第五話『一歩だけ前へ』
土煙の向こうでは、魘がまだ立っていた。
右腕は完全に壊れ、自ら盾として使ったことでさらに深く裂けている。
指先からは大量の血が滴り、右脚にも深い裂傷が刻まれ、脇腹から流れ続ける血が腰から腿へと伝っていた。
その体内には、緇が何度も流し込んだ毒まで回っている。
決して、無傷の勝者ではない。
むしろ緇によって身体の大半を壊され、それでもなお、倒れずに立っているだけだった。
陽菜はそんな魘の状態を一瞬で確認すると、すぐに視線を地面へ倒れた緇へ戻した。
動かない。
「……緇?」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
だが陽菜の目はすぐに緇の胸元へ向かう。
呼吸はあるのか。外傷はどこまで深い。意識は。落下時に頭を打った可能性は。腹部の外殻は完全に砕けている。
同時に、魘と緇の距離を測る。
翳が今動けば間に合うか。
自分が走るべきか。
撤退経路は残っているか。
魘が次に動き出すまで、あと何秒ある。
思考は止まっていなかった。
むしろ、かつてないほど速く回っている。
それなのに、答えだけがうまく形にならない。
普段なら不要なものとして切り捨てられるはずの恐怖が、思考の隙間へ入り込み、次々と判断を濁らせていた。
緇が倒れた。
その事実だけが、異物のように頭から離れない。
それでも陽菜は視線を逸らさず、必死に状況を組み立てようとする。
まだ死んだと決まったわけではない。
まず呼吸を確認する。
魘の次の行動を見る。
翳を動かすなら、どの瞬間か。
自分が前へ出る意味はあるのか。
考えろ。
判断しろ。
いつものように。
何度そう自分へ命じても、土の上に倒れた緇の身体が、今まで見たこともないほど小さく見えた。
その瞬間になって初めて、陽菜の顔から完全に余裕が消えた。
緇の指先が、僅かに動いた。
土の上へ投げ出されていた右手が震えながら持ち上がり、指先がゆっくりと地面を掻く。
腹部を貫く痛みに呼吸を乱しながら、それでも緇は腕へ力を込めようとした。
立たなければならない。
頭の中に浮かんだのは、それだけだった。
魘はまだ倒れていない。陽菜も翳も、この場にいる。ならば自分がここで寝ている理由などない。
身体を起こそうと肘を地面へ突く。
だが、肩へ力を入れた途端、腹部の奥を抉るような痛みが走り、腕から一気に力が抜けた。
支えを失った上半身が再び地面へ落ち、緇は浅い呼吸を繰り返しながら奥歯を噛む。
「……っ」
もう一度。
今度は立ち上がることを諦め、右腕だけを前へ伸ばした。
せめて攻撃できればいい。
手の甲へ意識を集中させる。
普段なら考えるまでもなく現れるはずの黒い外殻が、皮膚の表面を這うように僅かに盛り上がった。
黒色が指先から手首へ広がり、その中央から刃の先端らしきものがゆっくりと形を取っていく。
しかし、数センチも伸びないうちに動きが止まった。
緇の眉が寄る。
「ん、う───ッ」
さらに力を込める。
黒刃は震えた。
次の瞬間、乾いた音を立てて崩れた。
細かな黒い欠片が指の間から零れ、土の上へ散っていく。
緇はその光景を、理解できないものを見るように見つめた。
もう一度、形成しようとする。
今度は刃にすらならなかった。
手の甲に薄く現れた黒色が輪郭を保てず、表面に細かな亀裂を走らせながら剥がれ落ちる。
「……なん、で……っ」
掠れた声が漏れた。
傷が深いことは分かっている。
身体がまともに動かないことも理解していた。
それでも。
能力まで使えなくなるとは思っていなかった。
