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第三話『ひび割れる静寂』

指先につまんだ糸を、木々の隙間から差し込む光へ透かす。



角度を変えるたび、細い糸の表面を白銀の光沢がすっと走った。


太さは髪の毛と大差ない。途中で不自然に千切れていること以外、見た目にこれといった特徴もなかった。



引っ張ってみても簡単には切れない。だが、それだけだ。



何でできているのか。


なぜ死んだ暴走個体の身体に付着していたのか。



そして――なぜ、生体音の消えたあの身体がもう一度動いたのか。



眺めているだけでは、答えには辿り着けそうになかった。



「……ん」



空いていた左手に、小さな感触が触れた。


視線を落とすと、みぎわが月島の指を握っている。そのまま身体を寄せ、月島がしていたのを真似するように首を反らして、光に透ける糸をじっと見上げていた。



「これ、なに?」



「ああ、この糸が何なのか調べてる」



「いと……?」



「ああ」



分かっているのかいないのか、みぎわはもう一度だけ糸を見上げると、「んー……」と難しそうに眉を寄せた。


どうやら一緒に考えているらしい。



もっとも、数秒もすると諦めたのか、糸ではなく月島の手を弄り始めた。一本ずつ指を触り、握ったり開いたりしている。


その様子を横目に見ていると、



「貸してほしいッス」



横から手が伸びてきた。


顔を向けると、斑が月島の肩越しに糸を覗き込んでいる。



「何か分かるのか?」



「ふっふっふ……」



斑はなぜか胸を張った。



「こういうときこそ、ボクの出番ってわけッスよ」



月島は数秒その顔を見たあと、黙って糸を手渡した。



「…………」



「…………」



「いや、なんかないんスか?」



「何がだ」



「『さすが斑だ』『頼りにしてるぞ』とか」



「まだ何もしてないだろ」



「結果を出す前に褒めて伸ばすタイプじゃねえんスか、てるるん」



「その呼び方をやめたら考える」



「じゃあ一生無理ッスね」



「なら諦めろ」



「判断が早いッス!」



横で粉雪が、二人を見比べながら困ったように笑う。



「月島さん、斑ちゃんにはもう少し優しくしてあげても……」



「粉雪」



「はい?」



「こいつは甘やかすと増長する」



「本人の前で言うことじゃなくないッスか!?」



「聞こえるように言った」



「ひどいッス!」



騒ぐ斑を無視していると、みぎわが月島の腕に抱きついたまま斑を見上げた。



「まだら、うるさい」



「みぎわちゃん!?」



月島は思わず黙った。


粉雪も口元を押さえている。



「……今の、てるるんが仕込んだッスか?」



「何も教えてない」



「絶対普段の態度見て覚えてるッスよね!?」



「子供はよく見ているらしいな」



「他人事みたいに言うなッス!」



みぎわは自分が何を言ったのかもよく分かっていないらしく、月島を見上げて首を傾げている。


月島はその頭を一度撫でてから、斑へ視線を戻した。



「それで?」



「……はいはい。ちゃんと調べるッスよ」



まだ不満そうに頬を膨らませながら、斑は受け取った糸を指先でつまみ直した。



光に透かす。


触る。


軽く引っ張る。



そして最後に、鼻先へ持っていった。



すん、と小さく鼻が鳴る。


月島の眉がわずかに動いた。



「……匂いで分かるのか?」



「知ってる匂いなら、ある程度は」



斑はもう一度鼻を鳴らし、それから得意げに口角を上げた。



「ちなみにボク、てるるんなら目ぇ閉じてても見つけられるッスよ」



「今は糸を調べろ」



「興味なさすぎじゃないッスか?」



「俺の匂いを判別できる能力を、いつ使うんだ」



「迷子になったときとか」



「ならない」



「即答!」



粉雪が小さく吹き出す。


斑は「ほんっと愛想ねえッスねえ」とぼやきながら、再び糸を鼻先へ寄せた。



だが――今度は、そのまま止まった。



月島もそれに気づき、口を閉じる。


先ほどまで忙しなく動いていた斑の目が、細い糸へ固定されている。



一度離し、また嗅ぐ。


指先で裏返すように角度を変え、もう一度。



繰り返すうちに、斑の口元から笑みが消えていった。



「斑ちゃん?」



粉雪が呼ぶ。



返事はすぐにはなかった。


やがて斑は、糸を見つめたまま低く息を吐く。



「……だいぶ薄いッスね。雨とか、土とか、他の匂いも混ざってるんで……絶対とは言えないッスけど」



そこで一度、言葉が途切れた。



「たぶんこれ、シロ先輩のッス」



「シロ先輩?」



月島が聞き返すと、粉雪が「あ……」と声を漏らした。



「白繭(しろまゆ)さんです」



「白繭(しろまゆ)……」



聞き覚えのない名前だった。


斑はまだ糸を見ている。



「特別認定候補の人ッスよ」



「特別認定候補?」



「緇さんと同じ、特別認定を受ける候補のアベラントです」



粉雪が説明する。


月島は一度だけ粉雪へ目を向け、すぐに斑へ戻した。



先ほどまでなら、何か余計な一言を挟んできてもおかしくない。


だが、何も言わない。



「そいつは、糸を使うのか?」



尋ねると、斑の指先がわずかに止まった。



「……使うッスよ」



いつもの軽い声音ではなかった。



「細い糸を、いっぱい。罠にしたり、身体に巻きつけたり……そういうのが得意なヤツッス」



