↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/17

第一話『糸を結ぶ』後半



廃墟を出た途端、夜の冷気が月島の頬を撫でた。



建物の中にいた時より風が強い。


どこかで火災でも起きているのか、吹きつける風には微かに焦げた臭いが混じっていた。




鼻につくほど濃くはない。

それでも、普段の街ではまず嗅ぐことのない臭いだった。


月島は足を止めず、歩きながら周囲へ視線を巡らせる。




道路には何台もの車が放置されていた。



歩道へ片輪を乗り上げたもの、前方の車へ追突したまま止まっているもの、運転席の扉だけが開け放たれ、中身だけが抜け落ちたように無人になっているもの。


事故が起きたというより、途中で街そのものが放棄されたような光景だった。



それでも信号機だけは生きている。



人気のない交差点を赤い光が照らし、しばらくすると律儀に青へ変わる。


渡る人間もいなければ、止まる車もいない。




それでも決められた時間が来れば色を変え、何事もなかったように役目を続けていた。


建物と建物の隙間、その向こうでは黒い煙が夜空へ細長く伸びている。



何が燃えているのかまでは見えない。



時折、さらに遠くから低い轟音が届いた。


爆発なのか、建物が崩れたのか、それともアベラントが何かを破壊しているのか。




距離がありすぎて、月島にも判別はつかなかった。


ただ一つ分かるのは、つい数時間前まで自分が知っていた街とは、もう同じ場所ではないということだけだった。



隣を歩く緇は、先ほどから一言も発していない。



六本の腕を身体の動きに合わせて自然に揺らし、月島とほとんど同じ速度で歩いている。


異形の身体を除けば、その歩き方そのものは不思議なほど普通だった。



だが、目だけは休んでいない。



路地の奥、建物の窓、放置された車の隙間、頭上の屋上。

何気なく歩いているように見えながら、その視線は一定の間隔で周囲をなぞっていた。



何かが潜んでいないか。


こちらへ近づいてくるものはいないか。


月島自身も似たようなものだった。



人気の消えた道路に、二人分の足音だけが一定の間隔で響いている。




廃墟を出てから、しばらく会話はなかった。

考えてみれば、緇と二人きりになるのはこれが初めてだった。


彼女のことを、月島はほとんど知らない。




アベラントであること。


六本の腕を持つこと。


あの身体に見合った高い戦闘能力を持っていること。



陽菜と行動を共にしており、少なくとも今は、自分とみぎわに敵意を向けていないこと。



それくらいだった。




月島はふと、歩くたびに揺れる緇の六本の腕へ視線を落とした。

施設の中では、人間とほとんど変わらない姿を取っていたはずだ。


今はそれを隠そうともせず、六本すべてを露出したまま歩いている。



「そういや、お前」



緇が横目を向ける。



「なに?」



「人間に擬態しないのか?」



問いかけると、緇は一度だけ自分の腕を見下ろした。



「ああ」



まるで今まで気にも留めていなかったというような反応だった。



「もうする必要ないもの」



「……必要ない?」



「今さら人目を気にしても仕方ないでしょう?」



緇は前を向いたまま、そのうちの一本を軽く持ち上げる。



「それに、どのみち荷物を持つ羽目になるわ」



陽菜に言われたことを思い出したのか、ほんの少しだけ声音に棘が混じった。



「腕は多い方が便利でしょう?」



「……自分で言うんだな」



「事実だもの」




そう言ってしまうあたり、結局本人も認めているらしい。


月島はそれ以上何も言わず、前へ視線を戻した。




数歩。




二人分の足音が続く。



そこで、月島はもう一つ気になっていたことを口にした。



「……なあ」



緇が顔までは動かさず、視線だけをこちらへ寄越した。



「なんですか」



「あいつを信用してるのか?」



「あいつ?」



「墨橋 陽菜」



その名前を聞いた瞬間、緇の目がわずかに細くなった。


すぐには答えない。



歩調を崩すこともなく数歩進んでから、問いの意味を確かめるように口を開いた。



「信用、ね」



「ああ」



「……難しい質問ね」



月島が横を見る。



「難しいか?」



「ええ」



緇は前方へ視線を戻した。



「少なくとも、わたしはあの人の命令には従っています」



「それは信用してるって意味じゃないだろ」



「ええ」



答えはあっさりしていた。



「同じ意味ではありませんね」



月島の眉がわずかに動く。

てっきり、迷うことなく肯定するものだと思っていた。



あの施設でのやり取りを見ても、緇が陽菜と長く行動を共にしていることは分かる。


少なくとも、単なる研究者と実験体という距離ではないように見えていた。



それでも緇は、『信用している』とは言わなかった。



「じゃあ、なんで従ってる」



「今のところ、従わない理由がないからよ」



「……」



妙に合理的だった。



必要だから従う。



ただそれだけ。

どこか陽菜に似ている。



そんなことを考えていると、今度は緇が横目でこちらを見た。



「あなたは?」



「何がだ」



「あの人を信用しているんですか?」



「してない」



考える間もなく答えた。


緇の口元がわずかに緩む。




「でしょうね」




「だったら聞くな」




「確認しただけです」



それきり、また言葉が途切れた。



風が道路を抜けていく。


路肩に転がっていた空き缶が風に押され、乾いた音を立てながらアスファルトの上を転がった。



カラ、カラカラ――。



遮るものの少ない静かな街では、その程度の音すら妙に遠くまで響いて聞こえる。


しばらく歩いたところで、今度は緇の方から口を開いた。



「そういえば」



「なんだ」



「いつの間に、名前なんてつけていたのね」



月島が横を見る。



「……みぎわのことか」



「他に誰がいるんです?」



緇は前を向いたまま答える。



「施設にいた時は、名前なんてなかったでしょう」



「ああ」



「みぎわ」



緇は確かめるようにその名を口にした。



「あなたがつけたの?」



「ああ」



短く返すと、緇が少しだけ目を細めた。



「ふぅん」



それだけだった。


しかし、その妙な間が気になって月島は眉を寄せる。




「なんだよ」



「別に」



「だったらその反応やめろ」



「名前をつけるような人には見えなかっただけです」



「どういう意味だ」



「そのままの意味よ」



緇は平然としている。

月島は何か言い返そうとして、結局やめた。


この女と話していると、陽菜とはまた別の方向で疲れる。



足元に大きくひび割れた箇所があり、二人はほとんど同時にそれを跨いだ。


そのまま数歩進んだところで、緇がぽつりと尋ねる。



「あなたは、どうしてあの子をそこまでして守るんです?」



月島の視線がわずかに動いた。


緇は一度言葉を切る。



それから、先ほど覚えたばかりの名前を使った。



「……みぎわを」



月島はすぐには答えなかった。




どうして。


そう正面から問われると、自分でも明確な答えを持っていないことに気づく。



拾った。


育てた。



そして奪われた。



施設で見つけた。


連れ出した。



助けると決めた。


守ると決めた。



そこまでなら説明できる。


だが、なぜそこまでするのかと聞かれれば、それだけで全てを説明できる気はしなかった。



「……俺が連れ出したからだ」



月島は答えた。



「なら、最後まで責任を持つ」



緇が横目を向ける。



「責任?」



「ああ」



「それだけ?」



月島の眉が寄った。



「それだけってなんだ」



「そのままの意味よ」



先ほど月島自身が使った言葉を、そのまま返される。


緇は少しの間、月島の横顔を眺めていた。



「あなたがあの子を見る時」



そこで一拍置く。



「責任で守っているだけには見えないわ」



