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第二話『勝手に動くもの』前編

陽菜の言葉を合図に、それまで思い思いの場所にいた面々が、ようやく出発の準備を始めた。


廃墟の中には、朝の光が少しずつ広がっている。



割れた窓から斜めに差し込んだ陽射しが、床に積もった細かな埃を淡く浮かび上がらせ、夜の間冷え切っていた空気にも、わずかな温度が戻り始めていた。



それでも外から吹き込んでくる風には、まだ夜の冷たさが残っている。



遠くから聞こえるのは、風に揺らされた看板の軋む音と、時折どこかで響く低い破砕音だけだった。


昨日までなら車や人の声で埋もれていたはずの音が、今は一つ一つ妙にはっきりと聞こえる。



月島はみぎわの肩へ掛かっていた薄いブランケットを整えながら、廃墟の中央へ視線を向けた。


陽菜はすでに端末を開いている。



画面には周辺一帯の地図が表示され、その上にいくつかの赤い印が浮かんでいた。


昨夜、翳が周囲を偵察した時には確認されていなかった反応らしい。



陽菜が指先で画面を滑らせ、一つの赤点を拡大する。



「まずはここね」



月島も端末を覗き込んだ。


現在地から、それほど遠くない。

歩いて向かえる距離だった。



「反応は一体?」



「現時点で拾えているのはね」



陽菜の答えは、どこか含みがあった。

月島が眉を寄せる。



「現時点?」



「暴走個体が律儀にその場で待っていてくれるとは限らないでしょう?」



「……それもそうか」



「それに、端末で全部把握できるわけでもないわ。現地へ行ってみたら増えていました、なんてことも十分あり得る」



朝一番に聞くには、あまり嬉しくない話だった。


月島が小さく息を吐く横で、斑が肩をぐるぐると回している。



「何体でも来ればいいッスよ!」



眠そうにしていた数分前とは別人のようだった。


身体を伸ばし終えると、今度は拳を握って軽く振り、どこか楽しそうに笑っている。



「昨日はろくに暴れられなかったッスからねぇ。今日はボクの強いところ、てるるんに見せてやるッス!」



「てるるんって呼ぶな。あと、別に見せなくていい」



「なんでッスか!?」



そのすぐ隣では、粉雪が二人の会話を聞きながら、落ち着かなさそうに両手を胸元で重ねていた。



昨日と同じ白いワンピース。


細かなフリルの付いた裾にはまだ埃が残っていて、斑とは対照的に、これから戦いに向かう人間にはとても見えない。



月島の視線が、そこからさらに横へ移る。

みぎわ。



薄いブランケットを肩に掛けたまま、月島のすぐ傍に立っている。


月島が少し動けば、その分だけ一歩ついてくる。こちらが止まれば、みぎわも止まる。



そして、斑、粉雪。



改めて三人を並べて見ると、妙な感覚があった。


昨日まで、ほとんど知らなかった者たちだ。



みぎわを除けば、名前すらまともに知らなかった。



斑とは施設の中で顔を合わせただけ。


粉雪に至っては、月島を逃がしてくれたという一点を除けば、何ができるのかさえ知らない。



それなのに。

今日からは、この三人を自分が率いる。



陽菜は簡単に『指揮』と言った。



だが、実際に何をすればいいのか。

月島自身、まだ明確には分かっていなかった。



敵を見る。


状況を判断する。


必要なら指示を出す。



言葉にしてしまえば、それだけだ。



一人で動く時なら、自分の判断に従って自分の身体を動かせばいい。


だが今度は違う。



自分ではない誰かを動かす。




しかも。




───能力も、癖も、戦い方も、ほとんど知らない三人を。



「……」



月島は無意識に眉間へ皺を寄せた。


その表情を見ていたのか、陽菜が端末から顔を上げる。



「何か不満?」



「別に」



「そうは見えないけど」



「お前にいきなり三人押しつけられた理由を考えてただけだ」



「あら。押しつけたつもりはないわよ」



「似たようなもんだろ」



陽菜は気にした様子もなく、再び画面へ視線を戻した。



緇はその横で六本の腕を軽く動かしながら、出発の準備を終えている。


翳はと言えば、帽子を深く被ったまま壁へ寄りかかり、今にももう一度眠ってしまいそうな顔をしていた。



それぞれ違う。




見た目も、能力も、元になっている生物も。




そこで。

月島の中に、ふと一つの疑問が浮かんだ。




「そういえば」




陽菜の指が止まる。




「なに?」




月島は自分の隣に立つみぎわへ一度目を落としてから、再び陽菜を見る。



「みんなにモデルがいるんだろ」



「ええ」



「斑も、粉雪も。緇も翳も」



「そうね」



月島は少し考えるように、みぎわの姿を見る。


施設で初めて見つけた時から、普通の人間とは違うことだけは分かっていた。



濡れたような質感を思わせる肌。


緑色の瞳。


水を自在に操り、圧縮した水を撃ち出す能力。


少なくとも陸上の生物ではない。



そこまでは想像できる。



「みぎわのモデルはなんだ?」



