20話 それぞれの結末
アンジェリカは、修道院へ護送する馬車の中にいた。
粗末な木の座席は硬く、車輪が石畳を越えるたび、身体が小さく揺れる。かつて王宮の舞踏会に向かうときに乗っていた、豪奢な馬車とは比べものにもならない。
薄い窓から差し込む光の中で、アンジェリカは両手を固く握りしめていた。
「こんな……こんなはずじゃなかったのに……。私は……完璧だったのに……!」
震える声が、誰に聞かれるでもなく零れる。すべては、計画通りだった。
リリアーヌさえいなくなれば、自分には怖いものなど何もないはずだった。実際にそうなった。断罪の日から、王太子の隣に立つのはアンジェリカだった。
「……どうして」
ぎり、と歯が鳴る。
「どうして、私がこんな目に……」
リリアーヌの妹――ロザリー。そして、隣国の皇子ルーカス。
あの二人さえ邪魔しなければ、完璧なままだった筈だ。
どうして、もっと上手くやれなかったのか。
もう少し証拠を隠していれば。もっと慎重に、痕跡を消していれば――あの二人に、暴かれることなどなかったのに。
「……全部、あの子のせいよ。今までみたいに、大人しく、地味にしていればよかったのに……身の程も知らないで……!」
相変わらず反省の色はない、アンジェリカ。胸の内に渦巻くのは後悔と、ロザリーたちへの消えぬ悪意ばかりだった。
「……ああ、忌々しいわ」
低く、吐き捨てるように呟く。
突然、馬車が大きく揺れた。御者の荒い声が外から聞こえる。次の瞬間、怒号が響いた。
金属がぶつかる鋭い音。馬が嘶き、馬車が急停止する。
「な、なに……?」
アンジェリカの声が震えた。扉の向こうで剣戟の音が響き、悲鳴が混じる。
(――野盗だわ!)
そう理解したときには、もう遅かった。
扉が乱暴に開かれる。見知らぬ男たちの影が、馬車の中へと雪崩れ込んだ。
「いたぞ! この女で間違いないか!」
「ああ、間違いない。やっちまいな」
荒い声、濁った笑い。
アンジェリカの背筋に、冷たいものが走る。
「ま、待って……!」
かつて何人もの人間を追い詰めたその唇が、今は必死に命乞いを紡ぐ。
だが、その声を聞く者は、もう誰もいなかった。
「嫌、止めて! まだ、死にたくない……っ!」
そして、修道院へ護送されていた罪人アンジェリカは、野盗に襲われ、命を落としたと報告された。
もっとも、実際のところは、隣国の王族に恨まれた人物を生かしておけば、いずれ家に災いを招く。そう判断したアンジェリカの実家が、密かに暗殺させたのではないか、という噂もある。さらに、それを唆すような示唆をルーカスが与えたのではないか、という話まで囁かれたが――真実は、定かではない。
ただ一つ確かなのは、その死に哀悼の声をあげる者は、ほとんどいなかったということだけだった。
***
男爵令嬢のサラは、ルーカスとの約束通り、修道院送りも貴族籍の剝奪も、どうにか免れることができた。
だが、結ばれていた婚約は破談となる。
夜会の招待状は届かなくなり、社交界の輪にも、もはや戻れそうにはなかった。
「ただの出来心でしでかしたことにしては……重すぎる罪だわ。本当に……どうして、あんなことをしてしまったのかしら……」
表向きは、何も変わっていないように見えても――サラの居場所は、もうどこにもなかった。
二度と、まともな婚約は望めないだろう。
***
リリアーヌの侍女だったジュリア。
彼女は今、処刑台の上に立っていた。
高く組まれた木組みの足場。見上げれば、曇天が重く垂れ込めている。
湿った風が頬を撫で、遠くでざわめく群衆の気配が、どこか現実味のない音として耳に届いた。
足元は、やけに不安定だった。
それでも、逃げ場など最初からどこにもない。
(怖い――私、死にたくない……。)
そう思った瞬間、不意に胸の奥へ浮かび上がってきたのは、かつての主人の姿だった。
リリアーヌ・ホワイト。
気高く、穏やかで、それでいて――驚くほど優しい人だった。
ジュリアが家族のために働いているのだと知ったとき、彼女は少しだけ目を細めて、こう言ったのだ。
