第三話『水たまりの歌』
朝の光が、薄いカーテン越しに部屋へ滲んでいた。
白というより、灰色に近い光。
天気は悪い。
窓の外では、雨が細く降り続けている。
部屋の中には、テレビの音が流れていた。
『♪おっはよう、おっはよう〜!』
子供向け番組特有の、やけに明るい歌声。
以前なら、朝の静寂を壊すだけの騒音にしか思わなかったはずだ。
だが今は、その音が流れていることに違和感がない。
むしろ───静かだと、落ち着かない。
男はキッチンに立ちながら、無意識に視線を横へ向ける。
そこに、“それ”がいた。
テレビの前。
床に座り込み、画面を見上げている。
以前よりも、明らかに人の形へ近づいていた。
脚は完全に形成され、歩行も安定している。
腕の動きも滑らかだ。
肌の白と灰色の境界も、以前より自然に馴染んできている。
それでも、人間とは違う。
瞬きの少なさ。
呼吸のズレ。
静止している時の、不自然な静けさ。
それらが、“別の生き物”であることを忘れさせない。
だが。
その異物は今、テレビの歌に合わせて、微かに喉を震わせていた。
「……あー……ぅ……」
短い音。
歌というには拙い。
だが、明確に“合わせようとしている”。
リズム。
間。
抑揚。
それらを真似るように、音を重ねている。
男は包丁を動かしながら、その様子を見る。
数日前までは、ただ画面を見ているだけだった。
だが今は違う。
“真似ている”。
"学習している"。
しかも異常に早い。
「……成長、しすぎだろ」
小さく呟く。
返事はない。
だが、“それ”の耳だけが、わずかにこちらへ向いた。
聞いている。
意味までは理解していなくても、音として認識している。
フライパンの上で、鮭が焼ける。
じゅう、と油が跳ねる音。
その瞬間。
テレビを見ていた“それ”の視線が、ぴたりとこちらへ向いた。
「……やっぱり分かるのか」
男は苦笑に近い息を漏らす。
最近、“それ”は鮭の匂いに異様に敏感だった。
冷蔵庫を開けるだけで反応する。
学習なのか、本能なのか。
その区別は、未だにつかない。
皿に盛る。
以前は床に直接置いていたが、今は違う。
小さな皿が、一枚増えている。
自然に。
何も考えず。
最初からそこにあるみたいに。
男はその事実に気づかないふりをしたまま、テーブルへ置く。
「……ほら」
短く声をかける。
すると、“それ”はすぐにテレビから視線を外した。
立ち上がる。
テク、テク、と小さな足音。
歩き方は、もうかなり安定している。
椅子には座れない。
だからテーブルの横に、ぺたりと座る。
男も向かいへ座った。
以前なら考えなかった配置だ。
だが今は、それが自然だった。
「……い、た、だ……」
途中で音が崩れる。
それでも、“言おうとしている”のは分かる。
男の視線がわずかに止まる。
「……覚えたのか」
“それ”は答えない。
代わりに、鮭を口へ運ぶ。
もぐもぐ、と一定のリズムで咀嚼する。
以前より、“味わう時間”が増えていた。
合理性だけではない。
好みが生まれ始めている。
その事実を、男はまだ言語化しない。
テレビの中で、番組が切り替わる。
歌から、簡単なクイズコーナーへ。
“それ”は食べながらも画面を見ている。
視線が、ほとんど逸れない。
男はふと、リモコンへ手を伸ばした。
試す。
なんとなく。
ただの興味だった。
チャンネルを変える。
ニュース番組。
灰色のスーツを着た男が、淡々と何かを喋っている。
その瞬間。
「……ぁ」
声。
低い。
不満げな音。
男が視線を向ける。
“それ”が、こちらを見ていた。
じっと。
瞬きの少ない目で。
そして。
「……あ、ぅ……」
短い音。
発音は曖昧。
だが意味は分かる。
違う。
男は数秒、沈黙したあと、小さく息を漏らす。
「……これじゃダメなのか」
再びチャンネルを戻す。
明るい音楽が流れた瞬間、“それ”の視線が画面へ戻る。
落ち着いた。
明らかに。
「……好きなんだな、これ」
男はそう呟きながら、鮭を口へ運ぶ。