月島が尋ねる。



「海洋生物なのは分かるが」



陽菜は特に勿体ぶることもなかった。



「イルカよ」



あまりにもあっさりと答えた。



「……イルカ?」



月島は少し意外そうに聞き返した。


それから、もう一度みぎわを見る。



「……」



みぎわも月島を見上げる。


視線が合った。



どうやら自分について話されていることすら、よく分かっていないらしい。



小さく首を傾げる。



「……?」



その仕草を見ながら、月島は改めて考えた。


言われてみれば、確かに。



全体の色合い。


水との親和性。




それに───。




施設にいた時や、興奮した時に聞いたことのある、あの独特な高い鳴き声。


今まで深く考えたことはなかったが、そう言われれば不思議と繋がるものはあった。



「……なるほどな」



月島が呟く。

みぎわはまだ分かっていない。


自分と月島を交互に見たあと、もう一度だけ首を傾げた。



「いるあ?」



「イルカ。お前のことらしい」



「……みぎわ、いるか?」



「そうみたいだな」



月島が答えると、みぎわは少しだけ考え込んだ。


そして。



「……いるか」



意味を理解したのかしていないのか分からないまま、自分で確かめるように小さく呟いた。


陽菜はそんな二人を横目で眺めていたが、それ以上説明を付け加えることはなかった。



月島も、今はそれで十分だった。



イルカ。ひとまず。




みぎわについて分からなかったことが、一つだけ減った。



「じゃあ…」



陽菜は端末に表示された地図をもう一度確認すると、拡大していた赤い反応を指先で軽く叩いた。



「わたしたちはこっちへ向かうわ」



そう言って示したのは、月島たちが向かう場所とは反対側だった。


緇はすでに準備を終えている。



六本の腕を隠す様子もなく、崩れた入口の向こうへ視線を向け、周囲の気配を探るように目を細めていた。



その隣では、翳が帽子のつばを指先で持ち上げながら、朝だというのに相変わらず眠たそうな顔をしている。



「ほんとに別々で行くんスねぇ……」



斑が地図を覗き込みながら呟く。



「その方が効率がいいもの。固まって動いても、一度に確認できる場所は一つだけでしょう?」



「まあ、そうッスけど」



「何かあれば連絡するわ。そっちも同じよ」



そう言うと、陽菜は手にしていた端末とは別に、ポケットからひと回り小さな端末を取り出した。


薄い板状の機器だった。



画面は掌に収まる程度で、縁にはいくつか物理ボタンが並んでいる。


陽菜はそれを月島へ差し出した。



「持っておきなさい」



月島は差し出された端末と陽菜の顔を交互に見る。



「……何だ、これ」



「連絡用よ。わたしの端末と繋いであるわ」



月島は受け取り、軽く裏返して確認する。



「通話できるのか?」



「ええ。それと、簡単な位置情報くらいなら共有できる。何かあったらそこから連絡して」



「壊れたら?」



「壊さないで」



「戦いに行くんだぞ」



「じゃあ頑張って守って」



「……雑だな」



陽菜は気にした様子もなく、再び自分の端末へ視線を戻した。


月島は小さく息を吐きながらも、渡された端末を服のポケットへ収める。



少なくとも、完全に別行動になるわけではない。



何かあれば連絡が取れる。

それだけでも、何もないよりはましだった。



陽菜はそうして月島が端末をしまったのを確認すると、改めて彼へ視線を向けた。



一瞬。

何か言いたそうに見えた。


だが、結局その口から出てきたのは、いつもの調子だった。



「任せたわよ、指揮官さん」



月島の眉間に皺が寄る。



「……誰が指揮官だ」



「あら。もう忘れたの?」



「忘れてない。勝手にそう呼ぶな」



「でも、あなたが指示を出すんでしょう?」



「……」



否定はできなかった。


陽菜はそれを肯定と受け取ったらしく、僅かに口元を上げる。



「じゃあ、頑張って」



「他人事みたいに言うな」



「実際、そっちの班のことはあなたに任せたもの」



本当に最後まで好き勝手な女だった。


月島が何か言い返す前に、陽菜は背を向ける。



「行くわよ、緇ちゃん。翳ちゃん」



「分かりました」



「はぁい……」



翳の返事だけが妙に間延びしていた。



三人が廃墟の入口を抜けていく。


緇は外へ出る直前、一度だけこちらを振り返った。



月島と目が合ったが、特に何かを言うわけでもなく、そのまま陽菜のあとを追う。



「ばいばぁ〜い」



翳も軽く手を振りながら、眠たげな足取りで続いた。


やがて三人の姿が崩れた建物の陰へ消える。



残された月島は、しばらくその方向を見つめていた。



「……」



自分たちだけになった。


そう意識した途端、妙な重さが肩へ乗った気がした。



隣にはみぎわ。


少し後ろには斑と粉雪。



この三人を連れて、暴走個体の処理へ向かう。



昨日までなら考えもしなかった状況だった。



「じゃ、行くッスか!」