月島は黙った。



「……なにが言いたい」



「別に」



緇は何でもないことのように前へ視線を戻す。



「ずいぶん懐かれているな、と思っただけです」



「……」



「あなたも、ずいぶん大事にしているようですし」



月島は返さなかった。

否定しようと思えば、できたのかもしれない。



みぎわを施設から連れ出したのは自分だ。


連れ出した以上、守るのは当然だと、少なくとも今までの月島はそう考えていた。



だが、それ以上の何かがあるのかと聞かれると、自分でも分からない。


胸の中で眠っていたみぎわの温もりが、ふと蘇る。



『ずっと一緒だ』



少し前に、自分の口から出たばかりの言葉まで思い出してしまい、月島は小さく息を吐いた。



「……知らん」



結局、出てきたのはそれだけだった。



緇がわずかに目を向ける。



「知らない?」



「俺にも分からない」



月島は前を見たまま答える。



「ただ」



ほんの少しだけ間を置いた。



「放っておけなかった」



緇は何も言わなかった。

笑うことも、からかうこともない。


ただ一度だけ月島を見て、それ以上は追及せずに前へ向き直った。



二人の足音が、再び静まり返った道路を進んでいく。


自分のことを聞かれたせいだろうか。




月島は隣を歩く緇へ、自然と意識を向けていた。



六本の腕。


人間とは明らかに異なる身体。


初めて見れば、どうしたって異形の存在だと思う。



それでも、こうして実際に話していると、月島には『怪物』と呼ぶ方が違和感を覚えた。




言葉を理解する。


皮肉を言う。


腹も立てる。


何かを隠そうともする。



少なくとも、中身まで人間ではなくなったようには見えない。



以前から頭の隅に残っていた疑問が、そこでようやく形になった。



「……お前たち」



緇が月島を見る。



「アベラントは、元は人間なんだよな?」



その瞬間だけ、緇の歩みがわずかに緩んだ。


ほんの一瞬だった。



すぐに元の歩調へ戻ったため、注意していなければ気づかなかっただろう。



「ええ」



緇は否定しなかった。



「そうよ」



月島は前へ視線を戻す。



「やっぱりか」



「気づいていたんですか?」



「ある程度は」



施設で見たものを思い返す。


認証タグに表示されていた個体情報。




月島の言葉を理解し、会話をし、互いを名前で呼ぶアベラントたち。


そこには、それぞれ性格もあれば関係もある。



最初から化け物として生まれてきた存在には、どうにも見えなかった。



「じゃあ……研究施設にいたアベラントは、全員……」



「元は人間よ」



月島が最後まで言い切る前に、緇が答えた。



月島の表情がわずかに硬くなる。



「全員か」



「少なくとも、わたしが知っている限りでは」



その声は驚くほど淡々としていた。


自分自身もその『全員』の中に含まれているはずなのに、まるで遠い場所で起こったことを説明しているような口調だった。



月島は少し黙った後、もう一つ浮かんだ疑問を口にする。



「どうやって集めた」



緇の下ろされていた腕の一本が、ごく僅かに揺れた。



「被験体を?」



「ああ」



「いろいろよ」



緇は前を見たまま答えた。



「孤児だった子、親に売られた子。そういう子ばかりだったわ」



月島の眉間に皺が寄る。



「……親に売られた?」



「ええ」



緇の声音には怒りも驚きもない。


もう何度も見聞きして、今さら感情を動かすほどのことでもないとでもいうようだった。



「お金と引き換えにね」



月島は言葉を失う。


緇は構わず続けた。



「中には攫われてきた子もいたけど」



月島がすぐに顔を向けた。



「攫った?」



「そう」



「そんなことしたら、騒ぎになるだろ」



子どもが突然消えれば、家族がいるなら捜索願が出る。

警察が動き、場合によってはニュースにもなる。


一人や二人ならまだしも、人体実験を継続できるだけの人数を何年も集めていたのなら、痕跡を完全に消し続けるなど普通は不可能だ。



だが。

そこまで考えたところで、月島の中に一つの答えが浮かんだ。



「……いや」



緇が横目を向ける。

月島は頭の中で組み上がった答えを、そのまま低く口にした。



「政府側で記録を弄ればいいのか」



緇は何も言わない。



「事件として大きく扱わせない。捜査も形だけにする」



政府そのものが裏側にいるのなら、警察が追わない理由などいくらでも作れる。



「必要なら、最初からただの行方不明として処理すればいい」



そこで初めて、緇が月島を数秒見つめた。


僅かに口元を上げる。



「正解」



そして、少しだけ感心したように続けた。



「察しがいいわね」



月島の顔からは、逆に表情が消えていった。

政府が関与していること自体は、もう分かっていた。


あの施設が、一企業の独断で運営できるような場所ではないことも。



だが、こうして具体的に言葉へされると、その重さが違った。



子どもを攫い、記録を消す。


親から買い取る。


行き場のない孤児を集める。



そして、人間を実験台にする。



失敗すれば、また次。


一人が壊れれば、新しい一人。



それが一体、どれほどの年月続けられてきたのか。




月島には分からない。

ふと、視線が緇の身体へ向いた。



六本の腕。


硬質な外殻。


人間のものではなくなった身体。



今までなら、それを見て『アベラントの特徴』として処理していた。



だが今は違う。



この姿も、彼女自身が望んで手に入れたものではないのではないか。



そんな考えが浮かぶ。



「……じゃあ」



緇が月島を見る。



「お前も、そうなのか?」



口にした直後、月島は自分の言葉の曖昧さに気づいた。


これでは、『お前も孤児だったのか』『親に売られたのか』と尋ねているようにも聞こえる。



「いや、違う」



珍しく慌てて言い直すと、緇が少し目を細めた。



「なにが?」



「今のは……そういう意味じゃない」



「俺が聞きたいのは───」



月島はそこで言葉に詰まった。



なりたくて、その身体になったわけではないのか。



本当に聞きたかったのは、それだった。

けれど、改めて口にしようとすると、ひどく無遠慮な質問に思える。



目の前にいる本人へ、その身体を望んだのかと聞く。



どんな言葉を選んでも、簡単な問いにはならない。


月島が口を閉ざした、その時だった。



「わたしは」



緇の方から先に口を開いた。



月島が顔を向ける。


緇は前を向いたまま歩いている。

表情も、足取りも、これまでとほとんど変わらない。



ただ、声だけがほんの僅かに低くなっていた。



「嫌になって、逃げ出したのよ」



「……逃げ出した?」



月島の眉が寄る。



「ええ」



「どこから」



緇は少しだけ間を置いた。



「いろいろ」



「いろいろってなんだ」



「いろいろは、いろいろよ」



「説明になってないぞ」



「説明するつもりがないもの」



さらりと言い切る。


だが、その声には先ほどまでとは僅かに違うものが混ざっているように月島には感じられた。




触れられたくないのか。


今ここで話すことではないと判断しているだけなのか。


それとも、本当に大したことではないと思っているのか。



表情を見ても判別できない。



緇は道路に走った亀裂へ視線を落とし、それを軽く跨いだ。



「それで――」



ほんの短い間。



「拾われただけ」



「……」



月島は緇を見る。

緇はその視線には応えず、そのまま続けた。



「施設にね」



そして、少しだけ声を落とす。



「あの子と一緒よ」



「あの子?」



聞き返した直後。

誰を指しているのか、すぐに分かった。



薄いブランケットに包まれ、廃墟の長椅子で眠っていた小さな身体が脳裏に浮かぶ。




「……みぎわと?」



「ええ」



緇は頷いた。



「拾われた場所も、事情も、全然違うけどね」