自分には、まだやることがある。
戦わなければならない。
そうでなければ。
そこまで考えたとき、緇の腕を覆っていた黒い外殻が、小さく軋んだ。
手首から肘へ一本の亀裂が走る。
それは止まらなかった。
肩へ達し、胸元へ広がり、腹部を覆う砕けかけた外殻へと繋がっていく。
さらに背中へ、脚へと細かな亀裂が枝分かれし、全身を覆っていた黒い装甲そのものが形を保てなくなり始めた。
緇の目が見開かれる。
「……待って」
自分の意思ではない。
解除しているわけでもない。
身体が勝手に、蜘蛛化を終わらせようとしている。
「待ちなさい……っ」
初めて、声に明確な焦りが混じった。
六本あった腕のうち、異形化によって生じていた四本が輪郭を失い始める。
黒い外殻が端から崩れ、粒子のような欠片となって空気へ散るたび、その下から本来の身体が露わになっていった。
緇は残った腕を動かそうとする。
だが力が入らない。
指を握ろうとしても、僅かに震えるだけだった。
戦えない。
その事実が、魘の拳を受けたときよりも遅れて、しかし遥かに鋭く胸へ突き刺さった。
─────特別認定。
その言葉が、不意に脳裏を過った。
自分がここにいる理由。
自分が選ばれている理由。
誰より優れ、誰より使えるからこそ与えられたもの。
少なくとも緇は、ずっとそう考えてきた。
役に立つから必要とされる。
強いから選ばれる。
それさえ失わなければ、自分にはここにいる理由がある。
だから立たなければならない。
なのに、身体は動かない。
黒刃も出ない。
終いには蜘蛛化すら維持できない。
「……まだ……」
緇は震える指先をもう一度握ろうとした。
何も起こらなかった。
黒い外殻はその間にも崩れ続け、異形だった身体から一枚ずつ鎧を剥がすように消えていく。
最後まで残っていた肩口の外殻が砕け落ちた頃には、そこに蜘蛛の怪物の姿はなかった。
地面に横たわっていたのは、傷だらけの一人の女だった。
陽菜は、その変化を一部始終見ていた。
蜘蛛化が自動的に解除された。
それが何を意味するのか、陽菜には説明されるまでもなく分かった。
緇にはもう、戦闘形態を維持するだけの余力すら残っていない。
一瞬だけ視線を緇へ落としたあと、陽菜はすぐに魘へ向き直った。
「やめなさい、透……ッッ!!!」
陽菜が叫んだ。
迷っている時間はなかった。
魘の身体が、再び震えていた。
喉の奥から漏れていた低い唸り声が徐々に大きくなり、残された左手がゆっくりと握り込まれる。
指の関節が鈍く鳴り、その巨体を押し留めていた負傷も毒も、怒りによって無理やり捩じ伏せられていくようだった。
「……まずいわあ」
背後で翳が呟いた。
魘の左腕が、ゆっくりと後ろへ引かれる。
何をするつもりなのかは考えるまでもない。
もう一度、拳を振るうつもりだ。
陽菜は即座に距離を測った。
自分一人なら避けられる可能性はある。
横へ飛ぶだけなら、まだ間に合うかもしれない。
だが自分が退けば、その後ろにいる緇が剥き出しになる。
今の緇に、次の一撃を耐えられる余地はない。
陽菜は動かなかった。
いや、退かなかった。
気づけば一歩だけ位置をずらし、魘と緇を結ぶ直線上へ自分の身体を置いていた。
両腕が僅かに広がる。
背後を隠すように。
それを見た緇の目が揺れた。
陽菜が、自分の前にいる。
本来なら逆でなければならない。
守るのは自分だ。
陽菜の前へ立つのが、自分の役目だった。
それができるから、自分はここにいる。
なのに今は、人間の姿へ戻ったまま土の上に倒れ、自分より遥かに脆い陽菜の背中を見上げている。
緇は肘へ力を込めようとした。