その隣で、“それ”は再び小さく喉を震わせていた。
『♪いち、にー、さんっ!』
「……ぃ……に……さ……」
真似ている。
不完全に。
だが、確実に。
男はその声を聞きながら、水を飲む。
少し前まで、この部屋には何もなかった。
音も。
会話も。
生活の気配も。
ただ、生きるためだけの空間だった。
だが今は違う。
テレビの音。
食器の触れる音。
拙い声。
その全部が、部屋の中へ残っている。
食事を終える。
男は立ち上がり、時計を見る。
時間だ。
会社へ行かなければならない。
ジャケットを羽織る。
鞄を持つ。
その動きを、“それ”は見ていた。
以前と同じ。
いや、少し違う。
ただ観察しているだけではない。
“流れ”を覚えている。
この動きの後、男が外へ出ることを理解している。
男が玄関へ向かう。
その後ろを、足音が追う。
テク、テク、と小さく。
玄関前。
男が靴を履く。
背後で、気配が止まる。
振り返る。
“それ”が立っている。
じっとこちらを見ている。
数秒。
沈黙。
そして、“それ”の腕がゆっくり持ち上がる。
小さく。
ぎこちなく。
左右に揺れる。
「……ば、ば……」
途中で引っかかる。
喉の奥で音が絡まる。
だが、“それ”は言い直すように、もう一度口を開いた。
「……ばい、ばい」
男の動きが、一瞬だけ止まる。
言葉。
意味。
状況。
全部が、噛み合っている。
“理解して使っている”。
その事実が、妙に現実感を伴って胸へ落ちた。
「……」
男は数秒、“それ”を見る。
無表情。
だが、じっとこちらを見つめている。
見送っている。
その行為自体を、理解しているみたいに。
男は視線を逸らす。
「……行ってくる」
小さく、それだけ返した。
ドアを開ける。
外は、まだ雨だった。
背後では、教育番組の明るい歌声が流れ続けている。
そして。
ドアが閉まる直前まで。
“それ”は、静かに手を振り続けていた。
▽
帰り道の空気には、まだ雨の匂いが残っていた。
朝から降っていた雨は夕方には弱まっていたが、完全には止んでいない。
街灯の光が濡れたアスファルトに滲み、足元の水たまりを薄く照らしている。
男は傘を閉じ、アパートの階段を上がった。
以前なら、帰宅に特別な意味はなかった。
部屋へ戻る。
鍵を開ける。
食事を取る。
眠る。
ただそれだけの動作だった。
だが、今は違う。
あの部屋には、いる。
そう思った瞬間、男の足取りがほんのわずかに早くなった。
無意識だった。
だから本人も気づかない。
部屋の前に立ち、鍵を差し込む。
回す。
ガチャ、と乾いた音がした。
扉を開ける。
そして、男は足を止めた。
「……なんだ、これ」
声に怒気はない。
驚きも薄い。
ただ、目の前の状況を処理しきれず、言葉だけが先に落ちた。
部屋が、変わっていた。
まず目に入ったのは、床一面に散らばった白。
一瞬、何かの繊維かと思った。
違う。
ティッシュだ。
箱からすべて引き抜かれている。
破り捨てられたわけではない。
無造作に散乱しているものもあれば、細長く伸ばされたもの、丸められたもの、何枚も重ねられたものもある。
そこに悪意は感じられなかった。
破壊ではない。
試した痕跡。
触って、引いて、広げて、丸めて、変化を確かめた痕跡だった。
男は靴を脱ぐのも忘れて、視線だけで部屋を追う。
キッチン。
冷蔵庫の扉が半分開いていた。
中の白い光が、暗くなりかけた部屋に漏れている。
男はゆっくり近づく。
中身が荒らされた様子はない。
卵も割れていない。
調味料も倒れていない。
保存容器も元の位置から大きくは動いていない。
ただ、触った跡だけがある。
ペットボトルの向きが変わっている。
サーモンの入ったパックが少しだけ手前に引き出されている。
水滴が棚に落ちている。
開けた。
中を見た。
触った。
そして、閉めるという工程までは学習していなかった。
男は無言で冷蔵庫を閉めた。
次に、音がした。
カラン。
金属が床に触れる軽い音。
男の視線がリビング奥へ向く。