月島は黙った。



みぎわも。


緇も。



最初からアベラントだったわけではない。


誰かに拾われ、あるいは連れていかれ。


研究施設へ辿り着き。



そして、今の身体になった。



月島の視線が、再び緇の六本の腕へ向かう。




少し前までは、単なる異形の特徴としてしか見ていなかったものだった。


だが、事情の一端を知った今では、同じものを見ても受ける印象が違う。



彼女がここへ至るまでに何があったのか。



何を捨てて。


何から逃げて。



どうして、あの施設へ行き着いたのか。



月島はしばらく迷った後、口を開いた。



「お前は───」



緇が横目を向ける。



「なんで逃げた」



わずかに反応を窺いながら、続ける。



「嫌になったって、なにが――」



「着いたわ」



緇の声が、月島の言葉を遮った。



その場で足を止める。

月島も一歩遅れて立ち止まり、彼女の視線の先を追った。


暗く沈んだ道路の向こうに、ぽつりと白い光が浮かんでいる。



見覚えのある看板。


ガラス張りの店内。



つい数時間前、みぎわと二人で入ったコンビニだった。


周囲の建物がほとんど明かりを失っている中で、そこだけは昨夜と変わらず、やけに明るい照明を灯している。



街そのものが別の姿へ変わりつつあるせいか、その何気ない明るさが今はかえって不自然に見えた。


月島はしばらく店を見つめてから、低く呟く。



「……ここか」



緇は、先ほどまでの話についてそれ以上何も言わなかった。


ただ、白く照らされた店内へ視線を向けたまま。



「ええ」



短く答える。



「ここよ」



自動ドアの前まで来ると、月島が一歩近づいたのに反応して、扉が機械音とともに左右へ滑った。


――ウィン。




「……まだ動くのか」



思わず、そんな言葉が漏れる。


外の街はあれほど様変わりしているというのに、開いた扉の向こうから流れ出してきたのは、つい数時間前とほとんど変わらない空気だった。



白すぎる照明の下には商品棚が整然と並び、冷蔵ケースは低い駆動音を響かせている。


レジ横に残された揚げ物からは、冷めた油の匂いまで漂っていた。



床も、棚も、天井も、異様なほど明るい。


外の暗闇を背負ったまま中へ足を踏み入れると、ここだけが壊れ始めた街から切り離され、昨夜の時間をそのまま残しているようだった。



緇も月島に続いて店内へ入る。



背後で自動ドアが閉じると、それまで聞こえていた夜風の音が途切れた。


代わりに、冷蔵ケースの低い唸りが急にはっきりと耳へ届く。



月島は店内を見回した。



棚の位置も、雑誌コーナーも、飲料ケースも、昨夜見たものと何も変わっていない。


天井の防犯カメラも同じ角度で店内を見下ろしている。



ただ、一つだけ。



「……」




月島の視線がレジへ向いた。



誰もいない。


昨夜なら、自動ドアが開けば少し遅れてでも声が聞こえてきたはずだった。



――……いらっしゃいませ。




こちらを明らかに警戒しながら、それでも仕事だからと絞り出したような声。



今は、何も聞こえない。

緇もレジへ一度だけ目を向けた。



「店員はいないみたいね」



「避難したんじゃないか」



「それならいいけど」



月島はまだ少し引っ掛かるものを感じながらも、ひとまず店の奥へ視線を戻した。


今は食料を確保する方が先だ。



入口脇に重ねられていた買い物籠を一つ手に取る。

そのすぐ横で、緇も籠へ腕を伸ばした。



一つ。


もう一つ。


さらに三つ目まで持ったところで、月島がそちらを見る。



緇は六本ある腕のうち三本で、それぞれ一つずつ籠を提げていた。



「何?」



「いや」



緇が当然のように四つ目へ手を伸ばす。


その様子を数秒眺めてから、月島はぽつりと言った。



「……荷物持ちって意味では、本当に適任だったな」



緇の手がぴたりと止まった。



ゆっくりと顔だけが月島へ向く。



「あなたまで言うの?」



「事実だろ」



「そうね、事実よ」



そう答えながら、緇は結局四つ目の籠も取った。



「では、帰り道にあなたの両腕を四本ほど増やして差し上げましょうか」



「いらん」



「遠慮しなくていいのよ」



「してない。拒否してるんだ」



「残念」



声だけを聞けば、本当に惜しんでいるようだった。


月島は小さく息を吐く。



「陽菜といい、お前といい……」



「何?」



「いや。なんでもない」



「気になる言い方ね」



「聞かない方がいい」



緇は一瞬だけ目を細めたものの、それ以上は追及しなかった。


二人はそのまま離れることなく、店内を順番に回っていく。



まず必要なのは水だった。

月島は棚から二リットルのペットボトルを取り、籠へ入れていく。



自分とみぎわだけではない。



廃墟には陽菜たちもいるうえ、この先いつまともな水を確保できるのかも分からない。


できるだけ持っていくべきなのは分かっていたが、徒歩で運べる量には限界がある。



三本目を籠へ入れたところで、緇が横から覗き込んだ。



「それだけ?」



「持てる量も考えないと意味ないだろ」



「わたしがいるでしょう」



そう言いながら、緇は空いた腕を使い、ペットボトルを次々と別の籠へ入れていく。


月島はその手際を眺めた。




「……便利だな、お前」



「三枚おろしにするわよ」



「褒めたんだが」



「全然嬉しくないわ」



月島の口元が、ほんの僅かに緩んだ。

本人すら意識していない程度の変化だった。



水を確保したあとは、パンや栄養補助食品、缶詰、インスタント食品と、できるだけ日持ちするものを優先して集めていく。



陽菜たちが普段何を食べるのかまでは知らない。


食べられないものがあるなら本人たちに選ばせればいい。



今は好みよりも、当面の食料を確保することの方が重要だった。




緇も特に文句を言うことなく、月島が示したものを次々と籠へ収めていった。


そうして、店内を進むうち、月島は冷蔵コーナーの前で足を止めた。




弁当やおにぎり、サンドイッチ、惣菜が透明なケースの向こうに並んでいる。


電気がまだ生きているおかげで、ガラス越しにも冷気が保たれているのが分かった。



その中で、月島の視線が一箇所に留まった。



透明なパックに並んだ、鮮やかな橙色。


サーモンの握りだった。



「……」



月島は何も言わず、一つ手に取る。



続けてもう一つ。

少し考えたあと、三つ目まで籠へ入れた。



それを見ていた緇が、手元へ視線を落とす。



「ずいぶん買うのね」



「みぎわが好きなんだ」



答えてから、月島自身がほんの僅かに動きを止めた。



いつの間にか、そんなことまで当たり前のように覚えていた。


昨夜この店に来た時、月島は並んでいる食べ物を一つずつみぎわへ見せ、何なら食べるのかを手探りで確かめていた。



その中でも、サーモンだけは反応が分かりやすかった。


最初こそ見慣れないものを見るように警戒していたが、月島から渡されると小さく口を開け、恐る恐る食べた。



数度噛んだあと。

何も言わず、もう一度サーモンへ視線を向けた。


欲しいとも、美味しいとも口にはしなかったが、それだけで十分だった。



「……好きというか」



月島はさらにもう一つパックを取った。



「たぶん、一番食いつきが良かった」



緇が月島を見る。



「四つも?」



「食えるだけ食わせる」



「甘いのね」



「なにがだ」



「別に」



月島が睨んでも、緇は何食わぬ顔をしている。



「……悪いかよ」



「何も言ってないでしょう」



「顔が言ってる」



「あら。わたしの表情まで読めるの?」



「そのくらいはな」



「怖い人」



まるで怖がっていない声だった。

月島はそれ以上相手にせず、サーモンのパックを籠へ収めた。


ついでに、みぎわでも食べられそうなものをいくつか選んでいく。




小さなゼリー。


味の薄そうなパン。


果物。



水も少し多めに入れた。



何が好きで、何が嫌いなのか。


何なら安心して口にできるのか。