斑はそんな月島の内心など知るはずもなく、早速歩き出そうとする。



「待て」



「ん?」



月島の声に、斑の足が止まった。


粉雪も遅れてこちらを見る。



「……その前に確認する」



月島は二人へ身体を向けた。

斑が首を傾げる。



「なんスか?」



「お前ら、何ができる」



「……」



「……」



二人の反応が綺麗に分かれた。



斑は目を輝かせた。


粉雪は逆に、僅かに肩を縮めた。



「ボクからッスか!?」



「どっちからでもいい」



「じゃあボクから!」



斑が一歩前へ出る。

待ってましたと言わんばかりだった。


胸を張り、拳を握る。



「殴る! 蹴る! 噛みつく! 引っ掻く! 速い! 硬い! 強い!」



そこで一度息を吸い。



「以上ッス!」



「……」



月島は黙った。

斑も満足そうな顔のまま黙っている。



数秒。



「……説明する気あるか?」



「したッスよ!?」



「何も分からん」



「えぇー!めっちゃ分かりやすかったと思うッスけど!」



「お前の中ではな」



月島は小さく息を吐いた。


どうやら、こちらから一つずつ聞いた方が早いらしい。



「遠距離攻撃は?」



「ないッス!」



即答。



「武器は」



「ないッス!」



「じゃあ完全に近接か」



「そうッスね! 近づいて殴るのが一番早いッス!」



斑は笑いながら、自分の拳をもう片方の掌へ軽く打ちつけた。


その反応を見ながら、月島は頭の中で情報を整理していく。



遠距離攻撃なし。


武器なし。


肉体そのものを使う近接戦闘型。



「速いって言ったな」



「速いッスよ!」



「どの程度だ」



「どの程度って……」



斑が困ったように首を傾げる。



「速いものは速いッス」



「基準になってない」



「じゃあ……すっごい速いッス」



「何も変わってない」



「難しいこと聞くッスねぇ……」



斑は露骨に面倒そうな顔をした。


月島はそれを無視する。



「最初から全速力で動けるのか?」



「あ、それならいけるッス」



「長く続く?」



「ずっと全力は無理ッスけど、普通に戦うくらいなら平気ッスよ」



「持久力はある方か」



「あるッス!」



「防御は」



「それもあるッス!」



「全部あるって言うな」



「だってあるんスもん!」



斑は不満そうに頬を膨らませる。


月島は一瞬だけ額を押さえたくなった。



「……殴られたらどうなる」



「痛いッス」



「当たり前だ」



「でも普通の人間よりは全然頑丈ッスよ。多少吹っ飛ばされても動けるッス」



「骨折しても?」



「場所によるッスねぇ」



そこでようやく、斑は少し考え込んだ。



「脚が完全に折れたらさすがに走れないッスけど、腕一本くらいなら───」



「戦うのか?」



「戦うッス」



即答だった。

月島の目が僅かに細くなる。



「痛みは感じるんだよな」



「感じるッスよ?」



「それでも?」



「動けるなら動くッス」



斑は、何を当然のことを聞いているのかという顔をしていた。


月島はそれ以上何も言わなかった。



強い。

自分の身体への自信がある。


そして、多少の負傷なら戦闘を続行することを躊躇しない。



良く言えば勇敢。


悪く言えば、自分の損傷に対する警戒が薄い。



「一人でどの程度まで相手できる」



「相手によるッスよ」



「暴走個体なら?」



斑は少しだけ視線を上へ向け、考える。



「まあ、一体ならそう簡単には負けないと思うッス」



「絶対じゃない?」



「そりゃ相性あるッスからねぇ」



そこだけは意外と現実的だった。



「でっかくて硬いのとか、変な能力持ってるのとか、そういうのは面倒ッス。でも───」



斑がにっと笑う。



「殴ってどうにかなる相手なら、ボク得意ッスよ!」



結局そこへ戻るらしい。


月島は軽く息を吐いた。

質問を続けながら、能力とは別の部分も見えてきていた。



斑は自分の強さを疑っていない。



質問には答える。


だが、細かく条件を分けて聞き始めると、明らかに集中が切れてくる。



さっきから身体が落ち着かない。



片足へ体重を乗せたと思えば反対へ移し、指を鳴らし、外を見ては月島へ視線を戻す。


話を聞いていないわけではないが、じっと待っていることそのものが苦手なのだろう。



考えてから身体を動かすというより、身体を動かしながら考える。


そんな印象だった。



「まだあるッスか?」



案の定、斑が聞いてきた。



「もう飽きたのか」



「飽きたっていうか、早く行きたいッス!」



「まだ五分も経ってないぞ」



「五分も話したんスか!?」



「……」



本当にこいつを指揮するのか。



早くも不安になってきた。


ただ、扱いづらそうだということと、戦えないということは別だ。



施設で見た動き。


今聞いた内容。


立ち方や身体の使い方。



