神のいない掃き溜め
空は、いつだって病的な鉛色をしていて、時折むせ返るような錆の匂いを吐き出していた。
上層から排気と汚泥を煮詰めて降り注ぐ雨。スラムの住人たちが皮肉と諦めを込めて「神のヨダレ」と呼ぶその雨は、バラックのトタン屋根を腐らせ、剥き出しの鉄骨を赤茶色に染め上げ、浴び続ける者の肺を確実に腐らせていく。文字通りの毒雨だった。
「あ……あそこに、あたたかい、パンが……」
少女は泥濘の中に膝をつき、震える指を伸ばした。
視界が激しく揺れ、極彩色のノイズが走っている。目の前にあるのは、ヘドロに塗れた赤錆びた巨大なボルトだ。しかし、限界を超えた飢餓状態にある彼女の脳は、それを黄金色に焼き上がったふかふかのパンだと誤認していた。
わかっていても、指が動く。泥水をすくい、無理やり口に運ぶ。
――苦い。
舌に広がるのは、金属の味と強烈な下水の腐敗臭。胃袋が痙攣し、胃液すらない空っぽの内臓が悲鳴を上げる。現実は、この冷たい泥の中にあるボルトを飲み込むことすら許してはくれない。
「おい、見ろよ。……あそこのゴミ、女だぜ」
ふと、路地の暗がりから下卑た笑い声が鼓膜を打った。
濁った目をした二人組の男が、泥を啜る少女を値踏みするように見下ろしている。
スラムにおいて、身寄りのない女の末路は決まっている。売られるか、慰み者にされて道端に捨てられるかだ。男の一人がニヤつきながら近づき、泥で固まった少女の髪を乱暴に掴んで顔を上げさせた。
「……ケッ。なんだよ、これ」
しかし、男はすぐに吐き気を催したように手を離し、少女の痩せこけた体をブーツの先で蹴り飛ばした。
少女は抵抗する力もなく、泥水の中を無様に転がる。
男たちが見たのは、女という性の欠片すら残っていない、悲惨な残骸だった。ガリガリに痩せこけて頬はこけ、浮き出た肋骨がボロ布越しにもわかるほど痛々しい。肌は泥と垢でどす黒く汚れ、生気のない瞳は落ち窪んでいる。
「ただの動く骨じゃねーか。抱くどころか、触るのも御免だ。病気が移るぜ、行こう」
「チッ、損した気分だ。死ぬなら道の真ん中で死ぬなよ、邪魔くせえ」
男たちは、彼女を「女」としてさえ認識しなかった。
スラムにおいて、彼女は性別すら奪われた最下層の家畜以下の存在――ただの、邪魔な動くゴミだった。
口の中に鉄の味が広がる。蹴られた腹が軋むように痛むが、もはや涙すら出ない。
悔しいとも、悲しいとも思わなかった。ただ、このまま泥に沈んで意識が溶けてしまえばどんなに楽だろうかと、それだけを考えた。
けれど、冷たい毒雨が彼女の体温を奪うたび、脳の奥底で『まだ死にたくない』という剥き出しの生存本能が、小さな火花のように散った。
なぜ立ち上がったのか、自分でもわからない。
ただ、ここにいれば明日を待たずに腐って泥と同化するだけだという確信があった。
少女は、スラムの住人ですら「呪われている」と近寄らない禁忌の領域――旧世界の残骸が山を成す『遺跡』の方角へと、導かれるように足を引きずり始めた。
遺跡の入り口は、崩落したビルが複雑に折り重なる巨大な獣の口のように見えた。
雨を避けるようにその奥へ潜り込む。一歩進むごとに、外の狂ったような喧騒と雨音が遠のき、耳が痛くなるほどの静寂が支配していく。
足元に転がっているのは、用途不明の錆びた機械の残骸や、千切れた光ファイバーケーブルの束。
どれくらい歩いたのか。視界がいよいよ暗転しかけたその時、少女は暗闇の中に奇妙な「気配」を感じた。
それは目に見える光ではなく、脳の奥を直接叩くような、微かな電子音の共鳴だった。
「……あっち……?」