身体は起きない。
手の甲へもう一度意識を集中させても、黒刃は形成されなかった。
何もできない。
その事実だけが、痛みより強く身体の奥へ沈んでいった。
「……どきな…さい」
声が震えた。
魘が怖いからではなかった。
あの拳がどれほど重いのか、緇は自分の身体で知っている。
黒い外殻で覆い、六本の腕を持つ自分ですら、一撃でここまで壊された。
その前に、陽菜が立っている。
外殻もない。自分のような身体能力もない。
あれをまともに受ければ、どうなるかなど考えるまでもなかった。
「陽菜……どきなさい」
緇は肘へ力を込める。
だが腹部へ激痛が走り、僅かに浮いた身体はすぐに地面へ落ちた。
それでも陽菜は振り返らない。
魘を見据えたまま、緇の前から動こうとしなかった。
だが、不思議なことに魘も動かなかった。
先ほどまで緇を躊躇なく殴り飛ばしていた男が、陽菜を目の前にした途端、握った左拳を止めている。
「ハァ……ッ、ハァ……」
荒い呼吸だけが漏れる。
血走った目が陽菜を捉えている。
そのはずなのに、焦点が僅かに揺れていた。
拳を持ち上げようとしては止まり、肩が小さく震える。指先には力が入っているのに、その腕だけが最後まで前へ出ない。
「グ……ゥ……」
苦しげな唸り声が漏れた。
怒っているというより。
何かに抗っているように見えた。
陽菜もその異変に気づいていた。
だが理由は分からない。
ただ、今すぐ拳が飛んでこない。
それだけだった。
「なに……してるの……」
背後から、緇の掠れた声が届く。
「さあね」
陽菜の口元が僅かに歪んだ。
「あなたが無様に負けてる姿、もっと近くで眺めたくなったのかもしれないわね」
数秒。
「……見えてない、でしょ……」
「背中越しに見てんのよ、バカ」
「……意味、分からない……」
「わたしにも分からないわよ」
吐き捨てるような返事だった。
合理的に考えれば、陽菜が前へ出る理由などない。翳に緇を回収させ、自分も逃げる。それが正しい。
そんなことは、陽菜自身が一番よく分かっている。
それなのに、身体が先に動いた。
「……どいて」
「嫌よ」
「死ぬ……わよ」
「そうみたいね」
陽菜はそれだけ答え、魘から目を逸らさなかった。
その間にも、魘の身体は小刻みに震え続けている。
握った拳が一度緩み、再び強く閉じられた。
指の関節が鈍く鳴る。
「グ……グゥゥ……ッ」
血走った目が歪む。
陽菜を見る。
その背後にいる緇を見る。
もう一度、陽菜へ戻る。
何かを思い出そうとしているのか。
それとも、本能のどこかが目の前の女を殴ることを拒んでいるのか。
分からない。
ただ一つ確かなのは、先ほどまで一切の躊躇を見せなかった魘が、今だけは明らかに迷っているということだった。
緇にも、その理由は分からなかった。
今の自分は戦えない。
陽菜を守ることもできない。
それなのに、どうしてこの女はまだここに立っているのか。
そしてなぜ、魘は陽菜を前にして止まっているのか。
答えは何一つ出ない。
緇は震える指先を地面へ食い込ませた。
そのとき。
「ガ……ァァ……ッ!」
魘の喉から、それまでよりも低い唸り声が漏れた。
震えていた左拳が、今度こそ強く握り込まれる。
迷いを無理やり押し潰すように、魘の肩が大きく引かれた。
陽菜の表情が変わる。
止まっていた何かが、切れた。
魘の左腕が大きく引かれた。
「はる!」
翳の声と同時に翼が広がる。
地面を蹴った翳が陽菜と緇をまとめて横へ弾き飛ばそうと飛び込んだが、その動きよりも魘の拳が放たれる方が僅かに早かった。
巨大な左拳が一直線に迫る。
