SIDE ルーカス
リリアーヌが自死する日から一年前。
表向きは外遊という理由で、ルーカスはレオカディア王国を訪れた。
そこで、歳が近いという理由で引き合わされたのが、王太子アレクシスと、その婚約者リリアーヌだった。
王都の名所や貴族の子息子女が通う学園、騎士団の演習に至るまで、この国のあらゆるものを案内され、丁寧な説明を受ける日々が続いた。
だが、それはあくまで表向きの話だ。
本当の理由は別にある。レオカディア王国は凶作が続き深刻な食糧難に陥った。備蓄は尽きかけ、打開には穀倉地帯を有するセレスティア帝国との条約締結が不可欠だった。
その交渉として送り出されたのが、ルーカスである。つまり――この滞在は、外交そのものだった。
アレクシスとリリアーヌ、他の貴族との交流も、名目上は若者同士の親睦だったが、実際には条約締結へ向けるための接待に近い。
互いに礼を尽くしていても、結局は探り合い。言葉の端々に国の思惑を忍ばせる。
それでも。その計算ずくのはずの時間の中で、ただひとりだけ――
打算を忘れそうになる相手がいることに、ルーカス自身がいちばん戸惑っていた。
リリアーヌは博識だった、しかも、それをひけらかさない。
歴史を語れば年代だけでなく人の感情まで織り込み、経済の話になれば数字の向こうにいる民の暮らしを思う。問いを投げれば、正解よりも深い洞察が返ってくる。
言葉を交わすたび、思考が刺激される。
外交のために用意された対話のはずが、気づけば純粋に会話を楽しんでいる自分がいた。
親睦の場に、婚約者ではなく別の令嬢を伴って現れることがある。しかも悪びれもせずに。
不用意な冗談。含みのない率直さ。空気を読まぬ物言い。
この交流がいかなる意図を帯びているのか、本当に理解しているのか疑わしく思う場面は、一度や二度ではなかった。
(……この男が、いずれ隣国の王になるのか。困ったものだな)
そんな懸念が胸をよぎることさえある。
(何か手を打った方が良いかもしれないな。……それにしても)
だからこそ、アレクシスの隣でさりげなくフォローに回るリリアーヌの存在が、いっそう際立って見えるのだった。
だが当のアレクシスは、そんな彼女をぞんざいに扱っているように見えた。
それが、どうしようもなく癪に障った。
だから、つい――。
理性よりも先に、言葉が零れた。
「……僕と一緒に来ないかい」
愚かな婚約者に振り回される必要はない。その聡明さも、その誇りも、正当に遇する場所があるはずだと。
だが、リリアーヌはその誘いを断った。
「有難いお誘いですが、申し訳ありません。わたくしはこの地を離れるつもりはありません」
「何故? ……あの男を慕っているの?」
「ふふっ、まさか」
ルーカスの言葉に可笑しそうに笑った。
「……妹の為です」
「妹?」
「ええ。誰よりも大切な……妹がおりますの。もし、わたくしが婚約破棄をしてこの国を去ったとしたら……妹が困りますもの」
そう語る声は穏やかで、やわらかかった。
「ロザリーと申しますの。思ったことがすぐ顔に出てしまうような子で……。淑女たるもの、もう少し落ち着きを持ちなさいと、乳母にはよく言われておりましたけれど、わたくしは、あの子のそういうところが、可愛らしいと思っているのです」
そこで言葉を切り、くすりと小さく笑った。咎めるような響きはなく、ただ愛しさを滲ませるように。
「嬉しいときはぱっと顔を輝かせて、嫌なことがあればすぐに拗ねてしまって……あんなにも素直に感情を表せるだなんて、少し、羨ましいくらい」
妹のことを口にするリリアーヌの横顔は、驚くほど優しい。その唇には、かすかな笑みまで浮かんでいる。
――そんな表情を、ルーカスはこれまで一度も見たことがなかった。
いつも彼女は、どこか張りつめていた。
凛として、近寄りがたく、感情を外へ見せることなどほとんどない令嬢だったのに。
「ルーカス様も一度ロザリーにお会いになれば……きっと、あの子を好きになりますわ」
その言葉には、迷いがなかった。
まるで、それが当たり前の未来であるかのように。
「どうして、そこまで言い切れるんだい?」
穏やかな問いかけ。けれど、その奥にある探るような光を、リリアーヌは見逃さない。
「だって……わたくしたち、よく似ておりますもの。好きなものが同じでしょう? ……だから、あの子のことも気に入るに違いありませんわ」
「似ている、か」
たしかに、ルーカスとリリアーヌの嗜好は驚くほどよく似ていた。
好む書物も、音楽も。ふとした価値観までもが自然と重なる。だからこそ、言葉を交わす時間は純粋に楽しい。取り繕う必要もなく、沈黙さえ穏やかだった。
これまで数多の令嬢と向き合ってきたが、笑みの裏では腹の内を探るばかりで、気を緩められることはなかった。共にいるほどに神経が削られていく、そんな関係ばかりだったのだ。
だが彼女は違った。一緒にいても楽な相手で……。
だから思ってしまった。彼女を連れて帰りたいと。
「それほど自信があるなら、なぜ紹介してくれない?」
リリアーヌは美しい顔に微笑を浮かべた。
「……だって、好きになられては困りますもの」
冗談めかした響きを装いながら、ほんのわずかに滲む本音。
