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第二話『勝手に動くもの』後編

月島が頭の中に組み上げていた流れは、斑が勝手に飛び出したその瞬間から、ほとんど原形を残さないほど崩れていた。



奇襲で一撃を入れ、すぐに離脱させる。


その隙にみぎわの水圧を叩き込み、敵の体勢を崩したところでもう一度、斑を前へ出す。



考えていたのは、ただそれだけの単純な流れだったはずなのに、実際には最初の一手から斑が勝手に動き、挙げ句の果てには赭と真正面から力比べを始めて車へ叩きつけられている。



それでも当の本人は、腰の辺りを片手で擦りながら身体を起こすと、痛みに顔をしかめるどころか、むしろ感心したように赭を眺めていた。



「いやぁ……めちゃくちゃ力あるッスね、アイツ」



「感心してる場合か」



月島の声が低くなる。



「俺の合図を待てって言っただろ」



「でも、あそこ隙だらけだったッスよ?」



「結果、気づかれて正面からぶつかってるだろ」



「次は勝つッス!」



「話を聞け」



反省する気があるのかないのか、斑は伸びた爪を軽く開閉しながら、すでに次にどう飛び込もうかと考えているようだった。


こちらを見ているようで、視線の半分は赭へ向いたまま。肩は落ち着きなく動き、足先もじっとしていない。



月島はそんな斑を数秒見たあと、眉間へ僅かに皺を寄せた。


今ここで、もう一度同じことを言っても意味は薄い。



待てと言ったところで、隙を見つければ飛び出す。


離れろと言っても、本人が「まだいける」と思えばそのまま前へ出る。



さっきのやり取りだけでも、それくらいはもう分かった。



なら。

今は、こいつに構っている余裕はない。


月島は小さく息を吐くと、斑へ向けていた視線を外した。



「……好きにしろ」



「え?」



さすがの斑も、その言葉には少しだけ意外そうな顔をした。



「ただし、死ぬな。こっちはこっちでやる」



一瞬、斑の表情が止まり、それからすぐに口元が大きく吊り上がる。



「了解ッス!」



返事だけは、相変わらず妙にいい。



月島はもうそれ以上何も言わなかった。


指示を聞かせることに意識を割くより、自分が確実に動かせる方へ集中した方がいい。



斑がどう動くかまで考え始めれば、その度に作戦を崩される。なら、斑は勝手に戦わせておけばいい。


そのうえで、自分は自分で、今できる最大限のことをする。



月島はすぐ隣に立つみぎわへ視線を落とした。


薄いブランケットを肩に掛けたみぎわは、月島と斑のやり取りを理解していたのかどうか、ただ静かにこちらを見上げている。



戦闘が始まってからも勝手に動くことはなく、月島が言葉をかければ顔を上げ、それまではその場でじっと待っていた。



「みぎわ」



「ん」



「俺が合図したら、水を撃て。狙う場所は俺が言う」



みぎわは少しも迷わず、こくりと頷いた。



「ん、わかった」



その返事を聞いてから、月島は再び赭へ視線を戻す。



向こうも、ようやく体勢を立て直していた。


太い腕を地面へつき、盛り上がった肩を持ち上げながらゆっくりと身体を起こす。



さっきまで頭の痒みに苦しみ、自分の身体を車や柱へぶつけていた姿とは違い、今は明確に斑を見ていた。


血走った眼が小さな身体を捉え、喉の奥から低い唸り声が漏れる。



「来るッスね」



斑が楽しそうに笑いながら腰を落とした。



月島は返事をしなかった。


赭の脚が沈む。



次の瞬間、巨体が一気に前へ出た。



地面を蹴る音が重く響き、足元の砂利が後方へ弾ける。


あれだけ大きな身体でありながら初速は速く、十数メートルあった距離がみるみるうちに縮まっていく。



「ニシシッ!」



斑も待ち構えるように前へ出た。



また真正面から行くつもりか。


月島はそう思ったが、もう止めなかった。



赭の牙が迫る直前、斑は上体を捻って横へ逃がし、巨体の脇を抜けようとした。


完全には避けきれず、肩が赭の身体へぶつかって小柄な身体が半歩ほど外へ弾かれたものの、その程度では姿勢を崩さない。



着地と同時に爪を振る。



黒く湾曲した先端が赭の腕を浅く裂き、硬そうな体毛の間から赤い血が滲んだ。



「おっ」



斑の表情がさらに明るくなる。



赭が怒ったように腕を振り回す。


今度はそれを身を屈めて避け、そのまま懐へ潜り込むと、脇腹へ拳を叩き込んだ。



鈍い音がした。


普通の人間なら肋骨ごと折れてもおかしくないほどの一撃だったが、赭の身体は僅かに揺れただけだった。



「硬いッスねぇ!」



楽しそうな声を上げながら、斑はさらにもう一歩踏み込む。



赭が再び腕を振るう。



今度は後ろへ跳んだ。


太い腕が鼻先を掠め、風圧で白と黒の髪が大きく揺れる。それでも斑は怯まず、着地した瞬間にはもう次の一撃を入れようとしていた。



月島は、その一連の動きを黙って見ていた。



速い。

それだけは間違いなかった。



前へ出る時も、避ける時も、動き出してから速度に乗るまでが早い。


身体が小さいぶん切り返しも速く、赭のような巨体の周囲をちょこまかと動き回る姿は、見ているこちらの視線すら追いつかなくなりそうなほどだった。



だが、それ以上に目につくものもあった。



────雑だ。



速さに任せて踏み込み、避けられるから避ける。近くに隙があれば殴り、また爪を振る。



相手がどんな姿勢で、次に何をしてくるのかを読んで動いているというより、自分の身体能力を信じてその場その場で対応しているだけに見える。


だからこそ、さっきのように真正面から力比べを始める。



勝てそうだと思えば行く。


いけると思えば下がらない。



本人なりに戦ってはいるのだろうが、月島にはその動きを逐一予測することができなかった。


斑が赭の横腹へ蹴りを入れた。



赭の身体が僅かに揺れ、苛立ったように牙を振り上げる。



「うおっと!」



今度はさすがに危険を感じたのか、斑が一歩、二歩と後ろへ下がった。


そこで初めて、斑と赭の間に何もない空間ができる。



月島の目が動いた。

こちらから斑を下げたわけではない。



本人が勝手に下がっただけだ。



だが、今なら撃てる。




「みぎわ、今だ!」



月島の声に反応し、みぎわがすぐ両手を前へ出した。



掌の周囲に集まっていた水が一気に圧縮され、透明な塊となって震える。


そのまま次の瞬間には鋭い破裂音とともに前方へ射出され、一直線に赭の胸へ叩き込まれた。




「ガッ───!」



巨体が浮いた。


二百キロ近くありそうな身体が地面から離れ、数メートル後方へ吹き飛ばされる。



背中からアスファルトへ落ち、一度、二度と大きく転がったあと、そのまま駐車場に残されていた車の側面へ激突した。


金属が歪む鈍い音が響き、車体全体が大きく揺れた。



粉雪が思わず息を呑み、後ろで肩を跳ねさせる。



「おぉー!」



斑だけは、まるで自分が決めた一撃でも見たかのように嬉しそうな声を上げていた。



「みぎわちゃん、やるッスね!」



みぎわは斑へ返事をせず、そのまま月島を見上げた。



「……まだだ」



月島は赭から目を離さない。



地面へ倒れた巨体の指先が動いた。


太い指がアスファルトを掴み、ゆっくりと上半身を持ち上げる。



胸には水圧をまともに受けた痕が残り、体毛の一部が濡れて肌へ張り付いていた。


赤黒く変色している箇所もあり、少なくとも無傷ではない。



だが、それでも立つ。



みぎわの水圧をまともに受けても、戦闘不能にはならない。



「……かなり頑丈だな」



月島が小さく呟く。



施設で見た時から、みぎわの攻撃力が低くないことは分かっている。


人間があれをまともに受ければ、まず立ってはいられない。



それを正面から食らいながら動けるということは、猪を元にして作られた身体そのものが、衝撃に耐えるよう出来ているのだろう。



赭が立ち上がる。


荒く息を吐くたびに肩が大きく上下し、牙の隙間から唾液が垂れた。



血走った赭の眼が、斑から月島へ、それからゆっくりと横へ滑っていき、最後にみぎわの姿を捉えたところで止まった。


先ほどまでとは、明らかに視線の質が違う。



みぎわが放った水圧を二度まともに受けたことで、自分に最も大きな痛みを与えている相手が誰なのかを理解したのだろう。


理性を失った暴走個体であっても、危険なものを避け、排除しようとする程度の本能までは失われていないらしい。



「が……ぁ……」



赭の喉から漏れた低い声が、次第に太く、大きくなっていく。



肩が大きく上下し、剥き出しになった牙の隙間から唾液が糸を引く。


そのまま大きく顎を開いたかと思うと、次の瞬間、赭は喉の奥に溜め込んでいたものをすべて吐き出すように吠えた。



「がぁぁあゆうぅいぃいいッ!!」



咆哮が駐車場いっぱいに響き渡った。



空気そのものが揺れたような低い振動に、近くに停められていた車の窓ガラスが細かく震える。


粉雪が身体を強張らせるのが視界の端に見えたが、それより早く、月島のすぐ隣でみぎわの身体が大きく揺れた。



「……っ」



みぎわが両手で耳を押さえる。


薄いブランケットが肩からずれ落ちかけ、その足元がふらついた。



「みぎわ?」



月島が咄嗟に腕を伸ばす。


倒れかけた小さな身体を抱えるように胸元へ引き寄せると、みぎわは苦しそうに眉を寄せたまま、何度か頭を振った。



音に敏感なのは知っていた。



人間にはただの大きな咆哮に聞こえるものでも、イルカをモデルにしたみぎわには、その何倍もの刺激として届いているのかもしれない。