本人が自信を持っているだけの根拠はあるのだろう。


問題は、それをどう動かすか。



そこまでは、まだ分からない。



「……もういい」



「終わりッスか?」



「ああ」



「よっしゃ!」



何がそんなに嬉しいのか、斑が小さく拳を上げる。



その横で。



先ほどから一度も口を挟んでいない粉雪が、月島と目が合った瞬間に身体を強張らせた。



「次、粉雪」



「……は、はい」



声が小さい。


斑とは正反対だった。

月島は粉雪へ視線を向ける。



「お前は何ができる」



「あ……」



粉雪の指先が、胸元で重なる。


一度口を開いたものの、すぐには声が出なかった。



「えっと……」



月島は急かさず待つ。


粉雪は自分の手元を見たまま、やがて小さく答えた。



「わ、わたしは……」



僅かに間が空く。



「鱗粉を撒くくらいです」



月島の眉が僅かに動いた。



「鱗粉?」



「はい……」



「それだけ?」



聞いた瞬間、粉雪の肩がさらに小さくなった。



「……はい」



責めているつもりはなかった。


ただ、確認しただけだった。

だが本人には違って聞こえたらしい。



月島は構わず質問を続ける。



「毒は?」



「ないです」



「触れたらどうなる」



「何も……」



「吸い込んだら?」



「た、多分、何もないです」



「目に入ったら」



「普通に異物が入った時みたいにはなると思いますけど……それ以上は」



「眠らせたりは?」



「できないです……」



「麻痺」



「ないです」



「燃えるとか」



「……燃えないです」



質問を重ねるたび。

粉雪の声が小さくなっていく。


最初から低かった視線は、とうとう完全に床へ落ちていた。



白いワンピースの前で重ねた指が、所在なさげに動いている。



「やっぱり……」



ぽつりと声が漏れる。



「ん?」



「い、いえ……」



粉雪は慌てて首を振った。

だが、何を考えたのかは大体分かった。



自分は戦えない。



昨日、本人がそう言っていた。


そして今の質問によって、それを改めて確認させられているように感じているのだろう。



月島としては、役に立つかどうかを決めているつもりなどなかった。


知らないものを知らないまま戦場へ連れていく方が問題だ。



「どのくらい撒ける」



粉雪が顔を上げた。



「……え?」



「鱗粉」



「あ……」



少しだけ戸惑いながら答える。



「いっぱい……撒けます」



後ろで斑が吹き出した。



「ユッキー先輩、斑と同じくらい説明雑ッス!」



「ま、斑ちゃん……!」



「お前も人のこと言えないだろ」



月島が横から言うと、斑の笑顔が止まる。



「それはそうッスね」



認めるのは早かった。


月島は粉雪へ戻る。



「一回でこの辺り全部に撒けるか?」



そう言って、廃墟の入口から周囲一帯を示す。


粉雪もそちらを見る。



「これくらいなら……たぶん」



「もっと広くは?」



「できます。でも、広くすると薄くなります」



「出したあと、すぐ落ちる?」



「いえ」



粉雪は少し考えてから、今度は先ほどよりも幾分答えやすそうに続けた。



「すごく軽いので……しばらく空中に残ります。風があると流されちゃいますけど」



「風に弱い?」



「はい。軽いので」



「見えるのか?」



「暗いところだと、あんまり……」



粉雪は自分の腕へ目を落とす。



「でも、光が当たれば少し見えます。近くだったら、たぶん分かると思います」



月島は黙って聞く。



大量に散布可能。


一定時間、空中へ残留。


軽いため、風に流されやすい。


光があれば目視もできる。



それだけ。



今のところ、直接敵を倒せる要素はない。


本人が『戦えない』と言うのも無理はなかった。




それでも陽菜は。




────必ず、役立つわ。




そう言った。


何を根拠にした言葉なのか。



月島にはまだ分からない。



粉雪へ視線を向けると、本人は再び不安そうに指を握っていた。



「……すみません」



「なんで謝る」



「だって、わたし……やっぱり戦えないですし」



「まだ何も言ってない」



「……え?」



粉雪が顔を上げる。


月島はそれ以上慰めるようなことは言わなかった。



戦えるか。


戦えないか。


それを今ここで決める材料が足りない。



ただ、それだけだった。



「他には?」



「……たぶん、ないです」



「分かった」



粉雪がどこか申し訳なさそうに俯く。


月島はその反応を一度だけ見たあと、最後に隣へ視線を落とした。



先ほどから自分たちの会話を聞いていたのかいないのか。


みぎわはブランケットを肩に掛けたまま、月島のすぐ横に立っている。



「みぎわ」



呼ぶと、すぐに顔が上がった。



「ん」



「水、撃てるか?」



みぎわは数秒、月島を見た。


それから、こくりと頷く。



「できる」