斑が糸を差し出す。


月島はそれを受け取りながら、足元へ視線を落とした。



そこには、先ほどまで彼らを襲っていた暴走個体の骸がある。


死んだはずだった。



心臓の音もない。呼吸もない。完全に生命活動を停止していた。


にもかかわらず、動いた。



そして、その身体には白繭というアベラントが使うものと酷似した糸が残されている。


月島は指先の糸を見つめた。



───もし。



あれが蘇ったわけではなかったとしたら。


自分の意思で動いたわけでもなかったとしたら。



脳裏に浮かんだのは、舞台の上から何本もの糸で吊られた操り人形だった。


手足を引かれ、人の意思とは無関係に踊る人形。



先ほどの暴走個体の動きを思い返す。


不自然な起き上がり方。


壊れている身体を無視した挙動。



死んでいるという事実そのものを置き去りにするような動き。



一本の細い糸が、急に別の意味を持って見えた。



もちろん、まだ断定はできない。



斑自身、匂いには確信を持てていない。


仮に白繭の糸だったとしても、この暴走個体が以前どこかで接触した際に付着したものが、偶然残っていただけという可能性もある。



だが。


死体が動いた。


その死体から糸が見つかった。




その糸を操る個体が存在する。



偶然という言葉だけで片づけるには、材料が揃いすぎていた。



「白繭は、今どこにいる」



「分かりません」



粉雪が首を横に振る。



「少なくとも、わたしは何も聞いてないです」



月島は斑を見る。


斑も黙って首を振った。



所在不明。


目的不明。


能力の詳細も分からない。



分かっているのは、緇と同じ『特別認定』の候補ということだけ。


その言葉から、月島は研究施設で見た緇の戦いを思い返した。



敵の動きを捉える速さ。


一瞬で間合いを詰める脚力。


銃弾すら弾く外殻。



そして、相手を仕留めるまでの一切の無駄のなさ。



候補だったからといって、白繭が緇と同等とは限らない。


だが、少なくとも、その領域へ届き得ると判断されるだけの何かを持っていたということだ。



それが姿を見せないまま、こちらへ何かを仕掛けているのだとしたら───。



きゅっ、と左手を握られた。



月島は思考を止めた。


いつの間にか自分の指に力が入っていたらしい。みぎわが少しだけ眉を寄せ、月島を見上げている。



「……悪い」



握る力を緩める。


するとみぎわは、一度自分の手を見てから、今度は自分から月島の指を握り直した。



「ぱぱ」



「ああ」



それだけ答えると、みぎわは安心したように月島の脚へ身体を寄せる。


そのときだった。



「てるるん」



斑が呼んだ。



「なんだ」



「それ、もう捨てていいッスよ」



「糸か?」



「匂いは覚えたんで。もう十分ッス」



月島は指先の糸を見る。



「まだ調べられることがあるかもしれない」



「…………」



「持ち帰って陽菜に――」



「やめといた方がいいッス」



珍しく、斑が言葉を重ねた。



月島は顔を上げる。


斑は笑っていなかった。



「危険なのか?」



「それは……分かんねえッス」



「なら、なぜだ」



斑はすぐには答えなかった。


視線だけが月島の指先へ落ちる。



ほんの数秒。


それから、ぼそりと呟いた。



「……ボクが嫌なんスよ」



「何が?」



「シロ先輩のモノ、てるるんたちがずっと持ってんの」




いつもの語尾だった。


いつもの話し方だった。



けれど、その声には先ほどまでの軽さがない。



月島が理由を尋ねようとすると、斑は先に顔を背けた。



「……ま、気にしなくていいッス」



そう言って、木々の奥へ視線を向ける。


月島はその横顔を見つめた。



普段なら、こちらが聞いてもいないことまで喋る女だ。


余計な一言を挟んでは粉雪に呆れられ、それでも気にした様子もなく笑っている。



その斑が、白繭という名前を出した途端に口を閉ざした。



ただ嫌っているだけなのか。


それとも、何か別の理由があるのか。



判断するには、まだ情報が足りない。


月島は手の中の白銀の糸へ目を落とした。



「これは持って帰る」



「……えぇ」



斑が露骨に嫌そうな顔をする。



「なんだ」



「さっき捨ててって言ったじゃないッスか」



「聞いた」



「聞いたうえで無視したんスか?」



「陽菜にも見せる。お前の嗅覚だけで白繭のものだと断定するつもりはない」



「信用ねえッスねえ」



「慎重だと言え」



「そういうとこッスよ、てるるん」



「その呼び方をやめろ」



「そこは譲らねえッス」



斑がいつもの調子で肩をすくめる。


そのやり取りを見上げていたみぎわが、月島の手を握ったまま斑へ顔を向けた。



「まだら」



「ん? なんスか、みぎわちゃん」



みぎわは少し考えてから、



「……てるるん?」



「覚えなくていい」



月島が即座に遮った。



「ちょっ、なんでッスか! かわいいじゃないッスか!」



「余計な言葉を教えるな」



「ぱぱ、てるるん?」



「違う」



「てるるん」



「違う」



「ふはっ」



斑が吹き出し、粉雪も堪えきれずに口元を押さえる。



「……笑うな」



「いや、だって月島さん……みぎわちゃん、完全に覚えちゃってますよ」



