9話 デート
「……このお出かけは、必要でしたか?」
侍女を救助をして数日後、ロザリーはルーカスとふたりで外出することになった。
今後についての話し合いをするのだろうと、ロザリーは思っていた。しかし、抵抗する間もなく馬車へと押し込められ、そのまま半ば拉致同然に連れ出される。
辿り着いた先は、市街地の外れに広がる大きな公園だった。
春の光に満ちた園内は、あまりにも平和で、拍子抜けするほど穏やかだ。若草の匂いが風に乗り、貴族の令嬢や子息たちが思い思いに休日を楽しんでいる。
「まだ喪も明けていないのに……」
呟きは、春風に攫われるように消えた。
椅子とテーブルを持ち込んで、優雅に茶を嗜む一団。芝生に敷き物を広げ、バケットを開いて、ピクニックを楽しむ男女たち。
その中で、ひとりだけ黒いドレスに身を包んだロザリーは、どうしようもなく浮いていた。柔らかな色彩の中に落とされた影のように、周囲の楽しげな光景から切り離されている。
(こんな場所に、なぜ。一体、彼は何を話すつもりなのかしら……)
隣を歩くルーカスの横顔を盗み見ても、その意図は、やはり読めなかった。
「まあ、いいじゃないか」
良くない、と思わず返事したかったが、ロザリーは口をつぐむ。
人混みを避けるように、彼は緩やかな小道を選んだ。
(なんだか、まるで…………)
「綺麗だね」
ルーカスは足を止め、花壇に咲く花々を眺めながら、何気なくそう呟いた。
花の前では自然と歩調を合わせ、混み合った場所に差しかかると、周囲の視線を遮るように、さりげなくロザリーを内側へと導く。
その仕草が、あまりにも迷いがなくて。
(……デートでも、しているみたい)
行き交う令嬢たちの視線が、好奇と噂を孕んでこちらへ向けられる。
囁き声は聞こえなくとも、その視線の温度だけは、はっきりと伝わってきた。そのどれもが、彼女の胸の奥に残る喪失を、無遠慮に撫でていくようだった。
(……ああ、嫌だわ。)
傍目から見ても、どう見ても“そう”だろう。
きっと、面白おかしく噂されるに違いない。
(ルーカス様は一体、どんなつもりで……)
やがて視界が開け、湖が現れる。
穏やかな水面は空の色を映し、風が吹くたび、きらきらと光を砕いた。岸辺には小さな船着き場があり、数艘のボートが静かに揺れている。楽しげな笑い声が水上から届き、櫂が水を切る音が、規則正しく響いていた。
「ボートに乗らないか」
唐突に、ルーカスがそう言った。
ロザリーは足を止め、眉を顰めた。
「……正気ですか」
思わず漏れた声は、想像以上に冷えていた。
「悪くないだろう。二人きりで静かに話が出来るよ」
その言葉の裏に、何か別の意図が潜んでいる気がして、ロザリーは眉をひそめる。
「喪中の身で、舟遊びなんて……」
言いかけた言葉は、途中で途切れる。
ルーカスは否定もせず、ただ湖を眺めながら、穏やかに微笑んでいた。
「だからこそ、だよ。……こうして、リリアーヌとも出掛けたかったんだ。色んなところを。彼女を偲ぶと思って、付き合ってくれ」
そう言われてしまうと、ロザリーは断ることが出来なかった。
船着き場で差し出されたルーカスの手を、ロザリーは一瞬だけ躊躇ってから取った。
指先が触れた瞬間、ひやりとした感触が走る。春の陽気の中にあっても、水辺の空気はまだ冷たい。
ルーカスに導かれるまま、揺れる小舟にロザリーは乗り込む。
「舟遊びだなんて久しぶりだな。よっと……」
ルーカスがオールで漕ぎ出すと、ボートは静かに岸を離れた。
水を押すたび、湖面に波紋が広がり、春の光を歪ませていく。遠ざかる岸辺の喧騒が、次第に薄れていくのがわかった。