陽菜は緇を背後へ庇ったまま、それを見ていた。
今から自分だけ避ける選択肢はない。
拳の輪郭が視界いっぱいに広がり、鼻先へ届こうとした、その寸前だった。
空気を切り裂く鋭い音が響いた。
何かが陽菜のすぐ横を一直線に通過し、そのまま魘の顔面へ激突する。
「ゴァア───ッ」
魘の頭が大きく仰け反った。
同時に拳の軌道も逸れ、陽菜の髪を掠めるほど近くを通過する。その風圧だけで身体が大きく揺さぶられた。
魘の顔面に衝突したものが、細かな飛沫となって弾け散る。
光ではない。
極限まで細く絞られた水だった。
凄まじい圧力で射出された水流が一本の槍のように伸び、魘の顔面を正面から撃ち抜いたのだ。
魘は数歩後退し、残った左手で顔を覆う。
指の隙間から水と血が入り混じって流れ落ち、苦しげな唸り声が森の中へ響いた。
「グ……ガァァッ!」
その向こうから声がした。
「……間に合ってよかった」
陽菜の身体が僅かに強張る。
声のした方へ振り返ると、木々の間に荒い息を吐きながら立つ月島の姿があった。
その隣には、片目を細めて魘へ腕を向けたみぎわがいる。
伸ばした腕の先から水滴が落ちているのを見れば、先ほどの攻撃を放ったのが誰なのかは明らかだった。
さらに後方には斑と粉雪の姿もある。
「………ッ、」
「みなさん、無事ですか!?」
「……月島くん」
陽菜の口から名前が漏れた。
月島は返事をせず、まず目の前に立つ魘へ視線を向けた。
近くで見れば、なおさら異常だった。
自分など片腕だけで押し潰せそうな巨体。
肩から腕にかけて隆起した筋肉は人間の範疇を明らかに逸脱しており、その拳をまともに受ければ、助かる未来など想像する方が難しい。
だが、その身体は無傷からほど遠かった。
右腕は完全に壊れ、右脚には深い裂傷が走り、胸元から脇腹、肩、背中に至るまで無数の傷が刻み込まれている。
流れ出した血が皮膚を赤黒く濡らし、足元にはすでに大きな血溜まりまでできていた。
月島の目が僅かに見開かれた。
こんなものを相手に。
ここまで。
誰がやったのかと考える必要はなかった。
視線を動かした先に、答えはあった。
陽菜の背後。
砕けた黒い外殻の欠片に囲まれるようにして、緇が倒れている。
月島は一瞬、誰なのか分からなかった。
六本の腕がない。
全身を覆っていた黒い外殻もない。
いつも僅かな笑みを浮かべ、何を考えているのか掴ませない余裕も消えていた。
そこにいるのは、青黒い痣を浮かべ、苦しげに呼吸しながら土の上へ横たわっている一人の女だった。
───この人も、こうなるんだ。
傷つけば倒れる。
痛ければ顔を歪める。
身体が限界を迎えれば、立つことすらできない。
そんな当たり前のことを、なぜか今まで一度も考えたことがなかった。
月島はもう一度、魘の全身へ刻まれた傷を見る。
これを、緇がやった。
あの怪物をここまで追い詰め、それでも勝ち切れず、身体が壊れるところまで戦った結果が、今ここにある。
そう理解してから緇へ視線を戻すと、不思議と以前よりほんの少しだけ近く見えた。
それがこの状況で抱く感想として酷く場違いなことくらい、自分でも分かっていた。
月島は僅かに眉を寄せ、その考えを頭の隅へ追いやる。
今は、それどころではない。
「……ひどいな」
低く漏れた声に、緇の負傷への痛ましさと、目の前で起きた戦闘への驚愕が混じった。
その声を聞いた緇が僅かに視線を動かした。
月島と目が合う。
ほんの一瞬だった。
緇はすぐに目を逸らした。
人間の姿へ戻った自分を見られたことが嫌だったのか、倒れている姿を見られたことが嫌だったのか、それとも別の理由なのか。