まだほとんど知らない。


なら、一つずつ試していくしかない。



そう考えながら商品を選んでいたところで、月島はふと、自分がしていることに妙な感覚を覚えた。


昨日までは、自分一人が何を食べるかすら大して気にしていなかった。




腹が満たせれば、それでよかった。


それなのに今は、籠の中身を見ながら、これはみぎわが食べられるか、こっちは嫌がらないかと考えている。



いつから、そんなことをするようになったのか。



「……」



月島は考えるのをやめた。



今は、それでいい。



再び買い物へ意識を戻す。

数分後には、緇が持つ四つの籠もそれなりの重量になっていた。


飲料、食料、それに最低限の日用品。



普通なら二人で持ち帰るのも億劫になる量だった。

月島が横から籠を見て尋ねる。



「……持てるか?」



緇が振り向いた。



「喧嘩売ってる?」



「確認しただけだ」



緇は六本の腕を使い、二つの籠を重ね、残ったものも持ちやすい位置へ器用に調整する。


人間なら両手が塞がれ、それだけで身動きが取りづらくなる量だったが、緇は何でもないように持ち上げた。



「これくらいなら」



「……そうか」



「なに、その顔」


「いや」



月島は少しだけ目を逸らす。



「アイツの人選、正しかったなと思って」



「……」



次の瞬間。



「痛っ」



緇の上腕に付いている刃の先端が、月島の背中にを軽く突いた。


月島が振り返る。



「何するんだ」



「虫がいたのよ」



「絶対嘘だろ」



「気のせいです」



「言い切るな」




そんなやり取りをしながら、二人はレジへ向かった。


ほんの少し前まであった張り詰めた空気は、いつの間にか薄れていた。



だが。

レジが近づくにつれ、月島の歩調がゆっくりと落ちていく。


まだ、誰もいない。



避難したのなら、それでいい。



そう考えていた。

その方が自然だと思おうとしていた。


しかし、近づいたことで見えてしまった。



レジカウンターの内側で、椅子が横倒しになっている。

月島の視線が、その足元へ落ちた。


白いタイルの上に、何かが細長く残っている。



一見すると黒い汚れにも見えた。


だが、

照明の下で光を拾ったそれは、黒ではなかった。



赤黒い。

細い跡が、レジカウンターの奥へ向かって続いている。


月島の表情から、先ほどまでの僅かな緩みが消えた。



「……緇」



声音が変わったことで、緇もすぐに察したらしい。


彼女は持っていた籠を静かに床へ下ろすと、六本の腕を空けた。



周囲を警戒する目つきへ、一瞬で戻る。



「ええ」



月島も自分の籠を置き、ゆっくりとレジカウンターへ近づいた。

一歩進むごとに、床に残る赤黒い跡が太くなる。


まだ完全には乾ききっていない。



鼻の奥に、鉄臭さが混じり始めた。


カウンターの端まで来る。



月島は足元を確かめながら、その内側を覗き込んだ。



「……っ、」



そこで、動きが止まった。



男が倒れていた。


レジカウンターと壁の間の狭い場所に、身体を横向きにしたまま崩れ落ちている。



着ているのは、この店の制服。

胸元には名札が残っていた。


見覚えがある。




つい数時間前。


月島とみぎわがこの店へ入ってきた時、明らかに二人を警戒していた男。




血の付いた服を着た月島と、大きなブランケットに包まれた異様な少女を見て、戸惑いながらも。


それでも仕事だからと。




――……いらっしゃいませ。




そう声を掛けてきた。



あの店員だった。



「……」



息をしていないことは、確かめるまでもなかった。


制服は腹部から胸元にかけて大きく裂け、染み込んだ血が本来の色をほとんど分からなくしている。



床にも血溜まりが広がり、その周囲には、何か鋭いものを何度も叩き込まれたような傷跡が残っていた。


人間の喧嘩でついた傷には見えない。



アベラントか。


それとも、別の何かか。



月島にはまだ分からなかった。




ただ、昨夜は生きていた。

それだけは、はっきりしている。



ここに立って。

こちらを怖がりながらも会計をして。



みぎわのために選んだ食べ物を袋へ入れてくれた。



ただ、それだけの男だった。



名前すら知らない。

ほんの数分しか話していない。


それでも、昨夜ここで確かに生きていた人間が、ほんの数時間後には物言わぬ死体になっている。



月島はしばらく、その場から動けなかった。



「……知り合い?」



背後から緇の声がした。

いつもの皮肉も、刺のある調子もなかった。



月島は死体から目を逸らさずに答える。



「……いや」



少しだけ間を置いた。



「昨日」



あの時の光景が、妙に鮮明に浮かぶ。



「……会計してもらっただけだ」



緇は何も言わなかった。

月島も、それ以上説明することはなかった。


店内では、変わらず白い照明が商品棚を照らしている。



冷蔵ケースは低く唸り続け、レジ横には冷めた油の匂いが残っている。


値札も、広告も、棚に並ぶ商品も、ほとんど昨夜のままだった。




何も変わっていないように見える。


けれど。

昨夜ここにいた男だけが、もう動かない。



月島の視線が、床へ置いた買い物籠へ移った。



その中には、サーモンのパックが四つ収まっている。

みぎわが目を覚ましたら、食べさせるつもりだった。



昨日も。

同じようにこの店で選び、この男に会計してもらった。



その時には、まさか数時間後に、こんな形で再び顔を見ることになるとは思ってもいなかった。


月島は籠の中のサーモンを見つめたあと、もう一度だけ男へ視線を戻した。



ほんの少し前まで、当たり前のようにそこにあった日常。




それが消えるのに。

大した時間など、必要なかった。


コンビニを出ると、さっきまで店内を満たしていた白い光が背後へ遠ざかり、再び夜の冷気が二人を包んだ。



月島は片手に買い物袋を提げ、もう片方には、潰れないよう別にしておいたサーモンの入った袋を持っている。


その隣では、緇が残りの荷物をほとんど一人で抱えていた。



六本の腕それぞれに袋が提げられ、水の入ったペットボトルが重さに合わせて揺れている。


店へ向かう途中に陽菜から荷物持ち扱いされた時は露骨に不機嫌そうだったが、こうして実際に見ると、たしかにこれ以上ないほど適任だった。



もちろん、それをもう一度口にするほど月島も馬鹿ではない。



二人は来た道を引き返していく。



相変わらず、人影はない。


夜の道路には放置された車が並び、遠くではまだ黒い煙が空へ伸びていた。




時折、風向きが変わるたびに焦げ臭さが濃くなる。


先ほど見た店員の姿が、月島の頭から完全に消えたわけではなかった。




数時間前には生きていた。


言葉を交わした。



それだけの人間が、今はもういない。


足元のアスファルトを見つめながら歩いていると、不意に隣から声がした。



「そういえば」



月島が顔を上げる。



「なんだ?」



緇は前を向いたままだった。

荷物を持つ六本の腕にはほとんど苦労している様子もない。


ただ、視線だけが一度、月島の身体を上から下へなぞった。



「いちばん、気になることを聞き忘れていたわ」



「一番?」



「ええ」



緇は少しだけ首を傾けた。



「─────あなた、どうして生きているの?」



月島の足が僅かに鈍る。



「……は?」



唐突すぎる問いだった。

緇はそんな反応を気にした様子もなく続ける。



「あんな傷を負って、どうして生きられるの?」



「……」



月島は思わず自分の身体へ視線を落とした。



服の下。


そこにあるはずだった傷。



自分でも、何度考えても説明がつかない。



死んでいてもおかしくなかった。


少なくとも、何事もなかったように歩ける状態ではなかったはずだ。



それなのに。



「……俺にも分からない」



月島は正直に答えた。



「目が覚めたら、知らないうちに傷が塞がってた」



緇はすぐには返さなかった。



横目で月島を見たまま、数歩歩く。




その顔に驚きはない。

