課長と部下とその後輩(後編)
「課長」
廊下の先のラウンジで、コーヒーを見つめる課長を見つけた。顔を上げて課長が俺を見る。「ああ、君ですか」とかすれたような声で言う課長は、やっぱりどう考えてもおかしかった。
「なんか、最近元気ないですよね?どうしたんですか?」
その言葉に、課長は少し驚いたような表情をした。しかしすぐ、曖昧に笑う。
「大丈夫ですよ。先ほど、違う方からも言われました……そんなに僕疲れてるように見えますか」
「見えます」
違う方……アイツか、と思う。彼女は泣いていた。課長は何を言ったのだろう。
「課長。悩みあるなら、話してください。聞くぐらいしか出来ないけど、楽になるかもしれないですよ」
「……」
少しの間黙って、そしてそのあと課長は柔らかく笑った。見たことのない笑みだった。こんな表情も出来るのか、と驚いたとき、俺はあることに気づいた。俺は、この人の何も知らないのだ。どんな人なのか、どんな考え方で、何が好きで、何が嫌いなのかも全部。
「職場のひとにそんなことを言われたのは初めてですよ」
俺が今までのことを思い返していると、課長はそんなふうに言った。遠い目をしていたが、悲しそうな目ではなかった。
「僕の性格なんでしょうね。あまり人と仲良くなることは得意ではありませんでした。それに、あまり仲良くなろうと近づいてきてくれる人も多くはなかった」
それは、俺が先ほど気づいた事実を指摘されているようで心苦しくなった。この人と仲良くなりたいだなんて思ったことは一度もなかった。
課長はそれを見抜いているのかいないのか、俺を見つめて少しだけ笑う。
「それを苦痛だとは思っていなかった。僕には幼馴染がいるんですが、その子はまだほんの小さなときから、僕と一緒にいてくれて、話をしたり、出かけたり、食事をしたりしてきました。僕のことを知ろうと質問をしてきてくれたりもしました」
「はい」
「その子とすごす時間は穏やかで、僕にとってかけがえのないものだったんです」
「はい」
俺は、知った。課長の気持ちを。だから、言った。
「その子のこと、好きなんですね」
「愛しているんです」
柔らかく、大切なものを慈しむように、ほころばせた表情。
そして、次の瞬間には苦笑いをする。
「なのにね、失敗してしまいました。元気がなかったのはそのせいだと思います」
「喧嘩でもしたんですか?」
「そんなところです」
弱気な課長は、らしくないと思った。俺がこの人の何を知っているかと問われれば、何も知らないのだけれど。けれど、こんな課長は課長じゃないんじゃないかと思ったのだ。
「課長」
「はい」
「伝えたいことは、伝えるべきです」
俺を見て、課長は黙る。俺は一体何を言ってるんだ。この人は上司だし、人間的にも俺より数倍できている人間だ。でも、俺はこうとしかいえなかった。
「後悔しないでください。課長の気持ち、素直にその子に伝えてあげてください」
「そうですね」
ふ、と課長はまた柔らかく笑って、ありがとう、と言った。そして、今度はどこかからかうように瞳をきらめかせる。
「でも、僕も君にまったく同じ言葉をお返ししますよ。君も、素直になった方がいい。自分の気持ちを後悔しないうちに伝えなさい」
「な、」
いたずらっこみたいな表情。
俺は、この人と仲良くなりたい、とそのときに思った。
「よ」
「……先輩」
屋上にいた彼女に、後ろから声をかける。彼女はすでに泣き止んでいたが、鼻と目が赤かった。ぐすり、とすすり上げるその様子に、俺は笑う。
「ひどい顔」
「うるさいですよ」
「課長に振られました」
「知ってる」
「え、なんで!?」
屋上で、背中合わせにベンチに腰掛ける。ややあってぼそりと言った後輩の言葉に即座に返事すると、彼女は驚いたようにこちらを振り向いた。なんで、って。そんなもん、お前の様子見れば誰でもわかる。いつも、お前のこと見てたんだから、当然のように。
でも俺は何も言わなかった。
「課長、好きな人いるんですって」
「ふーん」
全部、知っているけど。俺は何も言わなかった。
「あーすっきりした!」
彼女は、まだ赤い顔をぐし、とこすって、晴れ晴れとした顔で叫んだ。その顔は本当にすっきりしたような顔だった。小柄な彼女が精一杯伸びをする。
愛しい、と思った。
ほほえましいとか、そういうのじゃなくて。胸の痛みも、もう無視するのはやめた。
認める。認めます課長。俺、コイツのこと、好きだ。
だから、ちゃんと言います。後悔しないように。
次の金曜日は、課長は何かを決心したかのように俺に対して笑いかけてくれた。
そしてその次の月曜日、課長は本当に嬉しそうな顔をしていた。
課長の左手薬指に銀色の指輪が光ることになるのは、まだもう少し先のことなのだけれど。
「課長と部下とその後輩」おわり
番外編終了です。
いずれ、本編および番外編の後日談を投稿しようと思います。
読んでいただきありがとうございました。