そこに、"それ"はいた。
床に座り込んでいる。
周囲には、集められた物がいくつも転がっていた。
スプーン。
鍵。
空き缶。
リモコン。
ペットボトル。
輪ゴム。
小さな金属製の蓋。
統一感はない。
だが、共通点はある。
全部、音が出る。
"それ"はスプーンを手に取り、金属の蓋に当てた。
カン。
短く、硬い音。
次にペットボトルを転がす。
カラ、カラ。
さらに鍵を持ち上げ、軽く振る。
チャリ、と細かい音が鳴った。
"それ"は、そのたびに動きを止める。
耳を澄ませるように。
いや、耳だけではない。
全身で音の違いを受け取っているように見えた。
音の高さ。
余韻。
響く長さ。
床に伝わる振動。
それらを、一つずつ確かめている。
男は怒鳴らなかった。
怒るより先に、理解しようとした。
これは何だ。
なぜこうなった。
何を目的にした行動か。
視線が、テレビへ向く。
画面はついたままだった。
教育番組はすでに終わり、別の番組に切り替わっている。
大人向けの情報番組。淡々とした声。単調な映像。
男はそこで、ひとつ結論を出す。
「……テレビだけじゃ、足りなくなったのか」
"それ"は男を見る。
瞬きの少ない目。
表情はほとんど変わらない。
けれど、手の中のスプーンだけは離さない。
怒られるという概念があるのかどうかも分からない。
ただ、反応を待っているように見えた。
男は部屋を見回す。
ティッシュ。
冷蔵庫。
音の出る物。
開けられた引き出し。
床の水滴。
破壊ではない。
探索。
知ろうとした。
見て、触って、鳴らして、確かめた。
知りたい、が部屋中に散らばっていた。
「……このままだと、危ないな」
刃物。
コンセント。
火。
洗剤。
次に何へ興味を持つか分からない。
問題行動。
そう分類するのは簡単だった。
だが、それはたぶん間違っている。
これは退屈ではなく、成長だ。
刺激が足りなくなった結果、自分で探し始めた。
男は息を吐いた。
「……別の刺激を用意するしかないか」
自分に言い聞かせるような声だった。
男はキッチン横の棚を開けた。
使っていないペットボトルを取り出す。
引き出しから輪ゴム、クリップ、古い鈴を出す。
さらに工具箱から小さなドライバーを取り出した。
テーブルの上に並べる。
"それ"はすぐに反応した。
スプーンを置き、男の手元を見る。
視線が固定される。
テレビを見るときと同じ。
いや、それよりも濃い。
男はペットボトルに小さな穴を開けた。
中へ鈴を入れる。
キャップを締める。
輪ゴムを巻く。
軽く振る。
カラ、リン。
乾いた音と、小さな鈴の余韻。
"それ"の目が、わずかに変わった。
「……部屋を荒らされると困るからだ」
男は低く言う。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分かっていない。
「暇つぶしのものだから。壊すなよ」
作ったものを床へ置く。
"それ"はすぐには触れなかった。
見ている。
距離。
形。
音の記憶。
それから、ゆっくり手を伸ばす。
指先が触れる。
ペットボトルが転がる。
カラ、リン。
音が鳴る。
"それ"は、ぴたりと止まった。
もう一度、押す。
今度は少し強く。
カラカラ、リン。
音が変わる。
"それ"の喉が、小さく震えた。
「……ぁ……ぅ」
音が返る。
似ている。
完全ではない。
だが、今鳴った鈴の余韻をなぞるような音だった。
男は黙って見ていた。
"それ"は何度も転がす。
鳴らす。
聞く。
真似る。
カラ、リン。
「……ぅ、ん……」
カラカラ。
「……ぁ……」
男の手が、いつの間にか次のペットボトルを掴んでいた。
もう一つ作るつもりなのだと、動き出してから気づく。
今度は水を少し入れる。
鈴ではなく、小さなビーズを入れる。
音の種類を変える。
理由は明確だった。
刺激の分散。
注意の維持。
問題行動の抑制。
そう説明できる。
説明はできる。
だが、男は同時に考えていた。
こっちの音の方が、反応するだろうか。