月島には分からなかった。
ただ、いつもの緇なら絶対に見せないようなその仕草だけが、妙に頭に残った。
陽菜のもとへ飛び込もうとしていた翳も、月島たちの姿を確認すると、広げかけていた翼をゆっくりと下ろした。
「あらぁ……」
張り詰めていた息を長く吐き出し、ようやく僅かに口元を緩める。
「……最悪は、免れたかなあ」
少なくとも、陽菜と緇がこのまま魘の拳に潰されることはなくなった。その事実だけでも、今は十分だった。
だが、その場に生まれかけた安堵は長く続かなかった。
斑が、地面へ倒れている緇を見つめていた。
六本の腕がない。
黒い外殻もない。
ほんの一瞬、それが誰なのか理解できなかった。
けれど。
顔だけは知っている。
「――ッ、ぎぬぎぬ先輩を……」
低い声が響く。
いつものような軽さはない。
口元から覗いた牙がぎり、と噛み合わされ、握り締めた拳は爪が掌へ食い込むほど強く閉じられている。
それでも斑は、しばらく動かなかった。
人の姿へ戻り、土の上に横たわっている緇を見つめたまま、何かを堪えるように肩を震わせている。
「……斑?」
月島が異変に気づいて声を掛ける。
その瞬間だった。
斑の身体が沈んだ。
「お、おい!」
止める暇もなかった。
強く蹴りつけられた地面が弾け、斑の姿が月島の横から消える。
伸ばした手は空を掴み、その頃にはもう、彼女は猛烈な勢いで魘との距離を縮めていた。
「よくも……」
掠れた声が、走りながら漏れる。
顔面を押さえ、みぎわの一撃に怯んでいた魘の目前まで一気に迫ると、斑は速度を落とすどころか、その勢いのまま大きく跳躍した。
片足を魘の胸元へ掛ける。
そして、その巨体そのものを足場にして駆け上がった。
「よくも、よくも――ッ!」
一歩。
二歩。
魘の肩口まで登り切ったところで、斑の表情が歪んだ。
「ここまでやってくれたッスねぇえええッ!!」
両手が、魘の顔面へ叩きつけられる。
鋭い爪が頬へ深く食い込み、皮膚と肉を抉りながら左右へ一気に引き裂いた。
「ガァアアッ!」
魘が苦痛に顔を振る。
それでも斑は振り落とされなかった。
両脚を首へ絡ませ、片腕を後頭部へ回して巨体へしがみつくと、さらに空いた手を持ち上げる。
狙っているのは目だった。
「斑!」
月島の声色が変わる。
魘は確かに満身創痍だった。
右腕は完全に機能を失い、脚も傷つき、全身から大量の血を流している。
これだけの損傷を受ければ、人間どころか普通の生物なら立っていることさえ難しいはずだった。
それなのに。
斑が全体重を掛けるように顔へ取りついても、魘の身体はほとんど傾いていない。
足元も崩れない。
呼吸は荒い。
血も流れている。
だが、身体を支えるだけの力がまだ残っている。
月島の視線が、魘の左肩へ吸い寄せられた。
筋肉が、僅かに隆起した。
その動きが何を意味するのか理解した瞬間、月島の背筋に冷たいものが走る。
巨大な左腕が持ち上がり始めていた。
狙いは明白だった。
自らの顔面へ張りついている斑。
「……離れろ!」
月島が叫ぶ。
だが斑は振り返らない。
今の彼女に見えているのは、地面へ倒れた緇と、その緇をここまで傷つけた魘だけだった。
「このっ……!」
怒りのまま、再び爪を振り下ろそうと腕を持ち上げる。
その間にも、魘の左手は確実に近づいている。
月島は一瞬で距離と速度を見る。
間に合わない。
あの大きさの手に一度掴まれれば、振りほどく余裕などない。
緇にあそこまで傷を負わせたことを考えれば、そのまま握り潰されてもおかしくなかった。
「そいつはやばい! 今すぐ離れろ、斑!!」