「おい、大丈夫か」



「……ん……だい、じょ…ぶ」



返事はあった。

だが、普段より明らかに反応が鈍い。



焦点が合いきっていない緑色の瞳が月島を見上げ、身体もまだ僅かに揺れている。


その様子を確認するより先に、赭が地面を踏みつけた。



一度。


そして、もう一度。



先ほどよりも深く腰を沈め、太い両脚へ力を溜め込む。盛り上がった筋肉が硬く張り、足元の砂利が僅かに押し退けられた。


月島はその姿勢を見た瞬間、何をするつもりなのか理解した。



また突進。


しかも。

今度はさっきより勢いがある。



「……来るぞ」



月島はみぎわを抱えたまま、低く呟いた。



赭が地面を蹴る。

巨体が弾けるように前へ出た。


一歩目から速度が違う。



足がアスファルトを叩くたび、重い衝撃が地面を伝い、腹の奥まで響いてくる。


大きな身体がみるみるうちに迫り、二本の牙が真っ直ぐこちらへ向けられていた。



それでも。

月島は慌てなかった。


突進は一度見ている。



速い。


重い。



まともに受ければ、斑ですら吹き飛ばされる。


だが、動きそのものは単純だ。

真っ直ぐ来るなら、横へ避ければいい。



今のみぎわを一人で動かすのは難しいが、自分が抱えてしまえば問題ない。


月島はみぎわの背へ腕を回し、小さな身体をしっかり引き寄せた。



「捕まってろ」



「……ん」



みぎわの腕が弱々しく月島の服を掴む。


距離が詰まる。



十メートル。


七メートル。


五メートル。



まだ。


赭の速度を考えれば、早く動きすぎる方が危険だ。



できるだけ近くまで引きつけ、その勢いが十分に乗ったところで横へ外れる。


その方が、向こうは軌道を変えにくい。



月島はタイミングを測り、ぎりぎりまでその場へ残った。



そして。



「今……!」



みぎわを抱えたまま、横へ跳ぶ。


足元から地面が離れ、身体が宙へ浮いた。



その瞬間だった。


月島の視界の中で、赭の動きだけが妙にゆっくりと見えた。



実際に遅くなったわけではない。



むしろ逆だ。

迫ってくる巨体は、先ほどより速い。


それでも月島の頭は、その一瞬の動きを細かく拾っていた。



赭の眼が動く。


横へ跳んだ月島を追う。



いや。


月島ではない。


その腕の中にいる、みぎわを見ている。



右足が強く地面を踏む。


肩が僅かに沈む。


腰が捻れる。



そして、真っ直ぐこちらへ向いていた胸の向きが。



ほんの少し。


こちら側へ傾いた。



「……っ」



嫌な予感が背筋を走った。

次の瞬間には、それが予感ではなく確信へ変わる。




───曲がる。




赭は、こちらへ曲がってくる。


月島には分かった。


分かってしまった。



緇のような、自分より遥かに速い相手の動きでさえ、身体の向きや重心、視線から次の一手を予測し、ぎりぎりで避けたことがある。



なら。

目の前の赭の動きが読めないはずがない。


右脚で地面を抉り、その反発で巨体をこちらへ向ける。



完全な方向転換ではない。


突進の勢いを残したまま、無理矢理軌道をずらしているだけだ。



だが、それで十分だった。



月島たちは、すでに横へ跳んでいる。


空中にいる以上、もう一度別方向へ身体を動かすことはできない。



着地してからでは遅い。


赭の方が先に届く。



そこまで。


全部分かった。


避けられないことまで。



粉雪が叫ぶ。



「月島さんっ!みぎわちゃん…っ!!」



「……くそっ」



月島はみぎわを抱く腕へ力を込めた。


せめて、自分の身体を前へ出す。



少しでも、みぎわへ直接衝撃が入らないように。



それしかない。



赭の牙が迫る。

距離はもう、ほとんど残っていない。


月島はみぎわの頭を胸元へ押し込み、自分の背を赭へ向けるよう身体を捻った。



衝撃を想像する。


斑をあれだけ吹き飛ばした突進だ。



自分がまともに受ければどうなるかなど、考えるまでもなかった。


それでも、他に選択肢はない。



月島は覚悟を決めるように、強く目を閉じた。




その瞬間。




「ボクが肉壁になるッス〜!」



聞き慣れた、場違いなほど明るい声が横から飛んできた。



「……え?」



何かが月島の身体へぶつかる。

直後、みぎわごと横へ大きく突き飛ばされた。



「ぐっ……!」



月島はみぎわを抱えたまま地面へ転がり、肩と背中を強く打ちつける。



衝撃に息が詰まる。


それでも腕だけは離さず、みぎわの頭が地面へぶつからないよう身体の内側へ抱え込んだ。



その直後。

背後から、鈍く重い音が響いた。



肉と肉。



それだけではない。


もっと硬いもの同士が、全力でぶつかり合ったような音。



月島が顔を上げる。



そこに、斑がいた。


月島たちがいた場所へ滑り込むように割り込み、両腕を前へ出した状態で赭の突進を真正面から受け止めている。



「ぐぅぅぅぅ……ッ!」



斑の足が地面を削る。


鉤爪がアスファルトへ食い込み、細かな破片を飛ばしながら、それでも小さな身体は後ろへ押され続けた。



先ほどとは違う。今度の赭は、最初から最大限に近い勢いを乗せていた。


斑も割り込んだばかりで、十分に踏ん張る姿勢を作れていない。



腕が震える。


肩が押し込まれる。



「っ、こいつ……!」



いつもの余裕ある笑みが、少しだけ崩れた。


赭がさらに一歩踏み込む。



その瞬間、斑の足が地面から離れた。



「があぁぁッ……!」



身体が弾かれる。


斑は数メートル先まで飛ばされ、肩から地面へ落ちた。



そのまま一度、二度と転がり、最後には駐車場へ停められていた車の側面へ背中から激突する。



車体が大きく揺れた。


ガラスがびりびりと震える。



「斑……!」



「ま、斑ちゃん……!」



月島が思わず声を上げる。



斑はすぐには立ち上がらなかった。


片膝をつき、片手を地面へ置いたまま、数秒動かない。



やがて。



「……いっっっ……たいッスねぇ……!」



聞き慣れた声が漏れた。

月島の胸に僅かに溜まっていたものが抜ける。


少なくとも、意識はある。



斑はゆっくりと顔を上げ、そのまま片手で額を擦った。



指先が赤く染まる。


前髪の隙間から細い血が流れ、眉の横を伝って頬へ落ちていた。



「おぉ……」



斑が自分の指先を見る。



「血ぃ出たッス」



「斑ちゃん、大丈夫…!?頭から血出てる…っ」



「ユッキー先輩だぁ〜いじょぶッスよ♪これくらい何ともねえッス!」



言葉だけを聞けば、いつもと変わらない。


だが。

立ち上がる時、僅かに顔をしかめた。



呼吸も少し荒い。


あれだけの衝撃を受けても動けること自体が異常ではあるが、それでも今の一撃は、さすがの斑にも無視できるものではなかった。



「……」



月島は一度斑を見てから、腕の中のみぎわへ視線を落とした。



「みぎわ」



「……ん」



「まだ戦えるか?」



みぎわは月島の胸元から顔を上げた。



先ほどの咆哮の影響がまだ残っているのか、瞳の焦点が僅かに揺れている。


自分で立とうと地面へ足をつけるものの、一瞬だけ身体がふらついた。



月島がすぐに肩を支える。


それでもみぎわは小さく頭を振り、何度か瞬きをしたあと、月島を見上げた。



「うん……だいじょ……ぶ」



途切れがちな声。

どう見ても万全ではない。


それでも戦えると言った。



月島は何も返さず、ゆっくりと赭へ目を向けた。



赭はまだ立っている。



みぎわの水圧を二度受けて。


斑の攻撃を何度も受けて。



それでも。

こちらを睨んでいる。



しかも、



───学習しやがった。



月島の奥歯が僅かに噛み合う。



一度目の突進を横へ避けた。


だから二度目は、こちらが避けることを前提に軌道を変えた。



みぎわの水圧を受けた。

だから、その攻撃を放つみぎわを狙った。



暴走している。


理性も、まともな会話も失っている。



それでも戦いの中で覚え、次の動きを変えてくる。


単純な怪物ではない。



そして、こちらはというと、


斑。


成功認定個体。



みぎわ。


まだ成長途中とはいえ、あれだけの水圧を撃てる。



その二人で。


一体を相手にしている。



数だけを見れば、二対一。



実際、最初は押していた。



斑が前へ出て、みぎわが後ろから撃つ。



赭は何度も攻撃を受け、吹き飛ばされていた。



なのに、今は。



斑が血を流している。


みぎわも咆哮一つでまともに立てなくなった。



そして、赭はまだ動ける。



「……一体で、これかよ」



口から漏れた声は、自分で思っていたより低かった。



暴走個体。


端末に表示されたその四文字を、どこかで簡単に考えていたのかもしれない。



役割を決めて。


人数を揃えて。


囲んで攻撃すれば、どうにかなる。



少なくとも、最初の一体くらいは。


そんな考えが、どこかにあった。



だが、現実は違った。



二人がかりでも、押し切れない。


それどころか、相手は戦いながらこちらへ適応してきている。





もし。



こんなものが。



もう一体───。




「きゃあああああッ!!」



背後から上がった悲鳴が、その思考を断ち切った。



粉雪だった。



月島が振り返った時には、白いワンピース姿の粉雪がすでにアスファルトの上へ押し倒され、その上から人間に近い輪郭を残しながらも、明らかに人ではない何かが覆い被さっていた。