水が入っていた方が、喜ぶだろうか。
転がしたときに、もっと長く見ていられるだろうか。
その思考に気づいて、男は一瞬だけ手を止めた。
それは床に座り、最初に作ったおもちゃを両手で持っている。
表情はない。
けれど、何度も鳴らしている。
飽きずに。
確かめるように。
男は小さく息を吐いた。
「……まあ、これでしばらくは保つだろ」
そう言いながら、二つ目のペットボトルにも穴を開けた。
部屋には、テレビの音と、雨音と、鈴の小さな響きが混ざっていた。
▽
その日も、雨だった。
窓の外を細く流れる水滴を見ながら、男はふと、部屋に残してきたもののことを考えていた。
仕事中だった。
画面には資料が開かれている。
数字の並び、報告書の文面、修正すべき箇所。
それらはいつも通り、視界に入った瞬間に意味を持って並び替わっていく。
処理はできている。
判断も遅れていない。
むしろ、いつも通りだった。
ただ、意識の隅に、別のものが居座っている。
テレビはつけてきた。
昨日作った音の鳴るものも置いてきた。
冷蔵庫は閉めた。
刃物は見えない場所にしまった。
コンセント周りも、触れないように物を寄せておいた。
それでも。
ちゃんと大人しくしているだろうか。
あれは今、何をしているのだろう。
画面の中の文字を追いながら、男はそんなことを考えていた。
「月島、お前さ」
横から声をかけられた。
男は顔を上げる。
同僚が、少し不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「最近、人間っぽい顔するようになったよな」
男は数秒、反応できなかった。
「……どういう意味だ」
「あ、いや、変な意味じゃなくてさ」
同僚は慌てたように片手を振った。
「前まで、なんていうか……死んだような目してたから」
死んだような目。
その言葉が、妙に引っかかった。
男は視線を落とす。
自分が、そんな顔をしていたのか。
いや。
していたのだろう。
自覚はなかった。
いつも通りに起きて、いつも通りに働いて、いつも通りに帰る。
必要な会話だけをして、必要な作業だけをこなして。
それが普通だと思っていた。
だが、他人から見れば。
それは、死んだように見えていたのか。
「最近なんか、いいことでもあった?」
同僚が軽い調子で聞く。
男はすぐには答えなかった。
いいこと。
その言葉に当てはまるものを、頭の中で探す。
床一面に散らばったティッシュ。
開けっぱなしの冷蔵庫。
サーモンをちまちま食べる姿。
音の鳴るおもちゃを何度も転がす手。
教育番組のリズムを真似る、ぎこちない声。
朝、玄関で手を振っていた姿。
ばいばい。
不意に、その声が浮かぶ。
男は目を伏せた。
「……別に」
「そっか。まあ、別にって顔じゃないけどな」
同僚は笑いながら、自分の席に戻っていった。
男はしばらく画面を見つめていた。
資料の内容は頭に入っている。
だが、指は止まっていた。
人間っぽい顔。
その言葉だけが、胸の奥に残り続けていた。
▽
帰る頃になっても、雨は止んでいなかった。
細かい雨粒が、傘の表面を弱く叩いている。
男はアパートの階段を上がり、部屋の前で
鍵を取り出した。
鍵を差し込む。
回す。
扉を開ける。
その瞬間、奥から小さな足音がした。
ぺた、ぺた。
軽く湿ったような足音。
次の瞬間、"それ"が姿を見せた。
小走りだった。
まだ完全に人間の子供と同じ走り方ではない。重心が少し低く、足の運びも独特だ。
それでも、急いでいることは分かった。
"それ"は玄関の手前で止まり、男を見上げる。
緑色の瞳。
瞬きの少ない視線。
そして、少しだけ口を開いた。
「……お、かえぃ」
発音はたどたどしい。
だが、意味は合っている。
男の手が、鍵を持ったまま止まった。
「……ただいま」
自然に返していた。
言ってから、少しだけ気づく。
そう返すのが当たり前みたいになっている。
"それ"はそれ以上何も言わなかった。
ただ、両腕を持ち上げる。
