第四話『糸の切れる音』
「───魘」
「グォ───ッッ」
案外、魘はすぐには襲いかかってこなかった。
荒い呼吸を繰り返しながら、崩れた外壁の向こうに立っている。
肩は大きく上下し、口元からは白い息にも似た唾液混じりの呼気が漏れていた。
額から頬にかけて走る傷から血が伝い、首筋を通って服の襟元へ吸い込まれていく。
山を一直線に突き抜けてきたせいだろう。
腕にも、肩にも、脚にも、細かな裂傷が無数に残っていた。
それでも、痛がる様子はない。
自分が傷ついていること自体、理解していないように見える。
「ハァ……ッ」
魘の喉から低い息が漏れた。
緇は陽菜の前へ立ったまま、その巨体を見据えている。
六本の腕はまだ完全には構えていない。
だが、その全てが僅かに開き、いつでも動ける位置へ収まっていた。
翳も翼を広げたまま、魘の動きを注意深く追っている。
三人の間に、妙な静寂が落ちた。
誰も動かない。
魘もまた、こちらを見ている。
――ように見えた。
陽菜の眉が、僅かに寄る。
「……?」
何かがおかしい。
魘の血走った目は、確かにこちらへ向けられている。
陽菜も、緇も、その視界には入っているはずだった。
だが、その視線はずっと彼女たちだけを捉えているわけではない。
時折、ほんの一瞬だけ逸れる。
陽菜たちの脇を通り越し、さらにその奥へ。
崩れた施設、その山側───今まさに陽菜たちが開こうとしていた、隠し区画の入口がある方向へ。
一度だけではない。
魘は何かを確かめるようにそちらを見ては、また陽菜たちへ視線を戻していた。
「……」
陽菜は何も言わず、その目線の先を追った。
やはり見ている。
施設そのものではない。正確には、その地下深くに隔離されている混合個体がいる方角を。
偶然と片づけるには、不自然だった。
そもそも魘は、つい先ほどまでこの場所から遠ざかっていた。
何者かに追われて戻ってきたわけでも、途中で陽菜たちを発見して進路を変えたわけでもない。
三キロ以上離れた地点から、突然反転したのだ。
そのまま山肌を破壊しながら、ほとんど一直線にここまで戻ってきた。
そして今も、目の前にいる自分たちだけを見ているわけではない。
「……まさか」
陽菜が小さく呟くと、緇がわずかに顔だけを動かした。
「なに?」
「いえ……」
陽菜はすぐには答えなかった。
まだ分からない。確信するには根拠が足りない。
ただ、胸の奥に引っかかっていた小さな違和感が、急速に輪郭を持ちはじめていた。
魘がここへ戻ってきた理由。
それが、もし――。
「ハァッ……!」
考えを遮るように、魘の呼吸が一段荒くなる。
その瞬間、緇の身体がわずかに沈んだ。
六本の腕に力が入り、戦闘へ移る気配を察した陽菜がすぐに声を上げる。
「緇ちゃん、待ちなさい」
緇は振り返らなかった。
「なに」
「戦うつもり?」
「そうよ」
「あれを見ても?」
「見てるわ」
「ならわかるでしょう」
珍しく、陽菜の声からいつもの軽さが消えていた。
「あれは、まともに相手をする個体じゃない。少なくとも今ここで、無理に倒す必要はないわ。一旦、距離を取る。翳と上から離れて――」
「無理ね」
短く返され、陽菜の眉が寄る。
「……緇」
「逃げても追ってくる」
緇の声は淡々としていた。
視線の先には、魘の足元に散らばる瓦礫と、そのさらに向こう───山肌を一直線に抉りながら、ここまで伸びている破壊の跡がある。