無意識に手を伸ばし、瓦礫の壁の一部と同化していた金属の扉に触れる。
その瞬間、空間に青白い光が走り、無機質な合成音声が脳内に直接響き渡った。
『生体反応を確認。対象の適合率を算出……条件クリア。プロトコル・オメガを起動します』
重厚な扉が、数世紀の眠りを覚ますように静かにスライドする。
そこに広がっていたのは、スラムの汚濁とは無縁の、埃ひとつない白一色の隠し部屋だった。
部屋の中央、かすかに発光する台座の上に置かれていたのは、黒い金属製のブレスレットのようなデバイス。少女が吸い寄せられるようにそれに手を伸ばすと、デバイスはまるで生き物のように彼女の手首に巻き付いた。
「あ……が、ぁっ!?」
熱い。
皮膚を焼き、肉を貫き、骨髄に直接電極を打ち込まれたような激痛が腕を伝わり、一気に脳髄まで駆け上がる。
視界が真っ白に染まり、数兆バイトという膨大なデータが、彼女の貧弱な神経細胞を強制的に拡張し、無理やり書き込まれていく。
声にならない悲鳴を上げながら、少女は冷たい床に崩れ落ちた。
『――神経接続完了』
『――ハードウェア・チェック……オールグリーン。生体認証を固定しました』
視界の端に、見たこともない複雑なウィンドウと、緑色の数値が次々と浮かび上がる。
そして、目の前の空間に光の粒子が集束し、一人の女性のホログラムが形成された。
軍服を思わせる冷徹で機能的な装いに、透き通った瞳。人間離れした美しさを持つそのAIは、床に倒れ伏す少女を見下ろして静かに口を開いた。
『初めまして。Strategic Executive Linkage and Enforcement Neural Agent……起動完了しました』
『――いえ、今のあなたには長すぎますね。**SELENA**とお呼びください。私は、あなたが望む未来を叶えるためのサポート・システムです』
少女は、荒い息をつきながら、震える手で床を突いて上体を起こした。
網膜に映し出される『所持金:0』の文字。そして『空腹度:98%。生命活動に重大な支障あり』という冷酷な警告。
「……のぞむ、こと……?」
ひび割れた唇から、掠れた声が漏れる。
『はい。富、名声、あるいは世界への復讐……。このシステムをインストールした以上、私はマスターの意志を最優先します。あなたは、何をお望みですか?』
少女は、泥と血に塗れた自分の手を見つめた。
飢えないこと。寒さに震えないこと。
誰かに蔑まれ、ゴミのように蹴り飛ばされないこと。
彼女が求めたのは、この地獄のような世界で、最も贅沢で、最も遠いものだった。
「……普通になりたい」
死に損ないの少女の瞳に、かすかな、けれど決して消えない炎が宿る。
「暖かいお風呂に入って、まともな飯を食って……誰も私のことをゴミって呼ばない……ただの、普通の人間になりたい」
一瞬、セレナの透き通った瞳が、微かに揺れたように見えた。
それはただのプログラムの演算だったのか、それとも別の何かだったのか。
セレナは優雅に一礼し、冷徹な声の中に、確かな熱を帯びて宣言した。
『……了解しました、マスター。「普通」という名の最高難易度の目標、受理いたしました。あなたが望むのであれば、私はあらゆる手段を用いてサポートします』
ホログラムのセレナが、泥だらけの少女の頬にそっと手を伸ばす。物理的な感触はないはずなのに、不思議と温かかった。
『私をインストールした以上、あなたが「普通」以下のゴミとして死ぬことは、私が断じて許しません』
視界の端で、『生存戦略プロトコル:フェーズ1』の文字が力強く点灯する。
泥水をすすっていた名もなき少女の物語は、ここから圧倒的な加速を始める。