「てるるん」



「忘れろ」



「無茶言うッスねえ」



さっきまでの重い空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


月島は小さく息を吐くと、白銀の糸をなくさないよう折り畳み、ポケットへしまう。



白繭。


特別認定候補。


死んだ暴走個体から見つかった、その個体のものと思われる糸。



そして、露骨にその名を嫌う斑。



確認すべきことが増えた。



戻ったら陽菜に――。




そこで。




――ゴ……。




月島の思考が止まった。



音というには低すぎた。


耳に届くより先に、靴底から僅かな振動が這い上がってきた気がして、月島は足元へ視線を落とす。



「……?」



みぎわも何かを感じたのか、月島の手を握ったまま顔を上げた。



「ぱぱ?」



「待て」



周囲を見る。



風はない。


木々にも、特に変わった様子はない。



斑と粉雪も足を止めていた。



「今、揺れたッスよね?」



「ああ」



「地震でしょうか……?」



粉雪が不安そうに辺りを見回す。


月島が答えようとした、そのとき。




――ゴォ……ン。




今度は、先ほどよりはっきりしていた。



遠い。


かなり遠い。



それでも、地面の奥を通ってくるような重い振動が足の裏へ届き、近くに落ちていた小石が僅かに震えた。



月島は眉を寄せる。



地震。


そう言われれば、それで説明できなくもない。



だが――。



「……なんか、変じゃないッスか」



斑が呟いた。



月島も同じことを考えていた。


揺れは一瞬で収まった。


地面全体が不規則に揺れ続ける地震とは、どこか違う。



まるで。


遠い場所で、何か途方もなく重いものが地面を叩いた。



そんな一度きりの衝撃だけが、ここまで伝わってきたような。



「ぱぱ」



みぎわが月島へ身を寄せる。


月島は黙ってその手を握り返した。



「大丈夫だ」



そう答えた直後。



───ゴォン。



三度目。


今度は、誰も口を開かなかった。



鳥の声が止んでいる。


先ほどまで葉の隙間から聞こえていた小さな羽音も、いつの間にか消えていた。



静まり返った森の中を、低い振動の余韻だけがゆっくりと抜けていく。



月島は遠くへ目を向ける。


木々に遮られ、その先を見ることはできない。



何が起きているのかも分からない。


どこで起きているのかさえ、正確には分からない。



ただ先ほどのものより。


二度目より。



僅かに。


近くなった気がした。



月島の隣で、みぎわの顔が僅かに強張った。


それまで何が起きているのか分からないまま、ただ月島の手を握っていたはずなのに、突然その指先に力がこもる。



「……みぎわ?」



返事はない。

みぎわは月島を見ていなかった。



木々の向こう。


地鳴りが響いてきた方角を、じっと見つめている。

その片目が、不安そうに細められた。



「ぱぱ……」



小さく呼んでから、みぎわは月島の腕へ身体を寄せる。



「こわいひと、くる」



月島の眉が寄った。



「……怖い人?」



みぎわは答えない。


ただ、月島の手を握る力だけが強くなる。



月島はもう一度、森の奥へ目を向けた。



姿は見えない。


人影もない。



聞こえるのは、遠くから断続的に届く、あの低い振動だけ。



だが───みぎわは、何かを感じ取っている。




少なくとも月島には、そう見えた。



「……まさか」



口から漏れた声が、自分でも分かるほど低くなる。



ただの地震ではない。


何かが動いている。



そして、それをみぎわが『怖い人』と呼んだのだとしたら。



「この音……アベラントなのか?」



誰に問いかけたわけでもない。


答えも返ってこない。



遠く。


木々の、そのさらに向こうで。

 


───ゴォン……。



また一つ。


何か巨大なものが大地を踏みつけたように、低い振動が森を抜けてきた。



みぎわは月島から離れようとしなかった。



そして、今度は月島もその小さな手を強く握り返した。




▽





月島たちとは別の道を取り、陽菜と緇は第一施設へ向かっていた。



少し前までは翳も一緒だったが、今は施設周辺の偵察に回している。



翳の姿が木々の向こうへ消えてから、しばらくは二人とも口を開かなかった。



山道を踏む足音と、風に揺れる枝葉の音だけが続いていく。


先を歩いていた緇が、不意に口を開いた。



「……あの子たちだけで、大丈夫かしら」



陽菜が横目を向ける。



「あら」


少し意外そうに眉を上げた。



「なあに、心配してるの〜?」



「してるわ」



緇はあっさり認めた。



「斑は、好き勝手に暴れることしか考えてない。粉雪は索敵には向いていても、正面からの戦闘には向いてない。みぎわはまだ能力も身体も未熟」



淡々と並べられていく評価に、陽菜の口元が僅かに緩む。



「斑ちゃんへの評価だけ、妙に辛辣じゃない?」



「事実よ」



「本人が聞いたら泣くわよ」



「泣かないでしょう」



「まあ、泣かないでしょうね」



陽菜は小さく笑った。


緇は構わず続ける。



「それぞれ役割はある。でも、何か一つ崩れたときに立て直せる人間が少ない。斑は勢いで押し切ろうとするし、粉雪は自分で判断することにまだ慣れてない。みぎわに任せるわけにもいかない」