赭ほど大きくはない。


むしろ体格だけなら小柄な部類に入るはずなのに、四肢を大きく開いて地面へ張り付くように身体を低くしているせいで、その姿は人間というより巨大な爬虫類に近かった。



露出した皮膚には細かな鱗を思わせる凹凸が浮かび、長く伸びた指の先では鋭い爪がアスファルトを掴んでいる。


なにより異様なのは、その目だった。



大きく開かれた瞳にはほとんど感情らしいものが見えず、薄い膜でも張っているような眼球だけが、押さえつけた粉雪の顔をじっと捉えている。



「やっ……! やだ、離して……!」



粉雪が必死に身体を捩り、胸元へ伸びてくる腕を両手で押し返そうとする。


それでも異形はほとんど動じず、むしろ逃げようとする動きに合わせてさらに身体を密着させるように腰を落とすと、ゆっくりと口を開いた。



その奥から、細長い舌が覗く。


月島の身体は、考えるより先に動いていた。



「離れろ…ッ!」



みぎわを支えていた腕を放し、一気に距離を詰める。



異形がこちらへ顔を向けようとした頃にはすでに懐へ入り込んでいて、月島は踏み込んだ勢いを殺さず、その顎を下から蹴り上げた。


硬いものを蹴った感触が足裏へ返り、異形の頭が大きく仰け反る。



粉雪へかかっていた体重が抜け、その身体が横へ転がるように吹き飛ばされると、停められていた車のタイヤへ肩からぶつかった。


月島はすぐに粉雪の前へしゃがみ込み、異形から視線を完全には外さないまま手を伸ばした。



「粉雪、大丈夫か? 怪我はないか?」



「あ……は、はい……!」



粉雪は混乱した様子で何度も頷き、差し出された手を掴む。



月島はそのまま立ち上がらせながら全身へ目を走らせた。


白いワンピースの裾や背中には黒い汚れが付き、押し倒された拍子に擦ったらしい赤みも少し見えたが、少なくとも目立った出血はない。



ひとまず、間に合った。


そう判断した直後、ポケットの中で端末が短く震えた。



月島は粉雪を自分の後ろへ下がらせながら画面へ視線を落とす。


新しい反応が一つ、追加されていた。



個体番号〇八五。



暴走個体アベラント。



コードネーム───蔽(へい)。



モデル───ヤモリ。



「……二体目」



思わず漏れた声に、背後の粉雪が小さく息を呑む。


月島が顔を上げると、蹴り飛ばした蔽(へい)はもう立ち直っていた。



いや。

立ち上がった、という表現自体が少し違う。



地面へ片手をついたまま低い姿勢で身体を滑らせるように起こし、次の瞬間には近くの車体へ指を置いていた。


そのまま身体を斜めに傾けても指先は金属から離れず、まるで重力など最初から気にしていないように車の側面へ張り付いている。



そこで月島は、遅れて一つの事実に気づいた。



こいつは、いつから、そこにいた。



赭との戦闘が始まってから、月島は何度も周囲へ目を向けたはずだった。



足音も聞こえなかった。


こちらへ近づいてくる気配も感じなかった。


それなのに実際には、粉雪のすぐ傍まで入り込まれている。



月島の背筋を、冷たいものがゆっくりと這った。




───なぜ、二体目の可能性を考えなかった。




陽菜は言っていた。



端末ですべてを把握できるわけではない。


現地へ行ってみれば増えていることも十分にあり得る、と。



聞いていた。


確かに聞いていたはずなのに、画面へ一つしか反応が出ていなかったというだけで、無意識のうちに敵は一体だと決めつけた。



赭への対処に意識を向けるあまり、それ以外の可能性を切り捨てた。



しかも、粉雪には鱗粉がある。


広い範囲へ撒くことができ、空中へしばらく残るほど軽い。風に流される弱点はあるが、それでも何かがその中を通れば、少なくとも流れは乱れる。



本人は戦えないと言った。


月島も、それを聞いた時点では直接的な攻撃手段がないという事実しか見ていなかった。



だが、最初から周囲へ撒かせていれば。


赭だけを見るのではなく、粉雪に別方向への警戒を任せていれば。



蔽(へい)が接近した時、もっと早く何かに気づけた可能性はあった。



「……くそ」



月島は小さく呟き、奥歯を噛む。



考えが甘かった。施設で獏(ばく)と戦った時には、自分の判断が上手く噛み合った。


みぎわの能力を使い、状況を見ながら必要なことを選べば、それで何とかなった。



その成功を、自分でも気づかないところで引きずっていたのかもしれない。



今は斑がいる。


みぎわもいる。


二人もいれば、暴走個体一体程度ならどうにかなる。



そんなふうに、どこかで高を括っていた。



その結果が。


額から血を流している斑。


赭の咆哮でまだ足元をふらつかせているみぎわ。



そして、自分が目を離している間に殺されかけた粉雪。



その全部が、月島の判断の甘さを突きつけているように見えた。



自分が見落とした。


自分が判断を誤った。


そう考えた瞬間、蔽(へい)の瞳がゆっくりとこちらへ向いた。



爬虫類特有の大きな目は、ほとんど瞬きもしないまま月島を捉え続けている。



何を考えているのか。


そもそも何かを考えているのかすら分からない。



ただ。

次に狙われるのが自分たちであることだけは、嫌でも理解できた。


月島の頭の中で、いくつもの情報が一斉に動き始める。



斑は赭と交戦している。


みぎわはまだ完全には回復していない。


粉雪には直接戦う手段がない。



そのうえ、新たに現れた蔽は足音が小さく、壁や車体に張り付きながら移動できる。



一人で動いていた時とは、まるで違う。


自分一人だけなら。



敵がどこにいる。


次にどこへ来る。


自分がどちらへ避ける。



見なければならないものは、それだけだった。



だが今は、斑の位置を見て、みぎわが撃てる状態か確認し、粉雪が安全な場所にいるか気を配り、そのうえで赭と蔽、二体の敵の動きまで追わなければならない。



一つ判断を間違えれば。


一瞬、遅れれば。


死ぬのは自分ではなく、誰かかもしれない。



指揮。

陽菜は簡単にそう言った。


三人を任せると。



けれど実際には、こんなにも見るものが多く、こんなにも同時に判断しなければならない。


月島の視線が、僅かに揺れた。



その時だった。

指先に、小さな温もりが触れる。



「……?」



見ると、みぎわがすぐ隣に立っていた。


まだ少し身体をふらつかせながら、それでも月島の手を両手で包むように握っている。



「ぱぱ」



緑色の瞳が、真っ直ぐ月島を見上げる。



「だいじょぶ」



「……」



「みぎわ、いる」



たった、それだけだった。



今の状況を全部理解しているわけではないだろう。


月島が何に悩んでいるのか、正確に分かっているわけでもない。



それでも。


握られた小さな手の温度だけは、妙にはっきりと伝わってきた。



月島は数秒、みぎわを見下ろした。



それから、ゆっくりと息を吐く。



違う。


今、考えることじゃない。



何を見落とした。


どこで判断を誤った。


どうすれば防げた。



そんなものは、生き残ってからいくらでも考えればいい。


今やるべきなのは、目の前にいる三人を生かすことだ。



「……ああ」



月島はみぎわの手を握り返した。



「いるな」



みぎわが小さく頷いた。

月島がもう一度顔を上げた、その瞬間。



蔽が動いた。


車体へ張り付いていた身体を一気に縮めると、次の瞬間にはその姿が視界から消える。



「っ……どこだ!」



月島はすぐに視線を走らせた。



正面にはいない。


右にもいない。


左。


そこにもいない。



次の瞬間、停められていた車の下から何かが滑り出す。



「みぎわ、右!」



月島が指を差す。



みぎわはその先へすぐ両手を向け、水を撃った。


圧縮された水がアスファルトへ叩きつけられ、細かな破片と水飛沫を派手に跳ね上げる。



だが、遅い。



蔽は水が着弾するより前に四肢を使って横へ跳び、そのまま隣の車のボンネットへ張り付いていた。



「上だ!」



みぎわが腕を持ち上げ、二発目を撃つ。


水圧が車体を掠め、ボンネットの一部を大きく凹ませたが、蔽の身体には届かない。



撃たれると分かった瞬間にはもう壁へ移り、細い身体を這わせるようにして上へ駆けている。



速い。

だが、斑とは種類が違う。


斑は地面を蹴り、小柄な身体と瞬発力で切り返す。



蔽はそもそも地面だけを使わない。



車の側面。


ボンネット。


低い壁。


金網。



接地できる場所なら、そこが床だろうが壁だろうが関係なく使い、上下左右を無視するように移動してくる。



「粉雪、もっと下がれ!」



「は、はい!」



粉雪が慌てて後退する。



その直後、反対側から赭の咆哮が響いた。


月島が反射的にそちらを見る。



斑はまた赭の牙を両手で押さえ込み、真正面から力比べを始めていた。



「斑! 受けるな、離れろ!」



「今ちょっと忙しいッス!」



「こっちもだ!」



言い返しながら視線を戻す。



蔽がいない。


ほんの一瞬。



斑へ目を向けただけだった。


それだけで、もう見失った。



「……っ!」



月島の足元。


車の下から腕が伸びる。



咄嗟にみぎわの肩を押し、自分も反対方向へ飛ぶ。


長い爪がズボンの裾を掠め、そのまま蔽が地面を滑るように飛び出してきた。



「みぎわ、左!」



水が飛ぶ。



外れる。


蔽は地面へ伏せるように身体を沈め、そのまま車体の陰へ潜り込む。



「後ろだ!」



みぎわが振り向く。

だが、その時にはもう遅い。


蔽は別の車の側面へ移っている。



「粉雪、そこから動くな! いや、もう少し右へ───」



反対側でまた赭の吠える声が響く。



「てるるーん! こいつまた来るッス!」



「避けろ!」



「どっちッスか!?」



「好きな方に避けろ!」



言った瞬間。


月島の思考が、一度止まった。



好きな方に。


自分で決めろ。



今。


そう言った。



蔽の位置を追う。


みぎわへ射線を示す。



粉雪を安全な場所へ動かす。


斑へ赭の攻撃を伝える。



そのうえで、自分自身も蔽の接近を避けなければならない。


一つ判断するたびに、別の場所で状況が変わる。



右を見れば左が遅れる。


斑へ指示を出している間に蔽を見失う。



みぎわへ一つ一つ照準を示している間にも、相手は次の位置へ移っている。



全部。

自分でやろうとしている。



誰がどこへ動くのか。


誰がいつ攻撃するのか。


どちらへ避けるのか。



それを全部自分の頭の中で組み立て、一つずつ言葉にして、その通りに動かそうとしている。



けれど。

戦場は、そんな速度では動いてくれない。



