虚飾と、震える刻印
中層シティの巨大なゲートを潜り、緩衝地帯へと足を踏み入れた瞬間、少女たちはこの世界の真の「形」を突きつけられることになった。
「……は? もう一回言って。聞き間違いだよね」
白く清潔な換金所のカウンターで、シエルが呆然と声を漏らした。
少女が命がけで稼ぎ出し、ベヒモスを購入してなお手元に残った2,200万スラム円。スラムでは余裕で豪遊できるはずのその大金が、ホログラムの画面上で無残に目減りしていく。
「現在、スラム円からシティ・クレジットへの換金レートは『50対1』となっております。お客様の2,200万スラム円は、44万クレジットに変換されます。……よろしいですか?」
淡々と告げる受付嬢の言葉に、少女の視界が歪んだ。
2,200万が、たったの44万。
スラムで積み上げた死闘の価値が、ここでは50分の1にまで圧縮される。8,000万の車を買う財力があったはずなのに、シティの基準ではこの手持ちの額は「一般市民の1ヶ月分の生活費」程度でしかないのだ。
「……ふざけてる。あんなに頑張って残したのに、たったこれだけなの……っ?」
シエルが膝をつきそうになるのを、少女は無言で支えた。
怒りと悔しさで奥歯が軋む。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
「……いい。変えろ。それがこの場所のルールなら、ここで稼ぎ直すだけだ」
◇ ◇ ◇
換金を終えた二人は、さらに高難度の依頼を求めて『探索者ギルド・ノースゲート支部』へと向かった。
そこはスラムの酒場とは違い、旧世界の技術で維持された冷たく機能的な空間だった。最新の装備に身を包んだハンターたちが、場違いなスラム育ちの少女たちを蔑むような目で見ている。
「……登録には『個人名』が必要だよ。いつまでも『あんた』じゃ、依頼を受けられないし」
シエルが端末を操作しながら、少女に顔を向けた。
少女は、自分の中にずっと沈めていた思いを静かに引き上げる。
『マスター。脳内のナノマシン・データに、一つだけ適した単語が保存されています。……旧世界の言語で、春に咲く、散り際こそが美しいとされる花。……「サクラ」。いかがでしょうか』
「……サクラ」
少女はその響きを口の中で転がした。
誰かに与えられた名前じゃない。自分がシティという壁を越えるために、自らの意志で選ぶ名前。
「……決めた。サクラだ。私の名前は、サクラにする」
「サクラ……。うん、いい名前だよ! 誰よりも綺麗で、強いあんたにぴったりだ!」
シエルが嬉しそうに笑い、ギルドの受付へと進んだ。だが、そこで予期せぬ障害が立ちはだかる。
「本人確認のため、こちらのタブレットに署名をお願いします」
差し出されたのは、圧力感知式の古い電子タブレットだった。
サクラは、息を呑んだ。
教育など一度も受けたことのないスラムの孤児。彼女にとって『文字』とは、遺跡の看板に書かれた記号でしかなかった。MP7の分解図は理解できても、自分の名前をどう書くのか、その指は知らない。
サクラがペンを握ったまま動けずにいると、背後のハンターたちから、下卑た笑い声が上がった。
「おい見ろよ、あのお嬢ちゃん、字が書けないのか?」
「スラムの野良犬が、一丁前にギルド登録だとよ。指印でも押しとけよ、文盲が!」
嘲笑がホールに響き渡る。
シエルが慌てて割って入る。
「あ、あの! 代筆じゃダメですか!? 私が書きますから……っ」
「……いい。シエル、どいてろ」
サクラはシエルの手を、静かに、だが強く撥ね退けた。
ここで誰かに頼れば、私は一生、スラムの野良犬のままだ。
サクラは、震える指に力を込めてペンを握り直した。
セレナが網膜上に投影してくれる、サ・ク・ラ、という三つの文字の残像。それをなぞるように、一画ずつ、削り出すようにペンを走らせる。
震えが止まらない。冷や汗が手の平に滲む。
だが、彼女は一歩も引かなかった。
ガリッ、と画面を削るような音を立てて、歪で、力強い文字がそこに刻まれた。
『サクラ』
それは、彼女が人生で初めて、自分の力で勝ち取った「自分自身」の証明だった。
署名を終えたサクラは、ただ、無言で端末を受付に返す。
そして、真っ直ぐにホールの掲示板へと向かうと、無数に貼られた依頼書の中から、「誰もが死を予感して避けていた特級任務(Sランク)」のタグを、迷いなく剥ぎ取った。
「なっ……!?」
爆笑していた冒険者たちが、その異常な行動に一瞬で凍りつく。
サクラは、彼らを一瞥だにせず出口へ向かう。その歩調は乱れず、迷いもない。
外に停められた、漆黒の旧世界製SUV『ベヒモス』。
サクラが近づくと、自動運転のAIが彼女の生体認証を感知し、無音で重厚なドアを開く。
サクラは乗り込む直前、一度だけ足を止めた。
振り返りはしない。だが、その背中からは、スラムで地獄を見てきた者だけが纏う「死の気配」と、最新鋭の兵器を飼いならす「本物の強者の風格」が容赦なく溢れ出していた。
「……文字が書けなくても、こいつは殺せる。……それだけで十分だろ」
彼女がしなやかな身のこなしで乗り込むと、SUVは新世界製のボロ車が立てる「爆音」とは対極の、耳に心地よい「静寂」を連れて走り去っていく。
残されたのは、自分たちが笑った少女が、自分たちの手の届かない「異次元」にいることを悟った、シティ住人たちの静まり返った顔だけだった。