かといって、完全に納得しているようにも見えなかった。


何かを考えている。



そんな沈黙だった。



やがて、緇が小さく息を吐く。



「……あなたも、あながち無関係じゃなさそうね」



「……何がだ?」



月島が眉を寄せる。

だが緇は前へ視線を戻した。



「さあ」



「お前から言い出したんだろ」



「独り言よ」



「聞こえる声で言うな」



「聞いたあなたが悪いんじゃない?」



「無茶苦茶だな」



緇はそれ以上答えなかった。


月島もしばらく横顔を見ていたが、追及したところで話す気がないことくらいは分かった。



仕方なく前へ向き直る。


結局。

自分の身体についても、分からないことが一つ増えただけだった。




▼




廃墟が見えてきた頃には、食料の入った袋が指へ食い込み始めていた。


緇は相変わらず平然としている。



月島が崩れかけた入口を潜る。



その直後だった。



「ぱぱぁ……!」



声が飛んできた。



月島が顔を上げる。



奥から、小さな影がこちらへ向かって走ってくる。


薄いブランケットを身体に巻いたまま、裾をばたばたと揺らしながら。



たっ、たっ、たっ、と小さな足音が廃墟の床を叩く。



「みぎわ?」



月島が荷物を持ち直す暇もない。

みぎわはそのまま勢いよく飛び込んできた。



「ぱぱぁ……!」



月島の腹へ、ぽす、と小さな身体がぶつかる。


反射的に腕を出しかけるが、両手には荷物がある。



「お、おい」



みぎわはそんなことなど気にせず、月島の服を両手で掴んだ。



顔を押しつける。

さっきまで寝ていたはずなのに、もう完全に目を覚ましていた。



というより。

少し怒っているようにも見える。



「……どうしたんだ」



月島が困惑していると、奥から陽菜の声がした。



「どうしたんだ、じゃないわよ」



壁際に座ったまま、陽菜が端末から目を上げる。



「この子、目を覚ました途端に『ぱぱどこ? ぱぱどこ?』って」



「……」



「そのまま廃墟の外まで探しに行こうとするから、止めるの大変だったのよ」




月島の視線がみぎわへ戻る。



みぎわはまだ服を掴んでいる。

その指に、思っていたより強く力が入っていた。



「ぱぱ」



「ん?」



みぎわが顔を上げる。

緑色の瞳が、まっすぐ月島を見た。



「ずっといっしょ、いった」



「……」



月島の表情が僅かに固まった。


言われた。



たしかに言った。


ほんの少し前に。



ずっと一緒だ、と。




自分の中では、いなくなるつもりで離れたわけではない。

近くのコンビニへ行き、すぐ戻ってきただけだ。


だが。

そんな理屈を、この子に求めても仕方がない。




月島は荷物を床へ置く。

それから、ようやく空いた手をみぎわの頭へ乗せた。




「……ああ。ごめん」



髪をゆっくり撫でる。



「みぎわの好きなサーモン持ってきたから、これで許してくれないか?」



「……」



みぎわの目が動く。



「さ、さーもん……!」



怒っていた顔が、一瞬で変わった。


月島は思わず目を瞬かせる。



「……現金だな」



さっきまで服を離そうともしなかったのに、みぎわの視線はもう買い物袋へ釘付けだった。


月島がサーモンのパックを取り出すと、みぎわはその場にしゃがみ込み、じっとそれを見つめる。



透明な蓋を開ける。



橙色の身が並ぶ。

みぎわの喉が、小さく動いた。



「食べるか?」



こくこく。



返事より早く頭が上下する。


月島が一つ摘まんで差し出すと、みぎわは両手で受け取ることもせず、そのまま月島の指先へ顔を近づけた。



「あ」



ぱくり。



一口で頬張る。

頬が少し膨らんだ。



もぐ。


もぐ。


もぐ。



噛んでいる間も、視線は次のサーモンから離れない。



月島はもう一つ取る。



「ほら」



ぱくっ。



またすぐ食べる。

先ほどまでの不満はどこへ行ったのか。



みぎわはすっかり機嫌を直し、月島の傍へぴたりと座ったまま、次々とサーモンを口へ運んでいった。


その様子を少し離れたところから眺めていた斑が、頬杖をつく。



「……まるで餌付けみたいッスね」



「斑ちゃん……!」



粉雪がすぐに制止した。



「なんスか? だって――」



「言い方が……!」



粉雪が慌ててみぎわを見る。



幸い。

本人は何も聞いていなかった。


というより、サーモン以外がほとんど目に入っていない。



「さーもん……」



小さく呟きながら、また一つ頬張る。



斑がそれを見て、口元を緩めた。



「ほら、やっぱり――」



「斑ちゃん!」



「分かったッス、分かったッスよ〜」



粉雪に睨まれ、斑は両手を上げる。



そのやり取りの横。


壁にもたれた翳が、眠たげな垂れ目のままみぎわを眺めていた。

しばらく無言だったが。



「……かぁーいーねぇ」



ぽつり。

誰に聞かせるでもなく呟く。



月島が一瞬だけそちらを見る。

翳は何事もなかったように欠伸を噛み殺していた。


その間にも、みぎわはサーモンを食べ続けている。



「ゆっくり食え」



「ん」



返事をしながら、速度はほとんど変わらない。


月島は苦笑するでもなく、それでも先ほど店員の死体を前にしていた時よりは、わずかに表情を緩めていた。




目の前で食べている。


ちゃんと飲み込んでいる。



それだけのことに、妙な安心を覚える。



陽菜の言っていた通りだった。


自分が渡したものなら食べる。



その事実は嬉しいというより、今は少し重かった。



自分がいなければ。

この子は、まともに食事すらしない。



その可能性を思うと。

簡単には離れられない理由が、また一つ増えた気がした。



しばらくして。

持ち帰った食料は、それぞれの前へ分けられた。



水。


パン。


おにぎり。


栄養補助食品。



すぐに食べるものと、明日以降へ残しておくものを陽菜が簡単に仕分ける。


斑は早速菓子パンへ手を伸ばし、粉雪は小さなおにぎりを一つだけ取った。



緇は特に選り好みする様子もなく、目についたものを適当に食べている。


翳に至っては、座ったままパンの袋を開ける動作すらどこか眠そうだった。



そんな中。

陽菜は全員の様子を一通り確認すると、端末を膝の上へ置いた。



「とりあえず、各自食事を済ませたら、明日に備えて寝ましょ」



斑がパンを咥えたまま顔を上げる。



「見張りはどうするッスか?」



「粉雪ちゃんの鱗粉があるし、翳ちゃんにも周囲を確認してもらったわ。もちろん完全に安全とは言えないけど、今夜くらい休まないと明日動けないでしょう?」



「それもそうッスね〜」



「それに」



陽菜は周囲を見る。



「何か近づいてきたら、わたしが起きるわ」



「はるるん寝ないんスか?」



「寝るわよ」



「今の言い方、絶対寝ない人の言い方ッス」



陽菜は答えなかった。

代わりに、斑が食べていた菓子パンへ一度視線を向ける。



「食べ終わったなら寝なさい」



「まだ半分あるッス!」



「なら早く食べなさい」



「お母さんみたいッスね」



陽菜の指が一瞬止まった。



「……誰がよ」



「なんでもないッス」



斑はそれ以上言わず、残りのパンを口へ押し込んだ。



月島はそのやり取りを聞き流しながら、隣を見る。


みぎわは最後のサーモンを口に入れたところだった。



もぐもぐと噛む。


飲み込む。



そして、空になったパックを見る。



「……」



顔を上げる。



月島を見る。



またパックを見る。



「今日はそこまでだ」



「……」



露骨に残念そうな顔になった。



「まだあるけど、全部食ったら明日の分がなくなる」



みぎわは少し考えた。



まだ食べたい。

けれど、明日も食べたい。


その二つを小さな頭の中で比べているらしい。



やがて。



「……あしたも、さーもん?」



「ああ」



「……わかった」



どうにか納得した。



月島は空いた容器を脇へ置く。


