純水と、あたたかい食卓
朝。目を覚ますと、そこは静寂に包まれていた。
風が吹き込む音も、遠くで響くゴロツキの怒声や機械獣の駆動音も聞こえない。分厚い防爆ドアとコンクリートの壁に守られたこの『家』には、絶対的な安心感があった。
少女は、床に敷いたボロ布ではなく、奮発して買ったスプリング入りのベッドからゆっくりと身を起こした。
ナノマシンのおかげもあるが、ここ数日、純水のお風呂に浸かってからというもの、目覚めが信じられないほど軽い。
「……ん?」
ふと、鼻腔をくすぐる匂いに気づいた。
スラム特有の錆と油の臭いじゃない。もっと香ばしくて、甘くて、胃袋を直接鷲掴みにするような……。
少女がベッドから抜け出し、居住区画として整えたリビングスペースへ向かうと、簡易キッチンでシエルがエプロン姿で鼻歌を歌っていた。
「あ、おはよう! ちょうどできたところだよ!」
テーブルの上に並べられていたのは、いつものドロドロした犬の餌ではなかった。
こんがりと焼かれた分厚いパン。そして、木製のボウルには、透き通った黄金色のスープが湯気を立てている。中には、ゴロゴロとした野菜と、本物の『肉』が入っていた。
「……これ、どうしたんだ」
「ふふん! お金には余裕があるからね、中層と取引してる密輸商人から、本物の『鶏肉』と『根菜』を少しだけ買っちゃった! なかなかのお値段だったけど、たまにはお祝いしないとね!」
シエルは得意げに胸を張り、少女の前に木のスプーンを置いた。
「さあ、冷めないうちに食べて!」
少女は促されるまま席につき、スプーンで黄金色のスープをすくった。
口に運んだ瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。
「……っ!?」
美味しい。
そんな単純な言葉では足りない。肉の強い旨味と、野菜の優しい甘みが、一切の雑味なく舌の上に広がっていく。スラムでたまに口にしていたスープは、必ずどこか金属臭かったり、舌を刺すような酸味(酸性雨の成分)が混じっていた。
だが、このスープは違う。透き通るようにクリアで、それでいて味が信じられないほど深いのだ。
「……シエル、なんだこれ。めちゃくちゃ……美味い。どうやって作ったんだ?」
目を丸くする少女に、シエルは嬉しそうに笑った。
「味付けは少しの塩だけだよ。凄いのは『水』なの。あの浄化コアが作った純水で煮込むとね、不純物がゼロだから、素材の旨味成分がこれでもかってくらい水の中に溶け出すんだよ! お風呂だけじゃなくて、料理にこそ真価を発揮する魔法の水なんだから!」
『……シエルの発言を裏付けます。重金属や汚染物質が完全に除去された水は浸透圧が高く、食材の細胞壁から栄養素を効率的に抽出します。マスターの現在の栄養吸収率は、従来のペースト食に比べて約300パーセント上昇しています』
脳内でセレナが数値を弾き出すが、少女は「今は黙ってろ」とばかりにデバイスの通知をオフにした。
今は、ただこの温かくて優しい味だけを感じていたかった。
少女は夢中でスープを飲み、焼きたてのパンを浸しては口に運んだ。
今まで、食事とはただ「死なないために腹に詰め込むだけの作業」だった。だが今は違う。美味しいと感じること、それを誰かと共有することが、こんなにも心を満たすものだなんて知らなかった。
「……あー、食った」
ボウルを空にして大きく息を吐き出す少女の前に、今度はマグカップが置かれた。
中には、真っ黒な液体。だが、これもまた信じられないほど良い香りがする。
「食後のコーヒーだよ。もちろん、これも純水で淹れた特製!」
一口飲むと、心地よい苦味と深いコクが口いっぱいに広がり、鼻へ抜けていった。泥水のようなコーヒーしか知らなかった少女にとって、それはまさしく旧世界の貴族が嗜んでいた『本物の嗜好品』の味だった。
「……シエル」
「ん?」
「お前が相棒でよかった」
少女の素直すぎる言葉に、コーヒーを飲んでいたシエルが「ぶふっ!?」と吹き出しそうになり、顔を真っ赤にして咳き込んだ。
「ゲホッ、ゴホッ! ちょ、急になに!? あんた、そんなキャラじゃないでしょ!」
「本当のことを言っただけだ。……この水も、この家も、お前がいなかったらただのガラクタと空き箱だった」
少女はマグカップを両手で包み込みながら、少しだけ頬を緩めた。
外の世界は相変わらず地獄のようなディストピアだ。バルトロのようなゴロツキが跋扈し、酸性雨が降り注いでいる。
けれど、この鉄の要塞の中だけは違う。
温かいお風呂があり、美味しいご飯があり、背中を預けられる相棒がいる。
「……最高だな、普通って」
少女の呟きは、コーヒーの芳醇な香りとともに、静かな部屋の空気に優しく溶けていった。
この平穏な時間が、嵐の前の静けさであることも知らずに。