「ずいぶん細かく見てるのね」



「見てるだけよ」



「それを心配って言うんじゃない?」



「……そうかもしれないわね」



珍しく否定しなかった。

陽菜は少しだけ目を細める。



「でも」



緇が前を向いたまま続けた。



「月島がいる」



「あら」



陽菜の声に、少しだけ面白がるような響きが混じる。



「月島くんは心配じゃないの?」



「心配じゃないとは言ってないわ」



「じゃあ?」



緇は少し考えてから答えた。



「……期待してるのかもしれない」



陽菜の歩幅が、僅かに緩んだ。



「へえ」



「なに?」



「あなたの口からそんな言葉が出ると思わなかっただけ」



「私だって、人を見ることくらいあるわ」



「それは知ってるけど」



陽菜は緇の横顔を覗き込む。



「会ったばかりでしょう?」



「だから信用はしてない」



緇は即答した。



「でも、見たものまで否定するつもりはないわ」



「見たもの?」



「最初に会ったとき、私の攻撃を避けた」



 陽菜の目が僅かに細くなる。



「……あれね」



「あの時点では、ただの人間だと思ってた。それなのに、私が仕留めるつもりで出した一撃に反応した」



「偶然かもしれないわよ?」



「一度だけならね」



緇は淡々と返す。



「そのあと、施設にも入ってきた」



「無茶したわねえ」



「無茶よ。でも、何も考えずに突っ込んだわけじゃない。周りを見て、自分にできることとできないことを判断してた」



緇の脳裏には、施設でのみぎわを抱えた月島の姿が残っていた。



戦えるわけではない。


圧倒的な身体能力があるわけでもない。



それでも、逃げずに前へ進んだ。


粉雪や斑の助けがあったとはいえ、最後までみぎわを手放さず、結果として施設の外まで連れ出した。



「戦闘が強いわけじゃない。でも、状況を見るのが早い。人の動きもよく見てる」



「洞察力?」



「たぶん、それに近い」



緇は少しだけ視線を伏せた。



「斑や粉雪の能力を聞いたときもそうだった。自分が前に出るんじゃなくて、誰をどこに置けばいいかを考えてた」



「指揮官向きってこと?」



「少なくとも、斑よりは」


「また斑ちゃんに厳しい」



「事実よ」



陽菜が吹き出す。


だが、緇は笑わなかった。



「それだけじゃない」



「まだあるの?」



「あるわ」



少し間を置く。



「私たち(アベラント)を、兵器として見てない」



陽菜の笑みが、ほんの僅かに薄くなった。


緇は前を向いたまま続ける。



「少なくとも、私にはそう見える。斑にも粉雪にも、最初から人間に話すみたいに接してた」



「……」



「みぎわには、もっと露骨ね」



緇の声が少しだけ柔らかくなる。



「あの子が何なのか分かってない時から守ってた。アベラントだと分かっても、態度を変えなかった。拾ったからでも、珍しいからでもない」



「じゃあ、何だと思う?」



「一人の子供として見てる」



陽菜は返事をしなかった。


緇は続ける。



「だから、期待してる」



「そこに繋がるの?」



「繋がるわ」



緇が陽菜を見る。



「能力があるだけなら、別に珍しくない。でも、あの男はアベラントを道具として扱わない。そのうえで、必要なら私たちを動かそうとする」



少しだけ目を細める。



「……面白いわ」



陽菜が思わず緇を見る。



「あなたが人に対して『面白い』なんて言うの、かなり珍しくない?」



「そう?」



「そうよ」



「あなたがそう言うんなら、珍しいんでしょうね」



緇は興味なさそうに返した。


陽菜は数歩黙って歩いたあと、ふと口を開く。



「わたしたち付き合い長いものね。でも、どうしてそこまで気になるのかしらね」



「さあ」



「そこまで分析しておいて?」



「分析したから分かるとは限らないでしょう」



「あら、逃げた」



「……ただ」



緇が足元から視線を上げる。



「彼、どこかあなたに似てる」



陽菜の足が、一瞬だけ止まりかけた。



「……わたしに?」



「ええ」



「どこが?」



「人を見てるところ」



緇は少し考える。



「自分が前に出るより、周りを動かす方が得意なところ。必要なら冷静に判断できるところ」



そこで一度、言葉を切った。



「それなのに、どうでもいいところで甘いところ」



陽菜が眉を上げる。



「最後のは余計じゃない?」



「そう?」



「そうよ」



「じゃあ、そこも似てる」



「どういう理屈よ」



陽菜は呆れたように笑い、再び歩き出した。



「私としては、あんな細かい男と似てるなんて言われるの、ちょっと心外なんだけど」



「そこも似てるかもしれない」



「緇?」



「なに?」



「今日はずいぶん言うわね」



「事実を言ってるだけよ」



いつもの調子で返す緇に、陽菜は小さく息を吐いた。


声も、表情も普段と変わらない。



けれど緇は、その横顔を一度だけ見て、それ以上は何も言わなかった。




現在、翳は空から山と道路を確認させ、周囲を徘徊している暴走個体の位置を拾わせるためだった。



今回の目的は、それらではない。



第一施設に残されているものを、処分する。


そのために、陽菜はここへ戻ってきた。



木々の隙間を抜けた先で、第一施設の全貌が見えた。



陽菜は歩みを止める。



「……思ってたより派手にやられてるわね」



外壁の一部が、内側から押し破られていた。



裂けたコンクリートの断面から何本もの鉄筋が剥き出しになり、壁だったものが斜面へ折り重なるように崩れ落ちている。


正面の搬入口も半ば潰れ、歪んだ扉の一部だけが瓦礫の下から覗いていた。



窓ガラスはほとんど残っていない。


その向こうに見える施設内部は、昼間だというのに黒く沈んでいた。



暴走個体が解放された際、第一施設が無事では済まなかったことは分かっていた。


それでも、実際に目にすると想定以上だった。



「入れそう?」



陽菜が訊く。


緇は答える前に数歩進み、崩れた入口付近を見渡した。



瓦礫の隙間から内部を覗き込み、頭上に残ったコンクリートへも目を向ける。



「正面からは厳しい」



「そう」



「でも、通れないわけじゃない」



「あら。頼もしい」



陽菜が軽く笑う。



「じゃあ、お姫様みたいに連れていってもらおうかしら」



