第八話 祭
美貴の骨肉はあらゆる良薬に勝る薬となりて、黄金よりも価値も持つ。
至美貴ともなれば涙すらも百薬の長になる。
限界を超え、死ぬのを待つばかりであった躰が復活したのは、その黄金を超える奇跡を体験したからであった。
褥に伏せる己の横には姉たるエミの姿。
初めの数日は四六時中寄り添い世話を焼いてくれていた。そして、左手の小指がなくなっていた。姉は自らの指を切り落としすり潰し、薬効として飲ませたのである。
左手に包帯を巻いた様が痛々しい。夢遊病のように彷徨っていた時の己と、いま清潔な一室にて暖かな布団に寝ている己は、どちらが本物であるのか。
熱狂は冷める。けれど、やはり熱源は消えず、また頭を擡げるだろう。
どこで何をしていたのか、姉は聞かなかった。不要であったのかもしれない。己が一心不乱に探索する様はそこかしこで見られている。
功績としては黒鎧の仕業と思われる新鮮な死体を二つ見つけたことであった。事実はさらに二つ確認していたが、それらの報告はしていない。
今となっては本当にあれが現実であったのか判断ができない。姉は黒鎧の犠牲者の最後を見つけたのは己であるという。
食どころか水すらも躰は受け付けなかった。口に入れるものを見ればむしろ吐き気がした。唾壺に吐くのは唾ばかりではなかった。姉が献身的に介護をするごとに、心は万力で絞められていく感覚であった。
未だにあの狂乱に帰ることを希う己を正視できず、無性に腕を噛み、発作的に嘔吐を繰り返した。けれど半分とはいえ美貴の血肉より作られた薬は絶大であり、食も水も採らない躰は日に日に改善へと向かってゆく。数日を過ぎると一人で厠に行けるようになった。
姉は日ごろから朱の鎧を纏うようになった。
徐々に来訪の頻度は減ってゆく。姉のいない所で屋敷の従僕が己を見やることはない。同じ醜下。当然である。日がな一日、褥の中にて天井を見て過ごす。けれど、そんな周りと隔絶された状況にありがならも、屋敷のみならず院全体が落ち着かない様子であることは察知していた。
さもあらん。
もうすぐ別根院での最大の催しが始まるのだ。
黒鎧により寂れていた往来はもはや遠き過去の如く。兵も商人も駆け足にて、諍いはそこかしこから立ち昇る。
別根院は不霊山の化者を討伐するために築された軍事拠点である。
領主が八千の兵を抱える理由は化者と闘うためである。
兵を率いて闘うということは即ち、戦である。戦は院にいる全ての者の責務であり、築後二百年の先例にて八年に一度、領主は兵を率いて征討を行うことが課されている。
それがもうすぐ始まるのだ。
次なる戦は現別根院領主在真シウミの二度目の征討であり、そして最後の征討となる。
別根院は代々の在真の長女が就く官職であるが、その任期は十六年にて。
その間は不霊山の神に仕えるため、清らかなる乙女でなければならないという。
神とは、炎の鳥である。
千年前、戦の端緒において不霊山に舞い下りたという炎鳥。
それは山を中心とした森に蔓延っていた半人半獣の化け物を一掃した。
炎にて形成された鳥の尾が山の頂に触れ、二本の枝足が火口を摘まんだ時、鳥の嘶きに呼応するように 不霊は大爆発を起こし、朝廷に弓を向ける魑魅魍魎どもを黒煙に抱き込んだ。噴火は、炎鳥が火口の中に身を入れ、姿を消してしまうまで続いたという。
爾来、在真はその炎鳥を一門の主神として祀っている。神は不霊山の溶岩の母胎内で眠っている。
しかし、山は未だに化者の手にある。
千年前の噴火を契機として化者は崩れに崩れ、一帯には朝廷の御光が注いだが、その中心たる不霊には結果として化者の残党が集中し、今にいたるまで巌巌たる不落城となっている。
昇炎祭は、彼の地を跋扈する化者からの解放を炎鳥に誓う盛儀である。そのため、征討に赴く兵は全て参与するが、翻って言えば参与した者には何があろうと征討に己が血を差し出す義務が生じる。
ある日、姉は部屋を訪れるや昇炎祭の整えの一部を任じられたと興奮気味に語った。
祭は征討の前日に行われ、別根院領主自らが祭司として取り仕切る。そのような聖事に関わることは幸甚であろう。
ふと在真の象徴たる炎鳥の朱色を思い、天へ昇る黒煙を思った。殺し合い。絶叫、絶命、絶望、凄惨な殺しと死が交じり合う。
在真の赤い世界の中で刃物を刺し合い散りゆく者らの色は黒か。ごくりと唾を飲み込む。篝火。己はそれに飛び込む羽虫のよう。
火の先端にさき細る虚ろな赤に誘わるがままに、羽虫は口を開き、祭りに参与することを懇願した。