「……以前は舟遊びをされていたんですか」
「ああ、まあね。僕にも……妹が居てね。たまにせがまれて、こうしてオールを漕ぐ役を任されたよ。君は?」
ロザリーは膝の上で指を組み、視線を落とした。
黒いドレスの裾が、水面の反射を淡く映して揺れている。
「そうですね……幼い頃に、一度だけ。姉と乗ったことがあります。姉が王妃教育で忙しくなってからは、一緒に出掛ける機会も減ってしまったのですが……」
……寂しかったな。
吐息に混じった独り言は、春の風のなかで溶けるように消えた。
ロザリーは小さく息を吸い込み、胸の奥に沈んだ記憶をすくい上げる。
「それでも、あの日のことは、よく覚えています。ちょうど、今日みたいによく晴れた日でした。湖はきらきらと光っていて、水面には白い鳥が何羽も浮かんでいて……、それを姉と並んで眺めて、他愛もないことで笑って。あの時間が、ずっと続けばいいと思ったんです」
「……姉君とは、仲が良かったの?」
その問いかけに、ロザリーはわずかに微笑んだ。
それは懐かしさと、痛みが入り混じった、かすかな表情だった。
「……そう、ですね。両親は子供にあまり興味がなくて、乳母やメイドに任せきりでした。でも、私には姉がいました。毎日のように構ってくれて、昼は一緒に庭園を歩き回って、夜には絵本を読んでくれて……」
指先が、無意識に重なる。ぎゅっと、指を握った。
「そんな姉が……好きでした」
過去形になったその一言が、湖面に落ちるように、静かに響いた。
「……“好きでした”、か」
ルーカスの声は低く、確かめるように落ちた。
責めるでも、詰るでもない。ただ、その一語だけを拾い上げる。
ロザリーは、答えなかった。
答えられなかった、のかもしれない。
「実はね、リリアーヌからロザリーの話を聞いていたんだ。だから、葬式以前から、君のことは知っていた」
「……姉が?」
「ああ。可愛い妹がいると話してたよ。なにより大切な、妹だと……」
「……そう、ですか」
それ以上の言葉は、続かなかった。
ボートは湖の中央で、かすかに身を揺らしている。
櫂を休めた水面は鏡のように澄み、空と雲と、喪に沈んだ黒いドレスの影を映していた。
風が渡り、さざ波が立つ。
その微かな音だけが、ふたりの間を埋めていく。
「そろそろ戻ろうか」
先にそう切り出したのは、ルーカスだった。
ロザリーは一瞬だけ視線を上げ、何も言わずに頷く。
オールが再び水を捉え、ボートはゆっくりと岸へ向かって進み始めた。
湖面に広がる波紋は穏やかで、先ほどまでの沈黙が、なかったことのように整えられていく。
「本当に、今日は天気がいいね」
当たり障りのない言葉が、ぽつりと落ちる。
「……ええ。春らしい陽気ですね」
岸が近づくにつれ、遠ざかっていた人の声が、少しずつ戻ってくる。
笑い声、話し声、陶器の触れ合う音。
湖上の静けさは、現実の中へ溶け込んでいった。
「舟は……思ったより、揺れませんでしたね」
「この湖は、風が穏やかだからな」
短く、淡々とした応答。
そこには先ほどまでの沈黙を蒸し返す気配はなかった。
やがて、船着き場に辿り着く。
木の桟橋に軽く船体が触れ、小さな音を立てた。
「足元、気をつけて」
差し出された手に、ロザリーは一瞬だけ視線を落とす。
けれど今度は迷わず、その手を取った。
揺れが収まり、岸に足をつける。
地面の確かさが、現実へと引き戻す。
「……ありがとうございました」
「こちらこそ」
それだけで、会話は終わった。
振り返れば、湖は何事もなかったかのように、春の光を映している。
そこに残された言葉も、涙も、すべて水面の下へ沈めて。





