11話 アレクシス殿下
(……どうして、ここに)
反射的に息を呑むロザリーの視線は、すぐにアレクシスの隣へと引き寄せられた。
そこにいたのは、アンジェリカではなかった。
淡い色合いのドレスに身を包んだ、見覚えのない令嬢。柔らかく微笑みながら、親しげにアレクシスの腕に手を添えている。その距離は、あまりにも近い。
リリアーヌを婚約破棄したあと、アレクシスはアンジェリカと婚約を結んだと聞いていた。それなのに今、隣にいるのは別の女だ。
ほんの少し前まで、あれほど熱心にアンジェリカを連れ回していたというのに。
言葉にならない嫌悪がゆっくりと滲んでいく。
すれ違う寸前、アレクシスもまた、こちらに気づいたらしい。
一瞬、驚いたように目を見開き――すぐに、わずかに眉をひそめた。
「……ロザリー?」
名を呼ばれ、胸の奥がひやりと冷える。
「あら、お知り合いですの?」
隣りの令嬢が咎める様に冷たい声を出す。
「……ああ、まあな。かつて婚約者だったリリアーヌの……妹だ」
「まあ、あの令嬢の」
「ああ。しかし、喪中だというのに出歩いているとは……」
責めるでもなく、妙に含みを持った声音だった。アレクシスは口元を歪める。
「姉は、妹にも慕われていなかったようだな」
「仕方ありませんわ。嫉妬に駆られて虐めをしていたくらいですもの」
隣の令嬢が、さも当然のように言葉を重ねる。
「姉のせいで、婚約破棄になったそうだな」
「罪人の家系では、なかなか次も見つからないでしょう。お可哀そうに」
胸の奥で、何かが軋んだ。
今すぐ反論したい衝動を、ロザリーはぐっと抑え込む。
「ああ、全くだ。妹のロザリーには、罪はないと言うのにな……」
「……?」
何を言い出すつもりなのか。
ロザリーは眉をひそめる。
「そう警戒するな。良い提案をしてやろうと言っているだけだ」
アレクシスは唇を吊り上げた。まるで恩を施すような口調で続ける。
「喜べ。お前を側室にしてやってもいい」
「……は?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「姉と似て、成績は優秀だと聞いている。あれも勉強だけは出来たからな。愛想は悪かったが……容姿も、悪くはなかった。妹のお前も……」
平然と、死人を踏みにじるように言う。視線が、ロザリーの髪へ、喉元へと滑る。
「なかなか、愛くるしい顔をしている」
その瞬間。ロザリーの中で、怒りは燃えなかった。
代わりに――すうっと、氷のように冷えていった。
(……この人は)
胸の奥で、はっきりと理解する。
(本当に、何も変わっていないのね。姉という婚約者がいながら、浮気していた時と一緒……)
「嫌だわ、殿下。私を差し置いてこの子を側室にだなんて……」
わざとらしく拗ねた声で、令嬢がアレクシスの腕に指を絡める。
甘えるように身を寄せ、その肩口へと頬を寄せた。
「ああ、悪い悪い」
アレクシスは困ったように笑いながらも、その視線はどこか上滑りしていた。
「そんなに拗ねるなよ。どっちも平等に可愛がってやろう」
その軽薄なやりとりを、遮るように。
「――そんなことより」
ロザリーは口を開いた。
礼儀も、体裁も、もうどうでもよかった。
「姉の死因を、解明してください」
周囲の空気が、ぴたりと止まる。
「は?」
アレクシスが、露骨に眉をひそめる。吐き捨てるように、続けた。
「何を言い出す。あれはもう、自殺だと答えが出ているだろう」
ロザリーは、即座に首を横に振った。
「いいえ。あれは、自殺ではありません」
「まだそんなことを言っているのか」
アレクシスは、苛立ちを隠そうともせず、息を吐く。
「断罪され、婚約を破棄され、居場所を失った。誰がどう見ても――」
「違います。姉は、そんな弱い人ではありませんでした」
言葉を遮る。
ロザリーの視線は、真っ直ぐにアレクシスを射抜いていた。
「――殿下は……。最後に、姉にお会いになった時のことを、覚えていらっしゃいますか」
ロザリーは、一歩も引かない。
「教えてください。その時の姉は、どんな様子でしたか」
はあ、大きくため息をつくアレクシス。
「最後にもなにも、俺は夜会で顔を合わせたきりだ。しかし……そんなに気になるなら、聞いてみたらどうだ?」
思いもよらぬ返答に、今度はロザリーのほうがたじろいだ。
「……聞くって、誰に?」
「あの夜、リリアーヌが泊まっていた部屋の前を護衛していた人物にだ」
心臓が、わずかに跳ねる。
「一応な、逃亡する可能性も考慮して、一晩中、護衛をつけていた。形式的なものだったが……、結果的に、それが最後になってしまった」
「……誰、だったんですか」
かすれた声で問う。
アレクシスはちらりとロザリーを見下ろし、短く答えた。
「カヴェインだ」
「……カヴェイン様が?」
思わず零れた声に、アレクシスは頷いた。
「ああ、そうだ」
「殿下の護衛騎士、ですよね。……どうして、彼が……」
どうしてアレクシスの専属護衛である彼が、殿下の傍を離れ、姉の部屋の前に立っていたのか。
「カヴェイン自身の希望だった」
淡々と告げられた一言は、余計な感情を削ぎ落としているぶん、却って重く響いた。
カヴェイン・クラウゼ。
黒髪の短髪を後ろへ流し、凛々しい眉の下には涼やかな眼差しを宿した騎士。
寡黙で、鋭い眼差しを宿しながら、誰よりも忠誠に生きる男だ。殿下の護衛として、常に一歩後ろに控え、決して前に出ることのない。
――その彼が、姉さまの部屋の前に、立っていた。
つまり、あの夜の出来事を最も近くで見ていたのは、カヴェインだったということになる。
「だから、確かめたいなら好きにすればいい。今、あやつは休養中だ。屋敷に引きこもっているはずだぞ」
興味を失ったように肩をすくめる。
王都の通りは昼下がりのざわめきに満ち、人々の話し声や馬車の車輪の音が絶え間なく行き交っている。だが、アレクシスの声だけが妙に冷たく耳に残った。
「……護衛中に、結果として相手を自死させてしまったことを、ひどく悔やんでいてな。自分が目を離さなければ防げたのではないかと、強く責任を感じているようだ。リリアーヌが死んでからというもの、仕事に出てこないんだ」
ロザリーと話していて、構ってくれないアレクシスに退屈だったのだろう。先ほどの令嬢が殿下の腕を引いて、何かを囁いていた。
アレクシスはそれに軽く笑い返しながら、ロザリーに片手をひらりと振る。
「お前も、姉と同じように融通が利かなそうだな。側室にするのは考えなおそう。……ほら、さっさと行くがいい」
まるで道端の物売りでも追い払うような、ぞんざいな仕草だった。
ロザリーは一瞬だけ唇を引き結び、頭を下げる。
「……教えてくださり、ありがとうございました」
顔を上げたとき、アレクシスの視線はすでにロザリーではなく隣の令嬢に向けていた。
二人の笑い声が、通りの喧騒に紛れて軽く弾む。
ロザリーは踵を返す。
石畳を踏む靴音が、乾いたリズムで続いた。
(……カヴェイン様。あなたなのーー?)
あの夜、姉の部屋の前に立っていた騎士。
唯一、真実を知っているかもしれない人。
(……姉さまを殺したのは)
胸の奥に残る重たい不安を抱えたまま、ロザリーは人波の中へ足を速めた。