みぎわは食事を終えた途端、今度は当たり前のように月島へ身体を寄せてきた。



肩に頭が当たる。



さっき十分寝たはずなのに。

食べて安心したからなのか、もう瞼が重そうだった。



「眠いのか?」



「……ねむくない」



言った直後に欠伸をした。



「説得力ないぞ」



「……ねむく、ない」



声まで既に弱い。

月島は何も言わず、近くに置いていた薄いブランケットを取った。


それをみぎわの肩へ掛ける。




今度は。


離れない。


少なくとも、今夜は。



みぎわもそれが分かっているのか、月島の服を軽く掴んだまま目を閉じた。


その小さな手から少しずつ力が抜け、やがて寝息が聞こえ始める。



月島は起こさないよう身体を壁へ預け直した。




その時。




ふと、誰かの視線を感じた。

顔を上げると、少し離れた壁際にいた粉雪と目が合う。




─────いや。




自分を見ていたわけではないらしい。

月島が視線を向けたことで、粉雪の目がほんの僅かに動いた。


その先にいるのは、胸元で眠っているみぎわだった。



「……?」



月島は小さく眉を寄せる。


心配しているようには見えなかった。

みぎわが眠れているか確かめている、という感じでもない。



ただ、月島の服を掴んだまま安心したように眠る小さな姿を、粉雪は静かに眺めていた。


いつもの不安げな表情とは少し違う。



柔らかいような。



どこか、遠いものを見るような。


月島には、その視線の意味までは分からなかった。



こちらが見ていることに気づくと、粉雪は僅かに肩を揺らした。



「あ……」



「どうした?」



「い、いえ……なんでもないです」



小さく首を振り、すぐに視線を落とす。


それ以上何かを言う様子もなく、粉雪は白いワンピースの裾を整えると、壁際へ身体を預けた。



月島も深くは聞かなかった。



ただ、横になる直前。

粉雪の視線がもう一度だけ、みぎわの方へ向いたような気がした。



少し離れた場所では斑が横になり、翳は帽子を顔へ被せるようにして、既に眠る体勢に入っていた。


緇は最後まで窓の外を確認してから、壁際へ腰を下ろす。



陽菜だけは、まだ端末の光に顔を照らされていた。



誰も。

ここが安全だとは思っていない。


明日になれば何が起きるのかも分からない。



それでも今は、身体を休めるしかなかった。



月島は背中を壁へ預ける。

胸元には、みぎわの小さな重み。


耳を澄ませれば、ほどなくして規則正しい寝息が聞こえ始めた。




今度は、月島が少し身体を動かしても目を覚まさない。


食事をしたことで、先ほどよりも幾分呼吸が穏やかになっている。


それを確認してから。




月島もようやく目を閉じた。




壊れかけた街の片隅。


冷たい夜風が割れた窓を抜けていく中で。



それぞれが、次の日へ身体を繋ぐための短い眠りへ落ちていった。





▼





朝は、静かにやってきた。



もっとも。

いつもの朝とは、まるで違っていた。



カーテン越しに差し込む光もなければ、目覚まし時計の音もない。


割れた窓から入り込んだ薄い朝日が、埃の舞う廃墟の床を斜めに照らしているだけだった。



夜の冷気はまだ残っていた。



壁際には薄い影が落ち、外からは時折、風に揺らされた何かが擦れる音が聞こえてくる。


月島は、ゆっくりと目を開けた。



最初に視界へ入ったのは、ひび割れた天井。



数秒。



ここがどこなのか分からなかった。




だが。

胸元にある小さな重みで、すぐに思い出す。



「……」



視線を落とす。

みぎわが、月島の身体へ半分もたれかかるようにして眠っていた。


昨夜掛けた薄いブランケットに身体を包み、片手だけを外へ出している。



その手は、眠っている今も月島の服を軽く掴んだままだった。




寝息は穏やかだった。


食事を取れたからなのか。



昨日までより、少しだけ顔色も良く見える。




月島は起こさないよう、身体をわずかに起こした。

普段なら、それだけでみぎわの瞼が開くことも珍しくない。



だが今日は。

少し身じろぎしただけで、また月島の方へ頬を寄せて眠り続けた。


まだ疲れが抜けきっていないのだろう。



月島はしばらく寝顔を見たあと、周囲へ視線を向ける。




斑は少し離れた床で、大の字に近い格好で眠っていた。


昨夜は壁際に横になっていたはずなのに、寝返りを繰り返したのか、今では元いた場所からかなりずれている。



粉雪はその近くで、白いワンピースの裾を整えるように身体を小さく丸めて眠っていた。


対照的に、翳は壁へ寄りかかったまま帽子を顔まで深く被り、座った姿勢のまま微動だにしていない。



一瞬。

本当に寝ているのか疑った。


だが、よく見れば胸元がゆっくり上下している。



緇の姿は、昨夜とほとんど変わらない位置にあった。


壁際。

六本の腕をそれぞれ楽な位置へ置き、目を閉じている。



眠っているようには見えるが、何かあればすぐに起きられるような姿勢だった。




そして。

陽菜だけが、起きていた。




いや、もしかすると、

寝ていないのかもしれない。




壁へ背を預け、膝を軽く立てたまま端末を操作している。

青白い画面の光が、その無表情な顔を照らしていた。


昨夜最後に見た時と、ほとんど同じ姿。



ただ、傍らには空になった飲料ボトルが一本転がっている。



月島が視線を向けると。

陽菜は画面から顔を上げないまま口を開いた。



「いいタイミングで起きたわ」



月島の眉が寄る。



「……朝一番で聞きたくない言葉だな」



「そう?」



「大抵ろくなことじゃない」



陽菜の指が画面を滑る。



「今回は正解かもしれないわね」



その言葉で、眠気が少し飛んだ。


月島は腕の中のみぎわを見下ろす。



起こすべきか迷ったが。



まだ必要はない。

服を掴んでいる小さな手を無理に外すこともせず、そのまま陽菜の方へ身体を向けた。



「何があった」



陽菜は答える代わりに、端末を月島から見える角度へ傾けた。



画面には。

一人の男が映っていた。




濃紺のスーツ。

固く結ばれたネクタイ。


その背後には国旗が立ち、左右には政府機関の紋章と、見慣れない危機対策本部の名称が表示されている。



画面下には赤い帯。



その中を。

『政府緊急会見』という文字が流れていた。



月島の目が細くなる。



「……会見?」



「ええ。少し前から始まっているわ」



陽菜が音量を上げる。

端末の小さなスピーカーから、男の声が流れ出した。



『――昨夜発生いたしました一連の大規模破壊事案、および各地で確認されている未知の生物による被害につきまして、政府より現時点で確認されている情報をご説明いたします』



淡々とした声だった。



あまりに整った話し方。



外では建物が燃え。


人が死に。


得体の知れないアベラントが街へ流れ出している。




それでも。

画面の中だけは。



昨日までと変わらない『政府の会見』という形を保っていた。



『現在、複数地域において暴動、施設の破壊、および危険生物による襲撃が確認されております。政府は警察、自衛隊、消防、各自治体と連携し、住民の避難および安全確保を最優先として対応を進めております』



月島は黙って聞く。



陽菜も何も言わない。



しばらく。

ありきたりな説明が続いた。




不要不急の外出を控えること。


避難指示に従うこと。


危険な生物を見つけても近づかないこと。




そして。



話が。



─────核心へ入る。





『また、今回確認されている危険生物についてですが――』





男が一度、手元の資料へ目を落とした。




『これらは、民間研究組織ヒューマライズが管理していた研究対象であることが確認されています』



月島の眉が動く。


横を見る。



陽菜は、何の反応も示さなかった。

画面の男は続ける。



『ヒューマライズでは、政府への正式な届け出が十分になされないまま、特殊生物を用いた複数の研究が進められていた可能性があり、現在、関係各所と連携して事実確認を行っております』




