「お父さん」って、誰のことだ?
「……お父さん?」
その言葉を聞いた瞬間。
恭平の頭の中が真っ白になった。
「……え?」
少女は、恭平を見つめている。
青い瞳。
その目には、戸惑いと不安が入り混じっていた。
「いや……ちょっと待って」
恭平は自分を指差す。
「俺?」
少女は小さく頷いた。
「……お父さん」
「いやいやいや」
思わず手を振る。
「俺、君のお父さんちゃうで?」
少女は首を傾げた。
「……?」
「そもそも俺、ついさっきこの世界に来たばっかりやし……」
そこまで言って、恭平は口を閉じた。
――この世界に来た。
自分でもまだ信じられない。
事故に遭って。
死んで。
神様みたいな女性に会って。
そして、異世界に転生した。
その直後に出会った少女が、自分を父親と呼んでいる。
「……情報量、多すぎるやろ」
恭平は頭を抱えた。
少女はそんな恭平をじっと見ている。
そして、恐る恐る手を伸ばした。
「……お父さん?」
「だから俺は――」
言いかけて、止まった。
少女の手が震えていた。
その顔は、泣きそうだった。
「……怖いのか?」
少女は答えない。
ただ、恭平の服をぎゅっと掴んだ。
「……」
その小さな手を見て、恭平はため息をついた。
「……分かった」
恭平はしゃがみ込む。
少女と目線を合わせる。
「とりあえず、落ち着こう」
少女が恭平を見る。
「俺の名前は、神谷恭平」
「……きょう、へい……?」
「そう。恭平」
少女は小さく頷いた。
「じゃあ、君は?」
「…………」
少女の顔が曇った。
「……分からない」
「名前?」
頷く。
「家は?」
首を横に振る。
「家族は?」
少女は黙った。
そして――
「……お父さん」
「……」
またそれか。
恭平は頭を掻いた。
「いや、それは……」
言葉に詰まる。
少女の目から、涙が一粒落ちた。
「……お父さん、いなくなっちゃったの」
「……え?」
少女は俯いた。
「ずっと……探してた」
「……」
その言葉を聞いた瞬間。
恭平の胸に、何かが引っかかった。
頭の中に、二人の娘の顔が浮かぶ。
京子。
茜。
最後に会ったとき。
「パパ、また来てね」
そう言われた。
自分は、
「もちろん。また来るよ」
と答えた。
――でも。
もう会えない。
その事実を、今さらながら思い知らされた。
「……そっか」
恭平は少女の頭に手を置いた。
「……大丈夫や」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
「とりあえず、俺と来い」
少女が顔を上げる。
「……いいの?」
「ああ」
「……お父さん?」
「……それはまだ違う」
恭平は苦笑した。
「俺は君のお父さんじゃない」
少女の表情が少し曇る。
「でも――」
恭平は立ち上がった。
「一人にはせえへん」
少女はしばらく恭平を見つめていた。
そして、小さく頷いた。
「……うん」
⸻
森の中を歩く。
少女はまだ身体が弱い。
何度もふらつく。
「大丈夫か?」
「……うん」
「無理すんなよ」
恭平は少女の手を引いた。
しばらく歩いたところで、恭平が口を開く。
「なあ」
「……?」
「本当に何も覚えてないのか?」
「……うん」
「じゃあ、俺のことをお父さんって呼ぶ理由も?」
少女は少し考える。
「……分からない」
「そっか」
恭平は前を向いた。
そのときだった。
ふと、視界に文字が浮かんだ。
【固有スキル:《価値視認》】
【対象:???】
【価値:★★★★★】
【重要度:測定不能】
【魂の親和性:99.8%】
【対象情報――ERROR】
「……」
恭平は足を止めた。
「……やっぱりこれ、バグってるやろ」
「……?」
少女が振り返る。
「いや、なんでもない」
恭平はもう一度少女を見る。
何度見ても同じ。
名前も。
年齢も。
種族も。
何も表示されない。
分かるのは――
異常なほど高い「価値」と、
意味の分からない「魂の親和性」。
「……魂ってなんやねん」
小さく呟く。
そのときだった。
――ガサッ。
茂みが揺れた。
「……?」
恭平が立ち止まる。
少女の手を握る。
「……動くな」
「……何?」
「分からん」
恭平は周囲を見渡した。
また、音。
――ガサッ。
今度は近い。
そして――
「グルルル……」
低い唸り声。
木々の隙間から、何かが姿を現した。
灰色の毛。
鋭い牙。
大きな身体。
狼。
ただし――
普通の狼ではない。
恭平の視界に文字が浮かぶ。
【対象:グレイウルフ】
【危険度:★★★☆☆】
【価値:★☆☆☆☆】
【弱点:右後脚】
「……」
恭平は目を見開いた。
「見える……」
「……?」
「弱点が見える」
グレイウルフが牙を剥く。
一歩。
また一歩。
近づいてくる。
恭平は、無意識に後ずさった。
「……でか……」
テレビで見る狼とは違う。
明らかに大きい。
牙も、爪も、普通じゃない。
そして何より――
こっちを見ている。
獲物を見る目で。
「……無理やろ、こんなん」
足が震える。
逃げたい。
いや。
逃げるべきだ。
恭平は、そう思った。
自分は強くない。
剣なんて握ったこともない。
魔物と戦ったことなんて、あるわけがない。
「……どうする……」
恭平が一歩下がる。
そのとき――
背後から、少女の声がした。
「……お父さん」
恭平が振り返る。
少女が、怯えた顔でこちらを見ている。
その姿が――
一瞬だけ。
昔の娘たちと重なった。
⸻
あれは、まだ家族だった頃。