「今も?」



「うん、きのうよりいっぱい、みず」



昨日までの戦いを思い返す。



みぎわの水圧は強力だ。


離れた相手に対する攻撃力だけなら、この中でもかなり高い。



だが。

まだ扱いが上手いとは言えない。


水を撃つ場所は、基本的に月島が示している。



撃つタイミングも同じだ。



本人が状況を見て、相手の動きを予測し、自分で狙いを定めて撃つ。


そこまではできていない。



「近くまで来られたら?」



月島が尋ねる。


みぎわは少し考える。



「……おと」



「音?」



「ん」



小さく頷いた。



月島にも覚えがあった。


みぎわが発する、耳の奥へ直接響くような高い音。



近くにいる相手を怯ませたり、動きを鈍らせたりすることはできる。


ただ。

あれも安定して使えるわけではない。



威力も。


範囲も。


本人がどこまで理解しているのかも。



まだ曖昧だった。



「……分かった」



月島はみぎわの頭へ軽く手を置く。


みぎわはその手を嫌がることもなく、月島を見上げたままだった。



そして、三人を改めて見る。



斑。


近接戦闘。



粉雪。


補助。



みぎわ。


遠距離攻撃。



頭の中で、今聞いた情報を一度並べる。




現状、確実に前へ出せるのは斑だけだった。



みぎわは火力こそあるが、敵に懐へ入られれば危うい。


粉雪に至っては、そもそも直接戦う手段がない。



つまり、斑が崩れれば。

その時点で、この班の形そのものが崩れる。



月島はわずかに目を細めた。



思っていた以上に、前衛一人へ依存している。


それを理解したところで、月島はようやく目的地の方角へ身体を向けた。





▼





廃墟を出てから、月島たちは陽菜から渡された端末を頼りに、暴走個体の反応が示された場所へ向かっていた。



朝の街には薄い陽射しが差し始めていたが、人の気配は戻っていない。


ひび割れた道路の脇にはガラス片や看板の破片が散らばり、放置された車の隙間を縫うように風が抜けていく。



交差点では信号機だけが律儀に色を変え続けていて、その下を渡る人間も、停まる車もいなかった。


歩きながら月島が端末へ目を落とすと、簡略化された地図の上で赤い点が小さく明滅している。



現在地との距離はすでにかなり縮まっていて、このままなら数分とかからない。



「もう近いな」



「あとどんくらいッスか?」



後ろを歩いていた斑が、待ちきれないように身を乗り出した。



さっきから指を鳴らしたり肩を回したりと落ち着きがなく、これから戦闘へ向かうことを警戒しているというより、


むしろ楽しみにしているようにさえ見える。




「数分だと思う」



「おぉー。やっとッスね!」



「遊びに行くんじゃないぞ」



月島が横目で睨むと、斑は「分かってるッスよ」と笑った。



その言葉とは裏腹に、両手を組んで大きく伸びをする姿からは緊張らしい緊張がほとんど感じられない。



一方、粉雪は白いワンピースの胸元で手を重ね、道路の左右を落ち着かなさそうに見回していた。


戦えることを楽しみにしている斑とは正反対で、足取りにもどこか硬さがある。



みぎわはというと、薄いブランケットを肩に掛けたまま、月島のすぐ隣を歩いていた。


月島が少し速度を落とせば自分も足を緩め、道の端へ寄れば同じようについてくる。



「ぱぱ」



「なんだ?」



「もう、たたかう?」



「まだだ。あともう少しだ」



みぎわは素直に頷いた。



「……まだ」



そのまま月島の歩幅に合わせて歩き出す。


月島は何気なくその様子を見たあと、再び前へ視線を戻した。



住宅や小さな店舗が並ぶ通りを抜けた頃、端末に表示されている赤い点と現在地がほとんど重なった。


前方には道路に面した広い平面駐車場があり、白線で区切られたスペースの大半が空いたままになっている。



残されている車は数台だけで、入口付近に乗用車が一台、奥に二台、その少し離れた場所に横向きのワゴン車が停められていた。


月島は歩みを止め、周囲へ視線を巡らせた。



広い。

その分、身を隠せるものが少ない。



入口近くの車と、駐車場の端にある低いコンクリート壁、それに奥のワゴン車くらいしか遮蔽物になりそうなものはなかった。



「……あそこだな」



月島が声を落とすと、斑と粉雪も足を止めた。



金網越しに駐車場の奥を覗く。


風に煽られたレジ袋が白線の上を転がり、その向こう、停められた車の陰で何かが動いていた。



大きい。

最初にそう思った。



それは四つん這いになり、地面へ落ちた何かを夢中で漁っていた。


肩幅は人間のそれを大きく越え、太い両腕で身体を支えているせいもあって、姿勢だけを見れば巨大な獣に近い。



ただし、全身が完全に動物へ変わっているわけではなかった。



肌の露出した部分も多く、肩や前腕、背中、首の周囲には黒褐色の硬そうな体毛がまだらに生えている。


その下では異常に発達した筋肉が盛り上がり、身体の輪郭そのものは辛うじて人型を残していた。



「……女か」



月島が小さく呟いた。