「自分で歩いて」



「冷たいわね」



「瓦礫の上であなたを抱える方が危ないもの」



「それもそうね」



緇が振り返る。


陽菜は笑ったまま、再び第一施設へ目を向けた。



緇もそれ以上は何も言わない。



ただ、気づいてはいた。


陽菜がここへ着いてから、一度も施設から完全に視線を外していない。



軽口を叩いている間も、入口、外壁、周辺の木々へと何度も目を走らせている。


手の中にある端末も、普段より僅かに強く握られていた。



それを指摘したところで、陽菜が素直に認めるとも思えない。


だから、緇は黙っていた。



「正面は使わないわ」



陽菜は端末を起動した。



「目的地はこっちじゃないもの」



「別の入口があるの?」



「ええ。山側に回るわ」



施設の見取り図を呼び出す。


画面に表示されたのは、緇にも見覚えのある第一施設の構造だった。



地上区画。


研究区画。


地下の収容区画。



だが陽菜は、そのどれも選ばない。


指先で画面を操作し、さらに下へ表示を送っていく。



緇の眉が僅かに寄った。



「……まだ下があるの?」



「あるわよ」



陽菜は何でもないことのように答えた。



「あなたたちのいる地下より、もっと深いところに区画があるわ」



「初めて聞いた」



「でしょうね。相当な権限を持ってないと、立ち入ることもできないもの。私でも手続きが面倒なくらい」



陽菜は画面をスクロールさせる。



第一施設の地下。


さらに、その背後にある山の岩盤へ食い込むように、一つの区画が表示されていた。



通常の収容区画とは完全に切り離されている。



電源。


給水。


空調。


監視設備。



すべてが独立しており、地上の施設が機能を失っても、その区画だけは稼働を継続できる構造になっていた。


陽菜は管理システムへ接続する。



数秒。


通信状態を示す表示が点滅した。



「……まだ繋がるわね」



「中の状態も分かる?」



「ある程度は」



陽菜は次々と項目を開いていく。



隔壁───閉鎖。


開放履歴───なし。


生命維持設備───稼働。


拘束設備───正常。



そして。




生体反応────あり。




陽菜の指が止まった。



「……まだ生きてる?」



横から緇が画面を覗く。



「生きてるわね」



陽菜は表示された数値を確認した。



心拍。


呼吸。


体温。



いずれも正常値からは遠い。


極端に低い。



だが、生命活動そのものは確かに続いている。



「しぶといわね」



陽菜が小さく呟く。



「そういうふうに生かしているんでしょう」



「まあね」



画面を切り替える。



今度は給餌設備の記録。


最後の供給も予定された時刻どおりに行われていた。



ただし、その量は異常なほど少ない。


食料も。


水分も。



成人一人を健康な状態で維持するには、到底足りない。



生命活動を止めないための、最低限。



それだけだった。



「……少ないわね」



「必要ないもの」



「なにが?」



「元気にする必要が」



陽菜は淡々と答えた。



衰弱が進みすぎれば、供給量を僅かに増やす。


数値が回復へ傾けば、また減らす。



死なせない。


けれど、回復させない。



筋力も。


体力も。


拘束を破れるだけの力は、決して取り戻させない。



そのぎりぎりの線を維持するように、管理システムは今も対象の身体を弱らせ続けている。


緇はしばらく画面を見つめた。



「……ずいぶん厳重ね」



「でしょう?」



「ここまでして生かしておく理由があったの?」



「今まではね」



陽菜は画面を閉じず、そのまま歩き出した。


緇も隣へ並ぶ。



崩壊した正面入口を離れ、二人は施設の外壁に沿って山側へ回り込んでいく。


しばらく歩いたところで、緇が再び口を開いた。



「さっきの区画」



「何?」



「聞いたことくらいならある」



陽菜が横目を向ける。



「へえ。どんな?」



「施設の地下に、誰も入れない場所があるとか。研究員でも一部しか存在を知らないとか」



「案外広まってるのね」



「……都市伝説ばかりだと思っていたけれど」



陽菜が僅かに笑った。



「残念」



「?」



「これは都市伝説じゃないのよ。本当に実在するわ」



緇は黙る。



木々の隙間から差し込む光が、歩く二人の足元を断続的に照らしていく。


数歩進んだところで。



緇が、その名前を口にした。




「……混合(キメラ)個体」



「そう」



陽菜はあっさりと肯定した。



「本来、アベラントは昆虫や動物の遺伝子を人間に組み込んでできるものなんだけど───混合個体は違う」



「───複数の遺伝子が組み込まれているのね」



「そういうこと」



言葉にすれば、たったそれだけの違いだった。


だが、実際に行われていることは単純ではない。



一種類。


たった一種類の生物の遺伝子を人体へ組み込み、その特性を安定して発現させる。



それだけでも、ヒューマライズは幾度となく失敗を繰り返してきた。



人体が拒絶する。


特性が定着しない。



想定していた部位とはまったく別の場所に異常が現れる。


肉体だけが変質し、生命維持そのものが破綻する。



一つの生物特性を人間の身体へ馴染ませるだけでも、何が起こるか完全には予測できない。



それを、複数。



異なる生物の遺伝子を、一つの人間の身体へ同時に組み込む。


片方の性質が、もう片方を阻害するかもしれない。



逆に、互いの特性が噛み合い、本来どちらの生物にも存在しない性質へ変化する可能性もある。



どの器官がどう変わるのか。


どの能力が残り、どれが失われるのか。


どこまで人間としての形を保つのか。



作った側ですら、最後まで分からない。


一種類でさえ制御に苦労するものを、同じ器へいくつも詰め込む。



その結果、何が出来上がるのか。



予測できないからこそ、危険だった。



「……それは厄介ね」



緇が静かに言った。



「そう」



陽菜の声から、僅かに軽さが消える。



「だから処分しなくちゃいけない」



「その混合(キメラ)個体は一体だけ?」



「いえ」



陽菜は首を横に振った。



「各施設に一体ずつ隔離されてるわ」



緇の視線が動く。