それほど――あの子を奪われるのが怖いのか。
自分でも分からない問いが、胸の内で静かに波打つ。
「でも、もし……わたくしに何かあったなら」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「その時は、どうかロザリーをお願いいたします。あの子には……わたくししかおりませんの」
美しい微笑のはずなのに、胸の奥をひやりと撫でるような冷たさがあった。
「ロザリーは、世間知らずな、純粋な子です。だから……放ってはおけない、可哀そうな子なのです」
***
ルーカスが、はじめて彼女を見かけたのは――
リリアーヌの葬儀の日だった。
白い百合の花を一輪、そっと胸元に抱くようにして、少女は棺の前に佇んでいた。
喪服の黒に包まれた姿は、驚くほど凛としている。
背筋はまっすぐに伸び、顔を伏せることもなく、ただ静かにそこに立っていた。
けれど――。
どこか、今にも折れてしまいそうな儚さがあった。
まるで、強い風が吹けば、その細い身体ごと連れ去られてしまうのではないかと思うほどに。
少女は何も言わない。
ただ棺を見つめている。
その大きな瞳から、ふいに涙がこぼれ落ちた。
ぽたり、と。
静かな礼拝堂の空気の中で、その雫だけがやけに重く感じられた。
声は上げない。泣き崩れることもない。
棺の中で眠るリリアーヌの安らかな顔に一滴落ちていった。
――あれが、リリアーヌが言っていた妹。ロザリーか。
『誰よりも大切な妹がいるの』
ふと、あの時の言葉が脳裏によみがえった。ルーカスは棺の前に立つ少女を見つめる。
その姿は、美しくて。
そして、あまりにも痛々しかった。
思わず、声を掛けずにいられなかった。
少し、話をしてみて。確かに貴族らしくない少女だ、とルーカスは思った。
感情を隠さない。
悲しめば、涙を零し、怒れば眉をきりりと寄せる。
笑う時ははにかむように笑う。
貴族の令嬢たちが身につけている、あの作り物めいた微笑みとはまるで違った。
世間ずれしていない――。
そんな言葉が、ふと頭をよぎる。
あまりにも素直で、あまりにも真っ直ぐで。
まるで、まだこの世界の打算や駆け引きを知らないかのような純粋さを、そのまま抱えていた。
きっと――姉が守ってきたのだろう。
ルーカスは、そう思った。
貴族の世界は、決して優しいところではない。
噂は刃のように人を傷つけ、笑顔の裏には思惑が潜む。
それなのにロザリーは、あまりにも真っ直ぐだった。
ふと、ルーカスは幼い頃の記憶を思い出す。
子供だった頃。
夜のあいだに降り積もった、新しい雪。
朝、窓を開けた瞬間に広がる、まっさらな白。
誰の足跡もついていない、静かな世界。
それを見るのが、好きだった。
奇麗なものが、好きだった。
そうだーー白い薔薇。
棺の前に立ち、涙をこぼしていた少女の姿が重なる。
その姿は――、
朝露をまとった、まだ誰にも触れられていない白い薔薇のようだった。
『ルーカス様も一度ロザリーにお会いになれば……きっと、あの子を好きになりますわ』という言葉を思い出す。
だが――リリアーヌが自ら命を絶った以上、目の前の少女が無関係であるはずがない。
かつて連れて帰ろうとした女性。その死の引き金となった少女。
相反する想いに胸を軋ませながらも――それでも彼は、少女と共に歩むことを選び、今度はリリアーヌを破滅へと追いやった者たちに報いを与えていく。
そして――ルーカスは、自分がロザリーをどうしたいのか、わからなくなっていた。
憎むべき相手だと思えたのなら。
目の前にいる彼女は、あまりにも無垢で、あまりにも脆い。
白い花弁のように、触れれば壊れてしまいそうで――
実際、リリアーヌを追い詰めた者たちと向き合うたびに、彼女は傷つき、涙を零していた。
守りたいのか。
それとも、壊したいのか。
この手で救い上げたいのか。
わからない。
ただ確かなのは――
彼女を見つめるたび、胸の奥が軋むということだけだった。
その感情には、まだ名が与えられていない。
それでも彼は決めた。
リリアーヌを弔うための、復讐という名の道を――彼女と共に歩むと。
決して、綺麗な道ではない。
やがては、リリアーヌを貶めた者たちと同じように、いや、それ以上に汚い手段を選ぶことになるだろう。
たとえ結婚という形で結ばれたとしても。
ふたりのあいだには、決して埋まることのない“死”が横たわり続ける。
リリアーヌの死がある限り、
互いを真に愛するなど――できるはずがない。
きっと、行き着く先は地獄だ。
(叶うことなら――
姉の死という深い悲しみに踏みにじられる前の、まだ誰にも穢されていない新雪のような君と出会い、何も知らないまま、ただ穏やかで明るい未来を共に歩めたなら――なんて。)
叶いもしない願いが、胸を掠めた。
リリアーヌへ向けていたのは、友愛に近い想いだったのかもしれません。一方で、ロザリーには――おそらく、一目惚れに近い感情を抱いたのでしょう。
けれど、リリアーヌの死がそのすべてを歪めた。
あまりにも複雑に絡み合ってしまった想いは、もはやルーカス自身にも、はっきりとは分かりません。