いつものように。
「……だっ、こ……」
男はわずかに目を逸らした。
「……後でな」
いつものように受け流す。
"それ"は不満を示すでもなく、怒るでもなく、腕を下ろした。
そして、ぺたぺたと窓際へ向かう。
男は靴を脱ぎながら、その背中を見る。
"それ"は窓の前で立ち止まった。
カーテンの隙間から、外を見ている。
雨に濡れた道路。
街灯に滲む水滴。
水たまりに広がる波紋。
それらを、じっと見ていた。
「……おそと」
小さく言う。
次に、ガラスに指先を当てる。
「……びちゃ、びちゃ」
男はその言葉に、しばらく返事をしなかった。
外。
雨。
水。
"それ"が水に強いことは、もう分かっている。
風呂に入れば、長く沈む。
水の中で泳ぐ。
雨の音にも反応する。
窓に当たる水滴を、いつまでも見ていることもあった。
毎日、この部屋の中だけ。
テレビと、音の鳴るおもちゃと、限られた食事。
それで足りるはずがない。
そう思った瞬間、男は自分の考えにわずかに戸惑った。
足りるはずがない。
何を基準に。
何を心配している。
これは未知の生き物だ。
外に出せば、騒ぎになる。
見つかれば、間違いなく面倒なことになる。
常識的に考えて、やめるべきだ。
そう分かっている。
……そう、分かっているはずなのに。
"それ"は、窓の外を見ている。
無表情のまま。
けれど、目だけは雨を追っている。
水たまりに落ちる一粒一粒を、逃さないみたいに。
男は、ゆっくり息を吐いた。
「……少し」
自分でも、声が緊張しているのが分かった。
「少しだけ……散歩でもするか」
"それ"が振り向いた。
意味を理解したのかは分からない。
だが、反応は早かった。
目が、こちらを捉える。
足が、一歩近づく。
「……おそと?」
「ああ」
男は答えながら、すでに後悔しかけていた。
まずい。
どう考えてもまずい。
だが、一度口に出した言葉は戻らない。
男は押し入れを開ける。
数日前、念のため買っておいた子供用のレインコートを取り出した。
買った理由は、まだ自分でもうまく説明できない。
必要になるかもしれない。
そう思っただけだ。
黄色では目立つ。
だから選んだのは、くすんだ灰色のものだった。
フードが深く、顔が隠れやすい。
男はそれを広げる。
「……これを着る」
"それ"はじっと見ている。
「外では…顔をあまり見せるな。大きな音も。勝手に離れるのもダメだ」
言ってから、通じるかどうか分からないことに気づく。
"それ"は首を傾げた。
「……?」
男はこめかみを押さえる。
「……とりあえず、俺のそばにいろ」
その言葉にだけ、"それ"は少し反応した。
「……そば」
「ああ。そば」
男はレインコートを"それ"に被せる。
袖に腕を通す。
"それ"の手は細く、指は長い。
袖口から出たその手を見て、男は少し考え、ポケットにしまわせる。
「手も出すな。できるだけ」
"それ"は袖の中で指を動かした。
不思議そうに、布の感触を確かめている。
フードを深く被せる。
顔が陰に隠れる。
これなら、一瞬見ただけでは分からない。
少なくとも、雨の日の夜なら。
男は玄関へ向かう。
靴を履く。
"それ"には、用意していた小さめのサンダルを履かせる。
歩けるか確認する。
ぺた、と一歩。
少しぎこちない。
だが、歩ける。
男は傘を手に取った。
ドアノブに手をかける。
その前に、一度だけ振り返る。
"それ"はフードの奥からこちらを見ていた。
瞬きの少ない目。
だが、いつもよりほんの少し、視線が忙しい。
外へ出られる。
それを分かっているのかもしれない。
男は小さく息を吐く。
「……ほんとに、少しだけだぞ」
そう言って、扉を開けた。
湿った夜の空気が、部屋の中へ流れ込んだ。
▽
外へ出た瞬間、雨の音が近くなった。
屋根を打つ音。
道路に落ちる音。
排水溝へ流れ込む音。
車のタイヤが水を踏み潰す音。
普段なら、ただの雑音として処理していたものが、今は妙に多層的に聞こえる。
理由は分かっていた。