斑が目を細める。



「女の子なんスか?」



「多分な」



人だった頃の面影は薄い。


それでも身体つきには僅かに女性らしさが残っていて、元は若い女だったのだろうと分かる程度には、人間の形を留めていた。



月島は端末へ目を落とした。



接近したことで、新しい情報が画面に表示されている。



個体番号一四四。


暴走個体アベラント。



コードネーム───赭(そほ)。



モデル───猪。





「赭(そほ)……」



「そほ?」



粉雪が小さく聞き返した。



「ああ。コードネームらしい」



「モデルはなんなんスか?」



端末を覗き込もうとする斑に、月島は画面を少し傾ける。



「猪」



「あぁー……」



斑は駐車場の奥へ視線を戻し、納得したように頷いた。



「見たまんまッスね」



確かに分かりやすかった。


赭が地面を漁りながら顔を横へ向けたことで、口元から突き出した二本の牙が見える。



角と見間違えるほど太く長いそれは緩やかに湾曲し、朝の光を受けて鈍く光っていた。



目も異様だった。眼球には細かな血管が浮かび、白目まで赤く染まっている。


何かを見ているようで焦点は定まらず、濁った瞳だけがせわしなく動いていた。



その時、赭の手がふいに止まった。



地面に向いていた顔が少し上がり、太い指が頭へ伸びる。


最初は、ただ頭を掻いただけに見えた。



だが、一度、二度と爪を立てるうちに、その動きは徐々に激しくなっていった。



ポリポリポリ。

そして、次第にそれはガリガリッ、と。



硬い爪先が頭皮を擦る音が、静かな駐車場の中で妙に生々しく響く。



「……何してるんスか?」



斑が眉を寄せる。


赭は答えるはずもなく、両手で頭を掻き毟り始めた。




「ぁ、が……がゆ……」



掠れた声が漏れた。

月島の目が僅かに細くなる。



言葉だ。


ただ苦痛に呻いているだけではない。意味のある言葉を、口にしようとしている。



「話せる暴走個体もいるのかよ……!」



思わず声が漏れた。

考えてみれば、不思議なことではない。


暴走個体とはいえ、元は人間なのだ。



身体が異形へ変わり、理性を失っていたとしても、それまで身につけた言葉まで完全に失うとは限らない。


頭では理解できる。



だが───それはそれで、厄介だった。



戦いづらい。


目の前にいるものが、何も考えず、本能のままこちらへ襲いかかってくるだけの化け物ならよかった。



言葉も通じず、意思もなく、ただ人を襲うだけの怪物なら。


それなら、こちらも躊躇なく殺せる。



けれど、赭は今、確かに自分の苦痛を言葉にしようとしている。



その事実だけで、目の前にいるものを単なる『処理対象』として切り離すことが、ほんの少しだけ難しくなった。



───いっそ、完全な化け物でいてくれればよかったのに。



そんな月島の思いなど知るはずもなく、赭の口が再び動いた。



「かゆ……ぃ……」



赭は頭を左右へ振った。


初めは小さかった動きが、次第に首ごと振り回すような激しいものへ変わっていく。



「かゆい……かゆ、い……ッ」



爪が頭皮を掻き、髪と体毛が乱れる。


やがて我慢の限界を越えたのか、赭は両腕を地面から離し、その大きな身体をゆっくりと起こした。



四つん這いの姿勢から二本の脚で立ち上がると、身体の大きさがよりはっきり分かった。


人型ではある。



だが、その厚みが違う。


盛り上がった肩から長い腕が垂れ、太い両脚が巨体を支えている。



硬そうな黒褐色の体毛の隙間からは筋肉が張り出し、普通の女性だった頃の面影はますます薄くなっていた。



それでも赭は周囲を探すこともせず、頭を抱えたままその場で何度も振り回した。



「がぁ……ッ、がゆぃ……!」



突然、近くに停められていた乗用車へ向かって駆けた。


次の瞬間、額が車体へ叩きつけられる。

鈍い音とともに車が大きく揺れかと思えば、そのままひっくり返ってしまった。



粉雪の肩がびくりと跳ねた。


赭はそれでも止まらない。



「がぁああゆぃ……!」



もう一度、頭を車体へぶつける。



今度はボンネットが大きく凹んだ。


それでも痒みが収まらないのか、赭は頭を乱暴に振り回しながら車から離れ、駐車場の端に立つコンクリート柱へ向かって突進した。



頭から激突する。


身体が揺れる。


それでも倒れない。




「かゆい……がゆい、がゆいィィ───ッッ!」




その声には怒りとも苦痛ともつかないものが混じっていた。



爪で掻く。


頭を振る。


壁へぶつける。



それを何度も繰り返し、やがて赭は首が千切れそうな勢いで頭を左右へ振りながら、喉を潰すような声で叫んだ。




「がぁあゆぃぃいいいいいッ!!!」




月島はその様子を黙って見ていた。



暴走個体。


そう呼ぶには十分な異常さだったが、単に理性を失っているというより、何か一つの感覚───、



今の場合は痒みだけに完全に思考を支配されているようにも見える。



「……めちゃくちゃ痒そうッスね」



斑が若干引いたような顔で言う。