月島の処理が遅いわけではない。

判断している間に、状況そのものが変わっている。



まして。


相手だけではない。



味方だって。


自分の思い通りには動かない。



月島の視線が、赭と戦う斑へ向いた。



さっきから何度言った。



待て。


離れろ。


受けるな。


下がれ。



それでも斑は、自分の判断で勝手に動く。


指示を守らせようとするたびに、月島の意識はそちらへ持っていかれ、そのぶん蔽への対応が遅れる。



だが。


改めて見れば。


斑が一番動けているのは、いつだ。



月島が細かく指示した時じゃない。


自分で相手の攻撃を見て、自分で飛び込み、自分で危険を感じて離れた時だ。



その時の斑は速い。

赭の腕を避け、牙の横を抜け、気づけば懐へ潜り込んでいる。



逆に。


月島が一つ一つ動きを指定しようとした瞬間、斑の方もそれに合わせようとして僅かに遅れる。



つまり。


問題は。



こいつが勝手に動くことじゃない。



「……そうか」



月島の目が細くなる。



言うことを聞かないなら。


聞かせようとしなければいい。



一から十まで従わせる必要なんてない。



こちらが。


こいつらに合わせればいい。



月島の頭の中で、これまで見てきた斑の動きが一気に整理されていく。



小柄な身体。


初動の速さ。


細かな切り返し。


赭の腕を紙一重で避けられる反応速度。


吹き飛ばされてもすぐ立ち上がれる頑丈さ。



そして。


短いながらも厚く、鋭く湾曲した爪。



一方の赭はどうだ。



大きい。


重い。


怪力。


直線の速度も速い。



だが、その巨体ゆえに攻撃の一つ一つが大きい。


腕を振れば、そのぶん戻すまでに時間がかかる。


突進すれば、勢いを殺すまでに距離が必要になる。



違う。


斑は。



あいつと真正面から殴り合うための前衛じゃない。


力比べに付き合っているから、自分から一番相性の悪い戦い方を選んでいるだけだ。



「斑!」



月島が叫ぶ。


赭の牙をまた両手で受け止めようとしていた斑が、腕を構えたままこちらを見る。



「なんスか!」



「そいつをこっちに来させるな!」



「……え?」



斑の眉が上がる。



「それだけッスか?」



「ああ」



月島は蔽の動きを追いながら答える。



「やり方は好きにしろ」



一瞬。

斑がきょとんとした顔をした。



だが。


次の瞬間には。


口元が大きく吊り上がった。



「ニシシッ」



今までで一番楽しそうに。



「それなら得意ッス!」



赭が再び踏み込む。


斑は反射的に両腕を前へ出した。



また受け止める。


そう見えた瞬間。



月島が叫ぶ。



「ただし、真正面からやり合うな!」



「えぇ!?」



斑の腕が僅かに止まる。



「お前の武器はそこじゃない!」



「……ボクの武器?」



斑は迫る赭を見ながら、ほんの一瞬だけ目を丸くした。



「速いんだろ!」



月島の声が飛ぶ。



「だったら避けろ! あいつが振ったあとだけ入れ! 自分よりデカくて重い相手と、わざわざ力比べするな!」



「でも、それじゃ正面から勝ったことにならないッス!」



「知るか!」



月島は即座に返した。



「勝つために戦ってるんだろ!」



その言葉に。

斑の表情が、一瞬だけ止まる。


赭はもう目の前まで来ている。



それでも。



斑の口元が、ゆっくりと上がった。



「……たしかに」



小さく呟く。



「ボク、負けず嫌いッスから」



その目が赭を捉える。




「───勝てなきゃ、つまんねえッス」




次の瞬間、斑の身体が沈んだ。



赭の牙が届く、そのほんの僅か前。


小柄な身体が横へ滑る。



受けない。


競わない。


正面から押し返そうともしない。



ただ。


避ける。



赭の牙が空を切り、勢いの乗った巨体がそのまま前へ流れる。


斑はすぐ横をすり抜けると、通り過ぎざまに爪を振った。



黒い爪先が、赭の脇腹を深く裂く。



「ガァッ!」



血が飛ぶ。



だが、斑は追わない。


一撃を入れた瞬間にはもう距離を取り、赭が振り返るのを待っていた。



「……あれ?」



自分でも少し意外だったのか。

斑が爪についた血を見て、小さく首を傾げる。


赭が怒りに任せて腕を振り回す。



今度も、受けない。


斑は上体を低く沈め、太い腕の下を滑るように抜ける。



大振りした赭の身体が僅かに流れる。



その瞬間だけ。


踏み込む。



腹へ一撃。


すぐ離れる。



赭が振り返った時には、もうそこにいない。



「おぉ……」



斑の口元が、さらに楽しそうに歪む。



赭が牙を横へ振る。


斑は小さく後ろへ跳んだ。



空振り。


その隙へ一歩。


爪を一撃。



そして、また離れる。



「こっちの方が……」



斑が笑う。



「楽ッスね!」



「今まで何やってたんだ、お前!」



月島は思わず叫んだ。



だが。

明らかだった。


さっきまでとは、まるで違う。



斑一人になった。


みぎわの援護もない。



月島から細かい指示も出していない。



それなのに、赭が斑を捉えられない。


腕を振れば、その後に傷が増える。

突進すれば避けられ、通り過ぎる瞬間にまた爪が入る。



斑はもう。

赭を押し返そうとはしていなかった。



ただ、当たらない。


そして。

相手が攻撃した後だけ。




────確実に当てる。




それだけで。

戦況が大きく傾き始めていた。



月島はその光景を視界の端で確認すると、すぐに蔽へ意識を戻した。


斑への指示は、もう細かく出す必要がない。



少なくとも、今は見るべきものが、一つ減った。



それだけで、戦場の形が少しだけ見えやすくなった。


斑へ向ける意識を減らせたことで、月島の中には僅かな余裕が生まれた。



もっとも、それで目の前の問題まで解決したわけではない。



赭を斑に任せられるようになった一方で、こちらでは相変わらず蔽を捉えきれずにいた。


水圧そのものなら十分に通用する。



先ほどまでの戦闘を見ても、みぎわの一撃をまともに受けて平然としていられるような相手ではないだろう。


問題は、当てられないことだった。



「みぎわ、右!」



月島の声に合わせ、みぎわが両手を向ける。



圧縮された水が鋭い音とともに撃ち出され、停められていた車の側面へ直撃した。


金属板が大きく内側へ凹み、水飛沫が朝の光を受けて散るが、その頃には蔽はすでにそこから消えている。



車の下へ潜り込んだかと思えば、次の瞬間には隣の車体へ張り付き、そのまま垂直の面を地面と変わらない速度で駆け上がる。



そこから屋根を蹴って低い壁へ飛び移り、追われたと分かれば再び地面すれすれまで身体を落として別の遮蔽物へ滑り込む。


地面を速く走る斑とは、根本的に違う。



蔽にとっては、壁も車も地面の延長でしかないらしい。



「上!」



みぎわが今度は腕を持ち上げる。



水が飛ぶ。

だが、また僅かに遅れた。


水圧が低いコンクリート壁を抉った時には、蔽の身体はすでにその先へ跳び出しており、細長い四肢を広げて別の車のボンネットへ着地していた。



「……ちっ」



月島は思わず舌打ちした。



自分には見えている。

少なくとも、見失わずに追える瞬間はある。


けれど、自分が蔽の位置を確認し、その移動先を予測し、指を差してみぎわへ伝え、みぎわがそれを理解して照準を合わせる。



その僅かな時間だけで、蔽はさらに一つ先へ移動してしまう。


一つ一つの動作が遅いわけではない。



ただ、その間に挟まる工程が多すぎた。



「みぎわ、左! 車の下!」



「ん!」



みぎわが身体ごと向きを変える。


だが、その声を聞いたかのように蔽は車の下から飛び出し、長い腕を地面へついた反動で進路を変えた。



その先にいたのは、粉雪だった。



「粉雪!」



月島が叫ぶ。



粉雪もすぐに気づいた。


しかし、逃げようとして踏み出した足は一歩目からもつれた。



「ひっ……!」



喉の奥から、小さな悲鳴が漏れる。



蔽が地面へ張り付くようにして迫ってくる。


先ほど押し倒された時の恐怖が蘇ったのだろう。粉雪は後ろへ逃げる代わりに、その場で身体を縮めるように両腕を胸元へ寄せた。



次の瞬間、その身体に変化が走った。



白いワンピースの背中が僅かに膨らみ、布越しにも分かるほど大きく輪郭が持ち上がる。



肩甲骨の辺りから何かが押し出されるように広がると、それまで人間の形に収まっていた背へ、淡い色の翅がゆっくりと現れ始めた。


最初に覗いたのは、薄い青緑を帯びた翅の縁だった。



そこから一気に形が広がっていく。



背中から左右へ伸びた二対の翅は、粉雪の小さな身体には不釣り合いなほど大きく、朝の光を透かして淡く輝いていた。


白に近い薄緑の表面には繊細な翅脈が走り、後翅の先はオオミズアオ特有の細長い尾のような形へ伸びている。



それだけではない。


むき出しになっていた腕や首元にも、雪のように淡い産毛が薄く浮かび、白かった肌の一部には柔らかな鱗毛が広がっていく。



完全に虫の姿へ変わるわけではない。


人間としての輪郭は残っている。



怯えた表情も。


胸元で重ねられた細い指も。



白いワンピースも、そのままだった。


だからこそ。



大きな翅だけが広がった姿は、異形というよりも、どこか現実から切り離されたもののように見えた。


粉雪は迫る蔽を見つめながら、胸の前で重ねた両手をぎゅっと握る。



「こ、来ないで……」



震えた声とともに。



翅が動いた。

ばさりと力任せに振るうのではない。



大きく開いた翅を一度後ろへ引き、祈るために両手を合わせる人間のように、ゆっくりと前へ送り出す。



その動きに合わせて。

翅の表面から、無数の細かな鱗粉が舞い上がった。


朝の陽射しを受けた粒子が、淡く瞬く。



白。


銀。


角度によっては、ほんの僅かに薄緑。



一粒一粒は目を凝らさなければ分からないほど小さいはずなのに、大量に空中へ放たれたことで、それらは薄い光の霧となって粉雪の周囲へ広がっていった。



粉雪はもう一度、翅を羽ばたかせる。



胸元で手を重ねたまま。


目を伏せ。


まるで。




───何かに救いを求めて祈っているように。




ふわり。

また光が広がった。



血と砕けたアスファルトと、ひしゃげた車が散らばる駐車場の中で。


そこだけが不自然なほど静かで、神秘的だった。



だが。

月島が見ていたのは、その美しさではなかった。


蔽が粉雪の目前で身体を横へ捻る。



突然広がった鱗粉を嫌ったのか、そのまま車の陰へ逃げ込もうとした。



その瞬間だった。