隣にいる"それ"が、音に反応しているからだ。
灰色のレインコートを着た"それ"は、フードを深く被っている。
顔の大半は陰に隠れているが、それでも緑色の目だけが、雨に濡れた世界をじっと見ていた。
瞬きは少ない。
けれど、視線は忙しい。
地面。
水たまり。
街灯。
傘。
雨粒。
見るものすべてが初めてだと言わんばかりに、目が動く。
「……俺から離れるなよ」
男は低く言った。
"それ"は反応しない。
聞いていないわけではない。
意味を完全には理解していないだけだ。
男は小さく息を吐き、傘を少し傾ける。"それ"のフードに雨が当たらないように。
その動作に、自分で少しだけ引っかかる。
見つからないようにするため。
濡れて目立たないようにするため。
そう理由づけはできる。
だが、実際にはそれだけではない気がした。
"それ"が足を止めた。
視線の先には、水たまりがあった。
街灯の光を受けて、薄く揺れている。
雨粒が落ちるたびに、丸い波紋がいくつも重なり、消えていく。
「……びちゃびちゃ」
"それ"が呟いた。
言葉としては拙い。
だが、そこには確かな反応があった。
次の瞬間、"それ"は男の傘の下から一歩出た。
「おい」
止める間もなく、水たまりに足を入れる。
ぴちゃ。
小さな音。
"それ"は足元を見る。
もう一度。
ぴちゃ。
今度は少し強く。
水が跳ねる。
フードの下で、"それ"の目がわずかに揺れた。
表情は変わらない。
口元も動かない。
それでも、何かが明らかに変わった。
"それ"は水たまりの中で、ゆっくりと回り始めた。
ぴちゃ、ぴちゃ。
小さな足が水を叩く。
くるり。
また、くるり。
回転はぎこちない。
人間の子供のように跳ねるわけでも、踊り慣れた者のように軽やかなわけでもない。
ただ、雨音に合わせるように。
水の感触を確かめるように。
"それ"は、水たまりの中でゆっくりと回り続ける。
そして、音を出した。
「……ぁ……ぅ……ん……」
歌、とは言い切れない。
声というより、音に近かった。
喉から出ているはずなのに、どこか遠くで反響しているような響き。
雨に濡れた路面に触れて、薄く広がり、返ってくる。
不器用だった。
音程は揺れている。
リズムも崩れている。
言葉にもなっていない。
……けれど、不思議と耳に痛くない。
むしろ、優しい。
雨音の隙間に入り込んで、水面の波紋みたいに広がっていく。
「おい、あんまり離れ───」
言いかけて、男は止まった。
"それ"は回っている。
水を跳ねさせながら。
雨を受けながら。
不完全な音を、何度も喉からこぼしながら。
楽しそう、という言葉が浮かんだ。
表情はない。
笑ってもいない。
だが、それでも。
これはたぶん、楽しいのだ。
男はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
雨の音。
水を踏む音。
"それ"の不完全な歌。
それらが混ざり合って、夜の路地にだけ存在する小さな空間を作っていた。
見つかったらまずい。
早く帰るべきだ。
そんな判断は、頭の中で何度も出ている。
だが、声にできなかった。
止められなかった。
男はただ、傘を差したまま、それを見ていた。
どこか、目を奪われていた。
自覚はなかった。
ただ、胸の奥の何かが、ほんの少しだけ緩むような気がした。
しばらくして、男はようやく"それ"を傘の下へ戻した。
「……もういいか」
"それ"は水たまりを振り返る。
「……びちゃびちゃ」
「ああ。びちゃびちゃだな」
自分でもよく分からない返事をして、男は歩き出した。
雨の日の商店街は、人が少なかった。
シャッターを下ろしている店もある。
開いている店からは、白い明かりと、湿った空気に混ざった食べ物の匂いが漏れていた。
その中で、"それ"が急に足を止めた。
男も止まる。
「どうした」
"それ"の視線は、一軒の店に向いていた。
魚屋。
店先には氷が敷かれ、その上に魚が並んでいる。切り身のパックもいくつか置かれている。
