14話 姉と妹
ロザリーの世界は、いつだってリリアーヌの背中でできていた。
金色の陽だまりを縫うように歩く後ろ姿。
振り返れば、鈴を転がしたような澄んだ声で笑ってくれる。
「ほら、ロザリー。こっちよ」
小さな手を引かれて庭園を駆け回った幼い日々。
薔薇の棘に引っかかっても、石畳につまずいても、最後には必ず姉の腕が受け止めてくれた。あの頃記憶は、今も胸の奥でやわらかく灯っている。やさしく――けれど、触れれば血が滲むほどに、痛みを伴いながら。
ーー大好きだった、姉さま。
両親は、子供に興味がなかった。
正確に言えば、後継ぎとしての価値や家名をさらに高く掲げるに足る存在かどうかには、関心があったのだろうが。
ローザの世話は、すべて乳母とメイドに任されていた。朝の身支度も、勉強の時間も、寝かしつけも。
広い屋敷の中で、両親の姿を見ることは稀だった。たまに食卓で顔を合わせることはあっても、会話はほとんどなかった。
けれど――ロザリーは、寂しくなかった。
なぜなら、いつだって姉がいたから。
夜、雷鳴に怯えたロザリーが布団を握りしめていると、そっと扉が開く。
「……まだ起きてるの?」
「うん……」
ベッドの端に腰を下ろしたリリアーヌが、覗き込むように微笑む。
「怖いの?」
その囁きは、あまりにも優しかった。
細い身体で隣に潜り込み、冷えた指をそっと包み込んでくれる。
「大丈夫よ。私がいるでしょう?」と髪を撫でられるだけで、不思議と胸の震えはおさまった。
庭園で迷子になりかけたときも、最初に名を呼んでくれたのは姉だった。
「ロザリー!」
乳母もメイドも優しかったが、それとは違う。
姉の手は、温かかった。姉の視線は、まっすぐにロザリーだけを映した。姉の笑顔は、「あなたが好き」と何度も告げてくれた。
惜しみなく、無償の愛をリリアーヌは与えてくれた。
だからロザリーは、満たされていた。
少なくとも――あの頃は、そう信じていた。
けれど――リリアーヌが殿下の婚約者に選ばれた、その日を境に、世界は静かに、けれど確実に歪みはじめた。
リリアーヌは、常に王妃教育に追われるようになった。家庭教師に囲まれ、机に向かう背中は、朝から夜まで、決して休まらない。登城の回数も増え、馬車の音だけが、ロザリーの部屋の窓辺を通り過ぎていく。
姉さまと過ごす時間は減ってしまった。
食卓に並ぶ椅子は、いつもひとつだけ。
「また……ひとり? 姉さまは一緒じゃないの?」
「今夜の夕食は王宮で取られるそうです」
「そう……」
その声は、誰にも拾われぬまま、紅茶の湯気に溶けて、天井へ消えていく。
広すぎる食卓で、向かいの席に誰もいないまま、冷めていく料理を見つめる。フォークの音だけが、やけに大きく、部屋に響いた。
ロザリーは一人で食事をし、一人で庭を歩き、一人で眠る夜が増えていった。
リリアーヌと並んで笑った小径を、今は影だけを連れて歩き、風に揺れる花の香りさえ、胸に沁みるほどに、痛い。
カーテンの隙間から差し込む月明かりに、隣の枕を見つめる。誰にも届かない声で、何度も、姉の名を呼んだ。
「ぐすっ……。リリアーヌ……、姉さま……」
返事は、ない。
そのたびに、胸の奥に、冷たい空洞が広がっていく。
――あんなにずっと一緒だったのに。
姉さまは、遠くなってしまった。
***
その内、ロザリーは学園に通いだす年になった。
学園で見たリリアーヌは、まるで別の人のようだった。
次期王太子妃として、完璧に磨かれた微笑を浮かべて。賞賛と羨望の視線を一身に集め、令嬢たちは競うようにその名を呼び、側近たちは静かに頭を垂れる。
その輪の中心に、リリアーヌはいた。