「各施設に?」



「うちは第三施設まであるから、合わせると全部で三体ね」



数秒。



緇が何かを考える。


やがて、腑に落ちたように目を細めた。



「……だから各施設は、かなり間隔を空けて建てたのね」



「そういうことよ」



一つの施設に異常が起きても、別の施設まで巻き込まないため。


何より、隔離されているもの同士が同時に外へ出る事態を避けるため。



第一。


第二。


第三。



それぞれの施設は、意図的に距離を空けて建設されていた。



「三体仲良く外に出られたら、さすがに笑えないでしょう?」



「一体でも笑えないんじゃない?」



「それはそうね」



陽菜は小さく笑った。



少しだけ空気が緩む。


だが、緇はすぐに表情を戻した。



「……本当に処分するんですね」



「ええ」



今度の返事には、間がなかった。


陽菜は歩きながら端末へ視線を落とす。



「あれを残しておく理由は、もうないもの」



「研究対象としても?」



「あら。もったいないって言ってほしい?」



「そういう意味じゃない」



「でしょうね」



陽菜は口元だけで笑った。



「研究する人間も、維持する人間もいない。設備だって、いつまで保つか分からない」



もう一度、生体反応の表示を呼び出す。


弱々しい数値が、今も画面の中で動いている。



「研究材料としてどれだけ貴重でも、外に出られたら困るでしょう?」



「……ええ」



「なら、まだ弱ってるうちに終わらせる。それだけよ」



声音は普段と変わらなかった。


軽くも聞こえる。



いつもの陽菜と大差ない。


それでも緇は、ほんの一瞬だけ彼女の横顔を見る。



画面を見つめる目だけが、少しも笑っていない。



陽菜がこの先にいるものを軽く見ていないことくらい、緇には分かっていた。


だから、何も言わなかった。



そのとき、頭上から羽音が降りてきた。



陽菜が顔を上げると、木々のさらに上を大きく旋回していた翳(かげ)が、枝の隙間を縫うように高度を落としてくるところだった。


広げていた翼を畳みながら少し離れた場所へ降り立つと、乱れた帽子の位置を指先で直し、相変わらず眠たそうな目を陽菜たちへ向ける。



「周りはぁ〜……特に何もなかったわねえ〜」



「暴走個体は?」



「何体かいたけど、こっちへ来る感じはなかったわぁ〜。道路も山も、今のところは静かなものねえ〜」



「そう。お疲れさま」



「ほんとよぉ〜。高いところ飛ぶの、思ってるより疲れるんだからぁ〜」



「鳥でしょう、あなた」



「あらぁ〜。鳥だって疲れるわよぉ〜」



翳(かげ)が気怠そうに肩を落とす横で、陽菜は再び端末を開いた。


偵察で異常が見つからなかったからといって、それだけで安心するつもりはない。



施設周辺に残る個体の反応を呼び出し、一つずつ位置を確認していく。


その中でも、陽菜が真っ先に探したのは魘(えん)だった。



反応は第一施設から三キロ以上離れた地点にある。


現在の移動方向もこちらではなく、それ以前の記録まで遡ってみても、第一施設から徐々に距離を取るような軌跡を描いていた。



「魘(えん)も離れてるわね」



画面を横から覗いていた緇が言う。



「戻ってくる可能性は?」



「低いでしょうね。少なくとも、今までの動きを見る限りはこっちへ戻る理由がないわ」



「じゃあ、今のところは大丈夫そうねえ〜?」



翳が二人の間から画面を覗き込む。


陽菜は端末を閉じながら、少しだけ口元を緩めた。



「大丈夫かどうかなんて、中に入ってみないと分からないわよ」



「あらぁ〜……嫌なこと言うわねえ〜」



「だから嫌なのよ、こういう仕事」



「そう言いながら来るのね」



緇が静かに言う。



「誰かがやらないと終わらないもの。……いえ、わたしが───終わらせる」



陽菜はそう返すと、第一施設の方へ身体を向けた。


三人は正面の崩落箇所を避け、外壁に沿うようにして山側へ回り込んでいった。



こちら側まで来ると、破壊された施設の姿は木々と岩肌に遮られ、代わりに雑草の生えた斜面が広がっている。


一見しただけなら、そこに人工物が埋め込まれているとはまず気づかない。



だが陽菜は迷わなかった。


岩壁の一角へ近づくと、表面を覆っていた土と細かな瓦礫を靴先で払い、その下から人工的な継ぎ目を露出させる。



「ここ?」



緇が岩壁を見上げる。



「ええ」



「……知らなかったわねえ〜。こんなところに入口があったのぉ〜?」



「知らなくて当然よ。普通の職員には存在自体知らされてなかったもの」



「あらぁ〜。秘密主義ねえ〜」



「研究所なんてそんなものよ」



陽菜は壁面に埋め込まれた認証装置の覆いを開いた。



表示灯はまだ点いている。地上施設の損壊とは別系統で電力が確保されているらしく、認証機能そのものは生きているようだった。


陽菜が端末を片手に持ち直し、認証装置へ指を伸ばす。




その指先が触れる───寸前だった。




山の奥で、木々がざわめいた。


最初は風だと思った。



枝葉が揺れる程度なら、この辺りでは珍しくもない。


だが、陽菜の頬にも髪にも風は触れていなかった。



自分たちの立っている場所の空気は、むしろ不自然なほど静かだった。


それなのに、遠くの木々だけが揺れている。



一群の枝葉が大きくしなったかと思えば、その少し手前でも同じように木々が揺れ、さらに次の一帯へとざわめきが移ってくる。


まるで山の奥から何かが進んでくる軌跡を、そのまま木々が示しているようだった。



陽菜の指が認証装置の前で止まる。



「……風じゃないわね」



緇が低く呟いた。



「そうみたいね」



陽菜は装置から手を離し、身体ごと山側へ向き直る。


翳も先ほどまでの気怠そうな顔のままではあったが、眠たげに細めていた目を僅かに開き、木々の揺れる方向へ視線を向けていた。



「さっき上から見たときは、何もなかったんだけどねえ〜……」



「どのくらい前?」



「ほんの少しよぉ〜。あんなふうに木が揺れてたら、さすがに気づくわぁ〜」




その言葉を裏付けるように、今度は森の奥から一斉に鳥が飛び立った。



枝葉の間から大量の羽音が溢れ、黒い影が空へ散っていく。


中でもカラスの鳴き声はひどく騒がしく、普段のように枝から枝へ移っているのではなく、何かから逃げるように同じ方向へ飛び去っていった。




カァ――!


カァ、カァ───!