あれだけの距離を、この男は力任せに戻ってきた。
生半可な距離では振り切れない。
そう判断しているのだろう。
緇は六本の腕を、ゆっくりと広げていった。
最上段の右腕を持ち上げ、それに合わせて左腕も開く。
中央の二本は魘の上半身へ備えるように前へ出し、下側の二本は低く構えて脚の動きを警戒する。
六本すべてが、それぞれ異なる役割を持つように配置されていく。
「それに、どのみち倒さなければならない相手よ」
陽菜の顔がわずかに強張った。
「それが今か、先かの違い」
「……」
「あなたたちは離れて」
「待ちなさい」
「陽菜」
そこで初めて、緇が横顔だけをこちらへ向けた。
「あなたを守りながら戦える相手じゃない」
陽菜が言葉を詰まらせる。
「翳」
「ん〜……?」
「陽菜をお願い」
「あらぁ〜……私、本人に頼まれてもないんだけどねえ〜」
気怠げな口調でそう返しながらも、翳はすでに陽菜の側まで移動していた。
何かあれば、すぐに連れ出せる位置。
陽菜もそれに気づく。
「二人とも――」
「早く」
緇の声が、わずかに強くなった。
その間にも魘は荒い呼吸を繰り返し、血走った目をせわしなく動かしている。
緇を見る。
その向こうを見る。
隠し区画のある方向へ視線を向け、また戻す。
陽菜は、その一連の動きを見逃さなかった。
だが、それについて問いを口にするより先に、緇が一歩前へ出た。
瓦礫を踏みしめ、乾いた硬い音を響かせる。
魘の視線が、緇へ向いた。
そして、ほんの一瞬だけ。
荒れ狂っていた呼吸が止まった。
緇は黙ったまま、その顔を見つめる。
血と泥にまみれ、怒りと狂気に染まった顔。
かつて知っていた面影など、ほとんど残っていない。
体格も顔つきも、身体の作りそのものさえ、人だった頃とは比べものにならないほど変わっている。
それでも。
目の前にいるものが誰なのか、緇には分かっていた。
被検体だった頃。
まだ番号ではなく。
まだコードネームでもなく。
名前を呼ばれていた頃。
同じ場所に閉じ込められ、同じように扱われ、同じように少しずつ人間ではなくなっていった男。
ふと、随分昔の声が蘇った。
『……僕、成功個体になれるかな』
適合検査を終えたあとだった。
壁際へ座り込み、大きな身体を小さく丸めながら、男はぽつりとそんなことを言った。
緇は隣に立ったまま、呆れたように眉を上げる。
『なによ、急に』
『だって……まだ、一人も出てないんでしょ。成功個体』
『そうね』
『だったら、僕も失敗するかもしれないし……』
緇は男の全身を上から下まで眺めた。
背も高い。
肩幅も広い。
被検体の中でも、昔から一際目立つ体格をしていた。
『そのでかい図体で、意外と悲観的なのね』
『ず、図体は関係ないだろ……!』
男が慌てて顔を上げる。
その反応が少し面白くて、緇は小さく笑った。
『じゃあ、成功したらどうするの?』
『え?』
『なにかあるから、そんなに気にしてるんでしょう』
男は少し黙った。
それから、妙に落ち着かない様子で視線を泳がせる。
『……成功したら』
『うん』
『墨橋さんのところで、働けたらいいなって』
『……陽菜の?』
男の肩がぴくりと跳ねた。
『べ、別に変な意味じゃなくて! その……研究とか、色々やってるし、僕でも役に立てるならって……』