そして、ロザリーの周りには――誰も、いなかった。
勇気を振り絞って出来た友人も、長くは続かなかった。
リリアーヌが次期王太子妃になることを喜ばない派閥の令嬢たちがいた。彼女たちの甘い声に包んだ悪意にさらされ、陰口と嫌がらせの的となる。
「――王太子妃の妹、ってだけで偉そうよね」
「その周りの女子もなんだか偉そうよね」
そう囁かれるたび、胸が、ぎゅっと締め付けられた。
やがて、ロザリーの周りに集まるのは、姉が“次期王太子妃”だからと近づいてくる令嬢たちだけだった。
彼女たちの笑顔は、どこか作り物めいていて、優しい言葉の裏では何を考えているかわからない。
(なにより、彼女たちはわたしを見ていない。わたしの姉さまの影を見ているだけ……。)
そんな彼女たちの言葉に頷いて、笑顔を貼りつける。
夜、ベッドに身を沈めると、本音が漏れた。
「――姉さま。どうして、こんなにも遠いの。」
あなたを誇らしく思うほど、
あなたを愛しているほど、
わたしは、あなたのいない世界で、
ひとり、取り残されていく。
……わたしは、ひとりぼっち。
姉さまが好きだった。
それは確かに嘘ではないのに、こんなにもひとりで惨めな理由を探しはじめたとき、いつしかその答えを、姉に向けてしまっていた。
(……姉さまが殿下の婚約者にならなければ、わたしはここまで孤独ではなかったんじゃないかしら?)
そんな考えが、胸の底で静かに澱のように溜まる。やがてそれは、姉の存在そのものを疎ましく思うほどに育っていく。
だから、学園に噂が流れはじめたときも、ロザリーはただ聞き流すだった。
「リリアーヌ嬢が、王太子と仲の良い令嬢を苛めているらしい」
誰かがそう囁けば、ロザリーは黙って目を伏せた。何か反論して、下手に絡まれるのも避けたかった。また嫌がらせのような行為を受けるのは嫌だった。
……そんな時に結ばれた、婚約。
ロザリーの婚約者だった、カイル。
その名前を呼ぶだけで、胸の奥にかすかな熱が灯った。
彼は優しかった。一人寂しい心を慰めてくれた。
「君は、何も悪くないよ」
「君は、君のままでいい」
その言葉が、どれほど、救いだったか。
誰にも必要とされていない気がしていたロザリーに、“家族になる人”が出来た。
それだけで、世界が、少しだけ、色を取り戻した気がした。
だから、ロザリーは――縋った。
彼の声に。彼の眼差しに。彼の微笑みに。
「大丈夫。僕がいるだろう?」
そう言ってくれる人が、ようやく現れたから。
ひとりでいることが、怖かった。置いていかれることが、どうしても耐えられなかった。
(カイルの隣にいれば、わたしは、誰かの“特別”でいられる。)
そう、信じたかった。
いつの間にか、ロザリーの世界は、彼を中心に回るようになっていた。
彼が笑えば、安心して、彼が不機嫌なら、息が詰まる。
――嫌われたら、どうしよう。
その恐怖が、胸を締めつけるたび、
ロザリーは、さらに、彼に依存していく。
当時のロザリーには、分からなかった。
姉であるリリアーヌが婚約破棄されるようなことがあれば、カイルは何のためらいもなく、同じようにロザリーとの婚約も切り捨てる男だったのだということを。
ロザリーが縋ったその優しさは、愛ゆえのものではない。ただの取引であり、打算だった。
婚約という約束もまた、心など伴わない政略にすぎない。ロザリーひとりが信じていただけの、空虚な未来。
それでも――あの頃のロザリーは。その軽薄さに、気づかないふりをしていた。
(だって、あの人もいなくなってしまえば、わたしは、完全に、ひとりになってしまう気がしていたから。)