三人で旅行に行ったときのことだった。
山の中を歩いていた。
ちょっとしたハイキングのつもりだった。
「こっちやろ」
恭平が先頭を歩いていた。
しかし――
気づけば、道がなくなっていた。
「……あれ?」
スマートフォンを取り出す。
圏外。
地図も、うまく表示されない。
日が少しずつ傾いていく。
「パパ……?」
京子が不安そうに聞いた。
「……大丈夫や」
恭平は笑った。
「すぐ戻れるから」
本当は――
怖かった。
このまま道が見つからなかったら。
暗くなったら。
もし何かあったら。
そんな考えが、頭の中をぐるぐる回っていた。
それでも。
子どもたちの前で、不安な顔はできなかった。
「パパ、迷ったん?」
茜が聞く。
「……ちょっとだけな」
笑ってみせる。
「でも大丈夫や」
恭平は二人の手を握った。
「パパがおるから」
その言葉を口にした瞬間。
自分でも不思議なくらい、少しだけ落ち着いた。
結局、その後しばらくして登山道に戻ることができた。
大したことではなかった。
でも――
あのときの恐怖だけは、今でも覚えている。
⸻
「……」
恭平は、目の前のグレイウルフを見る。
身体が震えている。
心臓がうるさい。
怖い。
今すぐ逃げたい。
それでも。
背後には、あの少女がいる。
「……そうや」
恭平は小さく呟いた。
あのときと同じだ。
自分だって怖い。
でも――
子どもの前で、不安な顔はできない。
恭平は足元に落ちていた太い枝を拾った。
「……大丈夫や」
誰に言っているのか、自分でも分からない。
少女に言っているのか。
自分自身に言い聞かせているのか。
「俺がおるから」
グレイウルフが唸る。
「……怖いに決まってるやろ」
恭平の手は震えていた。
「でも――」
一歩、前に出る。
「この子の前で、逃げるわけにはいかん」
グレイウルフが地面を蹴った。
「来る!」
巨体が飛びかかってくる。
「うおっ!」
恭平は少女を突き飛ばすように横へ逃がした。
自分も転がる。
「痛っ!」
地面に背中を打ちつける。
グレイウルフが振り返る。
再び、恭平へ向かってくる。
「くそっ!」
恭平は枝を握り直した。
――右後脚。
視界に浮かぶ文字。
グレイウルフが迫る。
「……そこや!」
恭平はギリギリまで引きつける。
そして――
「うおおおおっ!」
枝を振り抜いた。
――ガッ!
「ギャウッ!」
右後脚に直撃した。
グレイウルフの身体が大きく傾く。
「今や!」
恭平は夢中で飛びかかった。
枝を両手で握る。
何度も叩く。
「うおおおおっ!」
怖い。
怖い。
怖い。
それでも――
「この子だけは!」
グレイウルフが暴れる。
牙が腕をかすめる。
「痛っ!」
血が流れる。
それでも、離さない。
最後の一撃。
――ドンッ!
グレイウルフが地面に倒れた。
「……はぁ……」
恭平は、その場に座り込んだ。
肩で息をする。
手が震えている。
「……怖かった……」
思わず笑ってしまう。
「めちゃくちゃ怖いやんけ……」
少女がゆっくり近づいてくる。
「……大丈夫?」
「ああ……」
恭平は笑った。
「たぶん」
少女は恭平の腕を見る。
「血……」
「これくらい大丈夫や」
そう言った瞬間。
少女が恭平の腕を両手で包んだ。
淡い光が生まれる。
「……え?」
光が傷口を包み込む。
痛みが引いていく。
傷が、ゆっくり塞がっていく。
「……治癒魔法?」
少女自身も驚いた顔をしていた。
「……分からない」
「分からんのかい」
恭平は思わず笑った。
少女も少しだけ笑った。
その笑顔を見て――
恭平の胸が、少しだけ温かくなった。
「……なあ」
「……?」
「名前が分からんのやったら、とりあえず名前が必要やな」
少女は首を傾げる。
「名前……」
「ああ」
恭平は少し考えた。
少女の顔を見る。
銀色の髪。
青い瞳。
そして――
頭の中に浮かんだのは、二人の娘の名前だった。
京子。
茜。
恭平は小さく息を吐いた。
「……アキ」
少女が目を瞬かせる。
「アキ?」
「ああ」
「……アキ」
少女は、自分の名前を確かめるように呟いた。
そして、恭平を見る。
「……どうして、その名前?」
「……なんとなくや」
恭平は笑った。
「今は、それでええやろ」
少女――アキは、小さく頷いた。
「……うん」
そして――
「ありがとう、お父さん」
「……」
またそれか。
恭平は苦笑した。
「……まあ、今はそれでええわ」
アキが笑う。
その笑顔を見ながら、恭平は思った。
――不思議な子だ。
何者なのか。
なぜ自分を父親と呼ぶのか。
なぜ《価値視認》で、何も見ることができないのか。
分からないことだらけだ。
それでも――
「……一人にはせえへん」
その言葉だけは、もう一度心の中で繰り返した。
そのとき。
恭平の視界に、一瞬だけ文字が浮かんだ。
【対象:アキ】
【情報解析を開始――】
【魂の記憶に接続――】
【警告】
【この対象は――】
文字が乱れる。
【解析不能】
そして最後に――
【あなたとの再会は、偶然ではありません】
「……え?」
恭平が目を凝らす。
しかし、文字はもう消えていた。
「……なんや、今の」
隣では、アキが何も知らずに空を見上げている。
その横顔を見ながら――
恭平はまだ知らなかった。
この少女との出会いが、
自分の「二度目の人生」そのものを変えていくことを。
そして――
この世界には、
「異世界から来た者」にまつわる、忘れられた伝説があることを。