『ふぅん』
『な、なんだよ』
『別に』
緇はそれ以上追及しなかった。
追及する必要もなかった。
陽菜が部屋へ入ってくるたびに目で追い、声を掛けられれば露骨に背筋を伸ばし、少し褒められただけで一日中機嫌がいい。
本人以外には、ほとんど隠せていなかった。
『まあ、なれるんじゃない?』
『……成功個体に?』
『さあ。知らない』
『なんだよ、それ……』
困ったように笑った男の顔を、今でも覚えている。
その男が今は。
血に濡れた巨体となって、自分の前に立っていた。
緇の唇が、わずかに開いた。
「───ここで終わらせてあげるわ、透」
その名が口にされた瞬間、魘の顔がほんの僅かに動いた。
焦点の定まっていなかった血走った瞳が、一瞬だけ緇を捉える。
荒々しく上下していた肩も止まり、獣のように乱れていた呼吸が、そこで初めて途切れた。
言葉の意味を理解したのか。
それとも脳の奥深くに残っていた何かが、かつて自分を呼んでいた音に反応しただけなのか。
それは誰にも分からない。だが、確かに反応した。
陽菜がその変化を見逃さず、息を呑んだ直後だった。
魘の喉から低い唸り声が漏れる。
巨体が深く沈み込み、次の瞬間、踏み込んだ足元で瓦礫が爆ぜた。
緇との間にあった距離が、一息のうちに消失する。
真正面から振り抜かれた拳は、あれほど巨大な肉体から繰り出されたものとは思えないほど速かった。
「───!」
それでも、緇は後ろへ退かなかった。
魘の肩が沈んだ時点で、すでに拳の軌道を読んでいる。
打撃が顔面へ届く寸前、半歩だけ身体を外側へ滑らせると、耳元を通過した風圧に長い髪を大きく煽られながら、そのまま懐ではなく側面へと潜り込んだ。
六本の腕が同時に動く。
手の甲から伸びた黒い刃が、薄暗い森の中で鈍い光を返した。
上段の二本が肩と首筋へ。
中央の二本が脇腹へ。
下段の二本が腿と膝裏へ。
六条の黒い軌跡が、ほとんど同時に魘の身体を駆け抜ける。
肉の裂ける音が重なった。
肩口から血が噴き上がり、脇腹には斜めに深い裂傷が刻まれ、太腿からも赤い飛沫が散る。
コンクリートすら容易に切り裂く緇の黒刃なら、本来であれば肉の奥にある骨ごと断ち切っていても不思議ではない。
だが、刃先から返ってきた感触は途中で止まった。
緇はそのまま魘の背後へ抜けると、手応えを確かめるように僅かに目を細める。
肉までは入る。
そこまでは問題ない。
しかし、その先───骨へ届いた瞬間、黒刃が弾かれていた。
「……まるで鉄柱ね」
感心したような声音とは裏腹に、緇の身体はすでに次の攻撃へ移っている。
魘が振り返る。
その動作すら、緇にとっては隙でしかない。
右から薙ぎ払われた腕を身体を沈めて潜り抜けると、起き上がる勢いのまま二本の刃を胸元へ滑らせた。
皮膚の薄い箇所を選び、同じ傷口へ二度。角度を変えて三度。
魘が左拳を振り下ろせば、その一撃が地面へ落ちるより先に懐から抜け出し、今度は背後へ回って膝裏を深く切り裂く。
巨体の膝が一瞬沈んだ。
その僅かな揺らぎへ、さらに黒刃が走る。
緇の戦い方には、ほとんど無駄がなかった。
真正面から力を競うことはしない。
魘の拳を受け止めようともしない。
相手が攻撃のために身体を動かせば、その動きによって生まれた死角へ滑り込み、一度に六本ある刃のうち最低でも二本、
