SIDE ???
「い、いやっ……死にたくない!」
思わず漏れた声は、闇に吸われるように小さく震えた。
胸の奥が、ぎゅっと握り潰されたかのように痛む。必死に息を吸おうとしても、冷えきった夜気が喉の奥で引っかかり、肺の奥まで届かない。浅く、乱れた呼吸を繰り返しながら、女は何度も自問する。
どうして――どうして、こんなことになってしまったのか。
すべては、弟のためだった。
病に伏せた弟は、日ごとに衰弱し、医師からは「この国では、もう打つ手がない」と告げられた。隣国でなら手術が受けられる。そう聞いた瞬間、他の選択肢はすべて消え去った。
危険だと分かっていても、それは裏切りだと知っていても、弟を救える可能性がそこにあるのなら、どうにかして手術を受けさせるしかなかった。
弟はすでに、手引きを頼って隣国へ渡ったという。
自分も後を追うため、国境を超えるために用意された馬車に乗った。
薄暗い森の中を、馬車は黙々と走った。
絡み合う枝葉が天を覆い、月の光さえ遮られて、外の景色はただの黒い塊にしか見えない。車輪が地面を噛む音が、やけに大きく、やけに近く感じられ、女の耳の奥で不規則に跳ね続ける。それはまるで、自分の鼓動そのものが外に漏れ出しているかのようだった。
(――何かが、おかしい……。)
理由は分からない。ただ、胸騒ぎだけが、じわじわと膨らんでいく。
次の瞬間だった。
馬が、悲鳴のように嘶いた。
同時に、馬車が激しく揺れ、外側から何かを叩きつけられる衝撃が走る。身体がふわりと浮き、座席から投げ出されそうになる。
「きゃああああ!」
女は思わず悲鳴を上げた。
「止まれ!」
低く、荒れた男の声。
胸の奥が、きゅっと潰れる。
(……まさか、野盗? そんな……!)
扉が蹴破られ、冷たい夜気と鉄の匂いが一気に流れ込んできた。
今度は叫ぶ間もなかった。
「ひ……っ」
声が、喉の奥で凍りついた。
次の瞬間、腕を掴まれ、乱暴に引きずり下ろされる。背中から地面に叩きつけられ、肺の空気が一気に吐き出された。あおむけに倒れたまま、女は見てしまう。
黒い影が馬車に飛び乗り、ためらいもなく御者の喉元を刃で掻き切る、その一部始終を。
自分の元まで漂う血の匂いが、吐き気を伴って鼻を刺した。
「いや……! いやあああっ、お願い、やめて……!」
「依頼はそいつ一人だ。手早くやれ」
淡々とした声。感情の欠片もない。
「い、いやっ……死にたくない! だ、誰か助けて……!」
必死に声を振り絞る。だが、深い森のなか。返事はあるはずもなく。
月光を受けて、短剣が鈍く光った。視界の端で、その刃がゆっくりと迫ってくる。喉元に、冷たい感触が触れた――ような気がした。
(死にたく、ない……!)
その瞬間。
「そこまでよ!」
鋭い声が、闇を裂いた。次いで、風を切る音。
男の腕に何かが突き刺さり、獣のような悲鳴が上がる。
拘束が、解けた。
「っ……!」
足から力が抜け、女はその場に崩れ落ちた。震える手で地面を掴む。
次の瞬間、闇の中から、いくつもの影が現れる。月光を背に、剣を構えた人影たち。
「た、助かったの……?」
混乱する頭で、ただそれだけを思った。
「野盗の仕業に見せかけて殺すつもりだったのだろうが……、そうはいかないよ」
低く、よく通る声。威圧するように、男たちの前へ進み出る青年。
盗賊たちらしき男達は、何も答えない。
否定も、弁解も。
その沈黙が、かえって恐ろしかった。
「お、お願いします……! どなたかは分かりませんが……助けて……!」
喉を引き裂くように、縋る声を振り絞った。
その声に、青年がわずかに顎を引く。その小さな仕草を合図に、背後の護衛たちが一斉に動いた。
剣が抜かれる音が、夜気を裂く。金属と金属が打ち合う乾いた衝突音。続いて、喉を潰されたような低い呻き声が、湿った闇へと溶けていった。
戦いは、あまりにも呆気なかった。
刹那の応酬ののち、野盗らしき男たちは地に伏せる。
「……た、助かった……?」
何が起きたのか理解しきれないまま、女は呟いた。呆然としながらも、自身の胸が上下していることを確認する。指先は、まだ動く。
生きている――その事実だけが、遅れて実感として押し寄せた。
「あ……ありがとうございます……! 野盗を退治してくださって……おかげで、助かりました……!」
女は地面に膝をついたまま、必死に言葉を紡ぐ。
涙で滲む視界の向こう、こちらを見下ろす人影があった。
月明かりに浮かぶ、冷えきった瞳。
「勘違いしないで」
鋭い声が、容赦なく夜気を断つ。
その一言で、胸に芽生えかけていた安堵は、音もなく凍りついた。
「あなたを助けたわけじゃないわ」
先程まではそれどころではなかったが、落ち着いて聴いてみると、その声は聞き覚えがあった。
女の肩が、びくりと跳ねる。
「も、もしや……貴方は……」
恐る恐る絞り出した問いに、影の人物はわずかに唇を歪めただけだった。
「そう。あなたを生かしたのは――あなたのためじゃない」
深くかぶっていたマントのフードが、ゆっくりと外される。
月光に照らされたその顔を見た瞬間、女は完全に喉を詰まらせた。
「あなたには、姉さまを断罪するために使われた“嘘”を……今度は、“真実”として語る役目があるの」
月の光に透ける銀色の髪に、アメジストの瞳。
――ロザリーだった。