「……?」



月島の目が、僅かに動く。



蔽の姿ではない。


その手前。

空中に漂っていた鱗粉が、突然大きく横へ流れた。



それまで風に任せてゆっくりと落ちていた粒子が、一箇所だけまとめて押し退けられ、細長い空白を作る。



その直後。

そこを蔽の身体が通り抜けた。



月島は一瞬だけ、その軌道を目で追った。



何だ。


今のは。



考えるより早く、蔽が再び動く。


車の側面へ張り付き、四肢を使って一気に上へ駆ける。



すると。


また。



蔽の身体が動くより僅かに先に、周囲の鱗粉が大きく揺れた。



正確には、先に動いているわけではない。


蔽が地面を蹴り、腕を振り、高速で身体を移動させたことで、押し出された空気が先に周囲へ伝わっている。



「……」



月島の視線が変わった。



蔽を追う目から、鱗粉を見る目へ。


もう一度、蔽が低い壁を蹴る。



その瞬間、壁際に漂っていた光の粒が、斜め上へ大きく巻き上げられた。


その先へ視線を向ける。



直後。


蔽が現れる。



「……粉雪」



名前を呼ばれ、粉雪がびくりと肩を揺らした。



「は、はい……!」



「もっと撒けるか?」



「え?」



粉雪は翅を広げたまま、戸惑ったように月島を見る。


月島は蔽から完全に視線を外さず、片手で駐車場の周囲を示した。



「今より広く。この辺り全部に撒けるか」



「ぜ、全部……ですか?」



「ああ」



「で、できますけど……でも、わたしの鱗粉、何も───」



「いいから撒いてくれ」



粉雪の言葉を遮る。


だが、その声に苛立ちはなかった。



むしろ。

何かを見つけたような。


はっきりとした確信があった。



粉雪もそれを感じ取ったのか。


僅かに迷ったあと、小さく頷いた。



「……分かりました」



もう一度。

胸の前で両手を重ねる。


粉雪が大きく息を吸う。



そして、

背中の翅を、目一杯に広げた。



朝の光を受けたオオミズアオの翅が、淡く透ける。


その姿は先ほどよりもさらに大きく見えた。



白いワンピース。


細い身体。


胸元で重ねられた両手。



そして、

その背後を覆うほど広がった、淡青緑の巨大な翅。


粉雪はゆっくりと目を伏せる。



祈るように。



一度。


翅を羽ばたかせた。



大量の鱗粉が舞い上がる。



もう一度。


今度はさらに広く。



光の粒子が風に乗り、車と車の間へ流れ、低い壁を越え、地面すれすれの空間まで満たしていく。



三度目。

駐車場の一帯が、薄い光の靄に包まれた。


何かを攻撃する能力ではない。



敵を傷つけることも。


眠らせることも。


麻痺させることもできない。



それでも、今。


粉雪の鱗粉は、この場所にある空気そのものを。




─────目に見えるものへ変えていた。




風が吹けば、緩やかに流れる。


粉雪が翅を動かせば、その周囲から波紋のように広がる。



そして、何かが高速で通れば、その軌道だけが大きく乱れる。


そこで月島の頭に、昨夜聞いた陽菜の言葉が蘇った。




───必ず、役立つわ。




そして。




───鱗粉を上手く使いなさい。




あの時は、何を根拠に言っているのか分からなかった。


今なら、分かる。



「……そういうことか」



敵を見る必要はない。

正確には、敵そのものだけを、追う必要がない。


見えないほど速く動くなら。



そいつが動かしたものを見ればいい。



蔽が走れば、空気が動く。


空気が動けば、鱗粉も動く。



それなら、

相手の姿を見つけてから指示を出すより。


その軌道そのものを直接、みぎわに見せればいい。



「みぎわ」



月島が呼ぶ。


みぎわは鱗粉の中で周囲を見回しながら、すぐに顔を上げた。



「ん」



「俺の指を見るな」



「……?」



みぎわが小さく首を傾げる。


今までずっと、月島が示した場所へ撃ってきた。



それを見るなと言われた。


意味が分からないのだろう。



月島は空中へ漂う鱗粉を指した。



「粉雪のキラキラを見ろ」



「……きらきら?」



「ああ」



みぎわの視線が空中へ向く。

大小無数の光が、風に揺れている。



「大きく揺れたところへ撃て」



みぎわはしばらく鱗粉を見つめていた。


それから、ゆっくり、頷く。



「……わかった」



蔽が動いた。低い壁を蹴る。



その瞬間。

壁際の鱗粉が大きく弾けた。


同時に、車の隙間へ吹き込んでいた風も粒子を揺らす。



さらに、蔽が飛び出した勢いで、その後ろにも小さな渦が生まれた。



「……?」



みぎわの両手が迷うように左右へ動く。



「どれ……?」



一瞬、判断が遅れた。


それでも、

一番目立った揺れへ向けて水を撃つ。



鋭い音。


圧縮された水が光の霧を切り裂き、車と車の間を抜けた。



蔽の身体のすぐ横を掠める。



「……ちがった」



みぎわが悔しそうに眉を下げる。

だが、月島は違った。



外れたことより、今。


何に迷ったのか。


そこを見る。



大きく動いた場所が一つではなかった。



風。


蔽が蹴った場所。


身体が通った軌道。


その後ろにできた乱れ。



全部が同じように光って見えたから。



みぎわには選べない。



なら、判断基準をもっと単純にする。



「みぎわ」



「ん」



「全部見なくていい」



みぎわがこちらを見る。


月島は鱗粉の中を走る蔽を目で追いながら、今度は指を差さなかった。



「一番大きく動いたところだけだ。小さい揺れは無視しろ」



「いちばん……おおきい?」



「ああ」



「……わかった」



みぎわはもう一度、鱗粉へ目を向ける。


その緑色の瞳の中に、無数の光が映る。

蔽が再び地面へ身体を沈める。



四肢に力が入る。



そして、跳んだ。



次の瞬間、空中へ漂っていた鱗粉が一箇所だけ大きく割れた。


細かな光の粒が一斉に左右へ押し退けられ、その中央に、一本の道のような空白が生まれる。



今度は、みぎわの腕が迷わなかった。



月島が何も言うより先に、両手が向く。



「そこ」



水が放たれた。


圧縮された水が鱗粉を突き破り、一直線に飛んでいく。



直後。

その軌道へ飛び込むように現れた蔽の身体へ。



真正面から、ぶつかった。



「ギッ───!」



初めて。


蔽の口から、はっきりとした苦鳴が漏れる。



細い身体が水圧に押し潰されるように折れ、そのまま横へ大きく吹き飛んだ。


車の側面へ背中から叩きつけられる。



車体が激しく揺れる。


蔽はそのまま地面へ落ち、何度か転がった。



「……あたった」



みぎわが小さく呟く。


そこには、驚きとほんの僅かな嬉しさが混じっていた。



月島はすぐには答えなかった。



みぎわを見る。


粉雪を見る。



その向こう、赭と戦う斑へも目を向ける。



斑はもう、月島を見ていない。


赭の攻撃を自分で見て、避けて、攻撃が終わった瞬間だけ踏み込む。



粉雪も鱗粉を切らさないよう、自分で翅を動かしている。



そしてみぎわももう、月島の指先を待っていない。



鱗粉が揺れる。

その中から、撃つ場所を自分で選んでいる。



月島はそこでようやく。


今まで自分がどれだけ多くのことを、一人で抱え込もうとしていたのかを理解した。



蔽の位置を見つけ、移動先を予測し、指を差し、みぎわへ伝える。


その間にも斑へ指示を出し、粉雪の位置を確認し、自分自身も敵の攻撃を避ける。



全部。


自分がやろうとしていた。



けれど、斑に戦い方を任せた。


粉雪に、戦場を見えるようにしてもらった。



みぎわに撃つ場所を判断するための基準を与えた。


それだけで。

自分がやらなければならないことが大きく減った。



月島は。


一度だけ。


深く息を吐いた。



それから、改めて周囲を見る。


さっきまでとは違った。



赭だけでもない。


蔽だけでもない。



戦場全体が一つの景色として、目の中に入ってくる。



駐車場の右側では、斑が赭の突進を紙一重で避け、通り過ぎざまに爪を入れている。


額から流れた血はまだ頬に残っていたが、動きそのものはさっきより遥かに軽い。



中央では、粉雪が大きな翅を広げ、祈るように静かに羽ばたき続けている。


淡い鱗粉は風に流されながらも途切れることなく補われ、戦場の空気の流れを光として浮かび上がらせていた。



その少し前、みぎわは両手を構え、その光だけを見ている。


月島はその三人を一度に見た。



「粉雪」



「は、はい!」



「そのまま撒き続けろ。ただし、風に流されすぎた場所だけ補え」



「……分かりました!」



「みぎわ」



「ん」



「大きい揺れだけでいい。追いかけるな」



「うん」



そして、離れた場所で赭と戦う斑へ。



「斑!」



「なんスかー!」



「そいつをそっちで止めとけ!」



斑は赭の腕をひらりと避けながら。


楽しそうに笑った。



「了解ッス!」



それだけだった。



さっきまで月島は右へ行け、左へ避けろ。


撃て。下がれ。待て。



ひとつひとつ、全部言葉にしていた。



今は違う。


誰が何をすればいいのか。



それだけ伝える。


どうやるのかまでは任せる。



すると不思議なことに指示が減ったはずなのに、三人の動きはさっきよりもずっと噛み合っていた。


まだ、上手くできているとは言えないかもしれない。



たった今、一つの失敗から偶然、答えらしきものを拾っただけだ。


それでも、さっきまで四人がそれぞれ勝手に戦っているだけだったものがこの瞬間から、



───ほんの少しだけ、一つの部隊として動き始めていた。




その変化を理解できるほどの理性が蔽に残っていたのかは分からない。



ただ、自分の動きを何度も読まれ、避けられるはずだった水圧まで直撃し始めたことで、何かが限界を越えたことだけは、その様子からでも十分に見て取れた。



車体へ叩きつけられた蔽は、しばらく地面へ四肢をついたまま動かなかった。


細い肩が大きく上下し、喉の奥から短く途切れた呼吸音が漏れている。



先ほどまで無機質だった大きな瞳も落ち着きを失い、月島、みぎわ、粉雪と忙しなく行き来したあと、最後に一人の姿へ止まった。



粉雪だった。



「……またか」



月島はその視線を見ただけで、次に何をするつもりなのか察した。



斑ではない。


自分でもない。


強力な水圧を何度も撃ってきたみぎわですらない。



直接攻撃する手段を持たず、さっきから怯えた様子で後ろにいる粉雪。


───とことん弱そうなやつしか狙わねえな。



そう思った直後、蔽の口が大きく開いた。