騒がしい鳴き声が山の上へ抜けていくのを見送りながら、翳がゆっくりと帽子のつばを持ち上げる。



「……これはぁ〜、ちょっと変ねえ〜」



陽菜も返事はしなかった。


木々の揺れは止まらない。それどころか、先ほどよりもこちらに近い場所まで移ってきている。



そのときだった。



地面の奥から、低い振動が伝わってきた。



音というより、靴底から身体の芯へ直接届くような、ごく僅かな震えだった。


気を抜いていれば見落としてしまいそうな程度のものだったが、緇は即座に反応し、身体を僅かに沈める。



「……陽菜」



呼ばれて、陽菜が横を見る。


緇もこちらを見ていた。



言葉にするより先に、互いが同じものを感じ取っていることが分かる。



「……ええ」



短く返した、その直後。



ゴォ……。



先ほどよりはっきりと、地面が鳴った。



今度は陽菜にも、足元の砂利が僅かに震えるのが見えた。


山の奥では木々が大きく揺れ、鳥の群れがさらに遠くへ逃げていく。



何かが近づいている。


少なくとも、自然に起きている現象ではない。



陽菜は認証装置から完全に離れ、端末を手にしたまま森の方へ向き直った。



「……緇」



「……ええ」



もう一度、二人の視線が交わる。



今度は確認ではなかった。


警戒すべき対象が施設の中ではなく、外から近づいている───その判断を共有するための目配せだった。



その横で、翳が木々の上を見上げる。



「じゃあぁ〜……何が来てるのか、見てくるわねえ〜」



陽菜が顔を向けた。



「無理に近づかなくていいわ。見えた時点で戻ってきて」



「分かってるわぁ〜。私、そんなに働き者じゃないものぉ〜」



いつもの気怠い調子を少しだけ戻してそう言うと、翳は地面を蹴った。



一度大きく羽ばたき、木々の高さを越える。続けて翼を広げると、その身体は枝葉の向こうへ一気に持ち上がり、山の上空へと舞い上がっていった。


陽菜と緇は、その姿を追わなかった。



二人の視線はすでに、木々が大きく揺れ続ける山の奥へ向けられている。




そして遠くから、


また一つ。



先ほどよりも重い振動が、地面を伝ってきた。




遠くで、また地面が鳴った。


先ほどよりも重く、長い。



足元を抜けていく振動を感じながら、陽菜は山の奥を見据えていた。木々のざわめきはもう風と見間違えられるようなものではない。


離れた場所から順に枝葉が激しく揺れ、その波が確実にこちらへ近づいてきている。



隣では緇も身体を僅かに沈めたまま、同じ方向を見ている。


上空へ向かった翳の姿は、すでに木々に遮られて見えなくなっていた。



そのとき、陽菜の端末が震えた。



通信。


画面に表示された名前を確認し、陽菜はすぐに応答する。



『はるぅ〜』



いつもと変わらない、気の抜けた声だった。



「なに?」



『なんかぁ……大きいのが来てるわぁ』



陽菜の眉が僅かに寄る。



「なんかって何よ」



『ん〜……』



通信の向こうで、翳が考え込む。



その間にも、山の奥から枝の折れる音が響いた。



一本や二本ではない。


遠くで何かがぶつかり、砕き、そのまま止まることなく進み続けている。



『……あぁ〜』



「分かった?」



『見えたっていうかぁ……』



翳の声から、僅かに眠たげな余裕が薄れる。



『めちゃくちゃ速いわぁ』



「速い?」



陽菜は端末を持ち直した。



嫌な感覚が、胸の奥を掠める。


周辺個体の位置情報を呼び出し、画面を切り替える。



数十秒前まで確認していた反応が並ぶ。



暴走個体。


散発的な反応。




そして───。




「……」



陽菜の指が止まった。



さっきまで第一施設から三キロ以上離れていた反応。


昨日から一貫して、この場所から遠ざかる方向へ進んでいた個体。



その表示が、こちらを向いている。



陽菜は画面を更新した。




距離が縮まる。




もう一度。




さらに縮まる。




「……は?」



思わず声が漏れた。



更新。


また近い。


あまりにも速い。



道路を移動している速度ではない。


山の中を迂回している速度でもない。



目的地までの障害物など存在しないかのように、ほとんど一直線の軌跡を描きながら第一施設へ迫っている。



陽菜の表情から、完全に笑みが消えた。



「こ、これは……」



珍しく、声が詰まる。


緇がすぐに隣へ寄り、端末を覗き込んだ。



「誰です?」



陽菜は答えなかった。


いや。

一瞬、答えられなかった。



画面上の反応を見間違えていないか、もう一度確かめる。



識別番号。


移動速度。


進行方向。



どれも同じ。



「……魘よ」



緇の目が僅かに細くなった。



陽菜は端末を握り直す。



「彼は……ここから三キロ以上離れていたのに、どうして……?」



緇の声に、隠しきれない焦りが混じる。



あり得ない。


少なくとも、陽菜が把握していた行動からは説明できなかった。



魘は昨日からずっと第一施設を離れる方向へ進んでいた。



引き返す兆候などなかった。


この場所へ戻る理由もない。



こちらから刺激したわけでもない。



それなのに。