多ければ四本を同時に叩き込んでから、反撃が始まる前には別の位置へ移っている。
一対一の戦闘というより、魘の周囲を黒い影が絶えず駆け回り、その度に新しい傷だけを刻んでいるようだった。
右肩。
左脇腹。
腿。
背中。
首筋。
次々と裂傷が増えていく。
それでも骨までは届かない。
ならば、無理に断つ必要などない。
腱を狙えばいい。筋肉を裂けばいい。血を失わせ、毒を流し込み、一つずつ身体の機能を奪っていけばいい。
魘が低く唸りながら、大きく腕を振り回す。
緇はその射程から滑るように抜け、離れざまに僅かに口を開いた。
吐き出された白い糸が、魘の顔面へ飛ぶ。
白繭のものとは違い、太さは僅かに不揃いで、狙った一点へ正確に巻きつけるほどの精度もない。
それでも、緇にとっては十分だった。
一本が頬へ、もう一本が鼻梁へ張りつき、そのうち数本が目元に掛かる。
魘が反射的に顔を振った。
一瞬、視界が潰れる。
そのときにはもう、緇は懐へ潜り込んでいた。
左脇腹へ三本。
胸元へ一本。
腿へ二本。
六枚の黒刃がほとんど間を置かず肉を裂き、その開いた傷口へ、緇は至近距離から毒液を吐き込んだ。
「グ……ォオッ!」
さすがの魘も巨体を大きく震わせる。
緇は欲張らず、すぐに距離を取った。
追わない。
必要以上に深く入らない。
魘が力任せに糸を引き千切り、顔を乱暴に拭いながらこちらを探している間にも、毒は開いた傷口から確実に体内へと入り込んでいく。
右脚はすでに深く裂かれ、左脇腹からは大量の血が流れ、片目にはまだ糸が残っている。
それでも前へ出てくることだけは異常だったが、その動きは明らかに鈍っていた。
緇はその変化を冷静に見ている。
真正面から力をぶつければ負ける。
なら、相手が攻撃を出すまで待てばいい。
空振らせるたび、傷を増やす。
それで十分だった。
魘が再び突っ込んでくる。
大振りの右拳。
「馬鹿の一つ覚えね」
緇は左へ外れる。
続いて振るわれる左腕には、今度は内側へ潜った。
黒刃が閃き、二の腕を深く切り裂く。
魘が振り返ろうとした頃にはもう背後へ回り、膝裏へ一本、腰へ二本。
巨体が前へ傾けば追わずに離れ、身体を起こした瞬間には再び側面から刃を入れる。
完全に翻弄していた。
少なくとも、陽菜の目にはそう見えた。
魘の攻撃は一度として緇を正確に捉えていない。
対して、緇の刃はほとんど外れていなかった。
時間を掛ければいい。
この状態を崩さず続ければ、勝てる。
陽菜がそう判断し始めた頃、緇が再び魘の右側へ回り込んだ。
すでに裂傷の集中している腕へ黒刃を滑らせ、肘の近くを深く抉る。
次の瞬間、内部で何かが耐えきれずに砕ける鈍い音が響いた。
魘の右腕が、不自然な方向へ折れ曲がった。
肘から先が力なく垂れ下がる。
「───終わりね」
緇はそう呟き、即座に距離を取ろうとした。
そのときだった。
垂れ下がっていたはずの腕が動いた。
「……?」
拳ではない。
もう握れない。
肘の関節も機能していない。
だから魘は、その腕を腕として使わなかった。
肩を軸に、壊れた右腕そのものを巨大な棍棒のように振り回した。
緇の目が僅かに見開かれる。
予備動作が違う。
拳を打ち出すのではない。
肩から先を、ただ質量として叩きつけている。
それまで読んでいた攻撃とは、軌道も間合いも違った。
(避けきれない…っ!)