「ギィィィィィッ!」



今までのように獲物を窺う静けさは、もうなかった。


地面へ爪を立て、身体を低く落としたかと思えば、そのまま何かに追い立てられるような勢いで飛び出す。


進路を読まれないよう車の陰へ隠れることも、壁を伝って回り込むこともしない。



ただ粉雪だけを見て、四肢をばらばらに動かしながら、一直線に距離を詰めてくる姿は、追い詰められた末に自暴自棄になった獣そのものだった。



粉雪の顔が強張る。


それでも今度は、先ほどのようにただ身体を縮めることはなかった。



大きく広げたオオミズアオの翅を震わせ、胸元で重ねていた手を強く握る。



月島に言われた通り、周囲へ漂わせた鱗粉を絶やさないよう羽ばたき続けると、淡い光の粒が粉雪と蔽の間を薄い幕のように満たしていった。



蔽がその中へ飛び込む。



瞬間、穏やかに漂っていた鱗粉が、正面から押し退けられた。


細かな光が左右へ大きく割れ、粉雪へ向かって一本の太い軌道を描く。



それを見たみぎわは、もう月島の指を待たなかった。



「……みぎわ」



月島が名を呼んだ時には、すでに小さな両手が前へ構えられていた。



掌の前へ水が集まる。


だが、これまでとは違った。



空気中の水分まで引き寄せるように透明な水が一点へ集まり、手のひらほどの大きさまで膨らんだかと思うと、そこからさらに小さく、小さく押し潰されていく。



球体だった水は形を保てなくなるほど密度を増し、表面を細かく震わせながら、耳障りなほど高い音を立て始めた。



月島の目が僅かに見開かれる。



今までより、明らかに圧縮している。



「みぎわ?」



呼びかけても、返事はない。


みぎわの緑色の瞳は、粉雪の周囲で大きく割れていく光だけを見ていた。



迫る蔽。


逃げない粉雪。



その間に立つものは、もうない。



みぎわの指先が僅かに震えた。




そして、両手を突き出す。




「……いけ」



放たれた水は、もはや水の塊には見えなかった。



一本の細い線。



そう錯覚するほど細く絞られた超高圧の水流が、鋭い破裂音とともに空気を切り裂いた。


鱗粉の中へ白い筋が走る。



次の瞬間には、飛びかかろうとしていた蔽の胴体へ真正面から突き刺さっていた。



「───ギッ」



声にすらならなかった。



蔽の身体が大きく折れ曲がる。



細い身体が水圧に押し込まれ、そのまま足を地面から離した状態で後方へ運ばれていく。


途中に停められていた車へ背中から叩きつけられると、金属板が一気に内側へ陥没し、車体全体が大きく沈んだ。



それでも水は止まらない。


車を壁にして逃げ場を失った蔽へ、さらに数秒、水圧が押しつけられる。



やがて、みぎわが腕を下ろした。



水が途切れる。


残った水滴が、ひしゃげた車体からぽたぽたと地面へ落ちていく。



蔽はそこに張り付くような姿勢で止まっていた。


動かない。



腹部は不自然に沈み、力なく垂れた四肢の先から爪が車体を滑っていく。


やがて身体がゆっくりと傾いた。



その口が僅かに開く。



赤いものが溢れた。

勢いよく吹き出すのではない。


蛇口を捻った時に流れ出す水のように、濃い血が口元から絶え間なく流れ落ち、顎を伝って胸元へ広がっていく。



やがて身体が車体からずり落ちて地面へ崩れると、その血も細い流れを作りながらアスファルトの窪みへ溜まっていった。



月島は数秒、その姿を見ていた。



胸が動かない。


指先も。


目も。



もう動かなかった。



「……仕留めたか」



みぎわがゆっくりと腕を下ろした。



さすがに今の一撃は負担が大きかったらしく、肩で小さく息をしながら、それでも倒れずに月島の方を見る。


月島はそんなみぎわを一度見たあと、地面へ崩れた蔽へ改めて視線を戻した。



今の一撃は間違いなく強力だった。



これまで撃っていた水とは、圧縮の度合いそのものが違う。


まともに受ければ、人間ならまず耐えられないだろうし、実際、蔽の身体は内部まで耐えきれずに潰れていた。



ただ相手が蔽だったからこそ、ここまで決定的な一撃になったということも、月島には分かっていた。



ヤモリをモデルにした蔽は、壁や車体を自在に這い回れるほど身軽で、速度と機動力には優れている。


その反面、赭のように分厚い筋肉や脂肪、硬い体毛で全身を覆っているわけではない。



もし今の一撃を受けたのが、あの猪だったなら。


もちろん無傷では済まない。

大きく吹き飛ばし、相応の損傷も与えられただろう。



それでもあの異常なほど頑丈な身体を、一撃で完全に仕留めるところまでは届かなかった可能性が高い。



「……相性もあるか」



月島が小さく呟く。



強い攻撃を持っていれば、それだけで全部を倒せるわけじゃない。


敵によって、能力によって、同じ一撃でも結果は変わる。



その事実も、頭の片隅へ置いておく。



「ぱぱ」



「ああ」



月島が答えようとした、その時だった。



「ぐぬぬぬぬぬぬッ……!」



今度は少し離れた場所から、聞き慣れた声が響いた。


何事かと振り向けば。

斑が赭の牙へぶら下がっていた。



「……何やってんだ、あいつ」



思わず月島の口から漏れる。


右手一本で太い牙を掴み、身体を宙へ浮かせたまま振り回されている。



赭が頭を左右へ激しく振るたび、斑の身体も大きく弧を描き、近くの車体へ脚をぶつけたかと思えば、


その次には地面すれすれまで振り下ろされ、アスファルトへ肩を擦っていた。



それでも離さない。



「暴れるなッス! 頭ん中掻くことできねえッス!」



「がゆぃぃぃッ! がゆい、がゆぃぃいいッ!」



斑は牙を掴んだ腕に力を込め、そのまま身体を引き寄せるようにして赭の顔へ近づいた。



「だから、大人しくするッス!」



「がゆい……ッ、がゆ……がゆぃぃ……!」



赭はなおも苦しそうに頭を振り、斑を振り落とそうと首へ力を込めていた。


けれど、先ほどまで車体へ叩きつけるほど激しかった動きは、蓄積した傷と疲労のせいか、少しずつ勢いを失い始めている。



斑の爪で全身を切り裂かれ、みぎわの水圧まで受けた身体はもう限界に近いはずで、


それでもなお動こうとしているのは、痛みや怒りよりも頭を蝕む痒みから逃れたいという衝動に突き動かされているように見えた。



「がゆ……い……」



掠れた声が、今度は小さく漏れた。


赭の首がまた左右へ揺れるが、途中でふっと止まった。



疲れ果てただけなのかもしれない。


傷が深くなりすぎて、もう身体へ十分な力が入らなかっただけなのかもしれない。



それでも月島には、焦点の定まらなかった赭の瞳が斑の姿を捉え、何かを待つようにその顔へ向けられたように見えた。


斑も同じものを感じ取ったらしい。



太い牙へぶら下がったまま赭の顔を覗き込み、それまで力比べを楽しんでいた時とは少し違う、柔らかな笑みを浮かべた。



「……いい子いい子ッス」



そう言った直後、斑の左腕が動いた。



五本の指をぴたりと揃え、その先から伸びた黒い爪を一つの切っ先へ束ねる。


槍のように細く尖ったそれを、斑はほとんど躊躇することなく赭の頭部へ突き入れた。



硬いものを穿つ鈍い音が、一度だけ響いた。



爪の先端が頭蓋を貫いた瞬間、赭の巨体がびくりと大きく震え、それまで斑を振り回していた首から急速に力が抜けていく。



肩も、太い腕も、踏ん張っていた両脚も次第に緩み、やがて赭はただその場に立っているだけで精一杯のような姿になった。



斑はそれを確認すると、掴んでいた牙から手を離して地面へ降りた。



「……これでもう、痒みは取れたッスか?」



いつもの明るい調子は残っていた。

けれど、その声は少しだけ静かだった。


赭は答えない。

ただ、半開きになった口が僅かに震えた。



「あ……あっ……」



喉の奥から漏れる音はひどく弱く、もう先ほどまでの咆哮とは比べものにならない。


それでもまだ、その声には獣じみた濁りが残っていた。



何かを言おうとしているのかさえ最初は分からなかったが、斑は急かすことなく赭を見上げたまま待っている。



「……あ……り、ぁ……」




そこで一度、息が詰まった。




赭の瞳が僅かに揺れる。




そして、




「───あ…りが、ぉ……ぅ」



その瞬間だけ、声が変わった。



低く濁り、喉を潰すように響いていた怪物じみた声ではない。



掠れていて、消えてしまいそうなほど弱い。


それでも月島の耳には、それが確かに若い少女の声として届いた。



「……」



月島の目が僅かに見開かれる。



ほんの一瞬だった。



異形へ変わり果てた身体の奥から、それまでずっと閉じ込められていた誰かが顔を覗かせ、自分自身の声で最後の言葉を残したように聞こえた。



次の瞬間、赭の膝から完全に力が抜けた。



巨体がゆっくりと後ろへ傾き、背中からアスファルトへ落ちる。


重たい音が駐車場へ響き、太い両腕と両脚が投げ出されるように広がった。



大の字。



ただそれだけの姿勢だった。


けれど、つい先ほどまで痒みを訴えて頭を掻き毟り、車や柱へ自ら身体を叩きつけていた時とは違い、今の赭の顔からは苦痛に歪んだ険しさが消えていた。



目は閉じられている。

口元からも、もう声は漏れない。


まるで、ようやく眠ることができたようだった。



斑はしばらく、その場から動かなかった。



月島も何も言えず、倒れた赭を見つめていた。


戦っている間は、怪物にしか見えなかった。



異常に発達した筋肉。


全身を覆う硬い体毛。


口元から突き出した牙。


血走った目。



頭を掻き毟りながら「痒い」と叫び、こちらを見つければ巨体そのものを武器にして突っ込んでくる。



その姿を見ているうちに、いつの間にか月島の中でも、目の前にいる存在は倒さなければならない『暴走個体』として切り分けられていた。



そうしなければ戦えなかったのかもしれない。



元は人間だと知っていても、こちらを殺そうとしてくる相手を前にして、いちいちその人生まで想像している余裕などない。


殺さなければ殺されるのなら、敵として見るしかない。



だが、最後の一言だけが、その切り分けを簡単に壊した。




────ありがとう




言葉だけではない。



あの声も。


それまで聞こえていたものとはまるで違う、あまりにも普通の少女の声だった。



月島の耳には、もう聞こえないはずのその声が、妙に生々しく残っている。



月島は改めて赭の顔を見る。


異形へ変わった輪郭の奥に、人間だった頃の面影を探すように。



年齢だって、本当は斑や粉雪と大きく変わらなかったのかもしれない。


こんな姿になる前には好きな食べ物があって、嫌いなものがあって、くだらないことで笑ったり、誰かに腹を立てたり、眠い朝には起きるのを嫌がったりしていたのかもしれない。