月島の怒鳴り声が響く。
それとほとんど同時に、魘の巨大な左手が斑へ迫った。
成人男性の胴体さえ容易に包み込めそうな掌が、自らの顔へしがみつく小さな身体を掴み取ろうと、指を大きく開きながら迫っていく。
それでも斑は、まだ魘の顔から離れようとしなかった。
振り上げた爪をもう一度その顔面へ叩き込もうとする一方で、魘の巨大な左手は確実に距離を詰めている。
指が大きく開かれ、斑の胴体を丸ごと包み込もうとしていた。
「斑ッ!」
月島が叫ぶ。
間に合わない。
そう理解した直後だった。
強い風が、月島の頬を横から打った。
魘の掌が閉じる、そのほんの僅か前。白い翼が視界を横切り、顔面へ張りついていた斑の身体が忽然と消える。
「――ッ!?」
魘の指が虚空を掴んだ。
その数メートル横では、大きく広げた翼を羽ばたかせながら、翳が斑を両腕で抱えて地面すれすれを滑るように飛んでいた。
「か、かげっち!?」
突然抱え上げられた斑が目を丸くする。
翳は魘から十分に距離を取ると速度を落とし、斑を地面へ下ろした。
「……もう、見てるだけは嫌なのお」
いつもの気怠そうな声音だった。
だが、その目は魘から逸れていない。
斑は一瞬だけ呆けたように翳を見つめたものの、すぐに牙を覗かせて笑った。
「……助かったッス」
月島はそんな二人を見ながら、今の動きを頭の中で反芻していた。
速い。
翳が正面から戦えるタイプではないことは知っている。
だが、魘の手が閉じる直前に斑を引き抜き、抱えたまま射程の外まで運び出した。
あれだけの速度があるのなら、使い道はある。
そう考えたところで、月島は改めて魘へ視線を戻した。
顔にはみぎわの高圧水流をまともに受けた痕が残り、斑に引き裂かれた頬からも新しい血が流れている。
効いていないわけではない。
みぎわの水流を受ければ仰け反る。斑の爪が入れば血も流す。緇が刻んだ傷だって明らかに身体の動きを鈍らせている。
効いている。
それでも、止まらない。
さっきまで自分たちが相手にしていた暴走個体二体も、十分すぎるほど化け物だった。
少なくとも、戦っている最中はそう思っていた。
だが今となっては、あの二体が可愛くすら見える。
月島の視線が、周囲を素早く巡った。
緇は戦えない。人の姿へ戻ったまま陽菜の傍で横たわり、身体を起こすことすら満足にできていない。
陽菜も今は緇の処置から離れられない。
翳は速いが、偵察向きの身体で魘と正面から殴り合えるような個体ではない。
粉雪も同じだ。鱗粉を使ったところで、あの拳が生み出す風圧に巻き散らされる可能性が高い。
まともに火力として数えられるのは、みぎわと斑。
だが、その二人の攻撃を受けても魘はまだ立っている。
─────戦うべきではない。
そこまで考えれば、結論は簡単だった。
緇を回収して、この場から退く。
倒す必要などない。危険な相手なら、距離を取ればいい。
月島はそう判断しかけ───不意に、別の音を思い出した。
山の向こうから近づいてきた、あの地鳴り。
一歩踏み込むたびに地面が揺れ、その振動が急速に大きくなっていった。
魘がこちらへ向かってきたときの音だ。
月島の視線が、その太い両脚へ落ちる。
右脚は確かに傷ついている。
だが、それでも先ほどまでは緇を相手に、あの巨体からは考えられない速度で踏み込んでいた。
今の緇を抱えた状態で、全員があれから逃げ切れるとは思えない。
仮に一度距離を離せたとしても、こいつがどこまで追ってくるのか分からない。
百メートルか。
一キロか。
それとも、こちらが止まるまで。