「……は?」




月島の口から、低い声が漏れた。

政府への届け出が、十分になされないまま。



その言葉だけが、耳に引っ掛かった。



月島が知っている限り、あの施設は政府と無関係どころか、政府そのものが深く関わっている。



陽菜を見る。



「……こいつら」



陽菜は画面を見たまま。



「聞いてなさい」



短く言った。



会見は続く。



『現時点において、今回の事態はヒューマライズ内部における管理上の重大な問題によって発生した可能性が高いと判断しております』



カメラの外から。


複数の声が上がった。



記者たちだろう。


質問が飛ぶ。




『政府はヒューマライズの研究内容を把握していなかったということですか!?』



男は表情を変えない。



『政府として把握していた研究内容と、今回確認された実態には大きな乖離がございます』



『ヒューマライズへの資金提供があったとの情報については!?』



『現在確認中です』



『人体実験が行われていたという証言もあります!』




ほんの一瞬。

男の動きが止まった。


だが、すぐに。



『その点についても、現段階で政府として確認できる情報はございません』



月島の奥歯が、僅かに噛み合った。



「……全部」



声が低くなる。



「押しつけるつもりか」



陽菜が横目だけを向けた。



「みたいね」



「みたいね、じゃないだろ」



「予想はしていたもの」



「……予想?」



陽菜は答えない。


代わりに、会見へ視線を戻した。



『ヒューマライズ側からは、今回流出した研究対象について、組織として責任を持ち、速やかな回収および処理にあたる旨の報告を受けております』



月島の目が鋭くなる。



「……言ったのか?」



「いいえ」



即答だった。



「少なくとも、わたしはそんな報告してないわ」



「じゃあ……」



「勝手に決めたんでしょうね」



あまりにも平然としている。



月島は一瞬、言葉を失った。


会見の男は、まるでヒューマライズ側と話がまとまっているかのように続けていく。



『政府といたしましても、同組織に対し全面的な情報開示を求めるとともに、流出した危険個体について、一刻も早い収束を強く要請しております』




収束。



その言葉が、妙に綺麗に聞こえた。




実際にやることは、街へ散ったアベラントを探し、捕らえるか、殺す。


それだけなのに。




画面の向こうでは。


すべてが、

都合のいい言葉へ置き換えられていく。




月島の腕の中で、

みぎわが小さく動いた。




音が気になったのか。

まだ閉じたままの瞼が、僅かに震える。



月島は無意識に、

みぎわの背中へ手を置いた。



それから、画面を見る。


つい昨日まで、この子も、

政府が『把握していなかった』と言っている研究の一つだった。



胸の奥に、鈍いものが溜まっていく。


やがて、

政府会見の映像が一度止まった。



陽菜が操作したらしい。

男の顔が、画面の中で静止している。



「これだけなら」



陽菜が口を開く。



「ただの責任逃れで済んだんだけど」



「……まだあるのか」



「ええ」




陽菜は画面を切り替えた。




政府会見が消える。

代わりに表示されたのは黒い背景。


その中央に、

ヒューマライズのロゴ。



そして、赤い文字。



月島の目が細くなる。



「何だ、これ」



「少し前に届いたわ」



陽菜の指が画面を滑る。



文書が開く。



上部に大きく。




────特別処理命令。




その下には、いくつもの文字列が並んでいた。

月島は端末へ目を落とす。



『流出、暴走状態にあるアベラント個体について、速やかに発見、拘束、または処理を実施すること』



次。



『対象個体の危険度、行動状況に応じ、現場判断による殺処分を許可する』



さらに。



『ヒューマライズ所属職員ならびに管理下にある戦闘可能個体は、本命令を最優先任務として遂行せよ』




月島の視線が、最後の部分で止まった。


そこだけ、他の文章以上に。



冷たく見えた。




『当該命令に対する拒否、逃亡、任務放棄は一切認めない』




「……」




廃墟の中には。

端末から流れていた会見の残響だけが、微かに残っていた。


これは、依頼でも、協力要請でもない。




────命令。




ヒューマライズに所属している限り、従え。


逃げるな。




そして、散らばったアベラントを。



全部。



自分たちの手で片づけろ。




そう書いてある。

月島は画面を見つめたまま。



何も言わなかった。


月島が端末の画面を見つめている横で、陽菜はしばらく何も言わなかった。



『当該命令に対する拒否、逃亡、任務放棄は一切認めない』



赤く表示されたその一文を、彼女も同じように眺めている。


政府はヒューマライズにすべての責任を押しつけ、そのうえで、自分たちの手で後始末までさせるつもりらしい。




何が起きているのか。


なぜアベラントが街へ流出したのか。


その研究に誰が関わっていたのか。



そうしたものには一切触れず、表向きはヒューマライズという一つの組織だけを切り離す。




そして裏では、命令という形でその組織を使い続ける。




月島には、そのやり方がひどく歪んでいるように思えた。



もっとも。

隣にいる女が、それをどう受け止めているのかは分からない。


陽菜は端末を自分の方へ戻すと、表示された命令書をもう一度上から下まで眺めた。



その表情に怒りはない。



焦りも。


困惑も。



まるで最初から、こうなることまで分かっていたような顔だった。



やがて、小さく息を吐く。



「……元から、逃げるつもりもないわ」



独り言に近い声だった。


月島が横を見る。



「……」



陽菜は気づいているはずなのに、説明する様子はない。

そのまま画面を閉じ、端末を膝の上へ置いた。



そして、ようやく月島を見る。



「それで」



声の調子が変わった。

先ほどまで政府の会見を眺めていた時とは違う。


今度は、はっきりと月島へ向けられている。



「答えは決まったのかしら?」



「……」



「一晩、考えてくれたのでしょう?」



昨日。

この廃墟へ辿り着いてすぐ、陽菜から突きつけられた問い。



今の自分一人で、みぎわを守れるのか。


また暴走個体に襲われた時。



守れるのか。


逃げられるのか。




────その答えを。




月島は一晩考えていた。




───というより、考えるまでもなく、自分の力だけでは足りないことは分かっていた。


昨日だけでも、何度そう思わされたか分からない。



自分一人なら、どうにでもなる。



逃げることも。死ぬことも。


勝手に選べばいい。



けれど、今は違う。

腕の中にいたみぎわが、もぞりと動いた。


先ほどから会見の音で眠りが浅くなっていたらしい。



まだ完全には目を覚ましていないのか、薄く開いた緑色の瞳で月島を見上げ、そのまま胸元へ顔を寄せる。



「……ぱぱ」



掠れた寝起きの声。

月島は返事の代わりに、みぎわの背中へ軽く手を置いた。



その小さな身体へ触れたことで、迷いは消えた。


陽菜へ視線を戻す。



「……条件がある」



「あら」



陽菜が僅かに眉を上げる。



「聞きましょうか」



月島はみぎわを抱いたまま、低い声で続けた。



「みぎわを実験には使わせない」



陽菜は黙って聞いている。



「こいつに何かを無理やりやらせるのもなしだ。お前らの命令だからって、従わせるつもりもない」



「ええ」



「それと」



月島は一度言葉を切った。



「俺が危険だと判断したら、任務の途中でも撤退する」



それは、政府から送られてきた命令と真っ向から反する条件だった。



逃亡も、任務放棄も、許されない。


それでも。

月島には関係なかった。




政府がどう決めようと。


ヒューマライズがどうなろうと。



みぎわを死なせるくらいなら、迷わず逃げる。



陽菜はしばらく月島を見つめていた。



何かを品定めするようでもあり。

言葉の裏側まで確かめるようでもある。



だが、やがて。



「いいわ」



あっさりと答えた。


月島の眉が僅かに動く。



「……いいのか?」



「ええ」



「政府の命令には、任務放棄は許さないって書いてあったぞ」



「書いてあったわね」



「だったら」



「政府があなたの条件を呑むなんて言ってないわよ」



「……」



陽菜の口元が僅かに持ち上がる。



「わたしが呑むって言ってるの」



月島は数秒、陽菜を見た。



どこまで信用していいのかは、やはり分からない。




だが。


少なくとも今は。


この女の力も。



ここにいるアベラントたちの力も必要だった。




「……なら」




月島は短く息を吐く。




「───手を組む」




陽菜の表情はほとんど変わらなかった。




けれど。



ほんの一瞬だけ。


その目元から何かが抜けたように見えた。



安堵だったのか。



それとも。

単に話が予定通り進んだことへの満足なのか。


月島には分からない。



「そう」



陽菜はそれだけ答えた。


そして。



「なら、話が早いわ」




すぐに端末を持ち上げる。

切り替えの速さに、月島はわずかに眉を寄せた。


つい今しがたまで自分の返事を待っていたとは思えない。



最初から、月島が承諾する前提で次の段取りまで組んでいたのではないか。



そんな疑いすら浮かぶ。



陽菜は端末上に周辺地図を表示すると、指先で何度か操作した。

その音で斑が目を覚ましたらしい。



「んぅ……?」



壁際で丸まっていた身体を起こし、ぼさぼさになった髪を掻く。



「……もう朝ッスか?」



「とっくに朝よ」



「マジッスか……」



粉雪も声につられて目を覚まし、白いワンピースの裾を慌てて整えながら身体を起こした。


緇はすでに起きていたらしい。



壁際に座ったまま目だけを開き、陽菜の方を見ている。


対して翳は、

帽子を顔へ被せたまま、微動だにしない。



斑がそちらを見る。



「かげっち、起きるッスよ〜」



反応なし。



「もう朝ッスよ〜」




「……聞こえてるわぁ」



帽子の下から、眠気を限界まで濃縮したような声が返ってきた。



「起きてるなら顔出すッス」



「やだぁ……」



「子どもッスか」



「夜型なのぉ……」



陽菜が一度だけそちらへ目を向ける。



「翳ちゃん」



「……はぁい」



その一言だけで、

嫌々ながら、翳が帽子を持ち上げた。


髪は寝癖で少し乱れている。



ただでさえ垂れている目が、今はほとんど閉じかけていた。



全員が一応起きたことを確認してから、陽菜は端末を中央へ置く。



「政府から、暴走個体の処理命令が出たわ」



斑が目を瞬かせる。



「処理?」



「街へ流出したアベラントを見つけて、可能なら拘束。不可能なら殺処分」



陽菜は淡々と説明した。