「なら、私の専属侍女になりなさい。そしたらお給料も上がるわ」
平民でしかない自分を、専属侍女として取り立てるなど、本来ならあり得ない。
周囲の視線が厳しくなることなど、分かりきっていたはずなのに、それでも彼女は、迷わなかった。
不器用な手つきで淹れた茶を、咎めることもなく受け取ってくれた。慣れない礼法に戸惑えば、根気よく、何度でも教えてくれた。失敗を重ねても、一度だって声を荒げることはなかった。
「大丈夫。はじめは上手くいかないもの、練習すればいいのよ」
その言葉に、どれだけ救われただろう。
……なのに。
「……っ」
喉の奥が、ひりつく。
(リリアーヌ様は、平民の私にあんなに親切にしてくれたのに……私は裏切った……)
病気の弟の為だから仕方ない。そう言い訳して、あの人の信頼を踏みにじった。
その結果。リリアーヌは、自ら、その命を絶った。
最後にどんな顔をしていたのか。
どんな思いで、高所から飛び降りたのか。
(きっと、怖かっただろうな……。今の私みたいに)
処刑台の上で、ジュリアは静かに目を閉じる。
病気の弟は、ルーカスの保護下で治療を受けられるという。残された家族のことも、面倒を見ると告げられていた。
裏切った身であるというのに、配慮してくれている事実に、感謝しなければならないのだろう。
瞼の裏に、最後に浮かぶのはただひとつ。
あの日と同じ、リリアーヌのやわらかな微笑みだった。
そして――
落とされた刃が、ジュリアの意識を刈り取った。
***
王太子の位を剥奪されたアレクシス元殿下は、同時に王位継承権も失った。
王族としての地位も、権威も、かつて当然のように手にしていたすべてが取り上げられていった。
王宮の華やかな夜会に顔を出すことも、気に入った令嬢を気まぐれに呼び寄せることも、もう許されない。
かつて彼の周囲には、その身分と権力を慕って多くの女たちが集まっていた。
だが、それらはすべて、王太子という肩書きがあったからこそのものだった。
その名を失った今、彼のもとに残った者はほとんどいない。
好き放題に楽しんできた女遊びも、もはや出来るものではなくなっていた。
***
アレクシス元殿下の専属護衛だったカヴェインもまた、あの一件のあと、騎士団を離れた。
本来であれば、彼の将来は約束されたようなものだった。
剣の腕は騎士団の中でも群を抜き、若くして王太子の専属護衛を任されるほど。いずれは近衛騎士団の中枢を担うだろうと、多くの者が期待していた。
だが――カヴェインは、そのすべてを自ら手放した。
騎士団を辞し、家に戻ると、継ぐはずだった爵位も放棄した。
代わりに家督を継いだのは、弟だった。
周囲は驚いたが、彼は理由を多く語らなかった。
ただ、王都を離れ、領地の片隅にある古い屋敷で暮らすようになった。今では、領の見回りをし、畑を手伝い、村人と言葉を交わす。そんな静かな日々を送っている。
それは、華やかな栄光とはほど遠い生活だった。だがカヴェインは、その暮らしを受け入れていた。
主君を止めることもできず、……敬愛していた、否。愛している女性を守れなかったのだから。
***
そしてロザリーは、ルーカスとともに隣国へ渡った。慣れ親しんだ王都を離れ、新しい国へと移り住んだ。
周囲には、身内を亡くしたロザリーをルーカスが慰め、支えているうちに惹かれ合ったのだと話した。さらに、ふたりが手を取り合い、無実であったリリアーヌの汚名を晴らした一件は、美談としてルーカスの祖国に伝わっていた。
ほどなくして、二人は結婚した。
王族の婚礼にふさわしく、式は盛大に執り行われた。高い天井に祝福の歌が響き、色とりどりの花が祭壇を飾る。列席した貴族たちは口々に祝辞を述べ、二人の前途を讃えた。
けれど――誓いの言葉を交わしたあと、人々の視線が集まる中で交わされた口づけは、どこかひどく冷めていた。
情熱も、甘さもない。
だが、その誓いは交わされた。
互いの罪も、過去も、すべてを知ったうえで。
それでも共に生きると決めた二人の、新しい人生の始まりだった。