それこそ、どこにでもいるような、ごく普通の年頃の少女だったのかもしれない。



月島の視線が、無意識に隣へ向いた。



みぎわがいた。


激しい戦闘で髪も服も濡れ、少し疲れた様子で立っている。



それでも緑色の瞳はいつもと変わらず月島を見ていて、目が合うと不思議そうに小さく首を傾げた。


その姿と、地面へ横たわる赭が、一瞬だけ重なった。




もし、あのまま施設に残していたら。



もし、自分が連れ出していなかったら。




みぎわもいつか、目の前の少女と同じように、誰かから『暴走個体』と呼ばれ、処理される側になっていたのだろうか。



月島はすぐにその考えを振り払おうとした。



状況が違う。


赭は完全に暴走していた。



こちらが何もしなければ、人を襲う。


戦っている最中だって、斑やみぎわを本気で殺そうとしていた。



だから、仕方がなかった。


少なくとも今は、それ以外の方法を知らなかった。



それでも、胸の奥へ生まれた小さな引っかかりは消えなかった。




────本当に、どうにもできなかったのか。




殺すしかなかったのか。



あれだけ最後に言葉を残せたのなら、どこかにまだ人間としての意識が残っていたんじゃないのか。



答えは出ない。


それどころか、今考えたところで確かめる方法すらなかった。



月島は黙ったまま赭から視線を外した。




その時、駐車場を横切るように弱い風が吹いた。




粉雪が撒いた鱗粉が風に乗り、朝の光の中をゆっくりと流れていく。


ひしゃげた車の間を漂う淡い光は、つい先ほどまでここで激しい戦闘が行われていたことを忘れさせるほど穏やかだった。



水が弾ける音も、赭の咆哮も、蔽が地面を這う気配も、もう聞こえない。


急に訪れた静けさの中で、月島はようやく大きく息を吐いた。



疲れていた。



身体そのものは、そこまで動かしていない。直接戦った時間だって長くはなかった。


それなのに頭の奥には熱がこもったような重さが残り、少し気を抜けばその場へ座り込みたくなるほどだった。



一人で戦った時とは、まるで違う。



自分だけなら、敵と自分だけを見ていればいい。



今回は斑を見て、みぎわを見て、粉雪を見て、二体の敵を追い、


その都度何が最善なのかを考え、間違えれば修正し、その判断一つで誰かが傷つく可能性まで背負わなければならなかった。



ほんの五分ほどの交戦だったはずなのに、頭の中では何時間も考え続けていたような感覚が残っている。



「いやぁ〜……」



そんな静けさを破ったのは、やはり斑だった。


赭の傍から離れた斑は、額に残った血を手の甲で雑に拭いながら、満足そうに肩を回している。



服も髪も砂埃で汚れ、身体のあちこちにぶつけた跡が残っているのに、それでも本人は戦闘前より機嫌が良さそうに見えた。



「てるるんの初仕事にしては、結構暴れたッスねぇ」



「お前が一番好き勝手してただろ」



月島が呆れたように返すと、斑は悪びれる様子もなく笑った。



「でも勝ったッス!」



「途中まで普通に押されてただろ」



「最後に勝った方が勝ちッスよ。終わりよければ全部よしッス!」



「便利な言葉だな、それ」



「便利なものは何でも使えって、上司に教わったッス!」



「……アイツの言いそうなことだな」



これ以上言っても無駄だろう。



月島は小さく息を吐き、斑から視線を外した。


少し離れた場所では、粉雪がまだオオミズアオの翅を広げたまま立っていた。



戦闘中は祈るように何度も羽ばたいていた大きな翅も、今はほとんど動いていない。


周囲へ撒かれた鱗粉だけが残った風に揺られ、白いワンピースの周りを淡い光となって漂っていた。



本人はその光をぼんやりと見つめていた。



さっきまで怯えていた顔には、戦いが終わった安堵よりも戸惑いの方が強く残っている。


自分が何をしたのか、まだ理解しきれていないようだった。



月島はそんな粉雪をしばらく見たあと、何気なく名前を呼んだ。



「粉雪」



「ひゃ、はい!」



粉雪の肩がびくりと跳ね、大きな翅までつられるように震えた。


月島はその反応を気にすることなく、地面に倒れた蔽へ一度だけ目を向ける。



「助かった」



「……え?」



粉雪が目を丸くした。


自分が呼ばれた理由すら分かっていなかったようで、何度か瞬きをしてから月島を見る。



「お前の鱗粉がなかったら、あいつの動きは最後まで捕まえられなかった」



「……わ、わたしの…?」



「ああ。あれのおかげで、みぎわが自分で狙えるようになった。たぶん、鱗粉がなかったらもっと時間がかかってた」



粉雪はすぐには答えなかった。


胸元へ重ねた自分の手を見てから、背中に広がる翅へ視線を向け、最後に空中を漂っている淡い粒子を見上げる。



「でも……わたし、戦ってないです…!」



小さな声だった。



「斑ちゃんみたいに殴ったわけでもないし、みぎわちゃんみたいに倒したわけでも……」



「別に、殴ることだけが戦いじゃないだろ」



月島は淡々と答えた。



「お前が鱗粉を撒いたから、あいつの動きが見えるようになった。それでみぎわの攻撃が当たった。十分だ」



粉雪はしばらく黙っていた。


月島の言葉を、頭の中で何度も確かめているようだった。



「……わたしが」



やがて、胸元へ置いた指先が僅かに動く。



「役に……立った?」



「そう言ってる」



粉雪はもう一度、空中の鱗粉を見た。



その表情がすぐに明るくなったわけではない。嬉しいと笑うには、まだ戸惑いの方が大きい。


それでも、ずっと俯きがちだった顔がほんの少しだけ上を向いた。



「…そっか、そうなんだ。わたしもみんなの役に立てるんだ……へへ」



声も小さい。


でも、そこには先ほどまでとは少し違うものがあった。



その時、粉雪の視線が月島の隣にいるみぎわへ移った。



「……あ」



みぎわは何を話しているのかよく分かっていないらしく、二人の顔を交互に見ている。


粉雪はそんなみぎわを見つめたあと、少し迷うように手を胸元で動かし、それからゆっくりと歩み寄った。



「みぎわちゃん」



「ん?」



呼ばれたみぎわが顔を上げる。



粉雪はその前へしゃがみ込んだ。



「みぎわちゃんも、助けてくれてありがとね?」



そう言いながら、そっとみぎわの頭へ手を置く。


細い指が、濡れた髪を優しく撫でた。



みぎわは最初、何をされているのか分からないようにぽかんと粉雪を見上げていた。


けれど嫌がる様子はなく、むしろ少しだけ目を細めた。



「……ん」



それから自分の周りに残っている鱗粉へ目を向ける。


朝の光を受けた粒子が、二人の間をゆっくりと漂っている。



みぎわはその光を見たあと、粉雪へ視線を戻した。



「ゆき、きらきら」



「……え?」



「きれい」



粉雪の動きが止まった。

頭を撫でていた手も、そのまま止まる。



数秒、何も言わない。



やがて。



「……ありがと」



今度は、本当にほんの少しだけ笑った。


月島はそのやり取りを横から静かに見ていた。



そして改めて、三人を見る。



斑。


粉雪。


みぎわ。



さっきまでとは違って見えた。



いや、実際には何も変わっていない。


能力も、性格も、身体の強さも、戦闘が始まる前から全部そこにあった。



変わったのは、月島の見方だった。


斑は細かく動きを指定しない方がいい。目的だけ与えれば、その方が自分で判断して速く、強く動ける。



粉雪は直接攻撃する必要がない。


鱗粉を使えば見えなかったものを見えるようにでき、それだけで戦場全体へ影響を与えられる。



みぎわも月島の指先を待ち続ける必要はなく、何を見るのか、何を基準にするのか、そこさえ渡せば自分で攻撃する場所を選べる。


月島はそこで、今回の戦闘を頭の中でもう一度簡単に組み直してみた。



最初から斑には、赭をこちらへ近づけるなとだけ伝える。



粉雪には戦闘が始まった時点で周囲へ鱗粉を撒かせる。



みぎわには敵そのものではなく、鱗粉の大きな乱れを見るように伝える。



それなら最初の時点から、もっと余裕を持って全体を見られた。


少なくとも、粉雪へ蔽が近づくまで気づかないようなことはなかったかもしれない。



「……次は」



月島は小さく呟いた。



次は最初から、そうする。



勝った。

結果だけ見れば、そうだった。



けれど危なかった。



斑は血を流した。


みぎわも赭の咆哮で、一時的にまともに動けなくなった。



粉雪に至っては、自分が気づくのがあと少し遅ければ、どうなっていたか分からない。


その事実だけは忘れない。



「ぱぱ」



声に、月島が横を見る。


粉雪に撫でられていたみぎわが、いつの間にかまたこちらへ戻ってきていた。



「つかれた?」



「……まあな」



月島が答えると、みぎわは少しだけ考えるように月島の顔を見た。



それから手を握る。

小さな指が、月島の指へ絡む。


戦場にはもう、敵の動く気配はない。



粉雪の鱗粉が風に流されている。



ひしゃげた車。


割れたガラス。


削れたアスファルト。



その上に倒れている二体と、その傍に立つ四人。



月島はその光景をゆっくりと見渡した。


ほんの数分前までは、自分たちが勝てるかどうかすら分からなかった。



でも、今は静かだった。

月島はみぎわの手を握ったまま、長く息を吐いた。



初めての戦いは終わった。



少なくとも、その時の月島にはそう思えた。



駐車場には、激しい戦闘の痕跡だけが取り残されていた。



側面を大きく凹ませた車、地面へ散らばった窓ガラス、何度も水圧を受けて削れたアスファルト。


その間を朝の風がゆっくりと通り抜け、粉雪が撒いた鱗粉を細かな光の粒として運んでいく。



つい先ほどまで耳を塞ぎたくなるほど響いていた赭の咆哮も、水圧が空気を裂く鋭い破裂音も、蔽が地面や車体を這い回る不気味な気配も、今はもうどこにもなかった。


月島は隣にいるみぎわの小さな手を握ったまま、ようやく肩から力を抜いた。



身体そのものはそれほど酷使した覚えがないのに、頭の奥には鈍い熱が残っている。


斑、粉雪、みぎわ、そして二体の暴走個体を同時に見ながら、その都度状況を組み直し続けたせいだろう。



そんな静けさの中で、粉雪がふと顔を上げた。



「……あれ?」



小さな呟きに、月島がそちらへ視線を向ける。



「どうした?」



「いま……なんか……」



粉雪は言葉を探しながら、少し離れた場所を指した。



その先には、みぎわの超高圧の水をまともに受け、ひしゃげた車の傍へ崩れ落ちた蔽が横たわっている。


周囲にはまだ鱗粉が薄く残っており、ほとんどの粒子は駐車場の奥から入口へ向かって流れる風に乗り、同じ方向へ穏やかに漂っていた。



けれど、その中の一箇所だけが不自然だった。



蔽の死体のすぐ傍に浮いていた鱗粉だけが、周囲の流れに逆らうように反対方向へ押し退けられている。


それも広い範囲ではなく、何か細いものがそこを横切ったような一筋だけだった。



月島の目が細くなる。



見覚えがあった。



蔽が高速で動くたび、その身体に押し出された空気が粉雪の鱗粉を乱していた。



今、目の前で起きている揺れは、それとよく似ている。




「───みぎわ!」



月島が鋭く名を呼ぶ。



それ以上の説明は必要なかった。



みぎわもすでに異変を捉えていたらしく、緑色の瞳が風に逆らって揺れる鱗粉へ向き、月島が指を差すより先に両手を構える。



ほんの少し前に作ったばかりの連携が、今度はほとんど言葉を必要とせず成立していた。



だが、水が集まり始めるより早く。


地面へ倒れていた蔽の身体が跳ね上がった。




「……ッ!?」



月島の目が見開かれる。


それは、生き物が起き上がる時の動きではなかった。



みぎわの水圧をまともに受けた腹部は不自然に沈み、片脚も本来とは違う方向へ曲がったままになっている。



首も大きく傾き、自分の頭部すらまともに支えられないはずだった。


にもかかわらず、その壊れた身体が何かに引き上げられたように地面から浮いた。



右腕が先に伸び、そのあとから遅れて脚が動く。


身体の各部が互いに連動しておらず、頭は力なく垂れたままなのに、それでも蔽は一直線に月島たちへ飛びかかってきた。



「みぎわ、撃て!」



月島が声を飛ばす。



みぎわもすぐに水を集めようとしたが、先ほどのように十分な量を圧縮できるほどの距離は残っていなかった。


蔽はすでに目の前まで迫り、そのまま飛びつけば数秒もかからない。



みぎわはすぐに判断を切り替えた。



小さく息を吸い込んで口を開く。


次の瞬間、人間には出せない高い音が駐車場へ鋭く響いた。



耳の奥を直接揺さぶられるような音に、すぐ傍にいた月島の頭まで一瞬痺れる。