「見れば分かる」



「痒いだけであそこまでやるッスか?」



「知らん」



月島は短く答えたが、視線は赭から外さなかった。



今のところ、こちらには気づいていない。

頭の痒みに意識を奪われている。


なら、むしろ今が好機だった。



月島は駐車場の地形をもう一度確認した。



車は少なく、隠れられる場所も限られている。


それでも入口側の低い壁と、中央より少し奥に停められたワゴン車なら接近に使える。



正面から戦う必要はない。



斑を右から回り込ませ、赭がこちらへ気づく前に死角へ入れる。


そこから爪で一撃。



深追いはさせず、赭の注意が斑へ向いた瞬間にみぎわへ圧縮した水を撃たせる。



それで体力を削る。


倒しきれなければ、そこから斑が再び近接へ入ればいい。



月島の頭の中では、すでに大まかな流れが組み上がっていた。



「斑」



「はいッス」



「お前が先に行け」



待ってましたと言わんばかりに斑の表情が明るくなる。



「了解ッス!ボクがアイツの頭ん中掻いてやるッス!」



「それとなくグロテスクなこと言うな。あと、まだ飛び出すのはダメだ」



「……は〜いッス」



目に見えて勢いが落ちた。


斑は軽く肩を回した。



次の瞬間、その身体に変化が走る。



ノースリーブから露出していた細い腕の表面を、黒褐色の硬い体毛が一気に覆っていく。



肩から背中へ。


胸元から脇腹へ。



ショートパンツから伸びた脚にも同じ変化が広がり、肌の色がほとんど見えなくなった。


それと同時に、華奢に見えていた身体の輪郭が僅かに膨らむ。



腕。


肩。


太腿。



必要な場所だけへ筋肉が足されたように厚みを増し、重心そのものが低くなったように見えた。


指先からは黒く湾曲した爪が伸びる。



人間の爪とは比べものにならない。


短いながらも厚みがあり、先端は鋭く尖っていた。



月島は何も言わず、その変化を目で追った。


斑が獣化するところを見るのは、これが初めてだった。




───ラーテル。



端末に表示されていた情報と、目の前の姿がようやく繋がる。


完全な獣になるわけではないらしい。



二本の脚で立つ身体。


顔の輪郭。


表情。



そして、白と黒が入り混じった無造作なショートヘア。


そのあたりには、元の斑がまだはっきり残っている。



ただ、それ以外は随分と獣に近かった。



黒褐色の体毛に覆われた身体。


低く安定した重心。


太くなった四肢。



そして、あの爪。




───見た目より、ずっと近接戦向きか。




月島はそう判断した。

身体が大きくなったわけではない。



それでも、変化する前より明らかに「殴り合うための身体」になっている。


本人の性格を考えれば、妙に納得できる姿でもあった。



「……なんスか?」



視線に気づいた斑が首を傾げる。



「いや」



月島は短く答え、駐車場の右側を指した。



「あのワゴンまで回れ。できるだけ姿を見せるな。近づいたら、最初に爪で一発入れろ」



斑が自分の爪へ目を落とす。



「一発だけッスか?」



「ああ。入れたらすぐ離れろ」



「そのまま倒せそうなら?」



「離れろ」



「えぇー」



「聞け」



月島が睨むと、斑は渋々「分かったッス」と答えた。


その後、月島はみぎわへ視線を落とした。



「斑が攻撃したら、みぎわの番だ」



「ん」



「圧縮した水を撃つ。できるだけ強く」



「できる」



「場所は俺が指す」



みぎわが素直に頷く。


最後に粉雪へ目を向ける。



「粉雪はここにいろ。前へ出るな」



「は、はい」



「何かおかしいことがあったら、すぐに言え」



「わかりました」



役割は決まった。



敵は一体。


こちらにはまだ気づいていない。

複雑なことをする必要もない。



月島はそう判断した。



「斑、行け」



斑が身体を低くし、駐車場の端を使って移動を始めた。



思ったより静かだった。


本人の性格からは想像しづらいが、足運びには無駄がない。



低い壁を利用して姿を隠し、そのままワゴン車の陰まで移動していく。


月島は赭と斑を交互に見ながら距離を測った。



まだ赭は気づいていない。


頭を掻きながら、時折大きく振り回しているだけだ。



斑との距離は十数メートル。



あと少し。


月島は片手を上げたまま、赭の身体の向きを見た。



今出すより、もう少し背を向けた時の方がいい。


斑が一撃を入れたあと、みぎわの射線にも入りやすい位置。



そこまで待つ。



「……まだだ」



声を潜めて伝える。

ワゴン車の陰で、斑が身を低くした。


月島はさらに数秒待つつもりだった。



赭がまた両手で頭を掻き毟り、苛立ったように身体を振る。


その動きのせいで、ほんの一瞬だけ完全に斑へ背を向けた。



次の瞬間。





─────斑が飛び出した。




「今ッス!」



月島の目が見開かれる。



「ま、待て……ッ!」



止めるより早く、斑はワゴン車の陰から勢いよく飛び出していた。