判断した瞬間、緇は六本のうち二本を前方へ回した。
直後。
壊れた腕が、その二本へ直撃する。
重い衝突音とともに、黒い外殻が軋んだ。
衝撃が腕を貫き、肩から胸へ届いた瞬間、緇は力に逆らわなかった。
むしろ自分から後方へ跳ぶ。
打撃の勢いを利用するように身体を浮かせ、衝撃を受け流しながら数メートル後方へ飛ぶと、空中で身体を捻った。
両足が地面へ着き、そのまま土を長く削る。
二本の線を残しながら滑った末、緇は片手を地面についてようやく止まった。
その姿勢のまま、しばらく魘を見つめる。
受け止めた二本の腕が痺れていた。
黒い外殻には、細かな亀裂まで入っている。
直撃ではない。
壊れた腕で攻撃され、己の二本の腕を盾にし、防御した。
さらに自分から後方へ飛び、可能な限り衝撃を逃がした。
そこまでして、この威力。
「……まともに喰らえば、終わりね」
低く呟きながら立ち上がる。
足は止まらない。
恐怖に呑まれた様子もない。
ただ、自分の中にある魘の危険度を一段引き上げただけだった。
右腕は壊した。
脚にも傷を入れている。
毒も入っている。
そして今ので、魘が壊れた自分の身体すら攻撃へ転用することも分かった。
ならば次から、それも計算に入れる。
緇は再び姿勢を低くし、六本の腕を広げた。
手の甲から伸びた黒刃には、魘自身の血が細い筋となって滴っている。
次の瞬間、その姿が地面を蹴って消えた。
魘の左側。
一閃。
胸元。
二閃。
そのまま背後へ抜けながら、さらに三本。
魘が振り返る。
そこにはもういない。
反対側から再び黒刃が入った。
黒い軌跡が途切れない。
一撃で仕留めようとしない分、緇の動きからは余計な迷いが消えていた。
魘が何を振り回そうと、その射程の外へ抜け、空振った瞬間にだけ懐へ入る。
肉を裂く。
離れる。
動けばまた裂く。
ただ、それだけを繰り返す。
陽菜は、その攻防を食い入るように見つめながら、端末上の数値へ素早く視線を落とした。
魘の出血量。
傷の位置。
毒を入れた箇所。
呼吸数。
右脚への負荷。
重心の偏り。
頭の中では、いくつもの情報が同時に組み上げられていく。
緇が優勢なのは間違いない。
だからこそ、余計な援護は入れられなかった。
陽菜自身が前へ出れば、魘の一撃で終わる。
翳に攻撃させることもできる。
だが、緇ほど正確に魘の死角へ入り続けている相手がいる状況で、中途半端に攻撃を重ねれば、緇の回避先や踏み込みを潰す可能性がある。
魘の動きを止められる手段は。
周囲の地形は。
施設側に使える設備は残っていないか。
距離を取らせる方法は。
陽菜の視線が戦場と端末の間を何度も往復する。
普段なら、もう少し早く整理できているはずだった。
だが今日は、思考の隅にどうしても一つだけ余計な情報が居座っている。
───緇が一度でも捕まれば、終わる。
その可能性だけが、消そうとしても消えなかった。
「───っ、」
陽菜は小さく奥歯を噛んだ。
焦るな。
今は緇の動きを邪魔する方が危険だ。
今すべきことは、介入することではなく、介入が必要になった瞬間に使える手段を一つでも多く作っておくこと。
そう自分に言い聞かせながら、陽菜は周囲へ視線を走らせ続けた。
そのとき。
「ゴ、ゥ───」
魘の動きが止まった。
緇も、踏み込みを止める。
血に濡れた巨体が僅かに俯き、肩を大きく上下させていた。
荒い呼吸。
足元には、魘自身から流れ落ちた血がいくつもの黒い染みを作っている。
効いている。
間違いなく。
「もう疲れたの?情けないわね」
緇は距離を保ったまま、あえて動かない。
ここで自分から入る必要はない。
やがて魘が顔を上げた。
血走った両目が、真っ直ぐに緇を捉える。
次の瞬間。
「ゴォオオオオオオオオ───ッッ!!」
咆哮が森を揺らした。
空気そのものが震え、陽菜は思わず片手で耳を塞ぐ。緇も僅かに眉を寄せたが、その視線は魘から逸らさない。