「それをヒューマライズが責任を持って行うことになったそうよ」



「なったそうよって……なんか他人事ッスね」



「勝手に決められたもの」



「うわぁ……」



斑の顔が露骨に引きつる。


陽菜は先ほどの政府会見についても簡単に説明した。



ヒューマライズが政府に無断で危険な研究を行っていたかのように発表されたこと。


人体実験への関与についても、政府は知らなかったという立場を取っていること。



そして、今度はそのヒューマライズへ暴走個体の処理を命じていること。



話を聞けば聞くほど、斑の顔から眠気が消えていった。

やがて、完全に目を覚ました斑が勢いよく身を乗り出す。



「人体実験しておいて、バレたら責任の擦り付け!」



声が廃墟の中へ響いた。



「やっぱり人間みんな裏切る生き物ッス! 人間のがよっぽど化け物ッス!」



月島の眉が僅かに動く。



反論しようとは思わなかった。



少なくとも。


今聞かされた政府の行動だけを見れば、斑がそう言いたくなる気持ちは理解できる。



その横で、緇は特に憤る様子もなく、六本の腕のうち二本を胸元で組んだ。



「まあ、わたしが政府側ならそうするわね」



斑が勢いよく振り向く。



「ぎぬぎぬ先輩のことまで嫌いになりそうッス!」



「このうるさいのが静かになるのなら、それもありね」



「もうちょっと引き止めて欲しかったッス!」



即答で切り捨てられ、斑が胸元を押さえる。



緇はそれすら面倒そうに眺めていた。



その時。



「緇さんは、そんなことしないって……わたし知ってますから」



控えめな声が入った。



粉雪だった。

皆の視線が集まり、本人は一瞬だけ肩を縮める。




それでも、言ったことを撤回するつもりはないらしい。


緇は数秒、粉雪を見つめた。



それまで斑へ向けていた冷たい目つきが、ほんの少しだけ和らぐ。



「……粉雪」



一拍。



「あなただけは、わたしが守るわ」



「なんスか! ボクとユッキー先輩との扱いの差は!」



斑が即座に食いついた。



「日頃の行いじゃない?」



「そんなに悪いッスか!?」



「自覚がないのが一番厄介ね」



「ぎぬぎぬ先輩が辛辣ッス!」



朝から騒がしい二人の横で。

翳が壁へ頭を預けながら、大きな欠伸を一つした。



「朝から元気ねぇ〜……あたし、今にでも眠りそうだわぁ〜……」



言葉の後半になるにつれ、声がどんどん小さくなっていく。



斑がそちらを見る。



「……かげっち?」



返事がない。

帽子を深く被った翳の頭が、ゆっくりと横へ傾いていた。



「もう眠ってるッス! さすがかげっち!」



「早すぎます……」



粉雪が困ったように呟く。



緇は小さく息を吐いた。



「自由ね」



「あなたたち全員でしょう」



陽菜が淡々と返す。


その一言で、斑まで一瞬黙った。




政府に切り捨てられた直後だというのに。


朝から騒がしい。



危機感がないようにも見える。



けれど。

月島には、それが悪いことだとは思えなかった。



政府が何を言おうと。

この場にいる彼女たちは、昨日と何も変わらない。


少なくとも。

目の前で笑い、怒り、眠りかけている姿を見れば。



画面越しに『危険個体』と呼ばれる存在と、自分が今見ている彼女たちが同じものだとは思えなかった。


陽菜はそんな一同を放置し、端末の地図へ視線を戻した。



「話を戻すわよ」



斑がまだ不満そうな顔のまま姿勢を戻す。


翳だけは眠っている。



陽菜は気にしなかった。



「この人数で固まって動くのは効率が悪いわ。だから、今日から二班に分けます」



月島が地図から陽菜へ視線を移す。



陽菜はまず、自分の胸元へ軽く指を当てた。



「わたしと緇」



続いて。

眠ってしまった翳を見る。



「それから、翳ちゃん」



「……えぇ、もう働くのぉ?」



寝ていたはずなのに返事だけは返ってきた。



「働くの」



「朝弱いのよぉ」



「知ってるわ」



「知ってて入れるのぉ?」



「偵察役が必要なのよ」



「鬼畜ぅ……」



翳は不満そうに呟きながら、また帽子を深く被る。



その横で緇が小さく溜息を吐いた。



「……分かりました」



こちらは最初から異論がないらしい。



陽菜は頷く。



「この三人で一班」



指揮を執る陽菜。



直接戦闘能力の高い緇。


そして、戦闘には向かない代わりに索敵と偵察に特化した翳。




月島が見ても、役割は分かりやすかった。




問題は、もう一つの班だった。



陽菜が今度は月島を見る。



「そして」



一拍。



「月島くんと、みぎわ」



月島の胸元で、名前を呼ばれたみぎわが僅かに顔を上げた。



「斑ちゃん、粉雪ちゃん」



斑の目が一気に覚める。



「おぉ!」



その場で勢いよく立ち上がる。



「ボク、月島くんと同じ班ッスか!」



「そうよ」



「全力で暴れるッスよ!」



朝から妙に元気だった。


月島が若干嫌そうな顔をする。



その隣、粉雪は斑とは対照的だった。


自分の名前を呼ばれた瞬間から、表情が明らかに強張っている。



「あ、あの……」



陽菜が見る。

粉雪は胸元で指を重ねた。



「わたし……」



視線が落ちる。



「一度も戦闘経験もないですし、戦えないですよ」



不安が、そのまま声に出ていた。



「鱗粉撒くことしかできないです」



斑が振り向く。



「ユッキー先輩、大丈夫ッスよ! 戦うのはボクが――」



「斑ちゃん」



陽菜が止めた。


声を荒らげたわけではない。


けれど、それだけで斑は口を閉じる。



陽菜は粉雪ではなく、月島を見た。



「月島くん」



「……なんだ」



「あなたが粉雪ちゃんの使い道――」



そこで、

陽菜の言葉が止まった。



ほんの僅か。

自分の口から出た言葉を確かめるような間だった。



そして。



「……いえ。違うわね」



言い直す。



「鱗粉を上手く使いなさい」



月島が眉を寄せる。


粉雪も顔を上げた。



陽菜はそれ以上、具体的な説明をしなかった。



「必ず、役立つわ」



たった、それだけ。



「……」



月島は粉雪へ視線を向けた。



白いワンピース。


細い身体。


施設で一度会った時にも、彼女が直接戦うところは見ていない。



能力について知っていることも少ない。


鱗粉。


それだけ。



粉雪自身も、自分が戦力として扱われる理由を理解できていないらしい。



不安そうな目で。


月島を見る。



視線が合うと、肩がほんの僅かに強張った。



「……よ、よろしくお願いします」



「……ああ」



月島は短く返した。



まだ。

何に使えるのかは分からない。



だが。

陽菜がわざわざ言った。



必ず役立つ、と。



何の根拠もなく口にする女ではないことくらい、昨日からの短い付き合いでも分かる。



なら、見ればいい。



何ができるのか。



どこまでできるのか。



その能力を、どう使えばいいのか。



月島の視線が、粉雪から斑へ。


斑からみぎわへ。



順番に移る。



みぎわは状況を理解しているのかいないのか。

まだ少し眠そうにしながら、月島へ身体を預けている。


斑は早く外へ出たくて仕方がないらしく、その場で軽く身体を伸ばしていた。



粉雪だけが。

まだどこか落ち着かない様子で、自分の指先を握っている。



この三人を、自分が見る。



「……待て」



月島が陽菜へ顔を向けた。



「なんで俺なんだ」



陽菜が僅かに首を傾ける。



「何が?」



「班だ」



月島は自分の周囲を見る。



「俺とみぎわだけなら分かる。なんで斑と粉雪までこっちに入れた」



「嫌なの?」



「そういう話じゃない」



「斑ちゃんがうるさいから?」



「それはちょっとある」



「ちょっとあるんスか!?」



斑が即座に反応した。



月島は無視する。



「俺はこいつらとまともに戦ったこともない。能力だって全部知ってるわけじゃない」



「ええ」



「だったら、お前がまとめた方が確実だろ」



陽菜は月島の言葉を最後まで聞いた。



そして、



「あなたが一番うまく使えると思ったからよ」



月島の目が僅かに細くなる。



「……まだ一緒に戦ったこともないぞ」



「だから?」



「……」



まるで、

何の問題があるのか。



そう言わんばかりだった。



「能力を知らないなら見ればいい。性格を知らないなら知ればいい。戦い方が分からないなら、その場で考えればいいでしょう?」



「簡単に言うな」



「あなたならできるわ」



妙に、言い切った。


月島の表情が僅かに変わる。



何を根拠に、そう思っているのか。



尋ねようとした。


だが。

陽菜はもう月島を見ていなかった。



端末へ視線を落とし、周辺地図を開く。



その地図上には、

いくつかの赤い点が表示されていた。


廃墟から、それほど離れていない。



一つ。



月島が画面を覗き込む。



「これは?」



「周辺で確認された反応」




陽菜が一つ目の赤点へ触れる。



簡単な位置情報が表示された。



「翳ちゃんが昨夜確認した時にはいなかったから、夜が明けるまでの間に移動してきたんでしょうね」



「……アベラントか?」



「おそらく」



陽菜は画面を閉じないまま立ち上がった。


昨夜からほとんど同じ姿勢で端末を触り続けていたとは思えないほど、その動きに疲労は見えない。



緇もそれに合わせて立つ。


翳は心底嫌そうに身体を起こし、帽子を被り直した。


斑は待ってましたと言わんばかりに両拳を合わせる。



「ついに出番ッスね!」



粉雪はまだ不安そうだった。



それでも。

逃げるとは言わなかった。


胸元で握っていた指をゆっくり解き、小さく息を吸う。



月島はそんな三人を順番に見る。



そして、腕の中のみぎわへ視線を落とした。



「……行けるか?」



みぎわは月島を見上げた。



まだ眠そうな目をしながら、それでも。



「ぱぱと、いっしょ」



そう答えた。



月島は一瞬だけ黙り。



「……そうか」



短く返した。


陽菜は全員が動けることを確認すると、端末を片手に持ったまま入口へ視線を向けた。



朝の光が、崩れかけた廃墟の入口から差し込んでいる。



その向こうには、

昨日までとは違う街が広がっている。



逃げたアベラント。


壊れた日常。


何が潜んでいるのかすら分からない世界。




それでも。

もう、ただ逃げ続けるだけではいられない。


陽菜はそんな外の景色を眺め、ほんの少しだけ口元を持ち上げた。





────「それじゃあ最初のお仕事、始めましょうか♪」

第二章『蜘蛛姉妹』、いよいよ開幕です!

ここから新しい仲間も加わり、物語も少しずつ大きく動いていきます。

第一章とはまた違った雰囲気になっていくと思うので、楽しんでもらえたら嬉しいです

引き続きよろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。