「俺の合図を待てって言っただろ!」



「今が一番隙だらけッス!」



「そこじゃ───」



言い終える前に、赭の頭が動いた。



鼻先が僅かに上がる。


何かの匂いを拾ったのか、血走った眼が斑の姿を捉えた。



赭の身体から、先ほどまでの痒みに苦しむだけだった動きが消える。


頭を掻いていた手が止まり、ゆっくりと斑へ向き直った。



斑はそれでも速度を落とさない。



本来なら、斑が死角から爪を入れ、そのまま離脱するはずだった。


だが、その時点ですでに奇襲は崩れていた。



「斑、正面から行くな!」



月島の声が飛ぶ。

斑は返事をしなかった。


赭が腰を落としたからだ。



太い両脚に力が入り、巨体が僅かに沈む。




次の瞬間、地面を蹴った。




その体格からは想像できない速度だった。


重量のある身体そのものをぶつけるように、一直線に斑へ突っ込んでくる。



まるで、制御を失った大型車だった。



斑も一瞬だけ目を見開いた。ここで避けて横へ抜ければいい。


月島ならそう判断する。



だが、斑は違った。口元が上がる。



「ニシッシシ、上等ッス!」



「……おい!」



月島が嫌な予感を覚えた時には、もう遅かった。



斑は逃げるどころか両腕を前へ伸ばし、迫ってきた赭の口元から突き出す二本の牙を、それぞれ片手で鷲掴みにした。


赭の突進と斑の身体が真正面からぶつかった。



踵がアスファルトの上を大きく滑り、斑の身体が一気に後ろへ押される。



「うおおおおおッス!」



斑は両手で牙を掴んだまま腰を落とし、全身の力を使って赭の頭を押し返そうとした。


腕にはっきりと筋が浮かび、足元の砂利が後方へ弾ける。



だが、赭は止まらない。



「斑、離れろ!」



「まだいけるッス!」



声だけは威勢がいい。

ただし、状況は明らかだった。


斑の足が少しずつ後ろへ滑っている。



最初は数センチ。


次第に一歩。


もう一歩。



それでも赭の脚は止まらず、前へ前へと斑を押し込んでいく。



「……あれ?」



斑の顔から、先ほどまでの余裕が少しずつ消えていった。


腕が震える。

踏ん張っていた膝が押される。



「ちょ、ちょっと待ってほしいッスね……」



赭が牙を振り上げようとするように頭を持ち上げる。


斑は必死に押さえ込む。脚の鉤爪を、地面に突き刺し、負けるまいと踏ん張る。



だが。




「思ってたより……」




赭の喉から、低い唸り声が漏れた。



次の瞬間、一気に力が増した。



「───つ、つつつ、強ッ!?」



斑の両足が地面から浮いた。


掴んでいた牙が手から外れ、身体が突進の勢いに弾かれる。



「あっ───」



短い声だけを残して、斑の身体が後方へ飛んだ。



数メートル。


地面へ一度背中を擦り、その勢いのまま駐車場に残されていた乗用車へ激突する。



重い音が響き、車体が大きく揺れた。


ドアが内側へ大きく凹み、窓ガラスには蜘蛛の巣のような亀裂が走ると、ガラスの破片が斑に降り注いだ。



「斑ちゃん…っ!」



粉雪が思わず声を上げる。



みぎわもびくりと肩を揺らし、月島の服を掴んだ。

月島も反射的に斑へ視線を向けた。


車体へ背中を預けるようにして倒れている。



あれだけの勢いでぶつかった。



普通なら。

そう思った直後だった。



「……いってて」



斑が普通に身体を起こした。



「……」



腰のあたりを手で擦りながら、ゆっくり立ち上がる。



顔には痛そうな表情が浮かんでいるものの、それ以上のものはない。


手足も問題なく動いていて、息が乱れた様子すらほとんどなかった。



ラーテルをモデルにした斑の皮膚は、見た目以上に頑丈なのだろう。


吹き飛ばされた本人より、背中からぶつかられた車の方が明らかに大きな損傷を受けていた。



斑は背中を二、三度軽く叩くと、赭を見ながら感心したように呟いた。



「いやぁ……めちゃくちゃ力あるッスね、アイツ」



「感心してる場合か」



月島の声が低くなる。

斑は「でも大丈夫ッスよ」と笑う。



大丈夫なのは見れば分かる。

問題はそこではなかった。


月島は赭へ視線を戻した。



自分が考えていたのは、奇襲だった。



斑が爪で先制する。


すぐに離脱する。



注意が向いたところへ、みぎわが水を撃つ。


そこまで崩してから、もう一度斑を前へ出す。




───それだけの単純な作戦だった。




少なくとも、月島はそう思っていた。




斑へ説明もした。


指示も出した。


本人も返事をした。



それなのに、最初の一手から予定通りには動かなかった。



隙を見つけた途端に勝手に飛び出し、奇襲を捨て、最後には真正面から力比べまで始めた。


斑が車へ叩きつけられるまで。



ほんの数秒。


その僅かな時間だけで。



月島が頭の中に組み上げていた流れは、ほとんど原形を残さないほど崩れていた。



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