姉は初め迷った風であったが、すぐに思いなおしたように受け入れた。黒鎧を探していた時の己の醜態は美貴の間でも話題に上っていたらしい。
躰を引きずりながら黒鎧を探す様は、醜下ながらにして領主の命に尽くすある種の関心を彼らに齎した。
「そのような兵士を止めることはできない」
そう語る姉の瞳は、己が忠誠のために働いたことを疑わない色をしていた。
夜明けと共に昇炎祭が始まった。
夜に満ち満ちた鬱屈したものを取り払うように、別根院近くの小高い丘の四方に巨大な篝火が置かれた。天もまた邪気を切り裂く快晴である。丘の中央には木組みの細長い台が築かれ、その高さは別根院の壁に届くほどである。
頂きは正四角形になっており、そこに二人の神官を従えた在真シウミが立っている。礼服の上に鎧を纏った姿は当然の如く赤を基調としたものであった。
まるで地に一輪の太陽が咲く如く。
丘の周囲には位の高い美貴から順に囲み、醜下の兵は最も遠巻きに眺めていたが、遠目にも長時間仰ぎ見ることは余りに恐れ多く、時折下を向きながら、しかし仰ぐ際には視線の先の光に憑かれたたような表情である。
在真シウミに従う二名の神官は両方が男であったが、その内の還暦を過ぎたと思われる年長の者が滔々と祝詞を述べる。
それは神語と呼ばれるもので、つま先から頭頂まで震として雷鳴の如く叫ぶものである。他でもない、遠く彼方への山におわします神へ捧げるものである。
神官もまた美貴。白の装束を優雅に着こなし、柳の如き渋みと流麗とした身から想像にできない割れ鐘のような音である。
醜下には決して出せぬ音は山にいる化者にも届いているだろう。それはある種の戦での名乗りのようなものであるかもしれない。
やがて山のから声に声が煙の如く立ち上がる。
山を覆う巨木の一葉一葉から出てきたような錯覚である。化者どもが、挑戦を受けたのだ。
その時、台の上で何かが跳ねた。
同時に神官の祝詞も、化者の雄叫びも止んだ。
不霊山と別根院に生きとし生けるもの全てが視線が、そこに集中したかのような奇妙な拍が生じた。
それは赤の流線を描き高く、高く昇ってゆく。
そして天までゆくかと思ったその先に突如として銀の煌めきが走り、勢いよく降下した。
だが、台に落ちるは、桜の一片が水面にそっと座るよう。その時には誰もが飛翔の正体が分かっていただろう。在真シウミは天高く舞い、その飛翔の頂にて剣を抜いて虚空を切り裂いたのである。
自身の背の何十倍も跳ねる、まさに飛ぶが如くの跳躍である。
最初に我に返ったのは横にいる老いた神官であった。神儀の中断は許されないのだろう。慌てたように祝詞の紡ぎを再開した。
驚とその場を陥れた張本人は切り裂いた格好のまま、片膝を着いて剣を持つ手を台に乗せていたが、祝詞が始まるとやおら姿勢を正し、剣先を天に向けるように胸の前に両手を置いた。
次にはすっと右足を下げ、仰け反るように顔を天へ向ける。祝詞に合わせ、とつ、とつ、と緩急を持って踊る。
朱の鎧と銀の太刀は日輪の光を各処にて反射し、その光を万に束ねて造られた輝肌は下に潜む貴く熱い血に赤みを帯びる。謬と躍動する。
肌を滑る汗は金色の雫。
三百尺以上離れているというのに、細部まで見せつ、魅せる美こそが至美貴たる所以か。
醜下だけでなく美貴すらも目を見開いたまま、それはいつの間にか喊声のなくなった山の化者も同様なのだろう。一生でこれ以上の美を見ることはあるまいという確信が場に満ちる。
だが、違和があったのはまさにそこであった。
昇炎祭は山の腹からに鎮座する火鳥神を祭るものというのに、もはや山を見る者はいない。祝詞すらいつの間にか在真シウミの花吹雪の如き妙なる舞踏に呑まれている。
我を見よ。我だけを見よ。
在真シウミは文字通りその四肢を持って戦の意味を変えようとしているのか。
唾を飲み込む音がそこかしこから上がる。醜下の定めか、至美貴の真なる姿に目頭を熱くし、やがて次々に跪いて舞踏する至尊に手を合わせていた。己もまた同様であった。
祝詞が終わると、シウミは余韻に浸るように改めて剣を胸に掲げ、緩慢として所作で鞘にしまった。不霊山を眺め、別根院を見つめた。そして拝する兵らを照覧し、
「励め。身命賭せ」
瑞々しい小さな果実のような唇から発した言は短く、決して大声ではなかった。
だが須らくの兵の耳に届いた。高貴なる音に、涙を啜る醜下がいた。
全ては我らが御大将のため。
大地が揺るがすように沸き上がった鬨の声に、千年の不落としている不霊山すらも恐れるように打ち震えたように見えた。