近距離で相手の感覚を乱し、動きを止めるために使っていた音波だ。



今までなら、少なくとも一瞬は相手の動きが鈍る。



どれだけ強い個体でも、何らかの反応は見せていた。




けれど、蔽は止まらなかった。




音を真正面から浴びても身体を強張らせることすらなく、壊れた姿勢のまま真っ直ぐ距離を詰めてくる。



「……え?」



みぎわの声に、明らかな戸惑いが滲んだ。


月島自身も一瞬だけ理解が遅れた。



効いていない。


なぜ。



そう考えた時にはもう、蔽の口が目前まで迫っていた。



「っ!」



月島は反射的にみぎわを背中側へ押し、自分の左腕を盾にするように前へ差し出した。



次の瞬間、鋭い歯が服の上から腕へ食い込む。



「ぐっ……!」



熱い痛みが走り、袖の下で皮膚が裂ける感触が伝わってきた。


歯に引っ掛かった布が破れ、その裂け目から血がじわりと滲み出していく。



背後でみぎわが息を呑んだ。


蔽がさらに顎へ力を込めようとした、その直前だった。



横から一気に影が飛び込んでくる。



「まだ生きてたんスか!?」



斑だった。


驚いた声とは裏腹に動きには一切の迷いがなく、踏み込んだ勢いを殺さないまま腕を横へ振り抜く。



黒い爪が蔽の首を正確に捉えた。



肉を裂く鈍い音とともに首が深く断ち切られ、月島の腕へ噛みついていた顎から一気に力が抜ける。


頭部が横へ落ちるのに少し遅れて、残された身体もアスファルトへ崩れ落ちた。



今度こそ、何の反応もない。


斑は爪についた血を軽く振り落としながら、足元へ転がった蔽を怪訝そうに見下ろした。



「いやぁ……さすがに今のはビビったッスね。あれだけ喰らって、まだ動くんスか?」



「月島さん!」



粉雪も慌てて駆け寄ってくる。



まだオオミズアオの翅を広げたままで、走るたびにその表面から僅かな鱗粉がこぼれ、足元の空気へ淡く散っていった。



「大丈夫ですか!? 血、出てます……!」



「俺なら大丈夫だ」



月島は噛まれた左腕へ目を落とす。


袖は歯に引き裂かれており、その下から血が滲んでいる。



脈打つような痛みはあるものの、腕は問題なく曲がり、指も動く。骨まで届いたような感覚もなかった。



「幸い、傷は深くない」



そう言いながら軽く腕を動かして見せると、粉雪はまだ心配そうに傷口を見つめながらも、少しだけ肩の力を抜いた。


けれど、その隣にいるみぎわだけは何も言わなかった。



月島がそちらを見る。



みぎわは、自分の両手を見下ろしている。



音を出した。


止めようとした。



けれど止められなかった。


その結果、月島が傷ついた。



そう考えているのだろう。



普段なら何かあればすぐ月島の傍へ寄るのに、今はほんの少しだけ距離を空け、俯いたまま小さな肩を落としている。



「みぎわ」



月島が呼ぶと、みぎわはゆっくりと顔を上げた。



「ぱぱ……」



緑色の瞳が不安そうに揺れている。


月島は右手を伸ばし、その頭へそっと手を置いた。



「お前は間違ってない」



「……でも」



「間違ってない」



月島はもう一度、今度ははっきりと告げる。



「あの距離なら、音で止める判断は正しい。俺でも同じことをさせてた」



みぎわはまだ納得しきれていないようだったが、月島が濡れた髪をゆっくり撫でると、僅かに俯いていた顔を少しだけ上げた。



「だから、気にするな」



「……ん」



小さな返事が返ってくる。


月島はそれ以上慰めるような言葉を重ねず、再び地面へ倒れた蔽へ視線を向けた。



みぎわは間違った判断をしていない。


むしろ、あの距離と速度なら音波で動きを止めようとしたのは合理的だった。



水を圧縮している時間はなく、これまでの戦闘でも近距離では実際に通用している。



それなのに、今回は何の反応もなかった。


月島の中へ、別の違和感がゆっくりと形を持ち始める。



そもそも蔽は、確実に死んでいたはずだった。



みぎわの超高圧の水をまともに受け、車体へ押し潰され、口から大量の血を流しているところまで自分の目で確認した。


胸は動かず、指先も、眼球も、何一つ生命らしい反応を見せていなかった。



そのはずなのに今、蔽は動いた。



「……ぱぱ」



隣から聞こえたみぎわの声に、月島が顔を向ける。



「なんだ?」



みぎわは月島ではなく、地面へ転がる蔽の死体をじっと見ていた。



「このひと……変」



「変?」



「ん」



みぎわは少し言葉を探すように眉を寄せ、それから自分の胸元へ手を当てた。



「さっき……おと、なかった」



月島の眉が僅かに動く。



「音?」


「うん」



みぎわは自分の胸を指先で軽く叩きながら、拙い言葉を一つずつ続けた。



「いつも、ある。どく、どく」



そこで再び蔽へ目を向ける。



「でも……なかった」



月島の表情が変わった。



みぎわは音に敏感だ。


人間には聞き取れないほど小さな振動や音まで拾える。



心臓が打つ音。


呼吸によって生まれる僅かな振動。


身体の内側を流れるものが立てる、小さな気配。



それをみぎわが感じ取っていたとしても、不思議ではない。



「なのに」



みぎわが蔽を見たまま、ぽつりと言う。



「うごいた。変」



その言葉で、月島の中に散らばっていた違和感が一つに繋がった。



やはり、蔽は死んでいた。


ならば、今起きたことを「生き返った」と考えるのは少し違う。



音がなかった。


生命活動がなかった。



その状態のまま動いたのだとすれば、何か別の理由がある。


月島はすぐに答えを決めつけず、地面へ倒れた蔽へ向かってゆっくりと歩き始めた。



「てるるん、近づいたら危ねえッスよ!」



その動きに気づいた斑が、すぐに手を伸ばして制止する。



「分かってる」



月島は死体から目を離さずに答えた。



「だから確認する」



「いやいや、さっき死んでたのに動いたんスよ!?」



「それが気になるんだ」



斑はあからさまに嫌そうな顔をしたものの、それ以上強く止めることはしなかった。


その代わり、月島が何かされればすぐに飛び込めるよう、一歩前へ出て爪を構えたまま死体を警戒する。



月島は蔽の傍まで進むと、十分な距離を取ったまま一度様子を窺った。



何も動かない。



斑に首を深く断ち切られた今の状態で、それでもなお襲いかかってくるなら、もはや普通の生物として考えること自体が無意味になる。



月島は慎重にしゃがみ込む。



その後ろから、みぎわもついてきた。


月島が振り返る。



「離れててもいいぞ」



「……や」



みぎわは即答し、そのまま月島の服の裾を軽く掴んだ。


さっき月島を傷つけてしまったと思っているせいか、今度は離れる方が不安なのかもしれない。



月島はそれ以上何も言わず、蔽の死体へ視線を戻した。



まず腕を確認する。


次に脚。


みぎわの水圧によって大きく損傷した腹部。


斑に切り裂かれた首。



身体を動かした形跡や、何か外部から手を加えられたような痕跡がないか、一つずつ目で追っていく。


外から見える範囲には、不自然なものは見当たらなかった。



あるのは、ただ戦闘で傷つききった死体だけ。



それでも月島は諦めず、首元を確認するために蔽の身体を僅かに横へ傾けた。



その時。

朝の光が、何かに触れて小さく反射した。



「……?」



月島の視線が止まる。



首の後ろ。

髪と皮膚の隙間に、何か細いものが絡みついている。


最初は髪の毛かと思った。



けれど、よく見ると色が違う。


白ではない。



朝の陽射しを受けたそれは、髪よりも遥かに細いにもかかわらず、金属のような冷たい光を返している。




────白銀。




そう呼ぶ方が近かった。



月島は目を細めた。




あまりにも細い。


少し視線をずらせば、そのまま空気の中へ溶けて見失ってしまいそうなほどだった。



それなのに、不思議と頼りない印象はない。


むしろ張り詰めた何かを前にしているような、妙な緊張感があった。



月島は慎重に指先を伸ばし、親指と人差し指の爪の間でそれを摘まむ。



「月島さん……?」



後ろから、粉雪の不安そうな声が聞こえる。



月島は返事をせず、そのままゆっくりと引いた。


白銀の糸が、蔽の髪と皮膚の隙間から持ち上がる。



数センチ。


さらに、その先。

細さに反して、ほとんど伸びない。



普通の糸なら多少なりとも指先へ柔らかさが返ってくるはずなのに、これは違った。


張った針金でも引いているような、硬質な抵抗だけが指先へ伝わってくる。



月島の眉が僅かに寄る。



「……糸ではないのか」



呟きながら、もう少しだけ力を込めた。



その瞬間。


ぷつり、と。



白銀の糸が切れた。


同時に。




「……っ!」




人差し指へ、遅れて鋭い痛みが走る。



月島は反射的に手を引いた。


何が起きたのか分からず指先を見る。


皮膚に、細い赤い線が走っていた。



ほんの一瞬。


摘まんでいただけだった。


強く握ったわけでもない。



それなのに、指の腹は刃物で撫でられたように綺麗に裂け、切れ目から丸い血の粒がゆっくりと浮かび上がってくる。



「月島さん、指……!」



粉雪の声に、斑もこちらを見る。



「何したんスか?」



「……何もしてない」



月島は傷口を見ながら答えた。


正確には糸を引いただけだ。



その程度で、皮膚が切れた。



月島は親指についた血を軽く拭うと、今度は切れた糸そのものには触れず、爪の先へ引っ掛けるようにして持ち上げた。


短く切れた白銀の糸が、朝の光の中で僅かに揺れる。



細い。


あまりにも細い。



それなのに。


陽射しを受けるたび、その表面から返ってくる光は、絹や化学繊維のそれとは明らかに違っていた。



刃物の縁に光が走る時のような。


冷たく、鋭い輝き。



「……なんだ、これは?」



当然、答えは返ってこなかった。



その白銀の糸を目にした瞬間、斑の表情がほんの僅かに止まった。


どこかで見たような――そんな引っかかりがあったが、斑自身も確信までは持てないのか、何も言わずに目を細めるだけだった。



粉雪は黙ったまま白銀の糸を見つめている。


みぎわだけは糸ではなく、いまだ地面に横たわる蔽の死体をじっと見つめ続けていた。



月島は眉を寄せたまま、爪先に掛かった白銀の糸へもう一度視線を落とす。



細い。


軽い。


なのに。



触れただけに近い指を、簡単に切った。


その事実だけが、妙に頭へ残った。



その少し離れた場所。

駐車場を見下ろす建物の屋上に、一つの白い影があった。



朝の陽射しがまだ完全には届かない屋上の縁。


その影は、細い身体を闇の中へ沈めるように立ち、月島たちのいる駐車場をじっと見下ろしている。



距離があるため、顔までは見えない。



ただ、風が吹くたびに白い髪が静かに揺れ、その輪郭だけが薄暗がりの中へ淡く浮かび上がった。


月島たちは、誰一人としてその存在に気づかない。



白い影はしばらく、駐車場を見つめていた。



月島の指先。


そこに浮かぶ赤い血。



そして、爪先へ残された、短い白銀の糸。




やがて影は、何事もなかったかのようにゆっくりと身を引く。




次の瞬間には、

もう屋上の縁から、その姿は消えていた。



【Human Rize 被験体記録】


個体番号:一四四


コードネーム:赭(そほ)


モデル:猪


本名:野中(のなか) 千穂(ちほ)


年齢:15歳



【人物記録】


友人が多く、明るく社交的な性格。

一方で短気かつ感情的な面があり、納得できないことには強く反発する傾向があった。


甘いものを好む。


当時は中学三年生。高校受験を控えており、進学後の生活を楽しみにしていた。


将来の希望職は美容師。



【収容経緯】


一人っ子。幼少期より母子家庭で育つ。


母親の再婚後、義父との関係が悪化。本人は義父に対してたびたび反抗しており、次第に強い敵意を向けられるようになった。


その後、義父によって民間保護施設へ引き渡される。

施設移送後、野中千穂は行方不明者として処理された。


以降、Human Rize被験体番号一四四として管理。



【特記事項】


本人には以前から、強いストレスを感じると頭部を激しく掻く癖が確認されている。


処置後もこの行動傾向は残存。



暴走状態では極度のストレスによって症状が増幅し、頭部を掻き続ける、周囲の物体へ頭部を打ちつけるなどの異常行動を確認。



暴走中に繰り返された発話、



「かゆい」



についても、同一の行動傾向に由来するものと推定される。

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