分からない以上、「逃げれば助かる」を前提にはできなかった。
月島は唇を僅かに噛んだ。
ならば。
追ってくるものを止める方法がないのなら、追えなくするしかない。
視線が魘へ戻る。
全身から血を流し、片腕を壊され、それでも立ち続ける巨体。
結論は一つしかなかった。
─────ここで、殺すしかない。
そう考えた瞬間、身体の奥が冷たくなる。
人間だったものを殺す。
その事実に何も感じなかったわけではない。
けれど今は、それ以前の問題だった。
────やれるのか。
月島は改めて戦力を数えた。
斑。
みぎわ。
翳。
粉雪。
自分。
そして、魘。
緇ですら、あそこまで傷つけて倒し切れなかった。
みぎわの高圧水流を顔面に受けても立ち、斑に顔を引き裂かれた直後には、その斑を掴み殺そうとした。
対して、自分自身には魘を直接傷つけられるような力すらない。
月島の中で、冷静な答えが返ってくる。
無理だ。
勝てる材料が足りない。
その判断だけは、どう考えても変わらなかった。
─────それでも。
右手に、小さな感触が触れた。
月島が視線を落とす。
いつの間に近づいてきたのか、みぎわが隣に立っていた。
小さな手が、月島の指を握っている。
「……みぎわ?」
呼びかけても、みぎわは何も言わなかった。
ただ、月島の手を握ったまま、正面にいる魘を見つめている。
怖くないはずがない。
あれだけ大きな身体で、あれだけの力を持った怪物が目の前にいる。
それでも、離れようとはしなかった。
月島はしばらくその横顔を見つめた。
無理だ。
今もその判断は変わらない。
勝てると思ったわけでもない。
都合よく何か突破口を思いついたわけでもなかった。
それでも、逃げることができないのなら。
ここで諦めれば、この小さな手を含めて全員が危険に晒されるのなら。
できるかどうかを考えている場合ではない。
月島は、握られていたみぎわの手をゆっくりと握り返した。
「……そうだな」
小さく呟いてから、もう一度魘を見る。
そして今度は、周囲へ視線を巡らせた。
みぎわ。
怒りを残したまま魘を睨んでいる斑。
その斑を救った翳。
不安そうにこちらと魘を交互に見ている粉雪。
一人ずつ、目に入れる。
自分にできることは少ない。
だが、彼女たちにはそれぞれ、自分にはないものがある。
なら。
使えるものを使うしかない。
月島は一度だけ息を吐き、声を上げた。
「みぎわ。斑。粉雪。翳」
名前を呼ばれ、四人の視線が一斉に集まる。
月島は魘から目を逸らさないまま、静かに言った。
「─────あいつをやるぞ」
僅かな沈黙のあと、最初に答えたのはみぎわだった。
月島の手を握ったまま、小さく頷く。
「……うん」
斑は牙を剥き、両拳を打ち合わせた。
「ぜってえぶちのめすッス!!」
粉雪は突然自分まで数えられたことに一瞬だけ目を見開いたが、すぐに両手を胸元で握り締める。
「は、はい……っ!」
最後に翳が翼をゆっくりと広げ、いつもの間延びした声で笑った。
「斑ちゃんの回収は任せてちょうだぁ〜い。好きに暴れていいわよぉ」
月島の左右へ、四人が並ぶ。
小さなみぎわ。
牙と爪を持つ斑。
淡い翅を揺らす粉雪。
大きな翼を広げる翳。
その先には、全身を血に染めながらもなお立ち続ける魘がいた。
誰一人として、単独であれに勝てるとは思えない。
月島自身など、まともに攻撃を受ければ一撃で終わる。
それでも、五人はもう退かなかった。
魘の低い唸り声が森の中へ響く。
月島はそれを正面から受けながら、静かに相手を見据えた。
逃げるという選択肢は、もうない。
─────ここで、コイツを止める。