今になって突然進路を反転し、他の何にも目を向けず、一直線に第一施設を目指している。



『はる〜』



翳の声が聞こえる。



今度は先ほどまでより低かった。



『これぇ……たぶん、そっち行くわよぉ〜』



「翳ちゃん、戻って!」



『ん〜……もう戻ってるぅ〜』



直後。


頭上を黒い影が横切った。



枝葉を掠めながら翳が急降下し、陽菜たちから少し離れた場所へ着地する。


普段なら着地のあとに何か一言ぼやくところだったが、今は振り返ることすらせず、自分が飛んできた方向を見ていた。



「……あれぇ〜」



翳の目が細くなる。



「止まる気、ないわねえ〜」



それを証明するように。



───ドォンッ!



山の奥から、轟音が響いた。


何かが倒れる。



木だった。



一本の大木が枝を巻き込みながら傾き、周囲の木々へぶつかって地面へ沈む。



土煙が上がった。


だが、それで終わらない。



さらに奥。




───バキッ。


───ベキ、バキバキッ!



幹の裂ける音が連続して響き、もう一本、木が倒れる。



そして、また一本。



陽菜は息を呑んだ。



道を使っていない。


森の中を走っているのでもない。



進行方向にある木々を避けることすらせず、ぶつかり、へし折り、そのまま前へ進んでいる。



「……冗談でしょう」



陽菜が小さく呟く。


緇は答えない。


翳ももう何も言わなかった。



三人の視線の先で、木々が次々となぎ倒されていく。



その列がこちらへ向かって伸びてくる。



地面が揺れる。



一度。


また一度。



先ほどまで遠くで感じていた振動が、今では腹の奥まで響くほどになっている。


やがて木々の間に、何かが見えた。



一瞬だけ、大きな影。



次の瞬間には木々に隠れ、直後、その木々そのものが外側へ弾け飛ぶ。


枝が舞い、土が跳ね、太い幹が根元から裂ける。



「───緇」



「……ええ」



短い言葉とともに、緇が陽菜の前へ出た。



六本の腕を僅かに広げる。


陽菜はそれを止めなかった。



端末を握る指に力が入る。


表示された反応は、もう施設のすぐ近くまで来ている。



そして。



山側の外壁が───膨らんだ。



「……っ」



次の瞬間。



轟音。



コンクリートの壁が、内側へ向かって吹き飛んだ。


巨大な破片が通路へ転がり込み、砕けた石と鉄筋が激しく跳ねる。



地面を叩いた衝撃で周囲の瓦礫まで浮き上がり、濃い土煙が一気に施設周辺へ広がった。



陽菜は咄嗟に腕で顔を庇った。


緇が前へ出る。


翳も反射的に翼を広げた。



何も見えない。



砂埃だけが視界を埋め、砕けたコンクリートが地面を転がる音だけが、しばらく辺りに響いていた。


やがて。



その煙の奥からずるり、と何かが踏み出した。


大きい。



一歩進むだけで、瓦礫が靴の下で砕ける。



全身には折れた枝や葉が絡みつき、肌も服も土に汚れていた。


身体のあちこちには木々を突き破ってきた際についた傷が走っているが、それを気にしている様子はない。



「ハァ……ッ」



荒い呼吸。



「ハァ……ッ、ハァ……!」



肩が大きく上下している。


ただ走ってきた人間の呼吸ではなかった。



興奮。


怒り。



あるいは、もっと原始的な何か。



目は血走り、焦点すらまともに定まっていない。


理性を感じさせるものは、ほとんど残っていなかった。



敵を探しているのか。


何かに怯えているのか。



それすら分からない。


ただ目の前にあるものを壊し、踏み潰し、前へ進む。



その姿は兵器というよりも、狂戦士と呼ぶ方が、ずっと近かった。



陽菜が一歩、後ろへ下がる。



それはほとんど無意識だった。


緇がその動きを見逃さない。



陽菜が戦闘の前に自分から距離を取ることは珍しい。



まして、まだ攻撃すらされていない相手を前にして。



「……陽菜」



呼ばれても、すぐには答えなかった。


陽菜の目は、土煙の中に立つ巨体へ釘付けになっている。



端末には、個体情報が表示されていた。



危険個体アベラント。



個体番号───〇〇五。



モデル───闘牛。



研究時点から極端に高い突進力と耐久性を持ち、正面からの制圧を想定して設計された個体。


その情報を知っているからこそ。



陽菜には分かってしまう。



今ここにいる三人でまともに相手をしていい存在ではない。



崩れた外壁。


なぎ倒された木々。


一直線に抉られた山肌。



そのすべてが、たった一体がここまで戻ってきた痕跡だった。


煙が薄れていく。



巨体がゆっくりと顔を上げる。



血走った目が、三人を捉えた。




「ゴオォオォオオ───ッッ!!!」




魘の咆哮が轟く。



陽菜の喉が、小さく鳴った。



さっきまで三キロ以上離れていた。


戻ってくる理由もなかった。



そのはずだった。



それなのに今。


ヒューマライズが危険個体として管理していた存在が、目の前にいる。



陽菜は珍しく僅かに強張った顔で、その名を口にした。






「───魘」





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