"それ"は動かない。
フードの奥から、じっと見ている。
視線の先を追って、男はすぐに理解した。
サーモン。
「……分かりやすいな」
小さく呟く。
店のおばさんが、こちらに気づいた。
「あら、いらっしゃい。こんな雨の中、大変だねぇ」
男は軽く会釈する。
"それ"は男の後ろに半分隠れながら、まだサーモンを見ている。
おばさんは目を細めた。
「あら、かわいらしい娘さんねえ」
男の動きが止まった。
「……娘」
「そうよ、娘さんでしょ? 小さいのにおとなしくて偉いねえ」
心臓が、妙な跳ね方をする。
違う。
そう言うべきだった。
娘ではない。
そもそも人間ですらない。
いや、それ以前に、ここで会話を長引かせるのは危険だ。
"それ"が、不思議そうに顔を上げようとした。
フードの奥から、緑色の瞳が見えかける。
まずい。
男は反射的に声を出した。
「あ、おばさん。サーモン二キロください」
「二キロ?」
おばさんの顔がぱっと明るくなる。
「そんなに買ってくれるのかい? まいど!」
注意が逸れた。
男は内心で息を吐く。
おばさんは上機嫌でサーモンを包み始める。
「娘さん、サーモン好きなの?」
「……まあ」
「いいねぇ。いっぱい食べて大きくなりな」
"それ"は意味が分かっているのかいないのか、じっと包まれていくサーモンを見ていた。
男は会計を済ませ、袋を受け取る。
「ありがとね。また来てよ」
「……どうも」
店を離れるまで、男は"それ"のフードを少しだけ深く被せていた。
帰り道。
雨はまだ降っていた。
袋の中には、二キロ分のサーモンが入っている。
男は歩きながら、隣の"それ"を見る。
「……さっきのは危なかった」
"それ"は前を見ている。
「顔を上げるなって言っただろ。いや、言ってないかもしれないけど……とにかく、人前では顔を出しちゃダメだ」
返事はない。
"それ"はどこか上の空だった。
「聞いてるのか?」
男がそう言うと、"それ"はゆっくり手を上げた。
指差す。
男はその先を見る。
少し前を、親子が歩いていた。
父親らしき男と、小さな子供。
ひとつの傘に入って、手を繋いでいる。
子供が水たまりを避けようとして、父親が少しだけ手を引く。
子供が笑う。
父親も、何か言って笑う。
雨の中の、ありふれた光景だった。
"それ"は、それを見ていた。
じっと。
いつもの観察とは違う。
何かを測っている目ではない。
もっと、遠いものを見るような目。
届かないものを見ているような目。
───羨望。
その言葉が、男の中に浮かぶ。
"それ"は、ゆっくりと男を指差した。
「……ぱ……ぱ?」
声は小さい。
雨音に混じって、消えそうだった。
男はすぐには答えなかった。
否定する言葉は、もう用意されている。
違う。
俺は君の父親じゃない。
拾っただけだ。
いつもなら、そう言えば済む。
だが、今は少しだけ言葉が遅れた。
男は前を向く。
親子の背中が、雨の向こうへ遠ざかっていく。
「……違うよ」
声は、思っていたより柔らかかった。
「俺は……そういうのじゃない」
"それ"は男を見る。
理解したのかは分からない。
ただ、指を下ろした。
そのまま、何も言わずに隣を歩く。
男は傘を少しだけ"それ"の方へ傾けた。
雨が、肩に当たる。
冷たい。
それでも、傘を戻す気にはならなかった。
部屋へ帰る道を、二人で歩く。
水たまりを踏む音が、ひとつ増えている。
以前なら気にも留めなかったその音が、妙に耳に残る。
男は袋を持つ手に力を込めた。
サーモンが、ずっしりと重い。
こんな量、ひとりなら絶対に買わなかった。
そう思ってから、男は小さく息を吐いた。
もう、ひとり分ではない。
それを認めるには、まだ少しだけ早い。
けれど、否定するにはもう、遅すぎる気がした。
「──ぁ──ぅ───ぁ──い」
雨音の中で、"それ"がまた小さく音を漏らす。
さっきの歌の切れ端みたいな、不器用な響き。
男は何も言わなかった。
ただ、その音を聞きながら、家へ向かった。