魘はそのまま、健在な左腕を大きく振り上げた。
緇は即座に身体を沈め、来る攻撃へ備える。
だが、振り下ろされた拳が向かったのは緇ではなかった。
─────地面だった。
巨大な拳が土を叩きつけた瞬間。
轟音とともに地面が大きく抉れ、乾いた土と砕けた小石が爆発するように周囲へ巻き上がった。
「っ……!」
視界が、一瞬にして茶色に染まる。
陽菜からも翳からも、緇と魘の姿が完全に見えなくなった。
「くろちゃん…!」
「緇!」
陽菜と翳の声が上がる。
だが、土煙の中心にいた緇は動揺していなかった。
「……目くらまし」
小さく呟くと、すぐに視覚へ頼ることを捨てる。
あれほどの巨体だ。
どれほど視界を奪おうと、完全に存在まで消せるわけではない。
足音、土の擦れる音、荒い呼吸、瓦礫の動く音――あの体格ならば、僅かに身体を動かすだけでも必ず何かが鳴る。
緇は六本の腕を広げたまま、土煙の中で静かに耳を澄ませた。
右側から音。
違う。
正面で石が僅かに転がり、その直後、左前方から重い何かが土を踏み込む音が響いた。
「――そこね」
緇が踏み込む。
土煙を切り裂き、六本の黒刃が同じ方向へ一斉に殺到した。
霞んだ視界の向こうに、巨大な輪郭が浮かぶ。
間違いない。
上段の刃が肩へ、中央の二本が胴へ、下側の刃が腿へ向かう。
その瞬間。
土煙の奥から、何かが突き出された。
緇の黒刃が、それへ食い込む。
「――?」
先ほど緇自身が破壊した、魘の右腕だった。
力など入らない。拳すら握れず、本来ならもう使い物にならないはずの腕を、魘は自ら前へ差し出していた。
────盾として。
黒刃が肉を深く裂き、そのうち一本はほとんど骨に届く。
それでも、止まった。
やはり骨までは断てない。
その瞬間、緇の脳裏に違和感が走る。
───さっきまでと違う。
壊れた腕を振り回したときもそうだった。
こいつは、傷ついた自分の身体の使い方を変えている。
そしてその一瞬、攻撃のために緇の六本の腕が前方へ集まる。
薄れていく土煙の向こうから、魘の顔が現れた。
低い。
巨体を、緇の懐へ潜り込むほど深く沈めている。
左肩が落ちていた。
「───っ」
緇がその意味に気づいたときには、すでに遅かった。
魘の左拳が、下から跳ね上がる。
アッパー。
黒い外殻ごと、真正面から緇の腹部へ突き刺さった。
「ぐ、ぅ─────ぁ」
硬質な破砕音が響き、緇の身体がくの字に折れる。
息を吐く暇すらなかった。
凄まじい衝撃が腹部を貫いた次の瞬間には、両足が地面から離れていた。
「緇――!」
陽菜の叫びが響く。
翳は思わず、両手で口元を抑える。
緇の身体は土煙を突き抜け、そのまま空へと打ち上げられた。
五メートルを越え、さらに上へ。
十メートル近い高さまで持ち上げられ、地上に立つ魘の姿が急速に小さくなっていく。
その途中、緇の視界の端を何か黒いものが追い越した。
腹部を覆っていた、砕けた外殻だった。
大小いくつもの破片が陽光を受けながら回転し、緇より先にゆっくりと落下を始める。
その光景を、緇はぼんやりと見つめていた。
息ができない。
腹部の感覚もない。
だが数瞬遅れて、身体の奥深くから焼けるような痛みが一気に広がってきた。
やがて上昇が止まり、ほんの一瞬だけ身体が宙に浮く。
そして、落下が始まった。
重力に引かれ、緇の身体が頭から傾いていく。
どうにか姿勢を戻そうと腕を動かしたが、力が入らない。
空と木々と施設が、視界の中でゆっくりと反転していく。
次の瞬間。
背中から地面へ叩きつけられた。
「――――ッ」
声すら出なかった。
衝撃で身体が一度だけ跳ね、そのまま土の上へ沈み込む。
少し遅れて、空中へ舞い上がっていた黒い外殻の破片が、乾いた音を立てながらぱらぱらと周囲へ降り注いだ。
「緇……っ!緇───!!!!」
陽菜の叫びが、森の中へ響いた。




