り?」



「ええ」



陽菜は微笑む。

だが、その笑みの意味は読めない。



「むしろ、ここまで上手くいくとは思ってなかったわ」



男を見る目。

研究対象を見る目にも。


母親が子を見る目にも見える。



そのどちらとも断定できない。



「さ、行きましょう。夜になるとあなたの光が目立ってしょうがないわ」



緇は何も言わない。

ただ、拘束した"その子"を抱え直し、その場を後にした。




部屋には、血だけが残る。




扉が閉まる。



静寂。


完全な静寂。



ぽた。


ぽた。




床に血が落ちる音だけが残る。




その中で。



テレビだけが、まだついていた。




『♪みんななかよく、おててをつないで〜♪』





子供向け番組の明るい歌声。




無人になった部屋で。




場違いなほど無邪気に。






─────流れ続けていた。

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